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【社会運動の高まり、普選運動、護憲三派の成立、政党政治の展開】 受験日本史まとめ 68 |
著作名:
Cogito
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社会運動の高まり
第一次世界大戦を通じて、世界的に民主主義の気運が高まったため、日本国内でもさまざまな社会運動がおこりました。1918年(大正7年)に吉野作造・福田徳三・大山郁夫らが中心となり黎明会が創設され、同年東大の学生・卒業生らにより東大新人会がつくられました。
労働運動
大逆事件以降、政府から厳しい弾圧を受けていた社会主義・労働運動も、この時代に勢いを取り戻しました。労働組合の中心となったのが、鈴木文治が1912年(大正元年)に結成した友愛会で、1919年(大正8年)に大日本労働総同盟に、1921年(大正10年)に日本労働総同盟に改称し、階級闘争主義へと転じました。労働争議は各地でおこり、官営の八幡製鉄所のストライキや神戸の三菱・川崎両造船所のストライキが有名なものとなりました。1920年(大正9年)には日本最初のメーデーも行われ、労働組合運動は総同盟内部で対立が深まりました。左派は除名され1925年(大正14年)日本労働組合評議会を結成しましたが、1928年(昭和3年)に解散させられました。
農民運動
全国各地の農村では小作争議が頻発し、地主に懇願するだけでなく、小作人が小作人組合を結成し、小作料減免・耕作権確立の要求を中心とする農民運動へとなっていきました。1922年(大正11年)には、賀川豊彦・杉山元治郎らが日本農民組合を結成しました。こうした中、政府も小作農の保護・維持対策を図り、1921年(大正10年)に米穀法を制定し米価の調整につとめ、農村に政府資金を貸し付けました。また、1924年(大正13年)には、小作争議調停法が制定され、当事者の申し立てにより、裁判所のもとで小作争議の調停ができるようになりました。
婦人運動
社会運動の中で、新しい動きとして婦人運動がおこりました。1911年(明治44年)、平塚明(雷鳥)らが中心となり青鞜社を結成し、雑誌『青鞜』を創刊し女性の覚醒を促しました。1920年(大正9年)には平塚明・市川房枝らが新婦人協会を創設し、婦人参政権運動を行うようになりました。この運動により、1922年(大正11年)に治安維持法第5条が改正され、女子の政治演説会参加が認められるようになりました。新婦人協会は、1924年(大正13年)に婦人参政権獲得期成同盟会に発展しました。同時期1921年(大正10年)に山川菊枝・伊藤野枝らにより赤潤会が結成され、社会主義の立場からの婦人運動も展開されました。
社会主義運動
労働運動とともに、社会主義運動も活発となり、はじめは大杉栄などのアナーキズム(無政府主義)の影響がありましたが、次第にマルクス主義が社会主義運動の主流となり、ロシア革命の政治闘争を重視するボリシェヴィズムが優位となりました。こうした中、社会主義者を束ね政治的な組織として無産政党(社会主義政党)を結成しようとする動きが進み、1920年(大正9年)に日本社会主義同盟が成立し、1922年(大正11年)にはソ連のモスクワに本部を置くコミンテルン(国際共産主義組織)の指導下で、片山潜・堺利彦・山川均らが中心となり、コミンテルンの日本支部として日本共産党が秘密裏に組織され、君主制廃止、大地主の土地没収と国有化、8時間労働実現などをかかげ、プロレタリア独裁の確立を目指し非合法活動を展開しました。
マルクス主義理論は徐々に知識人・学生・運動家らの支持を受けるようになり、東大新人会もマルクス主義の研究・実践団体となっていきました。
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災がおこり、政治・経済的に大きな混乱を巻き起こしましたが、この震災の混乱中に社会主義者や朝鮮人が暴動を企てているというデマが流れ、戒厳令が敷かれ、住民の自治団や警察・憲兵らにより社会主義者や朝鮮人が虐殺される事件(亀戸事件など)がおこりました。こうした状況下で、日本共産党内部で政治方針をめぐる対立が深まり、1924年(大正13年)に解党が決議されました。
部落解放運動
被差別部落の住民に対する社会的差別撤廃を目指す部落解放運動も本格的に展開し、1922年(大正11年)に全国水平社が結成され、運動が進められました。全国水平社はその後第二次世界大戦後に部落解放全国委員会を経て、部落解放同盟へと発展しました。
国家主義改革運動
第一次世界大戦の革新的雰囲気が高まる中、国家主義の立場から「国家改造」を主張する者も現れました。1919年(大正8年)にこうした国家主義者らが猶存社を結成し、北一輝(1883~1937)・大川周明を中心に国家主義改革運動を展開しました。これらの思想は、協調外交や軍縮政策を進める政党政治に不満をもちつつあった軍部の青年将校や中堅将校に多大な影響をあたえるようになりました。
中でも北一輝は1919年(大正8年)、反日運動が激化する上海で国家改造案原理大綱(のちに日本改造法案大綱に改称)を書き上げ、猶存社により秘密出版され、関係者に配布されました。この内容は、天皇大権の発動により戒厳令を敷き、武力クーデターにより天皇中心の国家社会主義的な国家改造を行おうとするものでした。この改造とは、私有財産の制限と超過額の没収・大企業の国有化・企業利益の労働者への配分・普通選挙実施・華族制廃止などで、対外的には「不法ノ大領土ヲ独占」している国に対して開戦する権利があることを強調していました。
この北一輝の思想は、協調外交や軍縮が重視される世界的な風潮により、世間的に肩身の狭くなった軍人に支持されるようになり、影響を受けた青年将校らは、のちの1936年(昭和11年)に蔵相高橋是清・右大臣斎藤実・教育総監渡辺錠太郎らを殺害し永田町一帯を占拠した二・二六事件を引き起こすことになります。この後軍部が台頭し、太平洋戦争へとつながっていきました。
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