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【二十一カ条の要求、大戦景気、大正デモクラシー、原内閣の成立】 受験日本史まとめ 66
著作名: Cogito
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日本による中国進出

日露戦争の勝利により、ロシアから日本が引き継いだ旅順・大連の租借権や南満州鉄道の権益は1920~30年代に期限切れになりつつありました。そこで日本は、ヨーロッパの勢力争いに列強が集中する時期を好機とし、南満州の権益延長と第一次世界大戦中にドイツから獲得した山東省の権益を最大化するため、1915年(大正4年)1月、大隈内閣の加藤高明外相が中華民国の袁世凱政府二十一カ条の要求をつきつけました。これは主に以下の内容となっていました。

(1)山東省内の旧ドイツ権益の継承
(2)大連・旅順の租借期限と南満州鉄道の権益期限を99カ年延長
(3)南満州・東部内蒙古の鉱山権益
(4)漢冶萍公司の日中合弁
(5)中国政府の財政・軍事顧問として日本人を採用

これに対し中華民国政府は内容の不当を国際社会に訴えましたが、日本の強行な態度は変わらず、5月9日にその大部分を認めました。中国ではこの日を国恥記念日とし、これを契機に中国国内では激しい対日反感の気運が高まりました。また、列強も日本の強行な中国進出に警戒心を高めました。

そこで日本は、1917年(大正6年)に連合国の要請により海軍の一部をヨーロッパに派遣し、連合国に協力しました。また、同年アメリカとの間に石井・ランシング協定を結び、中国における利害の調整をはかりました。この協定の内容は以下となっていました。

(1)日本の中国に対する特殊権益
(2)中国領土の保全
(3)中国に対する商業上の門戸開放・機会均等

この協定により、日本側は二十一カ条の要求をアメリカが承認したと解釈しましたが、アメリカ政府は経済的特権のみを承認したのみであるとして双方の解釈が対立しました。

大隈内閣のあと成立した寺内正毅内閣は、袁世凱のあとを継いだ段祺瑞政権に対し、巨額の借款を与え日本の権益を更に拡大しようとしました。この借款は首相の側近であり担当者だった西原亀三の名から西原借款と呼ばれます。

1917年(大正6年)、ロシア革命によりソヴィエト政府が誕生し、ドイツ側と単独講和を結び連合国側から脱落すると、連合諸国の間に革命の影響が広がることへの警戒感が高まりました。1918年(大正7年)、イギリス・アメリカ・フランスなどは、革命軍によりシベリアに追い詰められたチェコスロヴァキア軍を救出するという名目でシベリアに軍隊を派遣し、革命に干渉しました。日本も大陸への勢力拡大という目的から、連合国側の要請に応じ、寺内内閣は同年8月にシベリア出兵を宣言し、東シベリア・北満州・沿海州などに軍隊を派遣しました。しかし、この大規模な出兵は大きな成果が挙げられず、列強は1920年(大正9年)には撤兵したものの、日本は依然として軍隊を駐屯させたため国際的に非難を浴び、1922年(大正11)になってようやく撤兵しました。この間尼港事件なども起こりましたが多くの犠牲者を出したシベリア出兵は、最終的にほとんど得るものがありませんでした。



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