|
|
|
|
|
更新日時:
|
|
![]() |
アン女王とは わかりやすい世界史用語2726 |
|
著作名:
ピアソラ
278 views |
|
アン女王とは
アン女王の生涯は個人的な悲劇と国家的な成功が複雑に織り交ざった、注目すべき物語です。彼女はステュアート朝最後の君主として、そしてグレートブリテン王国の最初の女王としてイギリス史にその名を刻んでいます。1665年に生まれ1714年に没するまでの49年間、彼女の人生は絶え間ない健康問題、深刻な後継者問題、そして激しい政治的対立の渦中にありました。しかしその治世は、スペイン継承戦争における輝かしい軍事的勝利、イングランドとスコットランドの合同によるグレートブリテン王国の誕生、そして二大政党制の発展といった、国家のあり方を恒久的に変える画期的な出来事によって特徴づけられます。
アンの人物像はしばしば矛盾に満ちたものとして描かれます。一方では優柔不断で健康に恵まれず、マールバラ公爵夫妻のような寵臣の言いなりになる弱い君主というイメージがあります。彼女の生涯を通じて続いた痛風や、17回もの妊娠にもかかわらず一人も子供が成人しなかったという事実は、この悲劇的で無力な女王の姿を強調するように思えます。しかしもう一方では自らの信念に忠実で国教会の熱心な擁護者であり、重要な政治的決断において驚くほどの頑固さと決断力を発揮した、良心的な君主としての側面も浮かび上がってきます。彼女は閣議に熱心に出席し大臣たちと直接議論を交わし、自らの王権を巧みに行使して、ホイッグとトーリーという対立する二大政党の間のバランスを取ろうと努めました。
アンの治世は、イギリスがヨーロッパの主要な軍事大国および商業大国としての地位を確立した時代でした。マールバラ公爵ジョン・チャーチルが率いる同盟軍は、ブレンハイム、ラミイ、アウデナールデといった一連の戦いで、ルイ14世率いるフランス軍に決定的な勝利を収めました。これらの勝利はヨーロッパの勢力均衡を維持し、イギリスの威信を大いに高めました。国内では1707年の合同法によってイングランドとスコットランドが長年の対立の歴史を乗り越え、一つの王国として統合されました。これはイギリスの政治的安定と経済的発展の基礎を築く歴史的な偉業でした。
文化の面でもアンの時代は「オーガスタン時代」の幕開けとされ、文学や建築、科学が花開きました。ダニエル・デフォー、ジョナサン・スウィフト、アレキサンダー・ポープといった文豪たちが活躍し、クリストファー・レンやニコラス・ホークスムアによる壮麗なバロック建築がロンドンの街並みを飾り、アイザック・ニュートンが王立協会の会長として科学界を主導しました。
しかしこの輝かしい時代の背後には、常にステュアート家の後継者問題という暗い影が付きまとっていました。アン自身がプロテスタントの後継者として即位した経緯は、カトリックであった父ジェームズ2世を追放した名誉革命に遡ります。そして彼女の唯一生き残った息子であったグロスター公ウィリアムが1700年に夭逝したことで、ステュアート家の直系は事実上途絶えることが確実となりました。これにより王位継承問題は再び国家の最重要課題となり、亡命中の異母弟ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(ジャコバイトが支持する「老僭王」)と、遠縁のプロテスタントであるハノーヴァー家のゲオルク・ルートヴィヒ(後のジョージ1世)との間で、王位をめぐる見えざる争いが繰り広げられました。
アンの生涯はこの個人的な悲劇と公的な成功、そして絶え間ない政治的緊張関係の中で展開されました。彼女の決断一つ一つが、イギリスの未来そしてヨーロッパの未来を左右する重みを持っていました。
生い立ちと名誉革命
ヨーク公の次女
アンは1665年2月6日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で生まれました。父はヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)、母はクラレンドン伯爵エドワード・ハイドの娘であるアン・ハイドでした。アンは国王チャールズ2世の姪にあたり、王位継承順位では父ジェームズ、そして姉のメアリーに次ぐ立場にありました。
アンの幼少期は、王政復古後の華やかでありながらも宗教的な緊張をはらんだ宮廷の中で過ぎていきました。父ジェームズは1660年代後半に密かにカトリックに改宗しており、この事実はプロテスタントが大多数を占めるイングランドにおいて、将来の深刻な政治問題の火種となるものでした。しかしチャールズ2世の指示により、アンと姉のメアリーは厳格なプロテスタントとして育てられることになりました。これは将来の王位継承者がプロテスタントであることを国民に示すことで、ヨーク公のカトリシズムに対する懸念を和らげようとする政治的な配慮によるものでした。
アンはロンドンのリッチモンドにある宮殿で、姉のメアリーと共に家庭教師による教育を受けました。彼女たちの教育は国教会の教義に重点が置かれ、ロンドン主教ヘンリー・コンプトンがその監督にあたりました。アンは生涯を通じて、この時に培われたイングランド国教会への深い信仰心を持ち続け、それが後の政治的判断に大きな影響を与えることになります。
幼い頃のアンは眼の病気を患っており、治療のためにフランスへ渡りパリ近郊で祖母ヘンリエッタ・マリア(チャールズ1世の王妃)と共に暮らした時期もありました。祖母の死後は叔母オルレアン公爵夫人ヘンリエッタのもとに身を寄せましたが、叔母もまた急死したためアンはイングランドに帰国しました。1671年には母アン・ハイドが亡くなり、その2年後には父ジェームズがカトリック教徒であるモデナ公女メアリー・ベアトリーチェと再婚します。この再婚はイングランド国内の反カトリック感情をさらに煽ることになりました。
アンの人生における重要な出会いは少女時代に訪れます。彼女は後にマールバラ公爵夫人となるサラ・ジェニングスと知り合い、急速に親密な関係を築きました。サラはアンより5歳年上で美しく知的で、そして非常に意志の強い女性でした。内気で控えめな性格であったアンはサラの自信に満ちた態度に強く惹かれ、彼女を心から信頼し依存するようになります。二人は身分を超えた友情を育み、互いを「ミセス・モーリー」(アン)と「ミセス・フリーマン」(サラ)という愛称で呼び合うほどの親密さでした。この友情は後にアンの治世において、極めて重要な政治的意味を持つことになります。
1677年、姉のメアリーはオランダ総督であった従兄のオレンジ公ウィリアム(後のウィリアム3世)と結婚しオランダへと渡りました。これによりアンはイングランドに残された、ステュアート家の主要なプロテスタントの王位継承者としての立場をより強く意識することになります。
結婚と後継者問題
王女としてのアンの結婚は、ヨーロッパの勢力均衡に関わる重要な政略的課題でした。当初はハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のジョージ1世)との縁談が進められましたが、これは実現しませんでした。最終的に彼女の配偶者として選ばれたのは、デンマーク・ノルウェー王フレデリク3世の次男である王子ジョージでした。二人は1683年7月28日にセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルで結婚式を挙げました。
この結婚はプロテスタント同盟の強化という点では一定の意義がありましたが、ジョージ王子自身は特に傑出した才能や政治的野心を持つ人物ではありませんでした。彼は物静かで酒を好み、「エスト・イル・ポッシーブル?」(そんなことがありえましょうか?)と口癖のように言うことで知られていました。しかしアンとジョージの関係は政略結婚としては珍しく、愛情に満ちた穏やかで幸せなものでした。ジョージは生涯を通じてアンを支え、彼女の度重なる妊娠と流産、そして子供たちの死という悲劇の連続の中で大きな慰めとなりました。
アンの結婚生活は、後継者を生むという王族としての最大の義務を果たすための長く苦しい闘いの始まりでもありました。彼女は結婚から死までの間に少なくとも17回の妊娠を経験します。しかしその多くは流産や死産に終わり、生きて生まれた子供たちもほとんどが幼いうちに亡くなりました。
1685年には長女メアリー、1686年には次女アン・ソフィアが生まれましたが、二人とも天然痘により2歳になる前に亡くなっています。1689年、アンは待望の男の子を出産しウィリアムと名付け、グロスター公の称号を与えました。このウィリアムの誕生はプロテスタントの王位継承を確実にするものとして国中から祝福されました。しかしこの唯一の希望であったグロスター公ウィリアムもまた病弱であり、1700年に11歳の誕生日を迎えた直後に急死してしまいます。
この個人的な悲劇の連続はアンの心身に深刻な影響を与えました。彼女は度重なる妊娠とそれに伴う身体的な負担から、生涯を通じて様々な健康問題に悩まされることになります。特に痛風は彼女をひどく苦しめ、晩年には歩行も困難になり移動には輿や車椅子を必要とするほどでした。また子供を次々と失うという精神的な苦痛は、彼女の性格にある種の憂鬱な影を落としたと考えられます。彼女が自らの悲劇的な運命を、父ジェームズ2世を裏切ったことに対する神の罰ではないかと考えていたという見方もあります。
そしてこの個人的な悲劇は同時に国家的な危機でもありました。グロスター公の死によってアンにプロテスタントの後継者がいないことが決定的となり、ステュアート家の直系は断絶の危機に瀕します。これは1688年の名誉革命によって確立されたプロテスタントの王位継承体制を根底から揺るがす事態でした。この危機に対応するため、議会は新たな王位継承法を制定する必要に迫られることになります。それが1701年の「王位継承法」でした。
名誉革命
1685年、アンの父ヨーク公ジェームズが兄チャールズ2世の死去に伴い、ジェームズ2世としてイングランド、スコットランド、アイルランドの王位に即きました。カトリック教徒であるジェームズ2世の即位は、プロテスタントが多数を占める国内に当初から大きな不安と警戒感をもたらしました。ジェームズ2世は即位当初こそ国民の権利と国教会を尊重すると約束しましたが、次第にカトリック教徒を政府や軍の要職に登用し、議会の意向を無視して専制的な統治を強めていきました。
彼はカトリック教徒を含む非国教徒を公職から排除する「審査法」を国王大権によって停止しようと試み、プロテスタントの聖職者たちと対立しました。アン自身も父である国王からカトリックへの改宗を迫られましたが、彼女はこれを断固として拒否し自らのプロテスタント信仰を守り抜きました。彼女は姉のメアリーと手紙で連絡を取り合い、父の政策に対する懸念を共有していました。
決定的な転機が訪れたのは1688年6月のことでした。ジェームズ2世の王妃メアリー・オブ・モデナが男子を出産したのです。ジェームズ・フランシス・エドワードと名付けられたこの王子の誕生は、それまでジェームズ2世の死後にプロテスタントのメアリーが王位を継ぐことを期待していた人々にとって悪夢のシナリオでした。カトリックの王朝が永続する可能性が現実のものとなったのです。さらにこの王子の誕生をめぐっては「本当は死産であり、別の赤ん坊とすり替えられたのではないか」という噂が広まり、反ジェームズ感情は頂点に達しました。
この危機的状況を受けてイングランド議会の有力者たちは、密かにメアリーの夫であるオランダ総督オレンジ公ウィリアムに書簡を送り、イングランドの自由と宗教を守るために軍を率いて介入するよう要請しました。ウィリアムはフランスのルイ14世との対決を目前に控え、イングランドを味方につけることを狙っており、この要請を受諾します。
1688年11月5日、ウィリアムは約1万5千の兵を率いてイングランド南西部のトーベイに上陸しました。ウィリアムの進軍に対しジェームズ2世の軍は、ジョン・チャーチル(後のマールバラ公爵)をはじめとする有力な将校たちの離反が相次ぎ、戦わずして崩壊しました。
この重大な局面においてアンは極めて重要な政治的決断を下します。彼女は父であるジェームズ2世を見限り、ウィリアムの側につくことを選びました。11月26日の夜、アンは親友サラ・チャーチルとその夫ジョン・チャーチルの手引きで、ロンドンのホワイトホール宮殿を密かに脱出し北へと向かいました。彼女はロンドン主教ヘンリー・コンプトンの保護のもとノッティンガムでウィリアム派の貴族たちと合流し、ウィリアムへの支持を公に表明しました。
王女であるアンのこの行動はジェームズ2世にとって致命的な打撃となりました。自らの娘にまで見捨てられたことを知ったジェームズ2世は完全に戦意を喪失し、12月23日、妻子と共にフランスへ亡命しました。こうして一滴の血も流されることなく体制の転換が達成されたことから、この一連の出来事は「名誉革命」と呼ばれています。
アンの決断は個人的には父を裏切るという辛いものであったに違いありません。しかし彼女は個人的な情愛よりもプロテスタント信仰とイングランドの立憲的な政治体制を守るという公的な義務を優先させたのです。この行動により、彼女は姉のメアリーそしてその夫ウィリアムと共に、新しい王位継承の秩序の中に確固たる地位を占めることになりました。1689年2月、議会は「権利の宣言」を採択しジェームズ2世の退位と、ウィリアムとメアリーを共同統治者(ウィリアム3世およびメアリー2世)とすることを宣言しました。そして王位継承順位は、ウィリアムとメアリーの子、次いでアンとその子、最後にウィリアムが再婚した場合の子と定められたのです。
女王への道
ウィリアムとメアリーの治世
1689年、名誉革命によってウィリアム3世とメアリー2世が共同で王位に就くと、アンは王位の推定相続人という立場になりました。しかしこの時期のアンと姉夫婦である国王夫妻との関係は、決して平穏なものではありませんでした。むしろ個人的な確執と政治的な対立が絡み合い、緊張に満ちたものとなっていきます。
対立の火種の一つは金銭問題でした。アンは王位継承者としての地位にふさわしい十分な歳費を議会から直接受け取ることを望みました。しかしウィリアム3世はアンを経済的に自らの支配下に置こうとし、彼女の歳費を国王の内廷費から支払うことを主張しました。アンは親友サラ・チャーチルとその夫ジョン・チャーチルの助言を受け議会内の友人たちを通じて運動を展開し、最終的に議会から独立した歳費を勝ち取りました。この一件はウィリアムとメアリーに、アンがチャーチル夫妻の強い影響下にあるという不信感を抱かせる結果となりました。
アンとメアリー2世という姉妹の間の個人的な関係も徐々に悪化していきました。メアリーはアンが自分に対して十分な敬意を払っていないと感じ、またアンのサラ・チャーチルへの過度な依存を快く思っていませんでした。一方、アンは姉が自分を冷たく扱い政治的な事柄から遠ざけようとしていると感じていました。
関係が決定的に悪化したのは1692年の出来事でした。当時ウィリアム3世は大陸でフランスとの大同盟戦争を戦っており、国内ではジャコバイト(亡命したジェームズ2世を支持する勢力)による陰謀の噂が絶えませんでした。そのような状況の中、ジョン・チャーチルがジャコバイトと内通しジェームズ2世の復位を企てているという嫌疑をかけられ、ロンドン塔に投獄されました。この嫌疑に明確な証拠はありませんでしたが、ウィリアム3世はチャーチルの軍事的才能を警戒し彼を排除することを決めたのです。
メアリー2世はアンに対してサラ・チャーチルを宮廷から追放するよう強く要求しました。しかしアンは親友サラを擁護しこの要求を断固として拒否しました。アンにとってサラを捨てることは自らの誇りと独立を捨てることに等しい行為でした。このアンの頑なな態度に激怒したメアリーはアンに与えられていた衛兵を撤収させ、彼女を事実上、宮廷から追放しました。アンはロンドンのサイオン・ハウス、次いでバークリー・ハウスへと居を移し、姉夫婦とは完全に断絶した状態で生活することになります。この時期、アンは独自の「野党」的な宮廷を形成し、政府に不満を持つ人々が集まる拠点となりました。
この姉妹間の不幸な断絶は、1694年12月にメアリー2世が天然痘により32歳の若さで急死するまで続きました。姉の死に際してアンはウィリアム3世と和解しセント・ジェームズ宮殿に戻り、再び王位継承者としての公的な地位を回復しました。ウィリアム3世もまた妻を失い国内における政治的基盤を固める必要から、アンとの協力関係を重視するようになります。
メアリーの死後ウィリアム3世は単独で統治を続けましたが、彼の関心は依然として大陸の対フランス政策に集中していました。アンはこの時期、摂政評議会の一員として国政に関与する機会も得ましたが、その役割は限定的なものでした。彼女の生活の中心は依然として、唯一生き残った息子であるグロスター公ウィリアムの養育にありました。
王位継承法
アンの人生、そしてイギリスの歴史における決定的な転換点の一つが1700年7月に訪れます。彼女の唯一の子でありプロテスタント王位継承の最後の希望であったグロスター公ウィリアムが、11歳の誕生日を迎えた直後に急病で亡くなってしまったのです。この悲劇はアン個人にとって耐え難い苦しみであったと同時に、国家を深刻な後継者危機に陥れました。
ウィリアム3世もアンも、もはや子供をもうける望みはほとんどありませんでした。1689年の権利の章典で定められた王位継承順位によれば、アンの次に王位を継ぐべき人物は存在しないことになります。このままではアンの死後、王位は空位となり亡命中のカトリック教徒であるジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートが王位を主張する絶好の機会を与えてしまうことになります。これは名誉革命によって確立されたプロテスタントの立憲君主制を根底から覆しかねない事態でした。
この危機に対応するためウィリアム3世の政府と議会は、新たな王位継承のルールを定めるための立法に直ちに着手しました。そして1701年6月、「王位継承法」(Act of Settlement)が制定されます。この法律はイギリスの憲法史においてマグナ・カルタや権利の章典と並ぶ、極めて重要な文書です。
王位継承法の主な内容は以下の通りです。 第一に王位継承順位の明確化です。法律はウィリアム3世およびアン女王に嫡出の子がない場合、王位はジェームズ1世の孫娘にあたるゾフィー・フォン・デア・プファルツ(ハノーヴァー選帝侯妃)と、そのプロテスタントの子孫に継承されることを定めました。ゾフィーは当時存命中のステュアート家の血を引く人物の中で最も血縁が近く、かつプロテスタントである人物でした。これにより50人以上のより血縁の近いカトリックの親族を飛び越えて、ドイツのハノーヴァー家がイギリスの次期王室として選ばれたのです。
第二に将来の君主に対するいくつかの重要な制約を設けました。これはオランダ出身のウィリアム3世の統治に対する議会の不満や懸念を反映したものでした。主な制約としては、以下のものが挙げられます。
国王はイングランド国教会と聖体拝領を共にしなければならない。
国王は議会の同意なしにイングランドを戦争に巻き込んではならない。
国王は議会の同意なしにイングランド、スコットランド、アイルランドの領域外へ出国してはならない。
裁判官の身分は重大な非行がない限り保障され、議会の両院の決議がなければ罷免されない。これにより司法の独立が強化されました。
これらの条項は王権をさらに制限し議会の権限を強化するものであり、イギリスにおける立憲君主制の発展において決定的な一歩となりました。
1702年3月8日、ウィリアム3世が落馬事故がもとで死去すると、王位継承法に基づきアンが37歳でイングランド、スコットランド、アイルランドの女王として即位しました。彼女は長年の忍耐と悲劇の末に、ついに王国の頂点に立ったのです。しかし彼女が継承したのは栄光ある王冠だけではありませんでした。ウィリアム3世が残したヨーロッパ全土を巻き込む大規模な戦争、そして国内の深刻な党派対立という重い遺産もまた、彼女の双肩にのしかかっていたのです。
アン女王の治世
スペイン継承戦争
アンが女王として即位した1702年、ヨーロッパはすでに大きな戦争の渦中にありました。スペイン継承戦争です。この戦争は1700年に子供のいないスペイン王カルロス2世が死去したことに端を発します。カルロス2世はその広大な帝国を、フランス王ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップに遺贈しました。もしフィリップがスペイン王位を継承すれば、フランスとスペインという二つの強大なカトリック国家がブルボン家の下で統合され、ヨーロッパの勢力均衡が根本から覆される危険性がありました。
この事態を恐れたイングランド、オランダ、そして神聖ローマ帝国は対仏大同盟(グランド・アライアンス)を結成し、ハプスブルク家出身のカール大公をスペイン王位に就けることを目指して宣戦布告しました。アン女王は即位後わずか2ヶ月の1702年5月に、この戦争への全面的な参加を決定します。
この戦争の遂行において中心的な役割を果たしたのが、ジョン・チャーチル、マールバラ公爵でした。彼はアンの長年の親友サラ・チャーチルの夫であり、アンは彼を深く信頼していました。アンはマールバラを同盟軍の最高司令官に任命し、戦争の遂行を全面的に彼に委ねました。マールバラは天才的な軍事戦略家であり、また優れた外交官でもありました。彼は利害の異なる同盟国を巧みにまとめ上げ、ルイ14世のフランス軍に対して一連の輝かしい勝利を収めていきます。
1704年のブレンハイムの戦いは、この戦争における最初の、そして最も決定的な勝利でした。マールバラはオーストリアのプリンツ・オイゲンと協力し、フランス・バイエルン連合軍を完全に打ち破りました。この勝利はルイ14世の軍隊が不敗であるという神話を打ち砕き、戦争の流れを大きく変えました。アン女王はこの勝利を祝して、マールバラにブレナム宮殿を建設するための資金を与えました。
しかし戦争は長期化し、その負担はイギリス国民に重くのしかかりました。この状況は国内の政治対立を激化させることになります。当初、戦争を強力に推進していたのはホイッグ党でした。一方、トーリー党は地主階級を主な支持基盤としており、早期の和平を望む声が強まっていきました。
アン女王自身は当初、マールバラ公爵と彼の盟友シドニー・ゴドルフィンが率いる穏健派の政権を支持し、党派を超えた挙国一致の戦争遂行を目指していました。しかし戦争が長引くにつれて政権は次第にホイッグ党員に支配されるようになります。アンは国教会への信仰が篤くトーリー的な価値観に親近感を抱いており、ホイッグ党の急進的な姿勢に強い警戒心を抱いていました。
1710年、国内の政治情勢は大きく動きます。厭戦気分の高まりを背景に、総選挙でトーリー党が圧勝しました。アンはこの機会を捉え、マールバラ公爵夫妻やゴドルフィンを政権から排除し、ロバート・ハーレーやヘンリー・シンジョンといったトーリー党の指導者たちを新たに登用しました。
最終的に1713年にユトレヒト条約が締結され、スペイン継承戦争は終結しました。この条約によりフランスのフィリップ5世がスペイン王位を継承することは認められましたが、フランスとスペインの王冠が統合されることは永久に禁止されました。イギリスはこの戦争で最大の利益を得た国の一つでした。ジブラルタルとミノルカ島を獲得して地中海への足がかりを築き、北米の領土も拡大させました。アンの治世は、この戦争の勝利によってイギリスが世界の主要な大国として登場した時代として記憶されることになります。
イングランドとスコットランドの合同
アン女王の治世における、もう一つの永続的な成果は1707年のイングランド王国とスコットランド王国の合同によるグレートブリテン王国の創設でした。二つの王国は1603年以来同じ君主を戴く同君連合の関係にありましたが、それぞれが独自の議会、法体系を持つ独立した国家でした。
しかし17世紀を通じて両国間の関係は常に緊張をはらんでいました。アンの治世に入り、この合同問題が再び緊急の政治課題として浮上します。その直接的なきっかけは王位継承問題でした。
1701年のイングランドの王位継承法はアンの死後、王位がハノーヴァー家に渡ることを定めましたが、スコットランド議会はイングランドが自分たちに相談なく一方的に次期国王を決定したことに強く反発しました。1703年、スコットランド議会は「安全保障法」を可決します。これはアン女王の死後、スコットランド議会がイングランドとは異なる人物を国王として指名する権利を持つことを宣言するものでした。イングランド政府にとって、北の国境に敵対的な国家が誕生することは致命的な脅威でした。
この危機に対応するためイングランド政府は完全な政治的合同を目指す方針を固めます。イングランド議会は1705年に「外国人法」を可決し、もしスコットランドが合同交渉を開始しない場合、経済制裁を課すと強硬な姿勢で臨みました。
経済的にイングランドに大きく依存していたスコットランドは、この圧力に屈せざるを得ませんでした。特に「ダリエン計画」の失敗によりスコットランド経済は疲弊しており、イングランドとの自由貿易へのアクセスは魅力的な見返りでした。
こうして1706年、両国の代表者からなる合同委員会が開かれ交渉が始まりました。アン女王自身もこの合同を強く支持しました。交渉は困難を極めましたが、最終的に合意に達し、合同条約が起草されました。
条約の主な内容は以下の通りです。
イングランドとスコットランドは「グレートブリテン」という一つの王国として統合される。
王位継承は、1701年の王位継承法に基づき、ハノーヴァー家のプロテスタントの子孫に引き継がれる。
グレートブリテンは、一つの議会(ウェストミンスターのグレートブリテン議会)を持つ。スコットランドは、庶民院に45議席、貴族院に16議席の代表を送る。
グレートブリテン王国の臣民は、王国内およびその植民地において、貿易と航海の自由を享受する。これにより、スコットランドはイングランドの広大な海外市場へのアクセスを得ることになった。
税制は統一されるが、スコットランドの経済状況を考慮し、特定の税については一時的な猶予や例外が設けられた。
スコットランドの独自の法体系と裁判所は維持される。
スコットランドの長老派教会(カーク)は、その地位を国教会として永久に保障される。これは、イングランド国教会とは異なる宗教制度を持つスコットランドのアイデンティティを尊重するための、極めて重要な条項でした。
イングランドは、ダリエン計画の失敗でスコットランドが被った損失を補填するため、「等価金」(The Equivalent)と呼ばれる多額の補償金を支払う。この資金の一部は、ダリエン計画の投資家への返済に充てられた。
この合同条約は、1706年末から1707年初めにかけて、まずスコットランド議会で、次いでイングランド議会で批准されました。スコットランド国内では、合同に対する激しい反対運動が起こりました。多くの人々が、国家の独立を売り渡す行為であるとみなし、エディンバラでは暴動も発生しました。しかし、経済的な利益への期待と、イングランドからの政治的圧力、そして一部の政治家への買収工作などが相まって、条約は僅差で可決されました。
1707年5月1日、合同法が施行され、グレートブリテン王国が正式に誕生しました。アン女王は、ステュアート朝最後のイングランド女王およびスコットランド女王であると同時に、最初のグレートブリテン女王となったのです。彼女は、この歴史的な偉業を、自らの治世における最大の成功の一つと見なしていました。この合同は、その後のイギリスの政治的安定と経済的発展の礎となり、大英帝国の形成へとつながる道を開く、画期的な出来事でした。
政党政治と女王
アン女王の治世は、イギリスの政党政治が本格的に形成され、発展した時代として特徴づけられます。ホイッグ党とトーリー党という二つの主要な政治勢力が、議会と政府の主導権をめぐって、激しい闘争を繰り広げました。アン女王は、この党派対立の渦中にあって、君主として国家の安定を保つという、極めて困難な舵取りを迫られました。
ホイッグ党とトーリー党は、その起源を17世紀後半の王位排除危機にまで遡りますが、アンの時代には、その政治的・社会的な性格がより明確になっていました。
トーリー党は、伝統的に地主階級やジェントリを支持基盤とし、君主の権威とイングランド国教会の優位性を重んじる立場でした。彼らは、土地への課税に敏感であり、非国教徒(プロテスタントの中でも国教会に属さない人々)に対しては、その政治的権利を制限しようとする傾向がありました。外交政策においては、大陸での大規模な戦争には比較的消極的で、国益を重視する孤立主義的な傾向を持つ者が多かったのです。アン女王自身は、その篤い国教会信仰と、君主の特権を尊重する姿勢から、個人的にはトーリー党の価値観に強い親近感を抱いていました。
一方、ホイッグ党は、貴族の中でも商業的な利益に関心を持つ層や、都市の商人、金融業者、そして非国教徒を主な支持基盤としていました。彼らは、名誉革命の原則、すなわち議会の優位と立憲君主制を強く擁護し、カトリックとフランスの絶対王政を国家の最大の脅威と見なしていました。そのため、スペイン継承戦争の遂行に最も積極的であり、非国教徒に対しては、より寛容な政策を主張しました。
アンは、即位当初、「党派を超えた女王」であることを理想とし、両党からの穏健派を登用した挙国一致内閣を目指しました。彼女の最初の政権は、大蔵卿シドニー=ゴドルフィンやマールバラ公爵といった、穏健なトーリーと見なされる人物たちによって率いられました。しかし、スペイン継承戦争という国家の最優先課題が、この微妙なバランスを崩していきます。
戦争を遂行するためには、議会からの巨額の予算承認が不可欠でした。戦争に積極的なホイッグ党は、これをてこに、徐々に政権内での影響力を強めていきました。アンは、ホイッグ党の急進的な姿勢を嫌っていましたが、戦争に勝利するためには、彼らの協力が不可欠であるという現実を受け入れざるを得ませんでした。1705年から1708年にかけて、ゴドルフィンとマールバラは、政権を維持するために、次々とホイッグ党の有力者(「ジャントー」と呼ばれるグループ)を入閣させました。これにより、政権は事実上、ホイッグ党に乗っ取られた形となり、アンは自らの意に反して、嫌悪するホイッグ党の政策を受け入れさせられるという、屈辱的な状況に置かれました。
この時期、アンと長年の親友であったサラ=マールバラとの関係も、政治的な対立によって決定的に破綻します。サラは熱心なホイッグ党支持者であり、女王に対して、ホイッグ党の閣僚を登用するよう、執拗に、そしてしばしば無礼な態度で迫りました。アンは、サラの政治的な圧力にうんざりし、二人の友情は急速に冷え込んでいきました。その一方で、アンは、新しい相談相手を見つけていました。ベッドチャンバーの女官であったアビゲイル=ヒルです。アビゲイルは、サラの遠縁にあたる人物でしたが、物静かで従順な性格であり、また、トーリー党の有力者であるロバート=ハーレーの親戚でもありました。アンは、アビゲイルとの穏やかな友情の中に安らぎを見出し、ハーレーを通じてトーリー党の意見に耳を傾けるようになります。
1710年、転機が訪れます。長期化する戦争への厭戦気分と、ホイッグ党政権の強引な政策への反発が国民の間に広がる中、ヘンリー=サシェヴェレルという高教会派の聖職者が、ホイッグ党の非国教徒寛容政策を激しく非難する説教を行ったことで、政治的嵐が巻き起こりました。ホイッグ党政府は、サシェヴェレルを弾劾裁判にかけましたが、これは裏目に出ます。民衆はサシェヴェレルを国教会の殉教者として支持し、反ホイッグの暴動が各地で発生しました。
アンは、この国民感情の高まりを好機と捉え、ついに自らの意志を行動に移します。彼女は、大蔵卿ゴドルフィンを罷免し、政権を解体しました。その後の総選挙では、トーリー党が地滑り的な勝利を収め、アンはロバート=ハーレーとヘンリー=シンジョンを首班とする、待望のトーリー党政権を樹立しました。これは、アンが単なる飾り物の君主ではなく、重要な局面において自らの王権を行使し、政治の方向性を決定づける力を持った、能動的な政治家であったことを示す出来事でした。
しかし、このトーリー党政権もまた、安泰ではありませんでした。政権の末期には、ハーレー(オックスフォード伯)とシンジョン(ボリングブルック子爵)の間の激しい権力闘争が表面化します。そして、彼らの前には、アンの死後に迫る、ハノーヴァー家への王位継承という、最大の問題が横たわっていたのです。
晩年と遺産
後継者問題の再燃
アンの治世の最後の数年間は、再び後継者問題という暗い影に覆われていました。1701年の王位継承法によって、王位はドイツのハノーヴァー選帝侯妃ゾフィーとその子孫に渡ることが定められていましたが、この決定は、多くのトーリー党員にとって、心から歓迎できるものではありませんでした。彼らの多くは、君主の正統な血統を重んじる立場から、亡命中のアンの異母弟、ジェームズ=フランシス=エドワード=ステュアート(「老僭王」)に、ある程度の同情心を抱いていました。もし彼がプロテスタントに改宗するならば、ハノーヴァー家のゲオルク=ルートヴィヒよりも、正統な王としてふさわしいと考える者も少なくありませんでした。
1710年に成立したトーリー党政権内でも、この問題に対する意見は分かれていました。政権の首班であったロバート=ハーレー(オックスフォード伯)は、穏健派であり、公にはハノーヴァー家への王位継承を支持しつつも、ジャコバイトとの接触も保ち、両天秤にかけるような曖昧な態度をとっていました。一方、彼のライバルであったヘンリー=シンジョン(ボリングブルック子爵)は、より急進的なトーリーであり、ジャコバイトへの傾斜を強めていきました。彼は、アンの死後、トーリー党が権力を維持するためには、ジャコバイトの助けを借りてジェームズを王位に就ける必要があると考えていたようです。
アン女王自身の真意もまた、謎に包まれています。彼女は、公の場では常に、プロテスタントの継承者を支持する姿勢を崩しませんでした。しかし、私的な感情としては、見知らぬドイツの親戚よりも、血を分けた異母弟に王位を継がせたいという気持ちがあったのではないか、と推測されています。彼女は、ジェームズに手紙を送り、プロテスタントに改宗するよう説得を試みたこともあったと言われています。しかし、ジェームズはカトリック信仰を捨てることを断固として拒否し、この道は閉ざされました。
ホイッグ党は、トーリー党政権がジャコバイトの復位を企んでいるのではないかと強く警戒し、ハノーヴァー家への王位継承を確実にするための運動を強化しました。彼らは、ハノーヴァー選帝侯妃ゾフィーの息子であるゲオルク=ルートヴィヒ(後のジョージ1世)が、貴族院に議席を持つケンブリッジ公として、イギリスに招聘されるべきだと主張しました。しかし、アンは、自分の存命中に後継者がイギリスにやって来ることを、自らの権威に対する脅威とみなし、これを頑なに拒否しました。
1714年に入ると、アンの健康状態は急速に悪化し、後継者問題はますます切迫したもとなります。6月8日、83歳のハノーヴァー選帝侯妃ゾフィーが死去し、彼女の息子であるゲオルク=ルートヴィヒが、王位継承順位第1位となりました。
7月27日、アンは、内閣内の対立と機能不全に業を煮やし、ついに大蔵卿であったオックスフォード伯ハーレーを罷免します。しかし、彼の後任を指名する前に、彼女は脳卒中で倒れてしまいました。この国家の危機的状況において、アンは最後の力を振り絞り、重大な決断を下します。彼女は、ボリングブルックではなく、穏健派でハノーヴァー家への王位継承を確実に遂行できると見なされていたシュルーズベリー公爵チャールズ=タルボットを、新しい大蔵卿に任命したのです。これは、ジャコバイトの陰謀を阻止し、プロテスタントの継承を確保するための、最後の、そして決定的な一手でした。
1714年8月1日、アン女王は、ケンジントン宮殿で崩御しました。享年49歳でした。彼女の死の報が伝わると、枢密院は直ちにゲオルク=ルートヴィヒをグレートブリテン王ジョージ1世として布告しました。ボリングブルックらのジャコバイト派は、準備不足と指導者の不在により、何の抵抗もできませんでした。こうして、ステュアート朝は終わりを告げ、ハノーヴァー朝が平和裏に始まったのです。
評価と遺産
アン女王は、その死後、しばしば過小評価されてきた君主の一人です。特に、ヴィクトリア朝時代の歴史家たちは、彼女を、意志が弱く、平凡な知性しか持たず、サラ=マールバラのような寵臣たちに操られるままだった、取るに足らない女王として描く傾向がありました。彼女の個人的な悲劇や、絶え間ない健康問題が、この無力な女王というイメージを補強しました。サラ=マールバラ自身が、女王との絶交後に書いた辛辣な回想録も、この否定的な評価に大きく影響しています。
しかし、近年の歴史研究は、このような伝統的な見方を見直し、アンをより複雑で、そして有能な君主として再評価する動きが強まっています。彼女は、確かに最高の知性に恵まれていたわけではないかもしれませんが、強い義務感と良識を持ち、自らの信念に忠実な君主でした。彼女は、閣議に熱心に出席し、国務の詳細を把握しようと努め、重要な政治的局面においては、驚くほどの頑固さと決断力を発揮しました。1710年にホイッグ政権を打倒し、トーリー党を政権に就けたことや、死の床でシュルーズベリー公を大蔵卿に任命したことは、彼女が自らの王権を巧みに行使し、国家の運命を左右する力を持っていたことを示しています。
アンの治世は、イギリス史における画期的な時代でした。
グレートブリテン王国の誕生: 彼女の治世に実現したイングランドとスコットランドの合同は、イギリスという国家の基礎を築き、その後の政治的・経済的発展の礎となりました。
ヨーロッパの主要大国へ: スペイン継承戦争における勝利と、ユトレヒト条約によって得られた領土や商業的利益は、イギリスがヨーロッパ、そして世界の主要な軍事・商業大国としての地位を確立する上で、決定的な役割を果たしました。
二大政党制の発展: ホイッグとトーリーの激しい党派対立は、議会政治と責任内閣制の発展を促し、近代イギリスの政治システムの原型を形作りました。
文化の隆盛: アン女王の時代は、文学、建築、科学、音楽が花開いた「オーガスタン時代」の幕開けと重なります。デフォー、スウィフト、ポープといった文豪、レンやホークスムアといった建築家、そして科学者ニュートンが活躍し、イギリス文化の黄金時代の一つを築きました。
アンの生涯は、公的な成功とは対照的に、個人的には悲劇の連続でした。17回もの妊娠にもかかわらず、一人の子供も残すことができなかったという事実は、彼女の人生に深い哀愁の影を落としています。しかし、彼女は、その個人的な苦しみに屈することなく、君主としての重い責務を最後まで誠実に果たしました。ステュアート朝最後の君主として、彼女は、父が失った王国の安定を取り戻し、それを揺るぎないものとして次のハノーヴァー朝へと引き継いだのです。「善良なるアン女王」(Good Queen Anne)という彼女の呼び名は、単なる感傷的な表現ではなく、激動の時代にあって、国家の安定と繁栄のために尽くした、良心的な君主への、国民からの敬愛の念が込められているのかもしれません。
このテキストを評価してください。
|
役に立った
|
う~ん・・・
|
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。 |
|
統治二論とは わかりやすい世界史用語2725
>
グレートブリテン王国とは わかりやすい世界史用語2727
>
ピューリタンとは わかりやすい世界史用語2693
>
ジェームズ2世とは わかりやすい世界史用語2716
>
長期議会とは わかりやすい世界史用語2690
>
ピューリタン(清教徒)革命のながれ
>
ホイッグ党とは わかりやすい世界史用語2715
>
最近見たテキスト
|
アン女王とは わかりやすい世界史用語2726
10分前以内
|
>
|
デイリーランキング
世界史
- 先史時代
- 先史時代
- 西アジア・地中海世界の形成
- 古代オリエント世界
- ギリシア世界
- ヘレニズム世界
- ローマ帝国
- キリスト教の成立と発展
- アジア・アメリカの古代文明
- イラン文明
- インドの古代文明
- 東南アジアの諸文明
- 中国の古典文明(殷・周の成立から秦・漢帝国)
- 古代の南北アメリカ文明
- 東アジア世界の形成と発展
- 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)
- 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)
- 東アジア諸地域の自立化(東アジア、契丹・女真、宋の興亡)
- 内陸アジア世界の形成
- 遊牧民とオアシス民の活動
- トルコ化とイスラーム化の進展
- モンゴル民族の発展
- イスラーム世界の形成と拡大
- イスラーム帝国の成立
- イスラーム世界の発展
- インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
- イスラーム文明の発展
- ヨーロッパ世界の形成と変動
- 西ヨーロッパ世界の成立
- 東ヨーロッパ世界の成立
- 西ヨーロッパ中世世界の変容
- 西ヨーロッパの中世文化
- 諸地域世界の交流
- 陸と海のネットワーク
- 海の道の発展
- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























