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囲い込み(エンクロージャー)《第1次》とは わかりやすい世界史用語2640
著作名: ピアソラ
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囲い込み(エンクロージャー)《第1次》とは

イングランドの歴史を紐解くとき、その風景と社会の変容を理解する上で「エンクロージャー(囲い込み)」という言葉は避けて通れません。これは単なる土地の区画整理ではなく、何世紀にもわたってイングランドの農村社会の根幹を揺るがし、人々の暮らし、経済の仕組み、そして国家の形さえも変えていった、静かで、しかし根源的な革命でした。一般にエンクロージャーは、18世紀から19世紀にかけて議会法によって大規模に進められた「第2次エンクロージャー」がよく知られていますが、そのはるか以前、テューダー朝とステュアート朝の時代、すなわち15世紀後半から17世紀初頭にかけて、最初の大きな波が存在しました。これが「第1次エンクロージャー」と呼ばれる歴史的現象です。

この第1次エンクロージャーは、中世以来のイングランド農村の伝統的な姿であった「開放耕地制(オープンフィールド=システム)」を解体し、土地を個々の所有者の管理下に置く動きでした。かつて村人たちが共同で利用し、入り組んだ地割りで耕作していた土地が、生垣や堀、柵によって物理的に囲い込まれ、排他的な個人所有地へと姿を変えていったのです。この動きの背後には、強力な経済的な動機がありました。それは、当時イングランド最大の産業として急成長していた毛織物産業の隆盛と、それに伴う羊毛価格の高騰です。穀物栽培よりもはるかに収益性の高い羊の放牧のために、より広大な牧草地を確保しようとする地主たちの欲望が、この土地革命の主要な原動力となりました。

しかし、この経済合理性の追求は、農村社会に深刻な亀裂と苦痛をもたらしました。共同利用地(コモンズ)での放牧権や落穂拾いの権利といった慣習的な権利に生計の一部を依存していた多くの貧しい農民たちは、エンクロージャーによってその生活基盤を奪われました。土地を失い、村を追われた人々は、賃金労働者になるか、あるいは都市へと流れ着く浮浪者となるしかありませんでした。トマス=モアがその著書『ユートピア』で「羊が人間を食らう」と嘆いたのは、まさにこの時代の現実を指しています。



エンクロージャー以前
第1次エンクロージャーがなぜイングランド農村社会にそれほど大きな衝撃を与えたのかを理解するためには、まず、それが破壊の対象とした、中世以来の伝統的な農業システム、すなわち「開放耕地制(オープンフィールド=システム)」がどのようなものであったかを把握する必要があります。これは単なる農法ではなく、村全体の社会構造や共同体の秩序と分かちがたく結びついた、生活様式そのものでした。

開放耕地制の構造
典型的な中世イングランドの荘園(マナー)の風景を想像してみてください。村の中心には教会と荘園領主の館があり、その周りに農民たちの住む家々が寄り集まっています。そして、その村落を取り囲むように広大な耕地が広がっていました。この耕地が、開放耕地制の主たる舞台です。

この耕地は、通常、二つまたは三つの巨大な圃場(フィールド)に分割されていました。これらの圃場には、それぞれを隔てる恒久的な生垣や柵は存在せず、その名の通り「開放」されていました。そして、それぞれの圃場は、さらに「ファーロング」と呼ばれる区画に分かれ、そのファーロングが、さらに「ストリップ」または「セルリオン」と呼ばれる、幅の狭い、細長い短冊状の耕作地に細分化されていました。一つのストリップは、牛や馬が鋤を引いて一日に耕せる面積の目安である1エーカー(約0.4ヘクタール)か、その半分の半エーカー程度の広さが一般的でした。

このシステムの最大の特徴は、村の各農民が保有する土地が、一か所にまとまっておらず、これらの巨大な圃場の中にばらばらに分散していたことです。例えば、ある農民は、第1圃場に2本のストリップ、第2圃場に3本のストリップ、そして第3圃場に1本のストリップを、それぞれ異なる場所に所有しているといった具合でした。荘園領主が直接経営する土地(デメスネ)も、同様に分散していることが多くありました。この土地の分散は、一見すると非効率に思えますが、村内の異なる土壌条件や日当たりといったリスクを全ての村人に公平に分配するという、重要な機能を持っていました。

共同体による運営
この複雑な土地利用は、個々の農民の自由な判断で運営できるものではなく、村の共同体による厳格なルールと協力に基づいていました。

共同耕作:農作業の多くは共同で行われました。特に、重い車輪付きの鋤(プラウ)を引くためには、6頭から8頭もの牛や馬が必要であり、一人の農民がこれだけの家畜を所有することは稀でした。そのため、村人たちは互いに家畜を出し合って「プラウ=チーム」を編成し、共同で土地を耕しました。

輪作体系:土地の地力を維持するため、輪作が行われました。三圃制の場合、一つの圃場には秋に小麦やライ麦を蒔き、二つ目の圃場には春に大麦や燕麦、豆類を蒔き、そして三つ目の圃場は、地力を回復させるために一年間休ませる「休閑地」とされました。このサイクルは毎年圃場ごとにローテーションされました。どの圃場に何を植え、いつ休閑地にするかという決定は、村の集会で共同で決められました。個々の農民が自分のストリップに勝手に違う作物を植えることは許されませんでした。

共同放牧:収穫が終わった後の耕地(刈跡地)や休閑地は、村の共同の牧草地として全ての村人の家畜に開放されました。これにより、家畜は収穫後の落ち穂や雑草を食べ、その糞尿が土地の肥料となりました。この共同放牧の権利は、特に自分の土地をほとんど、あるいは全く持たない貧しい農民にとって、数少ない家畜を養うための生命線でした。

コモンズの役割
開放耕地の周りには、さらに「コモンズ(共同利用地)」と呼ばれる土地が広がっていました。これには、牧草地、森林、荒蕪地、沼沢地などが含まれます。このコモンズは、特定の個人に属するのではなく、荘園のメンバー全員が慣習的な権利に基づいて共同で利用する土地でした。

放牧権:村人は定められた数の家畜(牛、馬、羊、豚など)をコモンズで放牧する権利を持っていました。これは、農民が牛乳や肉、そして労働力である家畜を維持するための不可欠な基盤でした。

燃料採集権(エスタバーズ):森林から枯れ木や落ち枝を拾い集め、日々の炊事や暖房のための燃料とする権利です。

建材採集権(ハウスボート):森林から家の修理や柵を作るための木材を得る権利です。

泥炭採掘権(ターバリー):沼沢地などから燃料となる泥炭(ピート)を掘り出す権利です。

これらのコモンズにおける利用権は、正式な文書で定められていることは稀で、多くは「記憶の及ばない古くからの慣習」として世代から世代へと受け継がれてきました。これらの権利は、特に土地を持たないか、ごくわずかしか持たない農村社会の最下層の人々(コッターやレイバラー)にとって、現金収入を補い、自給自足の生活を支える上で決定的に重要な意味を持っていました。

このように、開放耕地制は、個人の利益よりも、共同体の安定と構成員の生存保障を優先するシステムでした。それは、村人同士の相互依存と協力を前提とし、変化よりも伝統を重んじる保守的な社会秩序を維持していました。しかし、この古くからのシステムが、15世紀以降、新たな経済の波に洗われ、その土台から揺さぶられることになるのです。

エンクロージャーの動機と要因
中世を通じてイングランド農村社会の安定を支えてきた開放耕地制が、15世紀後半から急速に解体され始めた背景には、単一ではない、複数の、しかし相互に関連した経済的、社会的な要因が存在しました。その最も強力な原動力は、イングランド経済の構造を根底から変えつつあった毛織物産業の爆発的な成長でした。

羊毛価格の高騰と牧羊の収益性
14世紀以降、イングランドは単なる羊毛の原料供給地から、自国で毛織物を生産し、輸出する国へと大きく転換していきました。特に15世紀から16世紀にかけて、イングランド産の毛織物はヨーロッパ大陸の市場で絶大な人気を博し、その輸出量は飛躍的に増大しました。毛織物産業は、イングランド最大の国家産業となり、その富は国家財政を支える屋台骨となりました。

この毛織物産業の隆盛は、その原料である羊毛の需要をかつてないほどに高めました。羊毛の価格は高騰を続け、他の農産物、特に穀物の価格をはるかに上回るようになりました。この「羊毛ブーム」は、土地所有者たちの経済的な計算を根本的に変えました。

土地を伝統的な穀物栽培に使うよりも、羊を放牧するための牧草地として利用する方が、はるかに多くの利益を生むことが明らかになったのです。羊の放牧は、穀物栽培に比べて必要な労働力が格段に少なくて済みました。一人の羊飼いが広大な土地で何百頭もの羊の群れの世話をすることができました。これは、黒死病以降、労働者の賃金が高止まりしていた状況において、地主にとって極めて魅力的な選択肢でした。

「羊は、金の蹄を持っている」ということわざが、この時代の土地所有者たちの共通認識となりました。彼らの目は、利益を最大化するための最も効率的な土地利用法へと向けられました。そして、その答えが、開放耕地や共同利用地を囲い込み、広大な個人の羊牧場へと転換することだったのです。

黒死病後の社会変動
14世紀半ばの黒死病(ペスト)の大流行は、イングランドの人口を激減させ、農村社会の構造に長期的な影響を及ぼしました。労働力が希少になったことで、農民の立場は相対的に強くなり、賃金は上昇し、かつての荘園制度における身分的な束縛は緩んでいきました。

この変化は、エンクロージャーを二つの側面から促進しました。

第一に、前述の通り、労働コストの上昇は、地主たちに、労働集約的な穀物栽培から、省力的な牧羊へと経営を転換させる強い動機を与えました。

第二に、荘園制度の解体は、領主と農民との間の伝統的な相互依存関係を弱めました。領主は、もはや農民を土地に縛り付けられた労働力としてではなく、土地を貸し出す相手、すなわち借地人(テナント)として見るようになりました。彼らの関心は、土地からいかにして最大の現金収入(地代)を得るかという、純粋に経済的なものへと移っていきました。土地を細切れのストリップとして多数の小作人に貸すよりも、広大な区画にまとめて、一人の裕福な借地農(ヨーマン)や大規模な牧羊業者に高い地代で貸し出す方が、はるかに効率的で収益性が高かったのです。このため、多くの地主は、小作人たちを土地から立ち退かせ、エンクロージャーを強行しました。

土地市場の活性化と新しい地主層
テューダー朝の時代、特にヘンリー8世による宗教改革は、イングランドの土地所有のあり方に巨大な変化をもたらしました。1530年代、ヘンリー8世はローマ=カトリック教会と決別し、国内の何百もの修道院や教会領を解散させ、その膨大な土地と財産を没収しました。

この「修道院解散」によって国王の手に渡った広大な土地は、戦費の調達や王室財政の補填のため、市場で売却されました。これにより、イングランドの歴史上、前例のない規模の土地が市場に放出されたのです。

これらの土地の主な買い手となったのは、伝統的な大貴族だけではありませんでした。毛織物貿易などで富を蓄積した商人、法律家、そして宮廷に仕える役人といった「新しい」階級の人々がこぞって土地を購入しました。彼らは、土地を社会的地位の象徴としてだけでなく、利益を生むための投資対象として捉えていました。彼らは、伝統や慣習に縛られることなく、最新の、そして最も収益性の高い農業経営を導入することに熱心でした。エンクロージャーは、彼らにとって土地の価値を最大化するための最も合理的な手段でした。

このようにして、土地はもはや単なる生活の場や身分の証ではなく、売買され、利益を生むための「商品」としての性格を強めていきました。この土地市場の活性化と、新しい、商業的な精神を持った地主層の出現が、エンクロージャーの動きをさらに加速させることになったのです。

農業技術の改良への関心
エンクロージャーを推進した動機は、牧羊だけではありませんでした。一部の進歩的な地主や、大規模な借地農(ヨーマン)の間では、農業生産性そのものを向上させたいという意欲も高まっていました。

共同体の厳格なルールに縛られた開放耕地制の下では、新しい農法や作物を導入することは極めて困難でした。例えば、一人の農民が自分のストリップで新しい種類の飼料作物を栽培しようとしても、村の共同の輪作体系に反することは許されませんでした。また、収穫後には土地が共同放牧地として開放されてしまうため、冬作物を栽培することも困難でした。家畜の品種改良も、共同の牧草地で様々な家畜が入り混じって飼育されている状況では不可能でした。

土地を囲い込み、個人の排他的な管理下に置くことによって、初めて土地所有者は、自らの判断で新しい試みを行うことが可能になりました。彼らは、カブやクローバーといった新しい飼料作物を導入し、家畜の飼育と穀物栽培を組み合わせた、より集約的な混合農業を試み始めました。これにより、土地を休閑地にすることなく、一年中生産的に利用し、地力を維持、向上させることが可能になったのです。

このような農業改良への関心は、第1次エンクロージャーの段階ではまだ限定的でしたが、それは後の18世紀の「農業革命」へとつながる重要な萌芽でした。エンクロージャーは、単なる牧草地の拡大だけでなく、より合理的で科学的な農業経営への第一歩でもあったのです。

エンクロージャーの手法
エンクロージャー、すなわち開放耕地や共同利用地を、個人の排他的な所有地へと転換するプロセスは、様々な手法を用いて実行されました。その方法は、関係者間の合意に基づく比較的平和的なものから、地主による一方的で暴力的なものまで多岐にわたりました。いずれにせよ、それは村の古くからの土地利用の秩序を根本から覆す行為でした。

合意によるエンクロージャー
最も穏健な方法は、荘園領主と土地を保有する全ての農民との間の合意によってエンクロージャーを実行するものでした。

この場合、まず村の土地全体が測量され、評価されます。そして、各農民が開放耕地の中にばらばらに所有していたストリップの総面積と価値に見合うように、一か所にまとまった土地が新たに割り当てられました。共同利用地(コモンズ)も同様に分割され、各土地保有者の持ち分に応じて分配されました。

このプロセスが完了すると、各人が新たに割り当てられた土地の周囲に生垣を植えたり、柵を設けたりして物理的に土地を囲い込みました。これにより、村の風景は、細切れのストリップが広がる開放的な空間から、生垣で区切られた個々の畑が並ぶパッチワークのような景観へと一変しました。

この「合意によるエンクロージャー」は、理論上は最も公平な方法でした。しかし、現実にはいくつかの問題がありました。まず、この合意は荘園内の全ての土地保有者の同意を必要としました。一人でも反対者がいれば実行は困難でした。また、このプロセスは、裕福で多くの土地を保有する大規模な農民にとっては土地を集約し経営を効率化できるという大きなメリットがありましたが、ごくわずかな土地しか持たない小規模な農民にとっては必ずしも有利ではありませんでした。彼らは、土地の測量や新しい区画の登記、そして生垣の設置といった費用を負担することができず、結局、新たに割り当てられたわずかな土地を裕福な隣人に売却せざるを得なくなることも少なくありませんでした。

地主による一方的なエンクロージャー
より一般的で、社会的な摩擦を激しく引き起こしたのが、荘園領主や、その土地を借り受けた大規模な借地人(リースホルダー)による一方的なエンクロージャーでした。

彼らは、自らが直接経営する土地(デメスネ)や、借地契約が切れた農民の土地を次々と囲い込み、一つの大きな牧場へと転換していきました。彼らは、慣習的に土地を保有してきた小作人(コピーホルダー)たちを、様々な法的、あるいは非合法的な手段を用いて土地から追い立てました。

例えば、地主は、コピーホルダーが土地の保有権を更新する際に法外な入会金を要求したり、あるいは彼らの保有権を証明する荘園裁判所の記録の些細な不備を見つけ出してその権利を無効であると主張したりしました。また、借地契約で土地を借りている小規模な農民に対しては、契約の更新を拒否し、立ち退きを強制しました。

最も貧しい農民たちの生活を直撃したのは、共同利用地(コモンズ)の囲い込みでした。地主は、自らが荘園の「土壌の主」であることを根拠に、コモンズを自らの私有地であると宣言し、それを囲い込んでしまいました。これにより、村人たちは、家畜を放牧したり、燃料を拾ったりする古くからの権利を一夜にして失うことになりました。土地を全く所有していなかった最下層の農民たちにとって、これは生活の糧を完全に奪われることを意味しました。

このような地主による一方的なエンクロージャーは、しばしば暴力的な手段を伴いました。地主は農民の家を破壊し、彼らが抵抗すれば力ずくで排除しました。農民たちが囲い込みに抗議して新しく作られた生垣や柵を破壊する「エンクロージャー暴動」も各地で頻発しました。しかし、荘園裁判所や国王の裁判所において、法的な力と財力で勝る地主に対して、個々の農民が対抗することは極めて困難でした。

土地の集約と借地経営
エンクロージャーによって土地を手に入れた地主は、その土地を自ら大規模な牧羊場として経営することもあれば、より一般的には、一人の裕福な借地農にまとめて貸し出しました。

この大規模な借地農(しばしばヨーマン階級に属する)は、地主に対して高額の現金地代を支払い、その土地で市場向けの商業的な農業を営みました。彼らは、最新の農法を導入し、多くの農業労働者を日雇いや年季契約で雇い入れ、効率的な農業経営を追求しました。

この結果、イングランドの農村社会には、「地主(ランドロード)」、「資本家的な借地農(キャピタリスト=ファーマー)」、そして「賃金労働者(ウェイジ=レイバラー)」という、三つの階級からなる近代的な階級構造が形成されていきました。これは、かつての領主と農奴、あるいは共同体のメンバーとしての農民からなる身分的な社会構造とは全く異なるものでした。エンクロージャーは、土地の風景だけでなく、農村の人間関係そのものを、契約と金銭に基づく非人格的なものへと変えていったのです。

「人口減少」と「村の破壊」
エンクロージャーの最も劇的な形態は、村全体の破壊でした。これは、特にイングランド中部のミッドランド地方で顕著に見られました。

この地域では、荘園領主が荘園内の全ての農民を立ち退かせ、村全体を一つの巨大な羊牧場に変えてしまうという極端な事例が数多く報告されています。農民の家々は打ち壊され、教会さえも廃墟と化し、かつて何十もの家族が暮らしていた村は、一人の羊飼いと、その犬、そして何千頭もの羊がいるだけの、静まり返った緑の丘へと姿を変えました。

同時代の人々は、この現象を「人口減少(ディポピュレーション)」と呼び、恐怖と怒りをもって語りました。彼らにとって、それは単なる経済的な変化ではなく、キリスト教徒の共同体が破壊され、社会の道徳的な基盤が崩壊していく、恐ろしい光景でした。16世紀の説教師や作家たちは、このようなエンクロージャーを行う地主を「貪欲な狼」や「国の癌」として激しく非難しました。

これらの手法を通じて、エンクロージャーはイングランドの農村風景を不可逆的に変えていきました。それは、効率性と利益を追求する新しい資本主義的な精神が、共同体の安定と生存を重んじる古い道徳経済に勝利していく過程でもあったのです。

社会的・経済的影響
第1次エンクロージャーがイングランド社会に与えた影響は、深刻かつ広範囲に及びました。それは、一部の階級に新たな富と機会をもたらす一方で、多くの人々を貧困と不安定な状況へと突き落としました。この変化は、農村社会の構造を根底から変容させ、新たな社会問題を生み出し、国家の統治に深刻な課題を突きつけました。

農民層の分解と貧困の増大
エンクロージャーの最も直接的で悲劇的な影響を受けたのは、イングランド農村の大多数を占める小規模な農民たちでした。彼らは、土地所有の形態や規模に応じて異なる運命を辿りましたが、その多くが土地との伝統的な結びつきを断ち切られることになりました。

コピーホルダー(謄本保有農):彼らは、慣習的な土地の保有権を認められていましたが、その権利はしばしば曖昧で、地主による法的な挑戦に対して脆弱でした。法外な更新料を要求されたり、保有権そのものを否定されたりして、土地を失う者が後を絶ちませんでした。

小規模な自由土地保有農(フリーホルダー):彼らは、法的にはより強固な土地の所有権を持っていましたが、合意によるエンクロージャーの際に発生する測量や囲いの設置費用を負担できず、結局その土地を手放さざるを得なくなるケースが多く見られました。

借地農(リースホルダー):彼らの土地保有は一定期間の契約に基づいていました。地主は契約期間が満了すると、更新を拒否し、彼らを容易に立ち退かせることができました。

そして、最も深刻な打撃を受けたのが、土地を全く所有していなかった農村の最下層民、すなわちコッター(小屋住農)やレイバラー(農業労働者)でした。彼らは、共同利用地(コモンズ)での放牧権や燃料採集権といった慣習的な権利にその生活の多くを依存していました。コモンズが囲い込まれることは、彼らにとって自給自足の生活を支える最後のセーフティネットを失うことを意味しました。

土地を失ったこれらの農民たちは、いくつかの限られた選択肢しか残されていませんでした。一つは、村に留まり、土地を持たない完全な賃金労働者となる道です。彼らは、大規模な借地農の下で日雇いや季節労働者として不安定な雇用に従事しました。彼らの生活は、もはや土地に根差したものではなく、労働市場の需給と賃金の変動に左右される極めて脆弱なものとなりました。

もう一つの道は、生まれ故郷の村を離れることでした。仕事を求めて他の村や町へとさまよう人々は浮浪者(ヴァグラント)として社会問題化しました。

浮浪者の増大と救貧法の制定
16世紀のイングランドでは、土地を追われ、仕事を求めて国内をさまよい歩く浮浪者の群れが深刻な社会問題となっていました。エンクロージャーは、この浮浪者を生み出す主要な原因の一つと見なされていました。

当時の支配階級は、これらの浮浪者を単なる貧しい人々としてではなく、社会の秩序を脅かす、怠惰で危険な存在と捉えていました。テューダー朝の政府は、浮浪者に対して極めて過酷な刑事罰で臨みました。捕らえられた浮浪者は、鞭打ちにされ、耳をそがれ、あるいは額に烙印を押されました。再犯者は死刑に処されることさえありました。

しかし、このような厳しい弾圧だけでは問題が解決しないことは明らかでした。エリザベス1世の治世の後半になると、政府の態度は徐々に変化していきます。貧困の問題を個人の道徳的な欠陥としてだけでなく、社会的な構造問題として捉え、それに対して国家が責任を持つべきであるという考え方が生まれ始めました。

その集大成が、1601年に制定されたエリザベス救貧法です。この法律は、イングランドの全ての教区(パリッシュ)に対して、救貧税を徴収し、それを用いて自らの教区内の貧民を救済することを義務付けました。貧民は、「働く能力のある貧民」、「働く能力のない貧民(老人、病人、障害者など)」、そして「怠惰な貧民(浮浪者)」に分類されました。働く能力のある者には仕事(例えば、亜麻や麻を紡ぐ作業)が与えられ、それを拒否すれば懲治院に送られました。働く能力のない者には、現金や現物による救済が与えられました。

この救貧法は、エンクロージャーによって生み出された大量の土地なし貧民という新しい社会問題に対する国家の体系的な応答でした。それは、後のイギリスの社会福祉制度の原型となる画期的な法律でしたが、その根底には、貧民を管理し社会秩序を維持するという強い統治的な意図がありました。

農業生産性の向上と商業化
エンクロージャーの社会的なコストは甚大なものでしたが、その一方で、農業経済の観点からはいくつかの肯定的な側面も指摘されています。

土地が個人の排他的な管理下に置かれたことで、地主や大規模な借地農は、より長期的で合理的な投資を行うことが可能になりました。彼らは、土地の排水改良を行ったり、新しい飼料作物を導入したり、家畜の品種改良を試みたりしました。これにより、土地の生産性は向上し、イングランドの農業は自給自足的な性格から市場向けの商業的な性格へと大きく転換していきました。

特に、牧羊業の大規模化と効率化は、イングランドの基幹産業であった毛織物産業のさらなる発展を支えました。また、エンクロージャーによって土地から切り離された大量の労働力は、長期的には、毛織物産業やその他の新しい産業に安価な労働力を供給する労働力プールを形成したと見ることもできます。

一部の歴史家は、この第1次エンクロージャーが、土地と労働力を商品化し、資本主義的な農業経営と賃金労働者階級を生み出したことで、後の産業革命のための社会的な前提条件を準備したと主張しています。この見方によれば、エンクロージャーは、多くの個人の悲劇を伴いながらも、イングランドが近代的な工業社会へと移行していく上で不可欠な「本源的蓄積」の一過程であったと位置づけられます。

しかし、このマクロな歴史的評価が、土地を追われた何世代にもわたる農民たちの苦しみを正当化するものではないことは言うまでもありません。第1次エンクロージャーが残した光と影は、近代イングランド社会の出発点における根源的な矛盾を象徴しているのです。

抵抗と政府の対応
地主による一方的なエンクロージャーと、それが引き起こす深刻な社会問題に対して、農民たち、そして国家は決して無抵抗であったわけではありません。農民たちは、時に暴力的な手段で抵抗し、政府は社会の安定を維持するため、エンクロージャーを規制しようと繰り返し試みました。この抵抗と規制の歴史は、第1次エンクロージャーが円滑に進んだプロセスではなく、激しい社会的緊張と対立の中で進行したことを物語っています。

農民の抵抗とエンクロージャー暴動
土地を奪われ、生活の糧を失った農民たちの最も直接的な抵抗の形は、新しく設置された囲いを破壊することでした。生垣は引き抜かれ、柵は打ち壊され、堀は埋められました。これらの行動は、しばしば夜陰に乗じて行われ、村人たちは顔を黒く塗ったり、女性の服を着たりして、正体がばれないように工夫しました。

時には、これらの散発的な抵抗が、大規模な組織的な反乱へと発展することもありました。

ケットの反乱(1549年):これは、テューダー朝の時代で最大規模の農民反乱でした。ノーフォーク州で、ロバート=ケットという地元のヨーマンに率いられた数千人の農民が蜂起しました。彼らの主な要求は、不正なエンクロージャーの中止と地代の引き下げでした。反乱軍は、ノリッジの町を占領し、独自の統治機構を樹立しましたが、最終的には政府軍によって鎮圧され、ケットを含む多くの指導者が処刑されました。

ミッドランド大反乱(1607年):これは、エンクロージャーそのものに直接反対した最も典型的な暴動でした。イングランド中部の、ノーサンプトンシャーやウォリックシャーといった、エンクロージャーが最も激しく進んでいた地域で発生しました。ジョン=レイノルズ、通称「キャプテン=パウチ」と名乗る指導者に率いられた農民たちは、「レベラーズ(水平派)」と自称し、各地でエンクロージャーの囲いを破壊して回りました。彼らは暴力の対象を人ではなく囲いという「物」に限定していましたが、この反乱もまた政府によって武力で鎮圧されました。

これらの大規模な反乱はいずれも失敗に終わりました。しかし、それは、エンクロージャーに対する民衆の深い怒りと絶望を支配階級に見せつけるには十分でした。これらの暴動の記憶は、その後も長く、地主たちに対する潜在的な脅威として生き続けました。

政府の反エンクロージャー政策
テューダー朝と初期ステュアート朝の政府は、エンクロージャーに対して、一貫して批判的かつ規制的な態度を取りました。これは、政府が貧しい農民の側に立っていたからというよりは、エンクロージャーが引き起こす社会不安と秩序の崩壊を深刻な脅威と見なしていたからです。

為政者たちにとって、エンクロージャーはいくつかの重大な問題を引き起こしました。

社会秩序の崩壊:エンクロージャーは浮浪者を生み出し、暴動の原因となり、社会の安定を根底から揺るがしました。

兵士の供給源の枯渇:当時のイングランドでは、国防を担う民兵の主な供給源は自作農階級(ヨーマン)でした。エンクロージャーによってこの階級が没落することは、国家の軍事的な基盤を弱めることを意味しました。

財政収入の減少:村が破壊され、人口が減少すると、政府が徴収する税金も減少しました。

このような懸念から、歴代の政府は、エンクロージャーの進行を食い止めようと、様々な法令を制定しました。1489年にヘンリー7世の下で最初の反エンクロージャー法が制定されて以降、16世紀を通じて十数回にわたり同様の法律が繰り返し制定されました。

これらの法律は、主に二つの内容を含んでいました。一つは、これ以上耕地を牧草地に転換することを禁止すること。もう一つは、すでにエンクロージャーによって破壊された農家を再建し、土地を再び耕作に戻すことを命じるものでした。

政府は、これらの法律を実行させるため、特別な調査委員会を設置し、全国に派遣しました。特に、大法官トマス=ウォルジーが1517年に行った大規模な調査や、プロテクター=サマセット公が1548年に行った調査は有名です。これらの委員会は、違法なエンクロージャーを行った地主を特定し、彼らを星室庁(スター=チェンバー)などの国王の特別裁判所に召喚して罰金を科しました。

しかし、これらの政府による一連の努力は、最終的にエンクロージャーの大きな流れを止めることはできませんでした。その理由はいくつかあります。

第一に、法律の執行が困難であったことです。中央政府の命令を地方で実行する責任を負っていたのは、地元の治安判事(ジャスティス=オブ=ピース)でした。しかし、彼ら自身がエンクロージャーによって利益を得ているジェントリ階級の一員であることが多く、法律の厳格な適用に熱心ではありませんでした。

第二に、地主たちは、法律の抜け穴を見つけることに長けていました。彼らは、罰金を支払うことを計算に入れた上で、エンクロージャーを強行しました。罰金の額よりも、エンクロージャーによって得られる利益の方がはるかに大きかったからです。

第三に、政府自身の政策の矛盾です。政府は、社会秩序の維持のためにエンクロージャーを規制しようとしながら、他方では国家の最大の収入源である毛織物産業の繁栄を望んでいました。この二つの目標は根本的に矛盾していました。

17世紀に入ると、政府の反エンクロージャー政策は次第にその実効性を失っていきます。チャールズ1世の親政の時代(1629年-1640年)に最後の、大規模な反エンクロージャー政策が試みられましたが、それは王室の財政難を補うために地主から罰金を取り立てるという財政的な動機が強く、もはや社会正義の実現という理念は失われていました。そして、清教徒革命とそれに続く王政復古を経て、議会における地主階級の力が決定的になると、国家がエンクロージャーに介入するという考え方自体が放棄されていきました。

知識人による批判
エンクロージャーが引き起こした社会的な苦難は、当時の知識人や聖職者たちの良心を強く揺さぶりました。彼らは説教や著作を通じて、エンクロージャーの非人道性を激しく告発しました。

最も有名な批判は、大法官であり人文主義者であったトマス=モアが1516年に著した『ユートピア』の中に見られます。この本の中で、彼は架空の旅行者、ラファエル=ヒスロデイの口を借りて、当時のイングランド社会を痛烈に批判します。その中で、彼はエンクロージャーについて、次のように述べています。

「あなた方の羊は、かつては、おとなしく、わずかな餌で、満足していたのに、今や、聞くところによると、非常に、大食いで、乱暴になり、人間さえも、食い尽くすようになってしまった。彼らは、畑も、家も、町も、荒廃させてしまうのです。」

この「羊が人間を食らう」という強烈な比喩は、エンクロージャーの本質を見事に捉え、後世に長く記憶されることになりました。

また、ヒュー=ラティマーのようなプロテスタントの宗教改革者は、国王エドワード6世の前で行った説教の中で、エンクロージャーを行う地主を「貪欲な地主」として名指しで非難し、彼らが神の裁きを受けるであろうと警告しました。

これらのコモンウェルス(公益)思想家と呼ばれる知識人たちは、個人の飽くなき利益追求が社会全体の共通の利益を破壊していると考えました。彼らは、国家(コモンウェルス)の真の富は金銀ではなく、そこに住む人々の福祉の中にあると主張し、為政者に対して貧しい人々を守るための道徳的な責任を果たすように求めました。

彼らの批判が直接エンクロージャーを阻止する力にはなりませんでしたが、それは、近代初期のイングランド社会に、資本主義的な経済倫理と、共同体的な道徳経済との間の、深刻な思想的対立が存在したことを示しています。

結論
15世紀後半から17世紀初頭にかけて、イングランドを席巻した第1次エンクロージャーは、単なる土地利用の変化にとどまらない、広範で根源的な社会変革でした。それは、毛織物産業の隆盛という経済的な力を背景に、中世以来の開放耕地制と共同体的な農村社会の秩序を解体し、土地の排他的な私的所有という近代的な概念を確立していくプロセスでした。

この過程は、一部の地主や大規模な借地農に莫大な富をもたらし、農業の商業化と生産性の向上への道を開きました。その意味で、それは、イングランドが近代的な資本主義社会へと移行していく上での重要な一里塚であったと評価することができます。土地と労働力が商品化され、農業の現場に資本家的な経営と賃金労働という新しい関係が導入されたことは、後の産業革命を準備する社会経済的な土壌を育んだとも言えるでしょう。

しかし、その一方で、この「進歩」の影は極めて暗く深いものでした。エンクロージャーは、何世代にもわたって土地と共に生きてきた無数の小農民からその生活基盤を奪い去りました。共同利用地という最後のセーフティネットを失った人々は、不安定な賃金労働者になるか、あるいは故郷を追われ、浮浪者としてさまようしかありませんでした。トマス=モアの「羊が人間を食らう」という嘆きは、この時代の無数の声なき人々の苦しみを代弁しています。

農民たちの暴動や政府による規制の試みも、結局は経済合理性の巨大な波を押しとどめることはできませんでした。しかし、その抵抗の歴史は、エンクロージャーが、決して一方的な勝利の物語ではなく、激しい社会的対立と道徳的葛藤の中で進行した複雑なドラマであったことを示しています。

第1次エンクロージャーによって、生垣で区切られたイングランドの新しい風景は、近代社会の効率性と生産性を象徴するものでした。しかし、その生垣の内側と外側には、富める者と持たざる者との深い断絶が刻み込まれていたのです。

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