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マルク(モルッカ、香料)諸島とは わかりやすい世界史用語2674 |
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著作名:
ピアソラ
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マルク(モルッカ、香料)諸島とは
モルッカ諸島。その名は、歴史のロマンと、血塗られた欲望の香りを同時に放ちます。インドネシア東部に浮かぶ、赤道直下の無数の島々。現代の地図の上では、アジア太平洋の広大な海域に点在する、一つの群島に過ぎません。しかし、17世紀という時代において、この場所は世界の経済と政治を揺るがす、まさに震源地でした。なぜなら、地球上で唯一、クローブ(丁子)とナツメグという、二つの魔法の香辛料が自然に育つ場所だったからです。
当時のヨーロッパにおいて、これらの香辛料は、金や銀に匹敵する、あるいはそれ以上の価値を持つ至宝でした。料理の風味付けや保存料としてだけでなく、医薬品としても重宝され、その希少性から莫大な利益を生み出す、夢の商品でした。この「香料諸島」をめぐる物語は、大航海時代の幕開けそのものであり、コロンブスを西へ、ヴァスコ=ダ=ガマを東へと駆り立てた、究極の目標でした。
17世紀、この島々は、その歴史上、最も暴力的で、最も悲劇的な時代を迎えます。世紀の初め、島々はポルトガルとスペインという二つのイベリア半島のカトリック大国、そしてテルナテとティドレという二つの地元のスルタン国が、複雑に勢力を分け合っていました。しかし、その均衡は、1602年に設立された、冷徹な商業的合理性と圧倒的な軍事力を兼ね備えた巨大企業、オランダ東インド会社(VOC)の出現によって、粉々に打ち砕かれます。
VOCの目的は、ただ一つ。クローブとナツメグの生産と交易を、一粒残らず完全に独占すること。その野望を実現するため、彼らは、あらゆる手段を行使しました。条約、脅迫、裏切り、そして容赦のない暴力。17世紀のモルッカ諸島の歴史は、本質的に、このオランダによる香辛料独占体制の確立に向けた、執拗で、血なまぐさい闘争の記録です。それは、ヨーロッパのライバル勢力を武力で排除し、地元のスルタンたちを巧みに操り、そして何よりも、香辛料を栽培する島々の住民たちを、力で屈服させていく過程でした。
特に、1621年にバンダ諸島で繰り広げられた虐殺は、VOCの冷酷さを象徴する事件として、歴史に深く刻まれています。ナツメグの独占を確実にするため、VOCは島の住民のほとんどを殺害、あるいは奴隷として売り払い、その地にオランダ人が管理する奴隷制プランテーションを築き上げました。
VOC登場以前の情勢
17世紀の幕が上がる直前のモルッカ諸島は、決して静かで平和な場所ではありませんでした。むしろ、複数の勢力が複雑に絡み合い、常に緊張をはらんだ、多極的な世界でした。この「香料諸島」の富をめぐって、二つの地元のスルタン国と、二つのヨーロッパ帝国が、離合集散を繰り返しながら、不安定な均衡を保っていました。この既存の力学を理解することなくして、17世紀に起こった激変の本質を捉えることはできません。
テルナテとティドレ
モルッカ諸島の政治的・経済的な中心は、北モルッカに位置する、テルナテとティドレという、隣接する二つの小さな火山島でした。この二つの島は、あたかも双子のように、互いに競い合い、反目し合いながら、数百年にわたってこの地域の歴史を動かしてきました。
彼らの力の源泉は、クローブでした。クローブの木は、もともとテルナテ、ティドレ、そしてその周辺のモティ、マキアン、バチャンといった、ごく限られた島々にしか自生していませんでした。テルナテとティドレのスルタンたちは、このクローブの交易を支配することで、富と権力を蓄積しました。彼らは、ジャワやマレー半島の商人たちと交易を行い、クローブと引き換えに、米や布地、金属製品などを手に入れ、その富で艦隊を組織し、周辺の島々へと影響力を拡大していきました。
この二つのスルタン国は、単なる商業国家ではありませんでした。彼らは、それぞれが広大な影響圏を持つ、一種の海洋帝国を築き上げていました。「ウリ=リマ(五つの同盟)」を率いるテルナテは、アンボン島やセラム島の一部、さらには遠くスラウェシ島にまでその宗主権を及ぼしていました。一方、「ウリ=シワ(九つの同盟)」を率いるティドレは、ハルマヘラ島の大部分や、ニューギニア島の沿岸部をその勢力圏としていました。
両国の関係は、常にライバル関係にありました。彼らは、クローブ交易の主導権や、周辺地域の支配権をめぐって、絶えず争いを繰り返しました。しかし、それは同時に、互いの存在を前提とした、一種の共存関係でもありました。彼らの対立は、この地域の政治的なダイナミズムの源泉となっていたのです。
イベリア勢力の到来
この地域の力学が大きく変化するのは、16世紀初頭、ヨーロッパ人が香辛料の原産地を求めて、この海域に到達してからでした。
最初にやってきたのは、ポルトガル人でした。1512年、彼らはマラッカから船団を派遣し、テルナテ島との接触に成功します。テルナテのスルタンは、長年のライバルであるティドレに対抗するため、ポルトガル人を歓迎し、同盟を結びました。ポルトガルは、その見返りとして、クローブ交易への参加と、島に商館と要塞を建設する権利を得ます。1522年、テルナテ島にサン=ジョアン=バプティスタ要塞が建設され、ポルトガルはモルッカにおける足がかりを築きました。
一方、ポルトガルと世界を二分する条約を結んでいたスペインも、黙ってはいませんでした。マゼラン艦隊の生き残りが1521年にティドレ島に到達したのを皮切りに、スペインは西回り航路(アメリカ大陸経由)でモルッカへの進出を試みます。ティドレのスルタンは、ポルトガルと結んだテルナテに対抗するため、スペインを同盟相手として迎え入れました。
こうして、モルッカ諸島におけるテルナテ対ティドレという古くからの対立構造は、ポルトガル対スペインという、ヨーロッパの二大帝国の代理戦争の様相を呈するようになります。両国は、それぞれが支援するスルタンを助け、互いの交易を妨害し、要塞を築いて睨み合いました。
不安定な均衡
16世紀後半、この状況に変化が訪れます。1580年、ポルトガルがスペインと同君連合(イベリア連合)を組んだことで、両国は表向きには同盟国となりました。しかし、アジアの現場では、長年の敵対関係から、両者の連携は必ずしも円滑ではありませんでした。ポルトガルはテルナテの要塞を拠点とし、スペインはフィリピンのマニラを拠点として、そこからティドレを支援するという、ねじれた構造が続きました。
さらに、ポルトガル人とテルナテの関係も、常に良好だったわけではありません。ポルトガル人の傲慢な態度や、強引なカトリック布教、そしてクローブ交易への過度な介入は、テルナテの人々の強い反発を招きました。1570年には、ポルトガル総督がテルナテのスルタン=ハイルンを騙し討ちで殺害するという事件が発生。これに激怒した息子のスルタン=バーブラは、聖戦(ジハード)を宣言し、モルッカ全域の勢力を結集してポルトガルに反旗を翻します。5年間にわたる包囲戦の末、1575年、テルナテはついにポルトガル人を島から完全に追放し、その要塞を奪い取りました。
ポルトガルは、アンボン島やティドレ島に追いやられ、その影響力を大きく後退させます。こうして、17世紀の直前、北モルッカは、テルナテが地域の覇権を握り、スペインが支援するティドレがそれに対抗し、そしてポルトガルがアンボン島でかろうじてその拠点を維持するという、複雑で流動的な情勢の中にありました。この三つ巴、四つ巴の争いが続く中に、オランダという、全く新しい、そして最も強力なプレイヤーが、その姿を現すことになるのです。
オランダの進出と独占への道
17世紀の夜明けと共に、モルッカ諸島の運命を永遠に変える、新たな勢力が水平線の向こうから姿を現しました。1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)。それは、国家から戦争遂行権や条約締結権を与えられた、前代未聞の巨大商業帝国でした。彼らの目的は、ポルトガルやスペインといった既存のヨーロッパ勢力を駆逐し、アジアの香辛料貿易を完全に独占すること。その戦略の核心にあったのが、クローブとナツメグの唯一の原産地である、モルッカ諸島の制圧でした。
最初の接触と同盟
オランダ人が初めてモルッカ諸島に到達したのは、1599年のことでした。VOC設立以前の、いわゆる「先行会社」の一つが派遣した艦隊が、アンボン島やバンダ諸島を訪れ、香辛料を直接買い付けることに成功します。この航海の成功は、オランダ本国に莫大な利益と熱狂をもたらし、VOC設立の直接的な引き金となりました。
VOCが設立されると、彼らはより組織的かつ大規模な艦隊をモルッカへと送り込み始めます。彼らがまず目をつけたのが、ポルトガルと敵対関係にあったテルナテ王国でした。1605年、提督コルネリス=マテリーフ=デ=ヨンゲ率いるVOC艦隊は、テルナテの宿敵であり、スペインとポルトガルの拠点があったティドレ島を攻撃します。この戦いで、彼らはポルトガルの要塞を破壊し、イベリア勢力に大きな打撃を与えました。
続いてVOCは、ポルトガルがアンボン島に築いていた拠点、ヴィクトリア要塞を攻撃。守備隊はほとんど抵抗することなく降伏し、VOCはモルッカにおける最初の恒久的な拠点を、いとも簡単に手に入れました。このアンボン島の要塞は、VOCのアジアにおける最初の総督府が置かれるなど、その後のモルッカ支配の重要な足がかりとなります。
テルナテとの条約とスペインの反撃
アンボンを確保したVOCは、北モルッカの覇者であるテルナテとの関係強化に乗り出します。1607年、VOCはテルナテのスルタンと決定的な意味を持つ条約を締結しました。この条約で、VOCはテルナテをスペインやティドレから守るための軍事援助を約束する見返りとして、テルナテの支配下にある全ての島々で生産されるクローブを、VOCのみに独占的に販売することを認めさせたのです。VOCは、テルナテの伝統的なライバル関係を巧みに利用し、クローブ独占への第一歩を記しました。VOCは、テルナテ島に新たな要塞(オラニエ要塞)を建設し、その影響力を確固たるものにしました。
しかし、スペインも黙って引き下がりはしませんでした。1606年、フィリピン総督ペドロ=デ=アクーニャは、マニラから大艦隊を率いてモルッカに遠征し、オランダが不在の隙をついてテルナテ島を急襲。テルナテの首都を占領し、スルタンを捕虜としてマニラへ連行するという、劇的な反撃に成功します。スペインは、かつてポルトガルが築き、テルナテが奪ったサン=ジョアン=バプティスタ要塞を再建・強化し(ヌエストラ=セニョーラ=デル=ロサリオ要塞と改名)、テルナテ島に強固な拠点を築きました。
これにより、北モルッカは、オランダが支援するテルナテの新スルタンが島の北半分を、そしてスペインが支援するティドレと、スペイン自身が島の南半分を支配するという、奇妙な南北分断状態に陥りました。両者は、数十年にわたって、互いに要塞を築いて睨み合い、小競り合いを繰り返すことになります。
バンダ諸島への野心
クローブ独占への道を歩み始めたVOCが、次なる目標として狙いを定めたのが、ナツメグとメースの唯一の産地である、バンダ諸島でした。赤道近くに浮かぶ、10あまりの小さな火山島群。これらの島々は、テルナテやティドレのような強力なスルタン国が存在せず、「オラン=カヤ(富める人々)」と呼ばれる長老たちが合議制で島々を治める、独自の社会を築いていました。
VOCは、バンダ諸島のオラン=カヤたちとも、ナツメグの独占供給契約を結ぼうと試みます。しかし、バンダの人々は、古くからジャワやマレー、さらにはイギリスの商人たちとも自由に交易を行うことで、その繁栄を築いてきました。彼らにとって、特定のヨーロッパ勢力に交易を独占されることは、自らの死活問題であり、到底受け入れられるものではありませんでした。
1609年、提督ピーテル=ウィレムスゾーン=フルフーフが、独占契約を強要するためにバンダ=ネイラ島を訪れた際、交渉は決裂。激怒したオラン=カヤたちは、フルフーフ提督とその随員たちを待ち伏せして殺害するという事件が起こります。この事件は、VOCにバンダ諸島に対する根深い不信感と憎悪を植え付け、後の悲劇への伏線となりました。VOCは、報復としていくつかの村を焼き払いましたが、この時点ではまだ、島々を完全に制圧する力はありませんでした。バンダの人々は、その後もVOCの目を盗んでは、イギリス商人との交易を続けたのです。独占への道は、武力による完全な征服以外にはない。VOCの首脳部がそう確信するまで、時間はかかりませんでした。
バンダの悲劇=1621年の虐殺
17世紀のモルッカ諸島の歴史、いや、ヨーロッパ植民地主義の歴史全体を見渡しても、1621年にバンダ諸島で起こった出来事ほど、冷徹な商業的野心が引き起こした悲劇として記憶されているものはありません。それは、オランダ東インド会社(VOC)が、ナツメグ貿易の完全独占という目的を達成するために、いかに非情な手段も厭わなかったかを、血をもって証明した事件でした。
背景=破られた独占契約
VOCは、17世紀初頭から、バンダ諸島の長老(オラン=カヤ)たちと、ナツメグとメースをVOCのみに供給するという独占契約を、繰り返し結ぼうと試みてきました。時には説得し、時には脅迫し、いくつかの島では、武力を背景に契約を強制しました。1609年には、バンダ=ネイラ島にナッサウ要塞を建設し、その支配を既成事実化しようとします。
しかし、バンダの人々にとって、自由な交易は彼らの経済の生命線でした。彼らは、VOCが提示する低い買い取り価格に不満を持ち、より高値で買ってくれるイギリス東インド会社(EIC)の商人たちとの交易を、秘密裏に続けました。特に、イギリスは、バンダ諸島の中でも最も孤立した小島であるルン島とアイ島に拠点を築き、VOCの独占体制に公然と挑戦していました。
この状況は、VOCの第4代総督であり、その冷徹さと断固たる実行力で知られるヤン=ピーテルスゾーン=クーンを激怒させました。彼は、アジアにおけるVOCの覇権を確立するためには、香辛料貿易の完全な独占が不可欠であると固く信じていました。そして、そのためには、契約を破り続けるバンダの民を、見せしめとして徹底的に罰する必要があると考えていたのです。「バンダの者どもを根絶やしにするか、彼らを追い払って、その土地を他の者で埋め尽くす以外に道はない」。クーンが本国の首脳部に宛てて書いたこの手紙は、彼の決意を明確に示しています。
クーンの遠征
1621年初頭、クーンは自ら、大艦隊を率いてバタヴィアからバンダ諸島へと遠征しました。その艦隊は、13隻の大型船、多数の小型船、約1,600人のオランダ兵、そして数百人の日本人傭兵を含む、圧倒的な軍事力でした。彼の目的は、もはや交渉ではありませんでした。武力による、完全な征服です。
遠征軍が最初に上陸したのは、抵抗の中心地であったロンタール島(大バンダ島)でした。クーンは、オラン=カヤたちに降伏と独占契約の遵守を最後通告しましたが、彼らはこれを拒否し、山岳地帯の砦に立てこもって抵抗の構えを見せました。
これに対し、クーンは容赦のない攻撃を命じました。VOC軍は、圧倒的な火力を以って村々を焼き払い、砦を次々と攻略していきました。抵抗した者は、その場で殺害されました。追い詰められたオラン=カヤたちは、ついに降伏を受け入れ、人質を差し出しました。
虐殺と奴隷化
しかし、クーンの目的は、単なる降伏ではありませんでした。彼は、バンダの社会を根絶やしにすることを決めていました。クーンは、降伏したオラン=カヤたちの中から、最も影響力のあった44人を捕らえ、反逆罪という名目で、見せしめのための裁判にかけました。裁判は形式的なものであり、彼らは拷問の末に「罪」を自白させられ、1621年5月8日、日本人傭兵によって斬首され、その体は四つ裂きにされて晒されました。
指導者を失ったバンダの民衆は、パニックに陥りました。多くの人々が、山中へ逃げ込みましたが、VOC軍は執拗な「人間狩り」を行い、彼らを追い詰めました。食料を断たれた人々は、飢餓によって次々と命を落としていきました。捕らえられた人々は、奴隷としてバタヴィアや他のVOC拠点へと売り払われました。ある記録によれば、この虐殺が始まる前、バンダ諸島には約15,000人の住民がいたとされますが、事件の後、生き残ったのはわずか1,000人にも満たなかったといいます。そのほとんどは、VOCが奴隷として労働させるために、意図的に生かされた人々でした。
ペルケニール制度の導入
住民を事実上、一掃した後、クーンはバンダ諸島を全く新しい社会へと作り変えました。彼は、ナツメグの木が生える土地を、68の区画(ペルク)に分割しました。そして、これらの土地を、VOCを退役したオランダ人の社員(ペルケニール)たちに、世襲の不動産として貸し与えたのです。
ペルケニールたちは、プランテーションの経営者となりました。彼らは、VOCから奴隷を供給され、その奴隷たちを使ってナツメグを栽培・収穫しました。収穫されたナツメグとメースは、全てVOCが定めた固定価格で、VOCに売り渡すことが義務付けられました。これは、奴隷制を基盤とした、完全な強制栽培システムでした。
こうして、バンダ諸島は、かつての自由な交易の民が暮らす場所から、VOCの利益のためだけに存在する、巨大な奴隷制プランテーションへと変貌を遂げました。1621年の悲劇は、VOCによる香辛料独占体制の確立における、決定的な一歩となりました。しかしそれは、近代資本主義の黎明期における富の追求が、いかに残忍な暴力と結びついていたかを、雄弁に物語る、消えることのない血の染みとして、歴史に刻まれ続けることになったのです。
独占体制の確立と維持
1621年のバンダ虐殺によってナツメグの独占を確固たるものにしたオランダ東インド会社(VOC)は、その矛先を、もう一つの至宝、クローブへと向けました。VOCの目標は、バンダ諸島で実現したような、生産から流通に至るまでの完全なコントロールを、クローブに関しても確立することでした。この独占体制の確立と、それを維持するための絶え間ない努力が、17世紀後半のモルッカ諸島の歴史を規定していくことになります。
クローブ独占への道=アンボンとセラム
クローブの木は、もともと北モルッカの五つの島(テルナテ、ティドレ、モティ、マキアン、バチャン)にしか自生していませんでした。しかし、長年の交易の過程で、その苗木は、南のアンボン島や、その隣のセラム島の沿岸部にも移植され、栽培されていました。
VOCにとって、これらの「非正規」のクローブの木は、独占体制を脅かす、許しがたい存在でした。なぜなら、アンボンやセラムの住民たちは、VOCの監視をかいくぐり、マカッサル(スラウェシ島)の商人や、イギリス、デンマークの商人たちに、クローブを密売していたからです。
この密貿易を根絶するため、VOCは極めて強硬な手段で訴えました。それが、「ホンギ巡察(ホンギトフテン)」として知られる、懲罰的な遠征です。ホンギとは、地元の首長たちがVOCに提供を義務付けられた、伝統的な大型カヌーの船団のことでした。VOCは、このホンギ船団を組織し、オランダ兵の指揮のもとで、アンボンやセラムの沿岸部を定期的に巡察させました。
そして、彼らの最大の任務は、VOCが管理する地域以外で栽培されているクローブの木を、発見次第、全て引き抜き、破壊することでした。この「クローブ根絶政策」は、容赦なく実行されました。住民が抵抗すれば、村は焼き払われ、財産は没収されました。この政策は、地元住民の生活基盤を根本から破壊するものであり、彼らの激しい憎悪をかき立てました。1651年から1658年にかけて、セラム島西部では、サパルアという首長に率いられた大規模な反乱(大アンボン戦争)が勃発しましたが、これもホンギ巡察と強制的なクローブ根絶に対する抵抗が直接的な原因でした。VOCは、この反乱を数年がかりで、徹底的に鎮圧しました。
この過酷な政策の結果、17世紀後半までには、クローブの栽培は、VOCが直接管理するアンボン島とその周辺のいくつかの島(ハルク島、サパルア島、ヌサ=ラウト島)に、ほぼ限定されることになりました。VOCは、これらの島々の住民に対して、クローブを定められた価格でVOCにのみ納めることを強制しました。こうして、クローブに関しても、バンダのナツメグと同様の、強制栽培と独占買い上げのシステムが確立されたのです。
北モルッカの終焉
クローブの栽培地をアンボン周辺に集中させるというVOCの政策は、かつてクローブ交易で栄華を誇った北モルッカのスルタン国、テルナテとティドレの運命に、決定的な終止符を打つものでした。
VOCは、テルナテやティドレとの条約に基づき、彼らの領内にあるクローブの木も、補償金を支払うことと引き換えに、全て伐採させました。これにより、スルタンたちは、自らの富と権力の源泉を、完全に失うことになりました。彼らは、もはや独立した海洋国家ではなく、VOCから支払われる年金に依存する、名ばかりの君主へと転落していきました。
さらに、1663年、VOCは、長年にわたってテルナテ島で睨み合いを続けてきた最後のライバル、スペインを、この地から撤退させることに成功します。これは、スペインがフィリピンでの反乱への対応に迫られたためでしたが、これにより、VOCはモルッカ諸島における唯一のヨーロッパ勢力となりました。
ライバルがいなくなり、スルタンたちが無力化されたことで、VOCのモルッカ支配は、絶対的なものとなりました。1683年、VOCはテルナテとの間に新たな条約を結び、テルナテを対等な同盟国ではなく、VOCの主権下にある封臣(ヴァッサル)であると、その地位を明確に規定しました。ここに、かつてモルッカの海に君臨したスルタン国の時代は、名実ともに終わりを告げたのです。
独占体制の維持
独占体制を確立した後も、VOCの戦いは終わりませんでした。彼らは、この体制を維持するために、絶え間ない警戒と努力を続けなければなりませんでした。
ホンギ巡察は、密貿易や非正規の栽培を取り締まるために、定期的に続けられました。VOCは、アンボンやバンダに、堅固な要塞網を築き、強力な守備隊を駐留させました。これらの要塞は、外部からの侵入者を防ぐと同時に、内部の住民の反乱を抑え込むための、威圧的な存在でした。
VOCはまた、香辛料の価格を維持するために、生産量を厳格にコントロールしました。豊作で供給過剰になりそうな年には、収穫されたクローブやナツメグを、あえて燃やしたり、海に投棄したりすることさえありました。これは、「余剰香辛料の破壊」として知られ、VOCの商業的合理主義を象徴する行為でした。彼らにとって、香辛料は食料ではなく、あくまで価格を吊り上げるための商品に過ぎなかったのです。
17世紀末、モルッカ諸島は、VOCという一つの巨大企業によって、完全に支配された、静かで、しかし抑圧された島々と化していました。その静けさは、かつての活気ある自由交易が失われ、数え切れない人々の血と涙の上に築かれた、独占という名の墓標の上に成り立っていたのです。
社会と環境への影響
オランダ東インド会社(VOC)による17世紀のモルッカ諸島支配は、単に政治的な権力構造を塗り替えただけではありませんでした。その執拗な香辛料独占への追求と、それを実現するために行使された容赦のない暴力は、島の社会、文化、そして自然環境そのものに、深く、そして永久に癒えることのない傷跡を残しました。それは、グローバルな経済システムが、一つの地域社会をいかに根底から作り変えてしまうかを示す、痛烈なケーススタディです。
人口構成の激変
VOCの支配がもたらした最も劇的な変化は、人口構成の激変でした。特に、1621年の虐殺が起こったバンダ諸島では、その変化は壊滅的でした。かつて島々を治めていたオラン=カヤ層は根絶され、住民のほとんどが殺害されるか、島外へ奴隷として連れ去られました。その結果、島の先住民族は、事実上、消滅してしまいました。
その空白を埋めるために、VOCは全く新しい人口を島に「輸入」しました。プランテーションの経営者として、オランダ人の「ペルケニール」が移住させられました。そして、彼らの下でナツメグを栽培する労働力として、VOCはアジア各地から、数多くの奴隷を連れてきました。これらの奴隷は、インド、マレー半島、スラウェシ、ニューギニアなど、様々な出自を持つ人々でした。
こうして、バンダ諸島は、かつての先住民社会から、オランダ人の支配層、そして多様な出自を持つ奴隷労働者層から成る、全く新しい、そして極めて階層的な奴隷制プランテーション社会へと変貌を遂げたのです。この人工的に作られた社会構造は、その後のバンダの歴史を長く規定していくことになります。
アンボンやセラムにおいても、VOCの支配は人口の移動を引き起こしました。VOCの拠点となった港市には、オランダ人の役人や兵士、そして彼らと共に商売を行う中国人商人などが集まり、新たな都市コミュニティが形成されました。一方で、VOCの過酷な支配やクローブ根絶政策を嫌った多くの住民が、故郷の村を捨て、より安全な内陸部や、VOCの支配が及ばない他の島々へと移住していきました。
伝統社会の崩壊
VOCの支配は、モルッカ諸島に古くから存在した、伝統的な社会構造と政治システムを、根本から破壊しました。
北モルッカでは、かつて広大な海洋帝国を築き、クローブ交易の富で栄華を誇ったテルナテとティドレのスルタンたちが、その権力基盤を完全に失いました。クローブの木が伐採され、交易の独占権を奪われた彼らは、VOCから支給される年金に依存する、無力な存在へと転落しました。彼らは、もはや独立した君主ではなく、VOCの植民地行政の末端を担う、地方官吏のような役割を強いられることになりました。
バンダ諸島では、オラン=カヤたちによる長老合議制という、独自の政治システムが、虐殺によって物理的に消滅させられました。アンボンやセラムでは、伝統的な村の首長たちが、VOCの支配体制の中に組み込まれ、ホンギ船団への船や漕ぎ手の提供、強制栽培の監督といった、住民を抑圧するための役割を担わされるようになりました。これにより、首長と住民の間の伝統的な信頼関係は損なわれ、コミュニ-ティの結束は弱まっていきました。
生態系へのインパクト
VOCの香辛料独占政策は、モルッカ諸島の自然環境、特にその生態系にも、大きな影響を与えました。
最も象徴的なのが、「クローブ根絶政策」です。VOCは、クローブの栽培地をアンボン周辺の特定の島々に限定するために、それ以外の地域に生えているクローブの木を、組織的に伐採・破壊しました。これは、生物多様性に対する、意図的かつ大規模な攻撃でした。ある特定の植物種を、商業的な理由から、その自生地の一部から根絶やしにするというこの行為は、近代における環境破壊の、初期の事例の一つと見なすことができます。
また、VOCは、食料の自給自足にも影響を与えました。彼らは、住民に対して、米などの食料を栽培する代わりに、香辛料の栽培に専念することを強制しました。そして、住民が必要とする食料は、VOCがジャワ島などから運び、それを住民に売りつけるというシステムを作り上げました。これにより、モルッカの島々は、食料を外部からの供給に依存する、脆弱な経済構造に陥りました。これは、住民をVOCの支配下に置き続けるための、巧みな戦略でもありました。
17世紀のモルッカ諸島は、VOCという単一の企業の利益のために、その社会も、文化も、そして自然環境さえもが、根底から作り変えられてしまった場所でした。それは、グローバルな市場の力が、ローカルな世界を、いかに暴力的に、そして不可逆的に変容させてしまうかという、痛ましい教訓を、現代の私たちに伝えています。
17世紀のモルッカ諸島、すなわち「香料諸島」は、その歴史において、最も輝かしく、そして最も悲劇的な一世紀を経験しました。地球上で唯一、クローブとナツメグを産出するという自然の恵みは、この島々に富をもたらすと同時に、ヨーロッパ列強の飽くなき欲望を呼び覚まし、血で血を洗う争いの渦へと巻き込んでいきました。
世紀の初め、この海域は、テルナテとティドレという二つのスルタン国、そしてポルトガルとスペインという二つのイベリア帝国が織りなす、複雑な勢力均衡の中にありました。しかし、その均衡は、オランダ東インド会社(VOC)という、商業的野心と軍事力を融合させた、全く新しいタイプの権力の登場によって、完全に破壊されます。
VOCの目的は、香辛料貿易の完全な独占。その目的を達成するため、彼らは、数十年にわたる、執拗で、そして冷徹な闘争を繰り広げました。彼らは、地域のライバル関係を巧みに利用してテルナテと同盟を結び、ポルトガルとスペインの勢力を一つずつ駆逐していきました。そして、自らの独占体制に抵抗する者には、容赦のない鉄槌を下しました。
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- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























