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【政局の転換と幕府の衰退、桜田門外の変、公武合体論、尊王攘夷論】 受験日本史まとめ 51 |
著作名:
Cogito
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政局の転換と幕府の衰退
ハリスとの通商条約締結交渉が進んでいたころ、幕府では13代将軍徳川家定(1824~58)に子がいなかったため、後継ぎを巡って将軍継嗣問題が争点となっていました。譜代大名らは幼年で血統の近い紀伊藩主徳川慶福(のちの家茂,1846~66)を擁し、一方越前の松平慶永・薩摩藩の島津斉彬・土佐藩の山内豊信など雄藩の藩主は、徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(1837~1913)を擁して対立しました。徳川慶福を推す譜代大名ら南紀派は幕府の専制政治を維持しようとし、徳川慶喜を推す一橋派は雄藩の幕政への関与を強め、雄藩と幕府が一致協力し、難局を乗り切ろうとしていました。この争いは朝廷も巻き込み、結果的に通商条約をめぐる幕府と朝廷の対立と将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という状況を打破するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ぬまま日米修好通商条約に調印し、一橋派を押し切って徳川慶福(将軍就任後徳川家茂)を将軍にすることを決めました。
井伊直弼による日米修好通商条約の締結は、攘夷派の孝明天皇の激しい怒りを買い、幕府の違勅調印への批判が高まりました。また、井伊直弼は対立した一橋派を厳しく取締り、公家や大名・家臣・幕臣に至るまで多くの人々を処罰し弾圧しました。この安政の大獄により、徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永らは蟄居・謹慎を命じられ、越前藩士橋本左内・長州藩士吉田松陰(1830~59)・小浜藩主梅田雲浜・頼山陽の子三樹三郎らが処刑されるなど、処罰を受けたものは100名以上いました。しかし、この安政の大獄に対し憤激した水戸藩の脱藩浪士たちが、1860年(万延元年)に井伊直弼を江戸城桜田門外で暗殺しました。桜田門外の変の結果、幕府の専制政治は行き詰まり、徳川幕府は崩れ始めました。
公武合体論
桜田門外の変のあと、幕政の中心にすわった老中安藤信正は、通商条約締結を巡って対立した朝廷との関係を修復し、それによって反幕府勢力を抑え込み、分断した国内世論を統一し、幕府権威を復活させるため、公武合体論に基づく政策を進めました。これは公(朝廷)と武(幕府)が協力して政局を安定させようとしたもので、その象徴として孝明天皇の妹和宮(1846~77)を将軍徳川家茂の夫人に迎えました。しかし、この政策は和宮が有栖川宮熾仁親王との結婚が決まっていたにも関わらず降嫁させた強引な政略結婚だったため、尊皇攘夷論者から激しく非難され、1862年(文久2年)安藤信正は、江戸城坂下門外で水戸藩の脱藩した浪士に襲われ負傷し、失脚しました。これを坂下門外の変といいます。
11代将軍徳川家斉の夫人が島津重豪の子で近衛家の養女であったことなどから、公武合体政策は朝廷と幕府双方へのつながりが深かった外様の薩摩藩が進めるようになりました。藩主の父島津久光は、1862年(文久2年)に藩内の過激な尊皇派を寺田屋事件などで粛清し、勅使の大原重徳ともに江戸に行き、幕政改革を要求しました。幕府はこの要求を受け入れ、松平慶永を政事総裁職、徳川慶喜を将軍後見職に任命し、京都所司代などを指揮する京都守護職を新たに設置し、会津藩主松平容保をこれに任命しました。また、参勤交代を3年に1回に緩和し、西洋式軍制の採用や安政の大獄による処罰者の赦免などからなる文久の改革を行いました。
尊王攘夷論
公武合体運動が幕府や雄藩を中心にして行われていた同時期、下級藩士を中心として尊皇攘夷派の動きが激しくなっていました。後期の水戸学から生まれた尊皇攘夷論は、藤田東湖・会沢安らが中心となり、各地に広がっていきました。尊王論ははじめ将軍支配の正統性を権威付けるものでしたが、対外危機が高まるにつれ攘夷論と結びつき、開国した幕府政治を批判し、政治改革を求める思想となっていきました。
尊王攘夷派の中心となっていたのが長州藩で、はじめは公武合体政策を支持していましたが、1862年(文久2年)に中下級武士の主張する尊皇攘夷論を藩論とし、朝廷の尊皇攘夷派公家たちと組み、京都で活発に動き、政治の主導権を握りました。朝廷内部でも尊皇攘夷論が主流となったため、圧力をかけられた幕府はやむなく1863年(文久3年)5月10日に攘夷を行う通達を諸藩に送りました。幕府は決行の意思がなかったものの、長州藩はこの通達を受け下関海峡の外国船に砲撃を加え、長州藩外国船砲撃事件を起こしました。
長州藩を中心とする尊皇攘夷派の動きが活発になるにつれ、薩摩藩・会津藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し、反撃の準備を進めました。1863年(文久3年)8月18日、薩摩・会津両藩の兵が御所を固める中、長州藩勢力と急進派公家三条実美らを京都から追放し、朝廷内の主導権を奪い返しました。これを八月十八日の政変といいます。この前後、公家中山忠光・土佐藩士吉村虎太郎の天誅組の変、元福岡藩士平野国臣・公家澤宣嘉の生野の変、水戸藩士藤田小四郎らの天狗党の乱など、尊王攘夷派の挙兵が各地で起こりましたが、いずれも最終的に失敗しました。
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