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【近代産業の発展、財閥の発達、社会主義運動、大逆事件】 受験日本史まとめ 62
著作名: Cogito
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近代産業の発展

近代化を進めた明治初年以降、日本は海外からの輸入超過が続いていましたが、松方正義が行った緊縮財政と不況による輸入減少、生糸や鉱産物の輸出拡大により1882年(明治15年)から輸出超過に変わりました。1886〜89年(明治19〜22年)には鉄道や紡績産業で株式会社の設立がはじまり、これが日本最初の企業勃興となりました。

1880年代後半には、鉱山や造船所などの官営事業の民間払い下げが進められ、その多くは、政府と特権的な結びつきが強かった三井や三菱などの政商が受けました。こらら官営事業の払い下げを基盤に、のちに三井財閥・三菱財閥が成立していきました。

民間企業の勃興

製糸業の分野では養蚕業を中心に発展し、器械製糸の工場が長野県の諏訪地域を中心に多数作られました。従来からの座繰製糸も残り、並行的に両者は発達していきました。一時的にイギリスの安価な輸入品に押されましたが、のちにウィーン万国博覧会をきっかけに飛び杼がもたらされると、これを取り入れて生産を回復させました。

紡績業では、政府設立の紡績業がふるわず、1883年(明治16年)の操業開始した大阪紡績会社がイギリスからミュール紡績機械を輸入し、大規模な生産をはじめました。1880年代には、摂津紡績や鐘渕紡績会社など大規模な紡績会社が設立され、1890年(明治23年)には国内の綿糸生産高が輸入高を上回りました。

交通業や運輸業では、1889年(明治22年)に官営の東海道線(新橋・神戸間)が開通し、1892年(明治25年)には鉄道敷設法が制定され、全国幹線網の計画がはじまりました。民営の鉄道も、華族の金禄公債を元手に、1881年(明治14年)日本鉄道会社が設立され、私鉄ブームがおこりました。日清戦争後には本州の両端の青森・下関間が鉄道によって連結されました。海運部門では、1885年(明治18年)に三菱汽船会社と共同運輸会社が合併し、日本郵船会社が設立され、政府の保護のもと、大阪商船会社とならび、外国航路にも進出しました。

日本の産業革命

日清戦争後、政府は清国からの莫大な賠償金を元手に、軍備拡張と産業振興を主とする戦後経営をはじめました。1900年(明治33年)から翌年にかけて資本主義恐慌が起こりましたが、政府指導により日本銀行が普通銀行を通じて豊富な資金を産業界に送り、更に日本勧業銀行・府県の農工銀行・日本興業銀行などの特殊銀行を設立し、産業資金を民間に供給しました。1897年(明治30年)には貨幣法を制定し、銀本位制から金本位制に移行しました。

日清戦争前から繊維産業で産業革命がはじまり、戦後に資本主義が成立していきました。政府は綿糸輸出税と綿花輸入税を撤廃し、原料の綿花を中国・インド・アメリカから輸入し、輸出を盛んに行うようになりました。1894年(明治27年)には、器械製糸の生産高が座繰製糸の生産高を上回り、大規模な製糸工場が作られるようになりました。1897年(明治30年)に豊田佐吉が国産力織機を考案し、農村の手織り機の問屋制家内工業を小工場の機械制生産に転換させていきました。

重工業部門の発展は軽工業に比べ遅れ、三菱長崎造船所などの造船業が発達したのにとどまっていました。政府は鉄鋼の国産化を目指して官営製鉄所として八幡製鉄所を設立し、1901年(明治34年)の開業以降、清国の鉄鋼石を原料に国産の石炭を用いて鉄を生産するようになりました。

交通運輸部門では、各都市に市街電車が開通し、日本郵船会社がインド・北米・欧州・豪州航路を開きました。

財政・金融面では、軍備拡張・産業振興・台湾植民地経営など戦後経営に莫大な経費を必要としたため、財政は膨張していく一方でした。そこで政府は、公債発行・地租増徴のほかに、営業税・砂糖税・ビール税・酒税・醤油税などさまざまな税を新設しました。

貿易面は飛躍的に拡大を続け、輸出の相手国としてはアメリカが一位、清国が二位となりました。

農業ではさまざまな品種改良が進められました。綿花栽培は海外の安価な輸入品に押され衰退していきました。1900年(明治33年)には産業組合法が制定され、協同組合が作られるようになりました。こうした中、農民層の分解が進み、大地主は寄生地主となり、この小作料を元手に公債や株式に投資し、地方有力者や議員になるなど、日本の政治の基底を形作るようになりました。



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