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ドレークとは わかりやすい世界史用語2637 |
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著作名:
ピアソラ
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ドレークとは
フランシス=ドレーク。その名は、16世紀のイングランドが生んだ、最も輝かしく、そして最も物議を醸す人物の一人として、歴史に深く刻まれています。ある者にとっては、彼は、プロテスタントの小国イングランドを、カトリックの巨大帝国スペインの脅威から守った、不屈の愛国者であり、国民的英雄でした。またある者にとっては、彼は、史上二番目に世界一周を成し遂げた偉大な航海者であり、未知の世界の扉を開いた冒険家でした。しかし、彼の敵であったスペイン人にとって、彼は「エル=ドラケ(竜)」、すなわち、神の教えに背き、無慈悲な略奪と破壊を繰り返す、恐るべき悪魔の化身であり、単なる海賊に過ぎませんでした。
彼の生涯は、これらのどの側面もが真実であるという、複雑な多面性を持っています。デヴォンの貧しいプロテスタント農家の息子として生まれたドレークは、その卓越した航海術、大胆不敵な勇気、そして飽くなき野心によって、イングランドで最も富裕で、最も影響力のある人物の一人へと成り上がりました。彼の物語は、エリザベス朝という、イングランドが自己のアイデンティティを模索し、海洋国家としての道を歩み始めた、激動の時代の精神そのものを体現しています。
ドレークの活動は、単なる個人の冒険や金儲けにとどまりませんでした。それは、エリザベス1世女王の、曖昧でありながらも計算された対スペイン政策と、密接に結びついていました。公式には平和を装いながら、女王はドレークのような「海の犬」を非公式に支援し、彼らがスペインの新世界(アメリカ大陸)の植民地から奪ってくる富によって、イングランドの国庫を潤し、同時にスペインの力を削いでいきました。ドレークは、この国家公認の海賊行為、すなわち私掠(プライベーティアリング)の、最も成功した実践者でした。
彼のキャリアの頂点は、1577年から1580年にかけての伝説的な世界一周航海です。この航海で、彼はスペインの独壇場であった太平洋に侵入し、無防備な植民地や財宝船を襲撃して、天文学的な額の富をイングランドにもたらしました。この壮挙は、イングランド人の国民感情を高揚させ、彼らの目を、ヨーロッパの狭い舞台から、広大な世界の海へと向けさせる、決定的な転換点となりました。
そして、イングランドとスペインの対立が、避けられない全面戦争へと発展したとき、ドレークは、私掠船乗りから海軍提督へとその姿を変え、国家の防衛の最前線に立ちました。1588年の無敵艦隊(アルマダ)との戦いにおいて、彼がイングランド艦隊の副司令官として果たした役割は、彼の名声を不動のものとしました。
しかし、彼の生涯は、栄光と成功の物語だけではありません。それは、裏切り、暴力、そして冷酷な決断に満ちた、暗い側面も持っていました。世界一周航海の途中で、彼は自らの友人を反逆罪で処刑しました。彼の襲撃は、多くの人々の命を奪い、町を破壊しました。その晩年は、かつての輝きを失い、失敗と失意のうちに、カリブ海の海上で終わりを告げました。
若き日の航海
フランシス=ドレークの不屈の精神と、スペイン帝国に対する執拗な敵意を理解するためには、彼の出自と、若き日に経験した苦い体験に目を向ける必要があります。彼は、エリザベス朝の宮廷の華やかさとは無縁の、厳格なプロテスタント信仰と、海と共に生きる人々の現実の中で育ちました。
デヴォンの出自と宗教的背景
フランシス=ドレークは、1540年頃、イングランド南西部のデヴォン州、テイヴィストック近郊のクラウンデールという農場で、12人兄弟の長男として生まれました。彼の父、エドマンド=ドレークは、小作農であり、同時に熱心なプロテスタントでした。当時のイングランドは、ヘンリー8世に始まる宗教改革の真っ只中にあり、カトリックとプロテスタントの対立が、社会の隅々にまで緊張をもたらしていました。
ドレーク一家が暮らしていたデヴォンやコーンウォールといった南西部地域は、伝統的に保守的で、カトリック信仰が根強い土地柄でした。1549年、プロテスタント的な「共通祈祷書」の導入に反対する、大規模なカトリック農民の反乱「祈祷書反乱」が起こると、プロテスタントであったドレーク一家は、身の危険を感じて故郷を追われることになります。彼らは、ケント州へと逃れ、メドウェイ川の河口にあるチャタムの港で、廃船を改造した家に住み着きました。
この幼少期の体験は、ドレークの心に、カトリックに対する深い不信感と敵意を植え付けたと考えられています。父エドマンドは、プロテスタントの説教師となり、チャタムの海軍基地に停泊する船の船員たちに、神の言葉を説いて回りました。フランシスは、このような環境で、聖書と、プロテスタントの殉教者たちの物語を聞いて育ちました。彼にとって、カトリック、特にその最大の擁護者であるスペインは、単なる政治的な敵ではなく、神の教えに背く、打倒すべき「反キリスト」の勢力でした。この宗教的情熱は、彼の生涯にわたる行動の、強力な動機の一つとなります。
ホーキンスとの出会いと奴隷貿易
海に囲まれた環境で育ったドレークが、船乗りとしての道を歩み始めたのは、ごく自然なことでした。彼は、親戚であり、デヴォン州の主要港プリマスの、裕福で影響力のある船主であった、ホーキンス家に引き取られます。ジョン=ホーキンスとその父ウィリアムは、イングランドにおける海外貿易の先駆者であり、特にアフリカや新世界への航海に、大きな野心を持っていました。
ドレークは、ホーキンスの船団で見習いとして働き始め、その卓越した航海術と、船乗りとしての才能を、すぐに開花させていきました。彼は、ビスケー湾の荒波や、イングランド海峡の複雑な潮流の中で、船を操る技術を学び、一人前の船乗りとして成長していきます。
1560年代、ジョン=ホーキンスは、大きな利益を生む、しかし極めて危険な事業に乗り出します。それが、西アフリカから奴隷を調達し、それをスペイン領アメリカ(西インド諸島)の植民地に売りつける、奴隷貿易でした。当時のスペインは、重商主義政策に基づき、自国の植民地との貿易を、セビリアの商人に独占させており、外国船の立ち入りを厳しく禁じていました。ホーキンスの試みは、このスペインの貿易独占体制に、正面から挑戦するものでした。
ドレークは、1566年頃から、このホーキンスの奴隷貿易航海に参加し始めます。彼らは、西アフリカ沿岸で、現地の王たちから奴隷を買い付けたり、あるいは村を襲って人々を誘拐したりして、船倉に詰め込みました。そして、大西洋を横断し、カリブ海のスペイン植民地の港に現れ、プランテーションの経営者たちに、半ば脅迫的に奴隷を売りつけたのです。植民地のスペイン人たちは、本国からの労働力供給が不足していたため、非合法であることを知りながらも、ホーキンスたちから奴隷を購入しました。
これらの航海は、ドレークに、大西洋航海の経験と、莫大な利益をもたらしました。しかし同時に、それは、スペイン当局との、絶え間ない緊張と衝突を伴うものでした。彼は、この航海を通じて、スペイン植民地の地理、防御体制、そして富の源泉について、貴重な知識を蓄積していきました。
サン=フアン=デ=ウルアの悲劇
ドレークのスペインに対する個人的な憎悪を決定的なものにした事件が、1568年に起こります。この年、ドレークは、ジョン=ホーキンスが率いる6隻の船団の一隻、「ジュディス号」の船長として、3度目の奴隷貿易航海に参加していました。
カリブ海で奴隷を売りさばいた後、彼らの船団は、激しい嵐に見舞われ、船を修理するために、メキシコ湾岸のスペインの主要港、サン=フアン=デ=ウルアに、やむなく寄港しました。ホーキンスは、港のスペイン当局と交渉し、平和的に停泊し、修理を行う許可を得ました。
しかし、その数日後、新世界の富をスペイン本国に運ぶ、護送船団(シルバー=フリート)が、新しい副王を乗せて、港に到着します。副王は、ホーキンスとの協定を無視し、イングランドの異端者たちを、一網打尽にしようと企みました。スペインの軍艦と、港の要塞は、不意を突いて、停泊中のイングランド船団に、一斉に攻撃を仕掛けたのです。
この奇襲攻撃は、イングランド側にとって、完全な惨事となりました。船団のほとんどの船が破壊されるか拿捕され、多くの船員が殺されました。ホーキンスとドレークは、それぞれ自らの船、「ミニオン号」と「ジュディス号」を操り、九死に一生を得て、砲火の中から脱出することに成功しました。しかし、彼らは、ばらばらになってしまい、食料も水もほとんどない状態で、絶望的な大西洋横断を強いられました。イングランドに生きて帰り着いた者は、ごくわずかでした。
このサン=フアン=デ=ウルアでの裏切りと敗北は、ドレークの心に、決して消えることのない傷跡を残しました。彼は、スペイン人、特にスペイン政府の当局者に対して、強烈な不信感と復讐心を抱くようになります。彼は、この事件で失われたもの、すなわち、船、財産、そして仲間たちの命を、スペインから、何倍にもして取り返すと誓ったのです。この個人的な復讐の誓いは、これ以降の彼の人生の、原動力となっていきます。彼はもはや、単なる貿易商人ではありませんでした。彼は、スペイン帝国に戦いを挑む、復讐者となったのです。
カリブ海の復讐者
サン=フアン=デ=ウルアでの屈辱的な敗北の後、フランシス=ドレークの活動は、新たな段階に入りました。彼は、貿易という建前を捨て、スペインの新世界植民地に対する、あからさまな襲撃と略奪、すなわち私掠活動を開始します。彼の目的は、もはや単なる利益の追求ではありませんでした。それは、スペイン帝国のアキレス腱である、富の輸送ルートを攻撃し、復讐を果たすことでした。この時期、彼はカリブ海を舞台に、大胆不敵なゲリラ戦を展開し、「エル=ドラケ」としての恐るべき名声を確立していきます。
パナマ地峡への遠征
ドレークは、復讐の最初の標的として、スペインの新世界における富の流れの、まさに心臓部であるパナマ地峡を選びました。当時、南米ペルーのポトシ銀山などで採掘された莫大な量の銀は、まず太平洋岸のパナマ市に集められ、そこからラバの背に乗せられて、地峡を横断し、カリブ海岸のノンブレ=デ=ディオスという港に運ばれました。そして、ノンブレ=デ=ディオスから、年に一度の護送船団(シルバー=フリート)によって、スペイン本国へと送られていたのです。ドレークは、この輸送ルートを寸断し、銀を奪取することを計画しました。
1570年と1571年の二度にわたり、彼は小規模な偵察航海を行い、パナマ地峡の地理、スペイン人の防御体制、そして現地の状況について、綿密な情報を収集しました。この偵察で、彼は、スペインの支配から逃亡したアフリカ人奴隷、「シマロン」の存在を知ります。シマロンたちは、ジャングルの中に独自のコミュニティを築き、スペイン人に対してゲリラ的な抵抗を続けていました。ドレークは、彼らが、スペインという共通の敵を持つ、強力な同盟者になり得ると考えました。
そして1572年、ドレークは、わずか2隻の小型船、「パシャ号」と「スワン号」、そして73人の部下と共に、プリマスを出航しました。彼の計画は、大艦隊による正面攻撃ではなく、少人数の精鋭による、奇襲攻撃でした。
パナマに到着した彼は、シマロンたちと接触し、同盟を結ぶことに成功します。シマロンの案内で、彼らはジャングルの中に秘密の基地を設営しました。最初の目標は、カリブ海側の終着点であるノンブレ=デ=ディオスでした。ドレークは、夜陰に乗じて町を奇襲し、王立会計所を占拠しました。そこには、銀塊が山と積まれていましたが、襲撃の最中に、ドレーク自身が足を負傷してしまいます。部下たちは、意識を失いかけたドレークを無理やり船に連れ戻し、銀の奪取は、寸前のところで失敗に終わりました。
太平洋の発見と銀の奪取
この失敗にもかかわらず、ドレークは諦めませんでした。彼は、シマロンの助けを借りて、より大胆な計画を実行に移します。それは、地峡を陸路で横断し、太平洋側から来る輸送隊を、ジャングルの中で待ち伏せするというものでした。
1573年初頭、ドレークは、18人のイングランド人と、30人のシマロンからなる部隊を率いて、ジャングルの中へと分け入っていきました。この困難な行軍の途中、シマロンたちは、ドレークを、地峡の中央分水嶺にある、一本の高い木へと案内しました。その木の頂上には、見晴台が設けられていました。ドレークがそこに登ると、彼の眼下には、息をのむような光景が広がっていました。一方には、彼らが渡ってきたカリブ海(大西洋)が、そしてもう一方には、これまでイングランド人にとっては未知の海であった、広大な太平洋が、きらめいていました。
この瞬間、ドレークは、神に祈りを捧げ、いつの日か、必ずやイングランドの船で、この太平洋を航海することを誓ったと伝えられています。この誓いは、彼の後のキャリアを決定づける、重要な転機となりました。
その後、彼らは、パナマ市近郊で、ノンブレ=デ=ディオスへ向かうラバの輸送隊を待ち伏せしました。最初の試みは、部下の一人が早まって飛び出したために失敗しましたが、二度目の待ち伏せで、彼らはついに、銀を満載した輸送隊の襲撃に成功します。彼らは、15トンもの銀を奪い取り、その富を、シマロンたちと公平に分け合いました。
このパナマ地峡での成功は、ドレークに、莫大な富と、スペイン人に対するゲリラ戦の専門家としての名声をもたらしました。彼は、少人数で、現地の地理と住民を味方につければ、巨大なスペイン帝国がいかに脆弱であるかを証明したのです。1573年にイングランドに帰還したとき、彼は、復讐を果たした英雄として、迎えられました。
エル=ドラケ(竜)の伝説
パナマ地峡でのドレークの活動は、スペイン側に、大きな衝撃と恐怖を与えました。彼らは、神出鬼没で、大胆不敵なこのイングランド人の襲撃者を、「エル=ドラケ(El Draque)」と呼び、恐れました。これは、彼の姓「Drake」が、ラテン語の「Draco(竜、ドラゴン)」に通じることから付けられた呼び名でした。スペイン人にとって、彼は、聖書に登場する、破壊と混沌をもたらす竜、あるいは悪魔そのものと見なされたのです。
彼の襲撃は、単に銀を奪うだけではありませんでした。彼は、カトリックの教会を略奪し、聖像を破壊しました。これは、彼自身の熱烈なプロテスタント信仰の現れであると同時に、スペイン人の精神に、より深い打撃を与えるための、意図的な行為でした。
しかし、その一方で、ドレークは、捕虜の扱いにおいて、当時の基準からすれば、比較的寛大であったとも言われています。彼は、不必要な殺戮を避け、捕虜を丁重に扱うことで、情報を引き出したり、自らの評判を高めたりしました。彼は、残虐な海賊であると同時に、騎士道的な気高さを示す、矛盾した人物として、スペイン人の間でも語られるようになりました。
この時期に形成された「エル=ドラケ」の伝説は、ドレーク自身の評判を高めただけでなく、イングランド全体の士気をも高揚させました。プロテスタントの小国イングランドが、巨大なカトリック帝国スペインに、一矢報いることができる。ドレークの成功は、その鮮やかな証明でした。彼は、イングランド人の心の中に、スペインは無敵ではないという、新たな自信を植え付けたのです。そして、彼自身は、この成功を足掛かりに、さらに壮大で、前人未到の計画、すなわち、太平洋そのものへの挑戦へと、その野心を膨らませていくことになります。
世界一周航海
パナマ地峡での成功によって、富と名声を手にしたフランシス=ドレークでしたが、彼の野心は、カリブ海という限られた舞台にとどまるものではありませんでした。地峡の頂から見た、あの広大な太平洋の光景が、彼の心を捉えて離しませんでした。そして彼は、イングランド人として、いや、マゼラン以来、史上二人目となる、世界一周という、前代未聞の壮大な計画を実行に移します。この航海は、単なる探検や私掠活動ではなく、イングランドの国威を世界に示し、スペインの海洋覇権に、正面から挑戦する、国家的な事業でした。
秘密の計画と出航
1570年代半ば、ドレークは、エリザベス女王の宮廷に出入りするようになり、彼の計画を、女王の側近たちに熱心に説いて回りました。彼の提案は、マゼラン海峡を通過して太平洋に入り、南米の太平洋岸を北上するというものでした。この海域は、これまで完全にスペインの「私的な湖」と見なされており、沿岸の植民地や、そこを行き交う船は、ほとんど無防備な状態にありました。ドレークは、そこを襲撃して富を奪い、さらに北上して、北米大陸の北側を回って大西洋に出る、伝説の「北西航路」を発見して帰国するという、壮大な構想を提示しました。
この計画は、極めて危険で、挑発的なものでした。それは、公式には友好国であるスペインに対する、あからさまな戦争行為に等しかったからです。しかし、女王エリザベスとその側近の一部、特に首席秘書官フランシス=ウォルシンガムのような、強硬な反スペイン派は、この計画に強い関心を示しました。彼らは、正規の戦争に訴えることなく、スペインの力を削ぎ、同時に莫大な利益を得る機会と捉えたのです。
計画は、国家の最高機密として進められました。表向きの目的は、エジプトのアレクサンドリアへの交易航海と偽装されました。ドレークは、女王やウォルシンガム、そして他の宮廷の有力者たちから、秘密裏に資金提供を受け、5隻の船からなる船団を準備しました。その旗艦は、約120トンの「ペリカン号」でした。
1577年12月13日、ドレークの船団は、プリマス港を静かに出航しました。船団には、約160人の船員が乗り込んでおり、その中には、航海術の専門家、地図製作者、そしてドレークの個人的な信頼の厚い友人や親戚が含まれていました。しかし、彼らのほとんどは、この航海の真の目的地と目的を知らされていませんでした。
マゼラン海峡とダウティの処刑
船団は、大西洋を南下し、南米大陸の沿岸に到達しました。この航海の初期段階で、船団の内部に、深刻な亀裂が生じ始めます。その中心にいたのが、船団の有力な出資者の一人の代理として乗り込んでいた、貴族出身のトーマス=ダウティでした。ダウティは、ドレークの指揮権に公然と異議を唱え、船員たちの間で不満を煽り始めました。彼は、この危険な航海に反対であり、船団を引き返させるべきだと主張したのです。
ドレークは、この挑戦を、自らの権威と、航海そのものの成否に対する、許しがたい脅威と見なしました。1578年6月、船団が、冬を越すために、アルゼンチンのサン=フリアン港に停泊したとき、ドレークは、ダウティを反乱と魔術の罪で告発し、即席の裁判にかけました。この場所は、奇しくも、約60年前にマゼランが、反乱を起こした部下を処刑したのと同じ場所でした。
裁判の結果、ダウティは有罪とされ、斬首刑に処せられました。友人であったダウティを、自らの命令で処刑するというこの冷酷な決断は、ドレークの非情な一面を示すものですが、同時に、彼が、この航海を成功させるためには、いかなる犠牲も厭わないという、鉄の意志を持っていたことの現れでもありました。彼は、船員たちを前に演説し、今この瞬間から、船の上では、貴族も平民もなく、ただ一人の指揮官(ドレーク自身)と、それに従う船員あるのみだと宣言し、船団の規律を完全に掌握しました。
この事件の後、ドレークは、旗艦「ペリカン号」を、「ゴールデン=ハインド(黄金の雌鹿)号」と改名しました。これは、航海の主要な後援者の一人であった、クリストファー=ハットン卿の紋章にちなんだものでした。
1578年8月、船団は、ついにマゼラン海峡に進入しました。荒れ狂う嵐と、複雑な水路に悩まされながらも、彼らは、わずか16日間で、この難所を通過することに成功します。しかし、太平洋に出た途端、彼らは、想像を絶する大嵐に見舞われました。船団は散り散りになり、一隻は沈没し、もう一隻(船長はジョン=ウィンター)は、太平洋の荒天に怖気づき、海峡に引き返して、そのままイングランドに帰国してしまいました。
最終的に、ドレークが指揮するゴールデン=ハインド号だけが、太平洋に取り残されました。嵐は、彼の船を、南米大陸の南端、ティエラ=デル=フエゴのはるか南まで押し流しました。この偶然の漂流によって、ドレークは、ティエラ=デル=フエゴが、当時信じられていたような、巨大な南方大陸の一部ではなく、島であることを発見しました。そして、その南に、大西洋と太平洋が合流する、広大な海域(後にドレーク海峡と名付けられる)が広がっていることを、初めて確認したのです。
太平洋での略奪と新アルビオン
嵐が収まると、ドレークは、北へと針路を取り、ついに、彼の真の目的であった、スペイン植民地への襲撃を開始しました。彼は、チリのバルパライソや、ペルーのカヤオといった港を次々と襲撃し、略奪を行いました。スペイン側は、太平洋に敵の船が現れることなど、全く想定しておらず、沿岸の町や船は、完全に無防備でした。
そして1579年3月、エクアドル沖で、ドレークは、彼の航海における最大の獲物を捕らえます。それは、「ヌエストラ=セニョーラ=デ=ラ=コンセプション号」、通称「カカフエゴ(糞火野郎)」として知られる、巨大な財宝船でした。この船は、ペルーからパナマへ向かう途中で、船倉には、ポトシ銀山から産出された、莫大な量の銀塊や銀貨が、満載されていました。ゴールデン=ハインド号は、数日間にわたって、この財宝を自らの船に移し替えました。その量は、26トンの銀、半トンの金、そして多数の宝石にのぼり、ゴールデン=ハインド号が、喫水線が下がりすぎるほどであったと伝えられています。
莫大な富を手にしたドレークでしたが、南米沿岸には、すでに彼の出現を知ったスペインの追手が迫っていました。彼は、南に戻ってマゼラン海峡を通過するという、危険な帰路を避け、当初の計画通り、北米大陸の北側を回る北西航路を探すことにしました。
彼は、北米大陸の西岸を、はるか北まで航海しましたが、厳しい寒さと氷に行く手を阻まれ、北西航路の発見を断念します。そして、船の修理と補給のために、南へと戻り、現在のカリフォルニア州北部と思われる場所に上陸しました。
彼は、この土地で、現地のインディアン(ミウォク族と考えられている)と、友好的な関係を築きました。インディアンたちは、ドレークを神のように崇め、彼に、羽根飾りの付いた冠を捧げ、この土地の支配者として認めました。ドレークは、これを受け入れ、この土地を、エリザベス女王に捧げる、イングランドの新たな領土であると宣言し、「ノヴァ=アルビオン(新アルビオン)」と名付けました。「アルビオン」とは、イングランドの古名です。彼は、イングランドの主権の証として、女王の肖像と、自らの名、そして到着した日付を刻んだ真鍮の銘板を、柱に打ち付けました。
帰国と栄光
1579年7月、ゴールデン=ハインド号は、新アルビオンを後にして、広大な太平洋を横断する、西への航海に出ました。約2ヶ月後、彼らはフィリピンに到達し、その後、モルッカ諸島(香料諸島)へと向かいました。テルナテのスルタンと友好条約を結び、高価な香辛料(クローブ)を船に満載しました。
しかし、その後の航海は、再び危機に見舞われます。インドネシアの海域で、船が、海図にない岩礁に乗り上げてしまったのです。絶体絶命の状況の中、ドレークは、船を軽くするために、積荷の一部であった香辛料や、さらには大砲までも、海に投棄するよう命じました。幸運にも、潮の満ち引きの変化によって、船は岩礁から離礁することに成功しました。
その後、ジャワ島を経由し、インド洋を横断し、アフリカ南端の喜望峰を回り、1580年9月26日、ゴールデン=ハインド号は、2年と10ヶ月に及ぶ、長大な航海の末、ついにプリマス港に帰還しました。
ドレークの帰還は、イングランドを熱狂の渦に巻き込みました。彼が持ち帰った富は、天文学的な額にのぼり、その総額は、イングランドの国家歳入の2年分を上回ったとも言われています。航海の出資者たちは、投資額に対して、実に4700パーセントという、驚異的な配当金を受け取りました。最大の株主であったエリザベス女王も、莫大な利益を手にしました。
スペインのフェリペ2世は、海賊行為と領土侵犯に対して激しく抗議し、ドレークの処罰と、略奪品の返還を要求しました。しかし、エリザベスは、この要求を完全に無視しました。それどころか、1581年4月4日、彼女は、デプトフォードに係留されたゴールデン=ハインド号の船上を自ら訪れ、大勢の観衆の前で、フランシス=ドレークに、ナイトの爵位を授与したのです。
農家の息子であったドレークが、サー=フランシス=ドレークとなったこの瞬間は、彼の個人的な栄光の頂点であると同時に、イングランドという国家の、歴史的な転換点を象徴する出来事でした。それは、イングランドが、もはやスペインの海洋覇権を恐れず、世界の海を、自らの活動の舞台と見なすという、力強い宣言でした。ドレークは、一人の船乗りから、国家の英雄、そして、海洋国家イングランドの未来を象徴する、生ける伝説となったのです。
海軍提督として
世界一周航海の成功によって、サー=フランシス=ドレークは、イングランドで最も有名で、最も裕福な人物の一人となりました。彼は、プリマス市長や、国会議員を務めるなど、名士としての地位を確立しました。しかし、イングランドとスペインの関係が、決定的な対決へと向かう中で、彼が、陸上で安穏と暮らすことは許されませんでした。かつての私掠船乗りは、今や、エリザベス女王の海軍を率いる提督として、国家の防衛という、より重い責任を担うことになりました。彼の活動の舞台は、個人的な復讐や富の追求から、国家の存亡をかけた全面戦争へと移っていきました。
西インド諸島への大襲撃
1585年、イングランドとスペインの関係は、ついに破綻しました。エリザベス女王が、スペインの支配に対して反乱を起こしていた、ネーデルラントのプロテスタント勢力への、公的な軍事支援を決定したことが、直接の引き金となりました。フェリペ2世は、これを事実上の宣戦布告と受け取り、イングランド侵攻計画の準備を開始します。
これに対し、エリザベスは、先制攻撃を仕掛けることを決断しました。そして、その実行者として、白羽の矢が立てられたのが、サー=フランシス=ドレークでした。女王は、ドレークを提督に任命し、25隻の艦船と、2300人の兵士からなる、大規模な遠征隊の指揮を委ねました。彼の任務は、スペイン領西インド諸島を襲撃し、その経済基盤に打撃を与え、フェリペ2世の戦争計画を妨害することでした。
1585年9月、ドレークの艦隊はプリマスを出航しました。これは、もはや秘密の私掠航海ではありませんでした。女王の旗を掲げた、正規の海軍による、公然たる軍事行動でした。
艦隊は、まず、スペイン本国のビーゴを襲撃して補給を行い、大西洋を横断しました。最初の主要な目標は、カリブ海で最も重要なスペインの拠点の一つ、イスパニョーラ島(現在のドミニカ共和国)のサント=ドミンゴでした。1586年1月1日、ドレークは、陸軍部隊を、町の守りが手薄な地点に上陸させ、陸と海から、同時に奇襲攻撃を仕掛けました。不意を突かれたスペインの守備隊は、ほとんど抵抗できずに潰走し、町は、完全にイングランド軍の手に落ちました。
ドレークは、町を占領し、その解放と引き換えに、莫大な身代金を要求しました。スペイン当局が支払いを渋ると、彼は、毎日、町の一部を組織的に破壊し、焼き払うという、冷酷な戦術で、彼らに圧力をかけました。約一ヶ月後、スペイン側は、ついに屈服し、ドレークの要求する身代金を支払いました。
次に、ドレークは、南米大陸の沿岸、現在のコロンビアにある、もう一つの重要な港、カルタヘナ=デ=インディアスを標的としました。カルタヘナは、サント=ドミンゴよりも、はるかに強固に要塞化されていました。しかし、ドレークは、再び、陸海からの連携による、大胆な夜襲を敢行し、激しい戦闘の末に、この難攻不落と思われた要塞都市をも、陥落させました。ここでも、彼は、町を人質に取り、巨額の身代金を奪い取りました。
この西インド諸島への大襲撃は、スペイン帝国に、物質的にも、精神的にも、甚大な損害を与えました。帝国の心臓部であるはずの新世界植民地が、いとも簡単にイングランドの海賊に蹂躙されたという事実は、スペインの威信を大きく傷つけました。また、奪われた富と、破壊されたインフラは、フェリペ2世の財政に、深刻な打撃を与えました。
ドレークは、1586年7月にイングランドに帰還しました。この遠征で得られた戦利品は、費やした経費をかろうじて上回る程度であり、商業的には、世界一周航海ほどの成功ではありませんでした。しかし、その戦略的なインパクトは、計り知れないものがありました。ドレークは、イングランドが、スペインの裏庭で、自由に作戦を展開できる能力があることを証明し、フェリペ2世のイングランド侵攻計画(無敵艦隊の準備)を、大幅に遅らせることに成功したのです。
カディス奇襲(スペイン王の髭を焼く)
西インド諸島からの帰還後も、ドレークは、対スペイン戦争の最前線に立ち続けました。イングランドでは、フェリペ2世が、イングランド侵攻のための巨大な艦隊、すなわち「無敵艦隊(アルマダ)」を、スペインとポルトガルの港で集結させているという情報が、日に日に信憑性を増していました。
エリザベス女王と彼女の顧問たちは、艦隊がイングランドに来襲するのを待つのではなく、その準備段階で叩くべきであると判断しました。1587年4月、女王は、再びドレークに、艦隊の指揮を委ね、スペイン沿岸の敵艦隊の集結を妨害し、その補給線を断つという、大胆な任務を与えました。
ドレークは、約23隻の艦船を率いて、プリマスを出港しました。彼の目標は、無敵艦隊の主要な集結港の一つであり、スペイン海軍の重要な拠点である、カディスでした。
4月29日、ドレークの艦隊は、何の前触れもなく、カディス港の入り口に姿を現しました。港内には、無敵艦隊に加わるために集められた、大小さまざまな船舶が、密集して停泊していました。ドレークは、港の防御砲台からの砲撃をものともせず、躊躇なく艦隊を港内へと突入させました。
イングランド艦隊は、港内で、組織的な破壊活動を開始しました。彼らは、停泊中のスペイン船に次々と砲撃を浴びせ、あるいは接舷して火を放ちました。港内は、炎と煙、そして混乱に包まれました。スペイン側は、全く不意を突かれたため、有効な反撃を組織することができませんでした。
ドレークの艦隊は、二日間にわたって港内に留まり、徹底的な破壊を行いました。最終的に、彼らが破壊、あるいは拿捕したスペイン船は、24隻から37隻にのぼったとされています。その中には、無敵艦隊の主力となるはずだった、大型のガレオン船も含まれていました。
さらに重要なことは、彼らが、船の建造や修理に不可欠な、大量の樽材(ワインや食料、火薬を入れる樽の材料)を焼き払ったことでした。これにより、無敵艦隊の準備は、物資の保存と補給の面で、深刻な困難に直面することになります。急ごしらえで作られた質の悪い樽は、後に、無敵艦隊の航海中に、食料や水の腐敗を引き起こす大きな原因の一つとなりました。
カディスでの任務を完了した後も、ドレークは、すぐには帰国しませんでした。彼は、ポルトガル沿岸を北上し、リスボン沖で示威行動を行った後、アゾレス諸島へと向かいました。そして、そこで、東インドから莫大な富を積んで帰国する、ポルトガル(当時はスペインに併合されていた)の巨大なキャラック船、「サン=フェリペ号」を拿捕することに成功します。この一隻から得られた戦利品だけで、遠征の費用をすべて賄って、まだ余りあるほどでした。
ドレークがイングランドに帰還したとき、彼は、このカディスでの大胆な奇襲攻撃を、「スペイン王の髭を焦がしてやった」と豪語したと伝えられています。この作戦は、物質的な損害以上に、スペインの威信を傷つけ、その戦争計画に、大きな混乱をもたらしました。何よりも、この奇襲によって、無敵艦隊の出撃は、丸一年、遅れることになったのです。この一年という時間は、イングランドが、自国の防衛体制を整えるための、極めて貴重な猶予期間となりました。
無敵艦隊(アルマダ)との戦い
1588年夏、ついにその時が来ました。約130隻の艦船と、3万人の兵員からなる、スペインの無敵艦隊が、イングランド侵攻を目指して、リスボンを出航しました。その計画は、イギリス海峡を制圧し、フランドル(現在のベルギー)で待機しているパルマ公の陸軍精鋭部隊を、輸送船でイングランド南東岸に上陸させるというものでした。
イングランド側は、チャールズ=ハワード卿を最高司令官とする、約200隻の艦船を集結させて、これを迎え撃ちました。サー=フランシス=ドレークは、その経験と名声から、艦隊の副司令官に任命され、旗艦「リヴェンジ号」に座乗しました。イングランド艦隊には、ジョン=ホーキンスやマーティン=フロビッシャーといった、ドレークと共に戦ってきた、歴戦の「海の犬」たちも、指揮官として名を連ねていました。
7月29日、無敵艦隊が、イングランド南西端の沖合に姿を現すと、両艦隊による、一週間にわたる、追跡と戦闘の火蓋が切られました。スペイン艦隊は、三日月形の、極めて堅固な防御陣形を組んで、海峡を東へと進んでいきました。イングランド艦隊は、スペインの巨大なガレオン船に比べて、小型で、機動性に優れていました。彼らは、ドレークらが私掠活動で培った戦術、すなわち、敵の射程外から、大砲による遠距離砲撃を加えて、敵を消耗させるという戦法を取りました。
この追跡戦の初期、ドレークは、物議を醸す行動を取ります。夜間、艦隊を先導する灯火を掲げる役目であったにもかかわらず、彼は、その役目を放棄し、損傷して艦隊から落伍した、スペインのガレオン船「ロサリオ号」を追跡し、拿捕したのです。この船には、無敵艦隊の給与資金が積まれていました。この行動は、ハワード卿やフロビッシャーから、指揮官としての責任よりも、個人の利益を優先した、海賊根性の現れであると、激しく非難されました。
しかし、戦局の転換点となったのは、8月7日の夜、無敵艦隊が、フランスのカレー沖に停泊したときでした。イングランド側は、8隻の船を「火船」に改造し、夜陰と潮の流れに乗せて、密集して停泊するスペイン艦隊の真っただ中へと送り込みました。
燃え盛る火船が迫ってくるのを見て、スペイン艦隊は、パニックに陥りました。彼らは、陣形を維持するために、互いの船をつないでいた錨綱を、斧で断ち切り、散り散りになって、沖へと逃げ出しました。これにより、スペイン艦隊の、鉄壁であった三日月形の陣形は、完全に崩壊しました。
翌8月8日、陣形を失い、混乱したスペイン艦隊が、グラヴリンヌの沖合を漂っているところを、イングランド艦隊が捕捉し、総攻撃を仕掛けました。これが、グラヴリンヌ沖海戦です。ドレークの「リヴェンジ号」は、この戦いで、最も激しく戦った船の一つでした。イングランド艦隊は、風上の有利な位置から、スペイン船に接近し、至近距離から、猛烈な砲撃を浴びせました。数時間にわたる激戦の末、スペイン側は、数隻の船を失い、多数の船が深刻な損傷を受け、多くの死傷者を出しました。
イングランド側の砲弾が尽き、天候が悪化したため、戦闘は終結しました。しかし、無敵艦隊は、もはや、フランドルのパルマ公の陸軍と合流するという、当初の作戦目的を達成することは、不可能となっていました。南からの強風にも阻まれ、彼らは、唯一の退路として、スコットランドの北を回り、アイルランドの西を通過して、大西洋を大きく迂回して、スペインに帰国するという、絶望的な航路を選ばざるを得ませんでした。
この過酷な航海の途中で、損傷した多くのスペイン船が、激しい嵐に見舞われ、スコットランドやアイルランドの、岩の多い海岸で難破しました。岸にたどり着いた兵士たちも、多くが、現地の住民や、イングランドの駐留軍によって殺害されました。最終的に、スペインに帰り着くことができたのは、出航した艦船の、半分程度に過ぎませんでした。
無敵艦隊の敗北は、イングランドの歴史における、画期的な出来事でした。それは、プロテスタントの小国イングランドが、カトリックの巨大帝国の侵攻を、自らの力で打ち破った奇跡的な勝利でした。サー=フランシス=ドレークは、この勝利の立役者の一人として、その名声を、不動のものとしました。彼は、もはや単なる海賊や冒険家ではなく、国家を救った英雄として、国民から崇拝される存在となったのです。
晩年と最期
無敵艦隊に対する勝利は、サー=フランシス=ドレークのキャリアの頂点でした。彼は、国家の英雄として、最高の栄誉を手にしました。しかし、その後の彼の人生は、栄光の頂点から、ゆっくりと下降していく、失意と失敗の連続でした。かつては、何をしても成功した「幸運の男」の魔法は、次第に解け始め、彼は、時代の変化と、自らの限界に直面することになります。
イングランド無敵艦隊の失敗
1589年、無敵艦隊の勝利の熱狂が冷めやらぬ中、エリザベス女王の政府は、スペインに対して、決定的な反撃を加えることを決定しました。その計画は、スペインの残存艦隊を、サンタンデールやラ=コルーニャといった本国の港で殲滅し、続いてリスボンを攻略して、ポルトガルをスペインの支配から解放し、イングランドの傀儡政権を樹立するという、極めて野心的なものでした。この遠征は、「イングランド無敵艦隊」、あるいは「カウンター=アルマダ」として知られています。
この大規模な遠征の指揮官として、陸軍はサー=ジョン=ノリス、そして海軍はサー=フランシス=ドレークが、共同で任命されました。約150隻の艦船と、2万人以上の兵員からなる、イングランド史上でも、最大級の遠征軍でした。
しかし、この壮大な計画は、初めから、多くの問題を抱えていました。資金調達は、国家予算ではなく、女王と、ドレークを含む民間の投資家たちによる、共同出資の形で行われました。そのため、戦略的な目標よりも、戦利品を獲得するという、商業的な動機が、作戦の決定に、大きな影響を与えることになりました。また、ドレークとノリスという、二人の指揮官の間の連携も、円滑ではありませんでした。
遠征軍は、まず、スペイン北西岸のラ=コルーニャを攻撃しました。彼らは、町の低地部分を占領し、略奪を行いましたが、高台にある強固な城砦を攻略することはできませんでした。ここで、貴重な時間と兵力を浪費した挙句、彼らは、本来の主要目標であった、サンタンデールの残存艦隊への攻撃を断念し、次の目標であるリスボンへと向かいました。
リスボンへの攻撃も、惨憺たる結果に終わりました。ノリス率いる陸軍は、リスボンのはるか手前で上陸し、炎天下を、敵の抵抗に遭いながら、困難な行軍を強いられました。彼らが、ようやくリスボンの城壁にたどり着いたときには、兵士たちは、戦闘と病気で、疲弊しきっていました。ドレーク率いる海軍は、タホ川の河口にある要塞群を突破できず、陸軍を効果的に支援することができませんでした。期待していたポルトガル民衆の蜂起も、全く起こりませんでした。
攻城兵器も、食料も不足し、遠征軍は、何の成果も上げられないまま、撤退を余儀なくされました。この遠征は、完全な失敗でした。イングランドは、数千人の兵士と、多数の艦船を失い、財政的にも、大きな損失を被りました。
この大失敗の責任は、主に、指揮官であったドレークとノリスに帰せられました。特にドレークは、女王の命令に背き、戦略目標よりも、略奪を優先したと非難されました。彼は、女王の寵愛を失い、その後、数年間にわたり、公的な役職から遠ざけられ、プリマスの自邸で、不遇の時を過ごすことになります。かつての英雄は、一転して、失敗した指揮官の烙印を押されてしまったのです。
最後の航海とパナマでの死
1590年代半ば、スペインとの戦争が、泥沼化の様相を呈する中で、ドレークは、再び、名誉挽回の機会を求めます。彼は、かつて自らが成功を収めた、カリブ海への大規模な遠征を、再び計画し、女王に提案しました。彼の主張は、スペインの富の源泉である、パナマ地峡を、今度こそ恒久的に占領し、新世界の富の流れを、完全に断ち切るというものでした。
エリザベス女王は、この計画を承認し、1595年、ドレークと、彼の長年の盟友であり、ライバルでもあった、サー=ジョン=ホーキンスを、共同司令官とする遠征隊の派遣を決定しました。27隻の艦船と、2500人の兵員からなる、大規模な艦隊でした。
しかし、この最後の航海は、初めから、不運と不和に見舞われました。ドレークとホーキンスという、二人の老いた指揮官は、作戦方針をめぐって、常に対立しました。また、彼らが出航する前に、その計画は、スペイン側のスパイに、完全に漏れていました。スペインは、カリブ海の防御体制を、大幅に強化して、彼らを待ち構えていたのです。
遠征隊は、まず、カナリア諸島のラス=パルマスを攻撃しましたが、撃退されました。次に、カリブ海で、プエルトリコのサンフアンを攻撃しましたが、ここの要塞も、以前とは比べ物にならないほど強化されており、攻撃は、大きな損害を出して失敗しました。この戦闘の最中に、ジョン=ホーキンスが、病のために、船上で亡くなりました。
指揮権を一身に引き継いだドレークは、かつて自らが成功を収めたパナマ地峡へと、艦隊を向けました。彼は、ノンブレ=デ=ディオスを容易に占領しましたが、町は、すでに放棄され、もぬけの殻でした。彼は、陸軍部隊を、地峡を横断させて、太平洋岸のパナマ市を攻撃させましたが、部隊は、ジャングルの中で、スペイン軍の待ち伏せに遭い、大きな損害を出して、撃退されてしまいました。
20年以上前、シマロンの助けを借りて、少人数で奇跡的な成功を収めた場所で、今や、大規模な軍隊を率いたドレークは、屈辱的な敗北を喫したのです。時代は、変わっていました。スペインは、もはや、彼のゲリラ戦術が通用する、無防備な帝国ではなかったのです。
この失敗は、老いたドレークの心身に、決定的な打撃を与えました。彼は、熱病(おそらく赤痢)にかかり、急速に衰弱していきました。1596年1月28日の早朝、彼の艦隊が、パナマのポルトベロの沖合に停泊している間に、サー=フランシス=ドレークは、自らの船室で、55年の波乱に満ちた生涯を閉じました。
彼の遺体は、鉛の棺に納められ、完全な武装を施された上で、トランペットの音と、大砲の弔砲と共に、カリブ海の海中へと、水葬に付されました。イングランドの最も偉大な船乗りは、彼が、その名声を築き、そして最後に敗れたカリブの海で、永遠の眠りについたのです。
サー=フランシス=ドレークの生涯は、エリザベス朝イングランドという時代の、野心、活力、そして矛盾を、一人の人間のうちに見事に体現したものでした。デヴォンの貧しい農家の息子から、国家の英雄、そして生ける伝説へと駆け上がった彼の物語は、個人の才能と大胆さが、時代の大きなうねりと結びついたときに、何が可能になるかを示す、類まれな実例です。
彼は、間違いなく、史上最も偉大な航海者の一人でした。その卓越した操船技術、天性のリーダーシップ、そしていかなる困難にも屈しない不屈の精神は、彼を、前人未到の航海へと導きました。マゼランに次ぐ世界一周の達成は、単なる地理上の発見にとどまらず、イングランド人の精神的な視野を、世界規模へと拡大させる、画期的な出来事でした。
ドレークはまた、女王エリザベスの非公式な戦争における、最も有能で、最も成功した代理人でした。彼は、私掠という、海賊行為と愛国心の境界線上の活動を通じて、巨大帝国スペインの富を奪い、その力を削ぎ、イングランドの国庫を潤しました。彼の活動は、イングランドが、正規の戦争という、高くつく手段に訴えることなく、大国スペインと渡り合うことを可能にした、極めて効果的な非対称戦略でした。
そして、国家の存亡が危機に瀕したとき、彼は、海軍提督として、その防衛の最前線に立ちました。無敵艦隊との戦いにおける彼の役割は、彼を、国民的な英雄の地位へと押し上げ、その名は、イングランドの独立と、プロテスタント信仰の勝利の象徴となりました。
しかし、彼の人物像は、単純な英雄譚に収まるものではありません。彼の成功は、常に、暴力、略奪、そして冷酷な決断と、分かちがたく結びついていました。スペイン人にとって、彼は、紛れもなく、破壊と恐怖をもたらす「竜」でした。世界一周航海の途中で、友人トーマス=ダウティを処刑した彼の行動は、その非情な一面を物語っています。彼の動機は、純粋な愛国心だけでなく、富と名声に対する、飽くなき個人的な渇望によっても、強く動かされていました。
晩年の失敗は、彼の物語に、人間的な悲劇の影を落としています。かつては、彼の最大の武器であった、大胆で、型破りな戦術は、より組織化され、規律が重んじられるようになった、新しい戦争の形態の中では、もはや通用しなくなっていました。彼は、自らが作り出すのに貢献した時代の変化に、最後は、追いつくことができなかったのです。
にもかかわらず、フランシス=ドレークが、イギリス史、そして世界の海洋史に残した遺産は、計り知れないものがあります。彼は、イングランドが、内向きの島国から、外向きの海洋帝国へと変貌していく、その扉を、自らの手でこじ開けました。
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