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共和制と恐怖政治(立法議会・国民公会・ジャコバン(山岳派)独裁など) 受験対策問題 67
著作名: レキシントン
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共和制と恐怖政治で押さえておきたいポイント

※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。

革命の進展と対外戦争

・1791年9月3日、国民議会はフランス初の憲法として1791年憲法を制定し、立憲君主制・財産資格選挙・一院制などを規定した。これにより、国民議会が解散し、制限選挙が行われ、新たに立法議会が成立した。議会は右派のフイヤン派、左派のジロンド派、最左派のジャコバン派(山岳派)に分かれた。

・1792年3月から6月にかけて、立法議会にジロンド派内閣が成立した。この内閣は4月20日にオーストリアに宣戦し、革命戦争を開始した。その後プロイセンとも戦いを始めたが、敗戦が続いたため総辞職し、新たにフイヤン派内閣に代わった。

・革命戦争では、義勇軍が主力となった。義勇軍は練度が低かったものの、ラ=マルセイエーズ(1792年に国歌制定)という革命歌を歌い、 士気が非常に高かった。こうして、国民主権国家フランスの国民戦争が遂行されていった。

第一共和政の成立

・1792年8月10日には、八月十日事件がおこり、山岳派サン=キュロット義勇兵に呼びかけ、国王の居城テュイルリー宮殿を襲撃し、国王一家をタンプル塔に幽閉した。この結果、立法議会は王権の停止を宣言し、新たに男性普通選挙が行われ国民公会が成立し、第一共和政(1792年9月〜1804年5月18日)という政治体制となった。

・1792年9月20日には、ヴァルミーの戦いでフランスがオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、フランス軍の防衛が成功した。

ルイ16世の処刑と第1回対仏大同盟

1793年1月21日、国王ルイ16世が国民公会の裁判で有罪となり、死刑となった。この処刑に諸外国は動揺し、イギリス首相ピットの呼びかけで第1回対仏大同盟(1793〜1797)を結成した。この同盟には、ロシア・スペイン・プロイセン・オランダ・オーストリア・ポルトガル・サルディーニャなどが参加した。

・1793年2月には、戦争激化のため国民公会が徴兵制を実施した。これに反対する農民は翌月ヴァンデーの農民反乱を起こしたが、鎮圧された。

ジャコバン(山岳派)独裁と恐怖政治

・国民公会は反革命運動抑圧機関として、革命裁判所・公安委員会・保安委員会などを設置し、その後山岳派ジロンド派を追放し恐怖政治をはじめると、人々の弾圧を行うようになった。

・この時期、山岳派はマラーが指導者だったが、1793年7月にマラーが暗殺されると、ロベスピエールが公安委員と山岳派の指導者となり、同じ山岳派のエベールダントンを処刑し、恐怖政治を徹底した。山岳派は封建地代の無償廃止・最高価格令・革命暦の採用・メートル法の採用などを行い、1793年(ジャコバン)憲法を国民公会で制定したが、この憲法は革命が激化したことで実施されなかった。

・恐怖政治が激化しすぎたことで、1794年7月27日(革命暦の熱月9日)に、国民公会の反ロベスピエール派がテルミドールの反動というクーデターを実行し、ロベスピエールとその一派を逮捕後、処刑した。恐怖政治のさなか、ルイ16世・マリー=アントワネット・ロベスピエールなどはギロチンで処刑され、この処刑具は恐怖政治の象徴となった。こうして山岳派による独裁政治が終わり、穏健共和派の政治が復活した。

総裁政府の成立

・1795年8月には1795年憲法(共和国第3年憲法)が制定され、財産制の制限選挙・二院制議会・5人の総裁を選出した政府の設立などが実現した。

・1795年憲法に従い、新たに総裁政府(1795年10月〜1799年11月)が成立した。総裁政府は行き過ぎた独裁政治に陥ることを防ぐため、5人の総裁に権力を分散させたことから、政治的に不安定な政府であった。

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