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チャールズ2世とは わかりやすい世界史用語2710
著作名: ピアソラ
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チャールズ2世とは

チャールズ2世の人生はイングランド史の中でも特に波乱に満ちた物語です。彼の生涯は王位継承者としての華やかな誕生に始まり、内戦による亡命生活の困窮を経て、奇跡的な王政復古による栄光の帰還へと至ります。まさに天国と地獄を行き来するような人生でした。その治世は「王政復古」の時代として知られます。厳格な清教徒主義の時代が終わり、華やかで享楽的な文化が花開く大きな転換点となりました。彼は「陽気な君主」として親しまれましたが、その裏では宗教的な対立や議会との絶え間ない権力闘争、そしてヨーロッパ大陸の複雑な国際政治の渦中で巧みな政治手腕を振るい続けました。
チャールズ2世の物語は父チャールズ1世が議会との対立の末に処刑されるという衝撃的な出来事から始まります。若き王子だった彼は故国を追われヨーロッパ大陸を10年以上も放浪する亡命者となりました。この苦難の時代は彼に人間性への深い洞察力と忍耐力、そして生き残るための狡猾さを教え込みます。彼は貧困と屈辱の中で人々の心をつかむ魅力と決して本心を見せない慎重さを身につけていったのです。
1660年、オリバー=クロムウェルの死後の混乱を経てイングランド国民が君主制の安定を渇望する中、チャールズ2世は熱狂的な歓迎を受けてロンドンに帰還し父が失った王座を取り戻します。彼の帰還は抑圧されていた人々の感情を解き放ちました。劇場は再開され宮廷は洗練されたウィットと華やかな祝祭の中心となります。科学の分野では王立協会が設立され、建築ではクリストファー=レンがロンドン大火後の復興を担うなど、文化と知性が躍動する時代が幕を開けました。
しかしその華やかさの裏でチャールズ2世の統治は常に薄氷を踏むようなものでした。彼の治世はカトリックとプロテスタントの間の根深い対立によって常に揺さぶられ続けます。彼自身はカトリックに共感を寄せており、弟であるヨーク公ジェームズは公然たるカトリック教徒でした。このことはプロテスタントが多数を占めるイングランドで深刻な政治危機を引き起こします。「カトリック陰謀事件」や「王位継承排除法案」を巡る危機では国は再び内戦の瀬戸際にまで追い込まれました。
チャールズ2世は議会からの財政的な制約を逃れるためフランスのルイ14世と秘密の同盟を結び資金援助を受けるという危険な外交も行いました。彼は絶対君主を目指す野心と父の二の舞になることを避けるための現実的な妥協の間で巧みにバランスを取りながらその治世を乗り切ります。
数多くの愛人を持ち庶子を儲けながらも正妻との間には嫡子が生まれなかったことも彼の治世に影を落としました。彼の死はカトリック教徒である弟ジェームズへの王位継承を意味し、それはやがて名誉革命という新たな政治変革へと繋がっていきます。チャールズ2世の生涯は個人の魅力と政治的な才覚によって分裂した国家をいかにして一つにまとめ、破滅的な運命から自らを守り抜いたかという一人の君主の類まれなる生存の物語なのです。



亡命時代(1642–1660)

チャールズ2世の人間性と政治家としての資質は国王として玉座にいた時間よりも、むしろ故国を追われヨーロッパ大陸を放浪した18年間の亡命生活によってその大部分が形作られました。この長く苦難に満ちた時代は彼から王族としての安楽な生活を奪い去りましたが、その代わりに逆境を生き抜くための狡猾さ、忍耐力、そして人間性に対する冷徹な洞察力を与えました。彼の「陽気な君主」という仮面の下に隠された決して本心を見せない慎重さと現実主義はこの亡命時代に培われたものでした。
内戦と父の処刑

チャールズの少年時代はイングランドが内戦へと突き進む暗い影に覆われていました。1642年に父チャールズ1世と議会の対立が武力衝突に発展すると、わずか12歳のプリンス=オブ=ウェールズであったチャールズも王党派の軍と行動を共にします。彼は1642年10月のエッジヒルの戦いにも立ち会い戦争の過酷な現実を目の当たりにしました。
戦局が王党派に不利に傾く中、1645年にチャールズはイングランド南西部における王党派軍の名目上の総司令官としてブリストルに派遣されます。しかしもはや戦況を覆すことはできず、議会軍の進撃から逃れるため彼はまずシリー諸島へ、次いでジャージー島へと避難を余儀なくされました。そして1646年、彼は母ヘンリエッタ=マリアが待つフランスの宮廷へと渡り本格的な亡命生活が始まります。
亡命中のチャールズにとって最大の衝撃は1649年1月30日に訪れました。父チャールズ1世が反逆者としてロンドンのホワイトホール宮殿前で公開処刑されたのです。この知らせはハーグに滞在していたチャールズのもとに届けられました。父が自らの臣下の手によって殺害されたという事実は彼に生涯消えることのない深い傷跡を残します。それは君主の権威がいかに脆いものであるか、そして政治的な妥協の失敗がどのような悲劇を招くかを彼の骨身に刻み込む出来事でした。父の死の報を受け、彼は直ちにスコットランドやアイルランド、ジャージー島などで「チャールズ2世」として即位を宣言されますが、それは実体のない空虚な称号に過ぎませんでした。
スコットランドでの屈辱とウスターの戦い

イングランドがオリバー=クロムウェル率いる共和国となる中、チャールズ2世にとって王座を取り戻すための唯一の望みはスコットランドにありました。スコットランドはイングランド議会がチャールズ1世を処刑したことに強く反発しており、チャールズを「スコットランド王」として受け入れる用意があることを表明しました。
しかしそのためにはチャールズにとって屈辱的な条件を飲まなければなりませんでした。スコットランドを支配していた厳格な長老派(カヴェナンター)はチャールズに対し、父が戦った相手である長老派教会体制をイングランド、スコットランド、アイルランドの国教として受け入れることを誓う「厳粛な同盟と規約」に署名するよう要求したのです。これはチャールズ自身の信条や父の記憶を踏みにじる行為でしたが、王座への渇望から彼はこの条件を受け入れ1650年6月にスコットランドに上陸しました。
スコットランドでの生活は彼にとって牢獄のようでした。彼は常に長老派の聖職者たちに監視されその行動や娯楽を厳しく制限されます。1651年1月1日、彼はスクーンで正式にスコットランド王として戴冠しますが、それは実権の伴わない儀礼的なものに過ぎませんでした。
一方クロムウェルはスコットランドのこの動きを座視せずニューモデル軍を率いて北上しました。1650年9月のダンバーの戦いでスコットランド軍はクロムウェル軍に壊滅的な敗北を喫します。追い詰められたチャールズは起死回生を狙い、残った軍隊を率いてイングランドへと南下するという大胆な賭けに出ました。彼はイングランドの王党派が呼応して蜂起することを期待したのです。
しかしその期待は裏切られました。疲弊したイングランドの王党派にもはや大規模な反乱を起こす力は残っておらず、チャールズの軍は孤立無援のままクロムウェルの大軍に追撃されます。そして1651年9月3日、ウスターの戦いでチャールズの軍は完全に粉砕されました。
オークの木と大陸での放浪

ウスターでの敗北後、チャールズ2世の首には1000ポンドという莫大な懸賞金がかけられました。彼は議会軍の執拗な追跡から逃れるため6週間にわたる決死の逃避行を繰り広げることになります。この逃避行は彼の人生における伝説的なエピソードとなりました。
彼は召使いの格好に変装し髪を短く切り顔を煤で汚して追手から身を隠しました。最も有名な逸話は彼がシュロップシャーのボスコベル館の近くで、追手がすぐ下を捜索する中、巨大なオークの木の枝の中に丸一日隠れて難を逃れたというものです。この「ロイヤル=オーク」は王政復古後、忠誠の象徴として語り継がれることになります。彼はカトリック教徒のネットワークに助けられながらイングランドを横断し、最終的にブライトン近くの海岸から石炭船に隠れてフランスへと脱出することに成功しました。
ウスターでの敗北は武力によって王座を奪還するという望みを事実上断ち切りました。その後の9年間チャールズはヨーロッパ大陸を転々とする困窮した亡命生活を送ります。彼は母のいるフランスの宮廷に身を寄せましたが、フランスがクロムウェル政権との関係を重視するようになるとそこにも安住できなくなりました。彼は神聖ローマ帝国のケルンやスペイン領ネーデルラントのブルージュ、ブリュッセルなどを少数の忠実な臣下と共に渡り歩きました。
この時期の彼の宮廷は常に資金不足に悩まされ、ヨーロッパ各国の君主からのわずかな援助と借金によって糊口をしのぐ惨めな状態でした。しかしこの逆境の中でチャールズは政治の非情さと人間の忠誠心のもろさを学びます。彼は対立する派閥を巧みに操り希望を失わずに待ち続けるという政治的な技術を磨き上げたのです。彼はスパイを通じてイングランドの情勢を常に把握し、いつか訪れるであろう好機を忍耐強く待ち続けました。その機会は1658年のオリバー=クロムウェルの死によってついに訪れることになります。
王政復古(1660)

1660年の王政復古はイングランド史における劇的な転換点でありチャールズ2世の人生の頂点でした。オリバー=クロムウェルの死後イングランドが政治的混乱と無政府状態に陥る中、国民の大多数は終わりのない軍事政権と政治的実験に疲れ果て、伝統的な君主制の下での平和と安定を渇望するようになっていました。この国民感情の変化と一人の将軍の冷静な判断がチャールズ2世の奇跡的な帰還を実現させ、イングランドは再び国王を戴く国家へと回帰したのです。
クロムウェルの死とイングランドの混乱

1658年9月に護国卿オリバー=クロムウェルが死去すると、彼一人の強力なカリスマによって支えられていた護国卿体制は急速に崩壊へと向かいました。後を継いだ息子のリチャード=クロムウェルは政治的な経験も軍を掌握する力もなく、軍の将軍たちと議会内の共和主義者たちとの間の権力闘争を収拾できませんでした。
軍の圧力によってリチャードが失脚するとイングランドの政治は権力の中枢が定まらない深刻な混乱状態に陥ります。軍はかつて自らが解散させたランプ議会を復活させますが両者はすぐに対立し、軍が再び議会を閉鎖するなどクーデターが繰り返されました。ロンドンでは異なる軍の派閥が対峙し国は再び内戦の瀬戸際に立たされます。法と秩序は崩壊し経済活動は停滞し、国民の間には将来への不安と現状への絶望感が広がっていきました。
この混乱の中で人々の心にはかつてチャールズ1世の治世にあった平和で秩序ある時代への郷愁が芽生え始めます。多くの人々にとって国王の存在は国家の統一と安定の象徴であり、神によって定められた正統な統治の形でした。共和制の実験は失敗に終わり君主制への回帰こそが国を救う唯一の道であるという考えが急速に広まっていったのです。
ジョージ=モンクとブレダの宣言

この危機的状況を収拾し歴史の歯車を大きく動かしたのがスコットランド駐留軍の司令官であったジョージ=モンク将軍です。モンクはクロムウェルの下で戦った経験豊富で現実的な軍人でした。彼はロンドンの政治的混乱が国を破滅に導くことを憂慮し秩序を回復するために行動することを決意します。
1660年初頭、モンクは自らの軍を率いてスコットランドからロンドンへと進軍しました。彼はその意図を明らかにせず慎重に行動しましたが、彼の目的が軍事独裁を終わらせ自由な議会を通じて国家の将来を決定させることにあるのは明らかでした。ロンドンに入ったモンクは軍の急進派を排除して首都を掌握し、1648年以来議会から追放されていた長老派の議員を呼び戻して長期議会を正式に再開させます。そしてこの議会に自らを解散させ新たな選挙によって「仮議会」を召集するよう命じました。
一方オランダのブレダに滞在していたチャールズ2世はモンクの動きを注視し、彼の側近であるエドワード=ハイド(後のクラレンドン伯)の助言のもと極めて巧みな政治的声明を発表する準備を進めていました。これが1660年4月4日に発表された「ブレダの宣言」です。
この宣言はチャールズがイングランドに帰還する際の彼の統治の基本方針を示したものであり、国民の不安を和らげ幅広い支持を取り付けることを目的とした政治的な傑作でした。その内容は以下の四つの主要な約束からなっていました。
第一に内戦中の反乱行為に関わった者に対して議会が例外とする数名を除き広範な恩赦を与えること。
第二に宗教問題に関して良心の自由を認め信仰の違いによって個人が迫害されることのないよう議会と共に法を制定すること。
第三に内戦中に所有権が移動した土地の複雑な問題についてその解決を議会に委ねること。
第四にモンクの軍の兵士たちに対し未払いの給与を全額支払い彼らを国王の軍隊として受け入れること。
この宣言は復讐を恐れる議会派の人々、財産を失うことを恐れる地主、そして宗教的寛容を求める人々に対し巧みにアピールするものでした。チャールズは自らの権力を主張するのではなく、すべての問題を議会と共に解決するという協調的な姿勢を示すことで国民の信頼を勝ち取ったのです。
歓喜の帰還

ブレダの宣言はモンクを通じて新しく召集された仮議会に届けられました。その内容は議会に熱狂的に受け入れられ、1660年5月8日、議会はイングランドの統治は国王、貴族院、庶民院によって行われるべきであると決議しチャールズ2世を正式に国王として招聘しました。
チャールズはオランダの海岸からイングランド艦隊に乗船しドーバーへと向かいました。1660年5月25日に彼がイングランドの地に再び足を踏み入れると、そこには彼を歓迎する人々の巨大な群衆が待ち受けていました。彼のロンドンへの道中は歓喜に沸く国民による途切れることのない祝祭のようでした。
そして彼の30歳の誕生日である5月29日、チャールズ2世はロンドンに入城しました。街はタペストリーで飾られ教会の鐘は鳴り響き人々は「神よ、王を守りたまえ!」と叫びました。日記作家のサミュエル=ピープスはその日の様子を「無限の数の人々…皆が歓喜の声を上げていた」と記しています。11年間の空位期間は終わりを告げイングランドは一滴の血も流すことなく君主制へと復帰したのです。チャールズ2世の長い亡命生活はついに終わりを告げ、彼の治世「王政復古」の時代が幕を開けました。
治世初期(1660–1667)

王政復古を果たしたチャールズ2世の治世初期は、内戦と共和制時代によって引き裂かれた国家を和解させ新たな統治の基盤を築くという困難な課題に取り組む時期でした。彼はブレダの宣言で約束した寛容な政策を実行しようとしましたが、その意図は復讐に燃える王党派が多数を占める議会によってしばしば妨げられます。この時期は華やかな宮廷文化が花開く一方で宗教的な不寛容が再び頭をもたげ、さらにはオランダとの商業戦争、そしてロンドンを襲った二つの大災害によって特徴づけられます。
和解と報復=クラレンドン法典

チャールズ2世の最初の課題は内戦中の敵対行為に対する処遇でした。彼はブレダの宣言で広範な恩赦を約束しており、その精神に基づき国家の和解を進めようとしました。首席顧問であるクラレンドン伯エドワード=ハイドもこの穏健な政策を支持します。
しかし1661年に新たに選挙された議会、いわゆる「騎士議会」は熱烈な王党派とイングランド国教会支持者で占められており、彼らはかつての敵である清教徒や共和主義者たちへの報復を強く求めました。その結果、恩赦は約束通り実行されましたが、父チャールズ1世の裁判と処刑に直接関わった者たち、いわゆる「国王殺し」はその対象から除外されます。約50名が反逆罪で裁かれそのうち十数名が首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐な方法で処刑されました。さらに既に亡くなっていたオリバー=クロムウェル、ヘンリー=アイアトン、ジョン=ブラッドショーの遺体は墓から掘り起こされ、タイバーンの刑場で吊るされた後、斬首されるという象徴的な報復が行われました。
宗教問題においてもチャールズが望んだ寛容な政策は議会によって覆されました。彼はブレダの宣言で約束した「良心の自由」を実現するため個人の私的な信仰の自由を認めようとしましたが、議会はイングランド国教会の絶対的な優位を再確立することに固執しました。
1661年から1665年にかけて議会は「クラレンドン法典」として知られる一連の厳しい宗教法を制定します。これには以下の法律が含まれました。
法人法(1661年): 自治都市の公職に就く者はイングランド国教会の聖餐式に参加することを義務付ける。
統一法(1662年): すべての聖職者に対しイングランド国教会の祈祷書の使用を強制し、それに従わない約2000人の聖職者を追放する。
コンヴェンティクル法(1664年): イングランド国教会の儀式以外での5人以上の宗教的集会を禁止する。
五マイル法(1665年): 追放された非国教徒の聖職者がかつて説教をしていた町の5マイル以内に近づくことを禁止する。
これらの法律は長老派、独立派、クエーカーといった非国教徒(ディセンター)を公職や社会生活から完全に排除し、彼らを二級市民の地位に追いやるものでした。チャールズ2世はこれらの法律に不本意ながらも同意せざるを得ず、イングランドにおける宗教的な寛容の道は閉ざされることになりました。
第二次英蘭戦争と二つの大災害

チャールズ2世の治世初期の外交は商業的なライバルであるオランダとの対立によって特徴づけられます。イングランドの商人と政治家たちは世界の海洋貿易を支配するオランダの富を妬み、戦争によってその覇権を奪い取ろうとしました。この主戦論の中心にいたのが国王の弟である海軍卿ヨーク公ジェームズでした。
1664年、イングランドは平時にもかかわらず北米のオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し「ニューヨーク」と改名します。これが引き金となり1665年に第二次英蘭戦争が勃発しました。戦争は当初イングランドに有利に進みましたが、その後の二つの大災害がイングランドの戦況を暗転させます。
第一の災害は1665年から1666年にかけてロンドンを襲ったペスト(大疫病)の大流行です。この疫病によってロンドンの人口の4分の1にあたる約10万人が死亡したと推定されています。宮廷や富裕層はロンドンから避難し市は死と恐怖に包まれました。
第二の災害は1666年9月に発生したロンドン大火です。パン屋のかまどから発生した火は木造家屋が密集するロンドン市内に燃え広がり4日間にわたって燃え続けました。セント=ポール大聖堂を含む中世以来のロンドンの中心部の約80%が灰燼に帰しました。
これらの大災害はイングランドの財政を破綻させ戦争遂行能力を著しく低下させました。艦隊の維持費を捻出できなくなったイングランドは和平交渉に臨みますがその隙を突かれます。1667年6月、オランダ海軍がテムズ川河口のメドウェイ川に侵入しチャタムの海軍基地を奇襲するという大胆な作戦を実行しました。オランダ軍は停泊していたイングランドの軍艦を焼き払い、旗艦「ロイヤル=チャールズ」を捕獲して本国へ曳航します。これはイングランド海軍史上最大の屈辱とされ国民に大きな衝撃を与えました。
この敗戦と災害の責任は首席顧問であったクラレンドン伯に向けられました。彼は国民の不満のスケープゴートとされ議会から弾劾されてフランスへの亡命を余儀なくされます。クラレンドンの失脚によりチャールズ2世の治世の第一期は終わりを告げ、彼はより直接的な統治へと乗り出していくことになります。
治世中期(1668–1678)

クラレンドン伯の失脚後、チャールズ2世はより個人的で秘密主義的な統治スタイルへと移行しました。この時期彼はカバル(Cabal)として知られる側近グループに依存し、特にフランスのルイ14世との緊密な関係を深めていきます。その頂点がイングランドの国益とプロテスタント信仰を危うくする危険な「ドーヴァーの密約」でした。この密約は第三次英蘭戦争を引き起こし、チャールズの親カトリック的な姿勢への疑念を決定的にし、後の深刻な政治危機の火種となりました。
カバルとドーヴァーの密約

クラレンドンの亡命後、チャールズ2世は特定の首席顧問を置かず5人の側近からなる非公式の委員会に国政を委ねるようになりました。この5人の大臣、クリフォード、アーリントン、バッキンガム、アシュリー(後のシャフツベリ伯)、そしてローダーデイルの頭文字を繋げると「CABAL」となることから彼らは「カバル」と呼ばれました。カバルは統一された政策を持つ内閣ではなく、それぞれが異なる野心と利害を持つ個人の集まりであり、チャールズは彼らを互いに競わせることで自らの権力を維持しました。
この時期チャールズ2世の外交政策の最大の目標は議会からの財政的自立を達成することでした。彼は議会が承認する税収に常に悩まされており、自らの意のままになる潤沢な資金源を求めていました。その答えがヨーロッパ最強の君主であり絶対王政の体現者であったフランス王ルイ14世との同盟でした。
1670年、チャールズ2世はルイ14世との間で極秘に「ドーヴァーの密約」を締結します。この密約には公にされた部分と極秘にされた部分がありました。公的な条約ではイングランドとフランスが共通の敵であるオランダを攻撃するために軍事同盟を結ぶことが定められました。
しかしこの条約の核心はチャールズとルイ14世、そしてごく少数の側近だけが知る秘密条項にありました。その中でチャールズ2世はルイ14世から年間23万ポンドという巨額の補助金を受け取る見返りに二つの重大な約束をします。第一にフランスがオランダに侵攻する際にイングランドが海から協力したこと。そして第二にチャールズ自身が「カトリック信仰の美点に納得した」として、イングランドにとって「都合の良い時期に」自らカトリックに改宗しイングランドをカトリック国に戻すことを宣言するというものでした。
この秘密条項はイングランドの国家主権をフランスに売り渡すに等しい背信的な行為でした。チャールズはフランスの資金援助によって議会から独立し絶対君主としての権力を強化しようと目論んだのです。彼がカトリックへの改宗を本気で考えていたのか、それとも単にルイ14世から金を引き出すための口実だったのかは歴史家の間でも議論が分かれています。しかしこの密約が彼の治世を通じてカトリックへの共感と専制政治への志向という根深い疑念を生み出す原因となったことは間違いありません。
第三次英蘭戦争と信仰自由宣言

ドーヴァーの密約に基づきチャールズ2世はオランダとの戦争の準備を進めました。1672年3月、彼は議会の承認を得ずに「信仰自由宣言」を発布します。この宣言はイングランド国教会の優位性を認めつつも、非国教徒プロテスタント(ディセンター)とカトリック教徒に対し公的な礼拝の自由を認めるというものでした。
表向きにはこの宣言は宗教的寛容を実現するための進歩的な政策に見えました。しかしその真の狙いは来るべきオランダとの戦争において国内の非国教徒の支持を取り付け、そして何よりもカトリック教徒の地位を向上させることにありました。これはドーヴァーの密約で約束したイングランドのカトリック化への第一歩と見なされました。
信仰自由宣言の直後、イングランドはオランダに宣戦布告し第三次英蘭戦争が始まります。フランス軍が陸からオランダに侵攻し英仏連合艦隊が海から攻撃するという挟撃作戦でした。
しかしこの戦争はイングランドにとって全くの失敗に終わりました。オランダ海軍はミヒール=デ=ロイテル提督の天才的な指揮の下、数で勝る英仏連合艦隊を相手にソールベイの海戦やテッセルの海戦で勇敢に戦い、イングランドによる海上からの上陸を阻止しました。
イングランド国内ではこの戦争に対する反発が急速に高まります。多くの人々はプロテスタント国家であるオランダをカトリックの絶対君主国であるフランスと組んで攻撃することに強い嫌悪感を抱きました。戦争はチャールズの親フランス・親カトリック政策の現れと見なされ議会は戦争予算の承認を拒否しました。
審査法の制定

議会の怒りは信仰自由宣言にも向けられました。議員たちは国王が議会の立法権を無視して法律(この場合はクラレンドン法典)の効力を停止させる権利(停止権)を持つことを断じて認めませんでした。彼らはこれを国王による専制政治への道と見なしたのです。
1673年、議会は戦争予算を承認する見返りにチャールズに対し信仰自由宣言の撤回を迫りました。資金繰りに窮したチャールズは屈辱を忍んでこれに同意せざるを得ませんでした。
さらに議会は国王の親カトリック政策に対する決定的な対抗策として「審査法」を制定します。この法律は文官・武官を問わずすべての公職に就く者に対し、イングランド国教会の教義に従って聖餐式に参加し、かつカトリックの教義である「化体説」を否定する宣言を行うことを義務付けるものでした。
この法律はカトリック教徒を公職から完全に締め出すことを目的としていました。その影響は絶大でした。海軍卿として軍の最高位にあった国王の弟ヨーク公ジェームズは熱心なカトリック教徒であったためこの宣誓を拒否しすべての公職を辞任せざるを得ませんでした。またカバルの一員であったクリフォード卿も同様に辞任します。
ヨーク公がカトリック教徒であることが公になったことはイングランド社会に大きな衝撃を与えました。国王に嫡子がおらず王位継承順位第一位の人物がカトリック教徒であるという事実が初めて国民の前に明らかにされたのです。この事実はその後のチャールズ2世の治世を揺るがし続ける最大の政治問題「王位継承問題」の幕開けを告げるものでした。戦争の失敗と国内の政治的圧力によりチャールズは1674年にオランダと単独講和を結びカバル政権も事実上崩壊しました。
治世後期(1678–1685)

チャールズ2世の治世の最後の数年間は彼の政治家としてのキャリアの中で最も深刻な危機と最も巧妙な勝利によって特徴づけられます。反カトリック感情のヒステリックな高まりが生み出した「カトリック陰謀事件」とそれに続く「王位継承排除法案」を巡る危機は、国を二つの政治勢力、ホイッグとトーリーに分裂させイングランドを再び内戦の瀬戸際にまで追い込みました。しかしチャールズは忍耐と巧みな政治操縦によってこの危機を乗り切り、最終的には反対派を打ち破ってその治世の終わりには父チャールズ1世でさえ夢見たほどの強大な王権を確立するに至りました。
カトリック陰謀事件と王位継承排除法案の危機

1678年、タイタス=オーツといういかがわしい元イエズス会士が突如として大規模なカトリック教徒による陰謀の存在を告発しました。彼の主張によればカトリック教徒たちはチャールズ2世を暗殺し、その弟であるヨーク公ジェームズを王位に就けイングランドを武力でカトリック国に戻そうと計画しているというものでした。
オーツの告発は全くの捏造でしたが、当時のイングランドに渦巻いていたフランスへの恐怖とカトリックへの根深い不信感を背景に燎原の火のように広まります。ロンドンではパニックが発生し反カトリックのヒステリーが国中を覆いました。この「カトリック陰謀事件」により多くの無実のカトリック教徒が逮捕され偽証に基づいて処刑されました。
この危機を自らの政治的目的のために最大限に利用したのがかつてカバルの一員であったシャフツベリ伯でした。彼はこの反カトリック感情を利用してカトリック教徒であるヨーク公ジェームズを王位継承から排除し、代わりにチャールズの庶子であるモンマス公を王位に就けようと画策します。シャフツベリ伯を中心とする勢力は議会においてジェームズの王位継承権を剥奪するための「王位継承排除法案」を提出しました。
この法案を支持し議会の権利とプロテスタントの優位を主張する人々は「ホイッグ」(スコットランドの長老派の反乱分子を指す蔑称)と呼ばれるようになりました。一方ジェームズの正統な王位継承権と国王の神聖な権利を擁護する人々は「トーリー」(アイルランドのカトリック教徒の盗賊を指す蔑称)と呼ばれます。ここにイングランド初の近代的な政党、ホイッグ党とトーリー党が誕生しました。
1679年から1681年にかけてチャールズ2世はこの王位継承排除法案を巡ってホイッグが多数を占める議会と激しく対立します。ホイッグは庶民院で次々と法案を可決しますが、チャールズは議会を解散し選挙をやり直すという戦術を繰り返して法案の成立を断固として阻止しました。彼は父チャールズ1世が議会との対立の末にたどった運命を深く理解しており、王位継承権という君主制の根幹に関わる原則を決して譲ろうとはしませんでした。
危機が頂点に達したのは1681年にオックスフォードで召集された議会でした。ホイッグの指導者たちは武装した支持者を連れてオックスフォードに乗り込み、雰囲気は一触即発でした。しかしチャールズはこの時点で切り札を準備していました。彼はルイ14世との間で新たな密約を結びフランスからの巨額の資金援助を確保していたのです。これにより彼は当面の間、議会の承認する税収なしで統治を行うことが可能になりました。
チャールズはオックスフォード議会が開会してわずか1週間で突如として議会を解散しました。そしてこれ以降、彼の治世の終わりまで二度と議会を召集することはありませんでした。
ライハウス陰謀事件と反動

議会という政治の舞台を失ったホイッグの急進派はより過激な手段に訴えるようになります。1683年、彼らは「ライハウス陰謀事件」として知られる国王チャールズ2世とその弟ジェームズをニューマーケット競馬場からの帰路で暗殺しようという計画を企てました。
しかしこの陰謀は事前に発覚し首謀者たちは逮捕されます。この事件はチャールズにとって形勢を逆転させる絶好の機会となりました。国民の多くは国王暗殺という過激な計画に衝撃を受けホイッグへの支持は急速に失われます。世論は国王への同情と忠誠へと大きく傾いたのです。
チャールズとトーリー政府はこの機会を逃さずホイッグに対する徹底的な弾圧を開始しました。ホイッグの指導者であったラッセル卿やアルジャーノン=シドニーは陰謀への関与を問われて処刑され、シャフツベリ伯はオランダへ亡命しそこで客死します。政府はホイッグの牙城であった自治都市の特許状を次々と剥奪し、その支配権を国王の任命する役人の手に移しました。これにより将来議会が召集されたとしてもその選挙区はトーリーの支配下に置かれることになりました。
この「トーリー反動」によりチャールズ2世はその治世の最後の数年間でかつてないほどの強大な権力を手中に収めます。彼は議会に頼ることなくフランスからの資金と増加した関税収入によって国家を運営し常備軍を維持しました。反対派は沈黙し、王権は絶対的なものに見えました。皮肉なことに生涯を通じて議会との妥協を強いられてきたチャールズは、その最晩年に父が夢見て果たせなかった事実上の絶対君主として君臨することになったのです。
死とカトリックへの改宗

1685年2月初旬、チャールズ2世は突然の発作に倒れました。彼は数日間意識を取り戻したり失ったりを繰り返しましたが回復の見込みがないことは明らかでした。
死の床でチャールズは長年隠してきた自らの真の信仰を明らかにします。彼はイングランド国教会の聖職者を退け弟であるヨーク公ジェームズの計らいで密かにカトリックの司祭を呼び寄せました。そしてカトリック教会の儀式に従って罪の告白と聖体拝領を受け正式にカトリックに改宗したのです。ドーヴァーの密約でルイ14世に約束した改宗が彼の人生の最後の瞬間にようやく実行されました。
彼は長年の愛人であったネル=グウィンを気遣い「哀れなネリーを飢えさせないでくれ」という言葉を弟ジェームズに残したと伝えられています。1685年2月6日、チャールズ2世は54歳でこの世を去りました。
彼の死により王位は公然たるカトリック教徒である弟ジェームズ2世へと引き継がれました。チャールズ2世はその生涯を通じて巧みな政治手腕と現実的な妥協によって宗教対立と政治的危機を乗り切り君主制を守り抜きました。しかし彼が残したカトリック教徒の国王という遺産は、わずか3年後にイングランドを再び革命の渦へと巻き込み名誉革命という王政のあり方を根本的に変える出来事を引き起こすことになるのです。
人物像と遺産

チャールズ2世はイングランド史上最も魅力的で最も謎めいた君主の一人として記憶されています。彼の治世は清教徒革命の厳格さから華やかで洗練された文化の時代への劇的な転換をもたらしましたが、その一方で彼の個人的な性格と政治的遺産は単純に評価することが難しい複雑なものでした。彼は「陽気な君主」として愛された一方で、その笑顔の裏には冷徹な現実主義者と野心的な権力者の顔が隠されていました。
陽気な君主

チャールズ2世の最も広く知られたイメージは「陽気な君主」というものです。亡命生活の苦難から解放され王座に返り咲いた彼は人生を謳歌することを決意したかのように宮廷を祝祭と快楽の中心地へと変えました。
彼はウィットに富んだ会話を楽しみ、ユーモアのセンスに溢れていました。背が高く浅黒い肌を持ちハンサムとは言えないまでも人を惹きつけるカリスマ性を持っていました。彼は堅苦しい宮廷儀礼を嫌い臣下と気さくに言葉を交わし公園を散歩し、愛犬のスパニエル(キング・チャールズ・スパニエルとして知られる)を常に連れて歩きました。このような親しみやすい態度は多くの国民に愛されました。
彼の治世は文化の開花と密接に結びついています。クロムウェル時代に閉鎖されていた劇場は彼の帰還と共に再開され、ウィリアム=ウィチャリーやジョージ=エサリッジといった作家による風刺とウィットに満ちた「王政復古喜劇」が人気を博しました。またイングランドで初めて女優が舞台に立つことが許されるようになったのもこの時代です。
科学の分野においてもチャールズ2世は重要な役割を果たしました。彼は知的好奇心が旺盛で1662年に「ロンドンの自然知識振興のための王立協会」、すなわち「ロイヤル=ソサエティ」を設立しそのパトロンとなりました。ロバート=ボイル、ロバート=フック、アイザック=ニュートンといった近代科学の父たちがこの協会を拠点に活動し科学革命を大きく前進させました。
建築の分野では1666年のロンドン大火後の復興事業がクリストファー=レンのような才能ある建築家を世に送り出しました。彼が設計した新しいセント=ポール大聖堂や数多くの教会の尖塔は王政復古時代のロンドンのスカイラインを形作りました。
愛人と庶子

チャールズ2世の「陽気な」イメージは彼の奔放な女性関係によってさらに強調されます。彼は生涯を通じて数多くの愛人を持ちその関係を隠そうともしませんでした。彼の愛人たちの中には宮廷で大きな影響力を持った者もいました。
最も有名な愛人にはフランス貴族出身で弟ジェームズの妻の侍女であったルイーズ=ド=ケルアイユ(ポーツマス公爵夫人)、そしてオレンジ売りの少女から人気女優へと成り上がった陽気で機知に富むネル=グウィンなどがいます。チャールズはこれらの愛人たちや彼女たちとの間に生まれた子供たちに公爵などの高い爵位と莫大な富を与えました。
彼は少なくとも14人の庶子を認知しましたが、その一方で正妻であるポルトガル王女キャサリン=オブ=ブラガンザとの間にはついに一人の嫡子も生まれませんでした。キャサリン妃は夫の絶え間ない不貞に苦しみながらも彼に忠実であり続けました。嫡子がいないという事実は彼の治世における最大の政治問題、すなわちカトリック教徒である弟ジェームズへの王位継承問題の直接的な原因となりました。
政治家としての評価

陽気で享楽的な君主というイメージの裏でチャールズ2世は極めて有能で狡猾な政治家でした。彼は亡命生活の苦難を通じて忍耐力、自己抑制、そして人間の動機に対する深い洞察力を身につけました。彼は決して自分の本心を他人に見せず対立する派閥を巧みに操り常に自らの政治的生存を最優先に行動しました。
彼の治世は議会との絶え間ない権力闘争の歴史でした。彼は父のように議会と正面から対決する愚を避け、必要とあらば妥協し議会を解散し、あるいはフランスからの秘密資金に頼るなどあらゆる手段を使って自らの権威を守り抜きました。特に王位継承排除法案の危機を乗り切った手腕は彼の政治家としての能力の頂点を示すものです。彼はホイッグの攻勢に耐え抜き世論が自らに有利に転じるのを待ち、そして決定的な瞬間に反撃に転じて反対派を完全に打ち破りました。
しかしその政治手法には暗い側面もありました。ドーヴァーの密約に見られるように彼は自らの目的のためには国家の主権や宗教的信条さえも取引の対象としました。彼の治世の終わりには彼は事実上の絶対君主としての権力を確立しましたが、それは議会政治の伝統を危うくするものでした。
チャールズ2世の遺産は矛盾に満ちています。彼は内戦後のイングランドに平和と安定を取り戻し文化の黄金時代を築きました。彼は父のように処刑されることも弟のように王位を追われることもなく、自らのベッドの上で安らかに息を引き取った数少ないスチュアート朝の君主の一人です。彼は生き残りの達人でした。しかし彼が残した宗教的不寛容と絶対王政への道筋は、彼の死後すぐに名誉革命という形でイングランドを新たな変革へと導くことになったのです。

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