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【明治文化の特色、自由民権思想、信教の自由、教育の普及】 受験日本史まとめ 63
著作名: Cogito
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明治文化

明治文化の特色としては、第1に従来からの日本文化を継承しながら、急速に西洋文化を受容し、日本独自の文化を築いたこと、第2に、当初は政府主導のもと発展したものの、次第に国民の自主努力によって国民文化となっていったこと、第3に、西洋文化を受容したことにより科学的精神の重要性が認識され、学問・文学・芸術が政治・道徳・宗教からいちおう独立したこと、第4に、急速に西洋文化を受容したことにより、表面的な模倣になりがちだったことなどが挙げられます。

思想

明治初期から、中江兆民・大井憲太郎らがフランスの天賦人権論に基づく自由民権思想を広め、これは国権論の要素を多く含んでいました。特に中江兆民は、フランス留学からの帰国後、啓蒙思想家ルソーの『民約論』を翻訳した『民約訳解』を著し、西園寺公望を社長に『東洋自由新聞』を創刊し、自由民権の代表的思想家となりました。

1880年代後半から、政府主導の欧化政策が上辺だけであるという批判が民間で強くなり、徳富蘇峰は1887年(明治20年)に民友社を設立し、同年雑誌『国民之友』、1890年(明治23年)には『国民新聞』を創刊し、山路愛山・竹腰与三郎らとともに、平民的欧化主義を唱えました。これは、政府など上からの欧化政策に反対し、個人の自由と平等を基礎においた上で、西洋文化を取り入れるというもので、イギリス的な議会政治や社会政策も主張されました。

一方で、三宅雪嶺・杉浦重剛・陸羯南・志賀重昂ら政教社のグループは、雑誌『日本人』や新聞『日本』を発行し、西洋文化の無批判な受容や模倣の反対し、日本固有の伝統を基礎に国民国家を作り上げる国粋保存主義を唱えました。

しかし、こうした批判的な意見も、日清戦争以後次第に失われ、徳富の国家主義への転身など、国家主義に同化していきました。また、1900年ころになると、高山樗牛は雑誌『太陽』で、列強の帝国主義に対抗するための日本主義を唱えました。

日清戦争以降、日本の思想界は対外膨張・大陸進出とそれを支える国家主義が主流となっていきます。加藤弘之・井上哲次郎ら東京帝国大学の学者は、ドイツの国家主義や社会有機体論を取り入れ、個人に対する国家の優越を説きました。また、加藤弘之らは社会進化論も主張し、これを国家間に適用し、国際社会における優劣と弱肉強食を肯定する考えが強まっていきました。

国家主義は次第に伝統的な儒教思想と結びつき、日本を天皇を頂点とする一大家族とみなし、「忠孝一致」「忠君愛国」の精神が広まっていきました。明治末期には、こうした家族国家論は国定の修身教科書に取り入れられ、国民に国体観念を浸透させ、天皇制国家の社会秩序を支える道徳的・精神的支柱となっていきました。また、こうした思想に反する考え方には強い圧力がかけられるようになりました。神道の実証的研究をまとめ、「神道は祭天の風俗」を『史学会雑誌』に発表した久米邦武は、神道家らの攻撃によって帝国大学教授辞任となり、キリスト教徒の立場から教育勅語への拝礼を拒否した第一高等中学校の嘱託職員だった内村鑑三は、生徒やジャーナリズムから非難を浴び、教壇から追われました。これを内村鑑三不敬事件といいます。さらに、小学校の日本歴史の国定教科書に、南北朝併立説を執筆した喜田貞吉は、南朝を正統とする学者から攻撃され、編修官を休職となりました。これを南北朝正閏問題といいます。



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