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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

エスナーフとは わかりやすい世界史用語2341

著者名: ピアソラ
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エスナーフとは

オスマン帝国の「エスナーフ」は、オスマン帝国の都市部における職人、商人、その他の労働者を組織した社会経済的な制度(同業者組合)であり、帝国の社会構造、経済活動、都市生活において中心的な役割を担っていました。 エスナフは単なる経済団体ではなく、社会的、宗教的、さらには政治的な機能も果たし、メンバーの生活のあらゆる側面に深く関与していました。



エスナーフの起源と発展

オスマン帝国のエスナーフの正確な起源については、歴史家の間でも議論がありますが、いくつかの先行する制度や伝統がその形成に影響を与えたと考えられています。
有力な起源の一つとして、13世紀から14世紀にかけてアナトリアで栄えた「アヒ」と呼ばれる兄弟団が挙げられます。 アヒは、イスラム神秘主義(スーフィズム)の思想と職人の倫理規範を融合させた組織で、若者の勇気、寛大さ、もてなしといった価値を重んじる「フトゥッワ」の伝統に根ざしていました。 アヒ組織は、モンゴルの侵略から逃れてアナトリアに移住してきたトルコ系の職人たちが、現地のビザンツ帝国の職人たちの中で生き残り、連帯を保つために形成したものでした。 彼らは、質の高い製品を標準化して生産することで、自らの地位を確立しようとしました。 当初は宗教的な色彩が強く、メンバーはイスラム教徒に限られていましたが、その組織構造や倫理観は後のエスナーフに大きな影響を与えました。 初期のオスマン帝国のスルタンの中にもアヒのメンバーがおり、国家はアヒ組織を支援し、特権を与えていました。
また、オスマン帝国が征服したビザンツ帝国やその他の地域の既存の職人組織も、エスナーフの形成に寄与した可能性があります。 しかし、ビザンツ帝国末期の13世紀から14世紀にかけて、コンスタンティノープルにおける職人組織は衰退しており、ビザンツのギルド制度がどの程度オスマンのエスナーフに直接受け継がれたかは明確ではありません。 15世紀以降、オスマン帝国の支配が確立されると、エスナーフは帝国全土の主要な都市で急速に広まり、包括的な制度として発展しました。 17世紀には、イスタンブールをはじめとする主要都市で、ほぼすべての労働者が何らかのエスナーフに所属するようになりました。
17世紀半ばになると、非ムスリムの職人が増加したことなどから、ギルドは次第にその神秘主義的な性格を失い、世俗的な同業者組合へと変化していきました。 1727年の改革では、「ゲディク」と呼ばれる新しい制度が導入され、ギルドは再編成されました。ゲディクは独占権や特権を意味し、宗教的な区別なく職人を組織することを目的としていました。

エスナーフの組織構造と階層

エスナーフは、厳格な階層構造を持つ組織でした。 その構造は、徒弟制度に基づいており、見習い、職人補、親方という3つの主要な階級で構成されていました。
見習いは、通常10歳未満の少年が親や保護者の紹介で親方の元に入り、技術を学び始めます。 見習い期間は長く、通常は無給か最低限の賃金で働き、親方の工房や家庭で雑用もこなしました。 この期間は、単に技術を習得するだけでなく、ギルドの厳格な階層構造や伝統を体に染み込ませるための重要な過程でした。 2年から3年の見習い期間を終えると、式典を経て職人補に昇格しました。
職人補は、親方の下で働きながらさらに技術を磨きます。 3年間の職人補としての経験を積んだ後、ギルドの長老たちの前で試験を受けました。 試験では、専門技術だけでなく、宗教的・商業的な倫理に関する知識も問われました。 これに合格すると、特別な儀式を経て親方として認められ、自分の店を持つ権利を得ることができましたが、実際に店を構えるには空きが出るのを待つ必要がありました。 親方への昇進は、純粋な技術評価だけでなく、例えば亡くなった親方の未亡人と結婚するといった社会的な要因によって決まることもありました。
エスナーフの運営は、選挙で選ばれた役員によって行われました。 主要な役職には、以下のようなものがありました。
ケトヒュダ: ギルドの長であり、ギルドの利益を代表し、政府との交渉役を務める最も重要な役職です。 ケトヒュダは、ギルドの規則を設定し、メンバー間の紛争を解決し、政府の命令を伝達するなどの役割を担いました。
イートバシュ: ケトヒュダに次ぐ地位の役員で、ギルドの執行役員のような役割を果たしました。 ギルドの規則の執行、治安維持、見習いや職人補の訓練の監督などを担当しました。
シェイフ: 特に初期のアヒの伝統を色濃く残すギルドにおいて、精神的な指導者としての役割を果たしました。
長老たち: 経験豊富な親方の中から選ばれ、ギルドの意思決定や運営において重要な役割を果たしました。
これらの役員は、ギルドのメンバーの利益を守るために活動し、政府に対してギルドを代表しました。 エスナフは、内部規則である「ニザーム」を持っており、これはギルドのメンバー自身によって定められ、裁判所に登録されることで法的な効力を持つこともありました。 このニザームは、ギルドの自治権を示すものであり、メンバーの行動規範や生産基準などを定めていました。

エスナーフの経済的機能

エスナーフは、オスマン帝国の都市経済において不可欠な存在であり、多岐にわたる経済的機能を果たしていました。
第一に、エスナーフは生産活動の中心でした。 彼らは、都市の住民や軍隊が必要とする食料、衣類、その他の消費財を生産し、供給しました。 イスタンブールのような大都市では、人口の膨大な需要を満たすために、多種多様なエスナーフが存在し、活発な生産活動を行っていました。 17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビーによれば、イスタンブールには1,000を超えるギルドが存在し、料理人だけでも16の専門ギルドに分かれていたと記録されています。
第二に、エスナーフは品質と価格の管理を行いました。 政府は、都市の安定を維持するために、特にパンなどの生活必需品の価格を統制する「ナルフ」と呼ばれる制度を導入しており、エスナーフはこの価格規制を遵守する義務がありました。 また、エスナーフは製品の品質基準を定め、メンバーがそれを守るように監督しました。 粗悪な製品を製造したり、不正な価格で販売したりしたメンバーは、ギルドによって罰せられました。 この品質管理は、消費者を保護すると同時に、ギルド全体の評判を維持するためにも重要でした。
第三に、エスナーフは市場の独占と競争の制限を行いました。 政府は、特定の製品の生産や販売に関する独占権をエスナーフに与えることがありました。 これにより、エスナーフは新規参入者を制限し、メンバーの利益を保護することができました。 18世紀に導入された「ゲディク」制度は、工房を開く権利を売買可能にすることで、この独占をさらに強化するものでした。 ゲディクは、ギルドのメンバーが工房の道具や設備の使用権を独占することを可能にし、部外者の参入に対する障壁となりました。
第四に、エスナーフは原材料の調達と分配において重要な役割を果たしました。 特にイスタンブールのエスナーフは、帝国内のあらゆる原材料の供給源に対して優先的なアクセス権を与えられていました。 政府は、エスナーフを通じて原材料を分配し、生産が滞りなく行われるようにしました。 多くの都市では、エスナーフが州の代理人から決められた量の原材料を購入できる唯一の機関でした。
第五に、エスナーフは徴税の補助機関としても機能しました。 政府は、個々の職人から直接税を徴収する代わりに、エスナーフを通じて一括で税を徴収することがありました。 これにより、徴税プロセスが簡素化され、効率化されました。

エスナーフの社会的・宗教的機能

エスナーフは経済的な組織であると同時に、メンバーの社会生活全般を支える共同体でもありました。
エスナーフの最も重要な社会的機能の一つは、相互扶助です。 各ギルドは、病気や不慮の事故で働けなくなったメンバーを支援するための基金を持っていました。 メンバーは収入に応じてこの基金に拠出し、儀式の際の料金なども基金に納められました。 メンバーが亡くなった際には、ギルドが葬儀費用を負担し、遺族の面倒を見ることもありました。 このような社会保障機能は、国家の福祉制度が未発達であった当時において、人々の生活の安定に大きく貢献しました。
また、エスナーフはメンバーのアイデンティティ形成の場でもありました。 同じ職業に従事する人々が、社会的、経済的、政治的な結びつきによって強く結ばれ、ギルドへの所属は個人のアイデンティティの重要な一部となっていました。 ギルドの儀式や祭り、共同でのレクリエーション活動は、メンバー間の連帯感を強め、共同体意識を育みました。
宗教は、エスナーフの活動において重要な役割を果たしていました。 特に初期のエスナーフは、アヒの伝統を受け継ぎ、イスラム神秘主義と密接に結びついていました。 多くのギルドは、入会や昇進の際に宗教的な儀式を行い、共同での礼拝も組織していました。 ギルドのメンバーは、単に技術を学ぶだけでなく、道徳的・倫理的な規範に従うことが求められました。
しかし、オスマン帝国のエスナーフは、ヨーロッパのギルドとは異なり、宗教的に排他的ではありませんでした。 ヨーロッパのギルドがユダヤ人や異端と見なされたキリスト教徒を排除することが多かったのに対し、オスマン帝国のエスナーフは原則として非ムスリムにも開かれていました。 帝国が拡大し、多様な宗教を持つ人々が共存する中で、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒が同じギルドに所属することも珍しくありませんでした。 混合ギルドと、特定の宗教コミュニティだけで構成される同種ギルドの両方が存在しました。 例えば、サロニカの羊毛織物業はほぼユダヤ人によって独占されており、政府はこの独占を保護していました。 一方で、特に貧しい職人たちの間では、宗教を超えて協力し、富裕層に対抗する動きも見られました。 この宗教的多様性と寛容性は、オスマン帝国のミッレト制度(宗教共同体ごとの自治を認める制度)が実践的に機能していたことを示す好例とされています。

エスナーフと国家の関係

エスナーフとオスマン帝国政府との関係は、協力と統制という二つの側面を持つ複雑なものでした。
政府は、エスナーフを都市の経済と社会を安定させるための重要な手段と見なしていました。 エスナーフは、都市住民への物資供給、品質と価格の管理、徴税といった行政機能を担うことで、国家の統治に貢献しました。 政府はエスナーフに独占権などの特権を与えることでその活動を支援し、見返りとしてエスナーフを統制下に置こうとしました。 カディ(裁判官)やムフテシブ(市場監督官)といった役人が、エスナーフの活動を監督し、規則違反を取り締まりました。 特に首都イスタンブールでは、食料供給の安定が政治的な安定に直結するため、政府の介入はより強力でした。 例えば、パン屋や製粉業者のギルドは、政府の厳重な監督下に置かれていました。
一方で、エスナーフは完全に国家の統制下にあったわけではなく、ある程度の自治権を保持していました。 ギルドの役員は内部から選出され、内部規則(ニザーム)を独自に定めることができました。 彼らは、政府の政策に対して、時には交渉し、時には抵抗することで、自分たちの利益を守ろうとしました。 エスナーフは、集団で宮殿に行進したり、有力な宗教指導者を味方につけたりして、政府高官の罷免を要求するなど、政治的な影響力を行使することもありました。 1730年にイスタンブールで発生したパトロナ・ハリルの乱では、不満を抱いた職人や商人たちが反乱の主要な担い手となり、当時のスルタンであったアフメト3世を退位に追い込みました。 この反乱は、エスナーフが帝国の政治に大きな影響を与えうる存在であることを示しています。

エスナーフにおける女性の役割

オスマン帝国のエスナーフは、主に男性を中心とした組織でしたが、女性が全く排除されていたわけではありません。 特に繊維産業など、特定の分野では女性が重要な役割を果たしていました。 繭をほどいたり、絹糸を紡いだり、機織りをしたりする作業には、多くの若い女性が従事していました。
また、公式なギルド組織の外で、女性だけの生産者グループが存在することもありました。 例えば、布製品を作る女性たちは、女性だけの市場で互いに商品を交換していました。 アナトリアでは、アヒの伝統を受け継ぐ女性たちのグループが存在し、ヤギの放牧、カーペットや敷物の機織り、絹や綿製品の生産などを行っていました。 これらの女性グループは、孤児となった少女を保護して技術を教えたり、身寄りのない高齢女性の面倒を見たりするなど、社会的な役割も担っていました。
親方が亡くなった場合、その未亡人が工房の経営を引き継ぐこともありました。 また、職人補が親方の未亡人と結婚することで、親方の地位を得るという慣行も存在しました。 このように、女性は間接的ながらもエスナーフの継承に関与していました。
イェニチェリの介入とエスナーフの変化

17世紀以降、オスマン帝国の常備軍であるイェニチェリが、エスナーフの活動に深く関与するようになり、ギルドの構造に大きな変化をもたらしました。
当初、兵士は商業活動に従事することを禁じられていましたが、財政難から兵舎の外で生活し、副業を持つイェニチェリが増加しました。 彼らは、軍人としての特権を利用して、ギルドの規則を無視することができました。 例えば、ムフテシブやカディの監督を免れ、親方の資格を持たずに店を開いたり、定められた価格や品質基準を無視したりしました。
イェニチェリは、特に資本や高度な技術を必要としない行商などの職業に参入する傾向がありました。 彼らの参入は、既存のギルドの独占権を脅かし、市場の秩序を乱しました。 ギルドからの苦情はしばしば無視され、イェニチェリのギルドへの介入は、ギルドシステムの衰退の一因となったと考えられています。 1826年にイェニチェリが廃止されたことは、イスタンブールやダマスカス、アレッポといった都市の製造業やギルドの歴史に大きな影響を与えた出来事として再評価されるべきであると指摘されています。

エスナーフの衰退と終焉

18世紀から19世紀にかけて、オスマン帝国のエスナーフは、内外の様々な要因によって衰退の道をたどりました。
内部的な要因としては、前述のイェニチェリの介入に加え、ゲディク制度の普及が挙げられます。 ゲディクは当初、ギルドのメンバーを外部の競争から守るために導入されましたが、結果として工房の権利が売買の対象となり、親方たちがギルドの厳格な監督から離れ、独立した事業者として活動する傾向を強めました。 これにより、ギルドの結束力は弱まっていきました。
しかし、より決定的な打撃となったのは、外部からの経済的圧力、特にヨーロッパで起こった産業革命と、それに伴う安価な工業製品の流入でした。 1838年にイギリスと結ばれた通商条約は、外国製品に対する関税を大幅に引き下げ、オスマン市場における外国製品の優位性を決定的にしました。 厳格な価格規制の下で活動していたエスナーフは、大量生産された安価なヨーロッパ製品と競争することができず、多くの伝統的な手工業は急速に衰退しました。 これにより、多くの職人や商人が職を失い、貧困に陥りました。
19世紀のタンジマート改革期には、政府はエスナーフを近代的な「法人」へと再編成しようと試みましたが、これは限定的な成功しか収めませんでした。 ギルドの独占権(インヒサール)の廃止が改革の主要な目標の一つとされ、エスナーフが持っていた伝統的な特権の多くが失われました。 また、19世紀後半には、地方自治体の設立など、行政の近代化が進む中で、ギルドの監督機能や徴税機能は新しい行政機関に吸収されていきました。 ギルドの長の地位や責任をめぐる内部対立も、ギルドの解体を促進する一因となりました。
最終的に、オスマン帝国のエスナーフは、1910年から1912年にかけて公式に廃止されました。 青年トルコ党政府は、エスナーフに代わる「職人協会」を設立しましたが、これも大きな成功を収めることはなく、トルコ共和国の成立と共に、オスマン帝国のギルド制度は完全にその歴史的役割を終えました。
オスマン帝国のエスナーフは、単なる職人組合ではなく、都市社会の経済、社会、文化、宗教、そして政治のあらゆる側面に深く根ざした複合的な制度でした。 それは、アヒの兄弟団に由来する倫理観と、帝国の現実的な統治の必要性が融合して生まれた独特の組織でした。 エスナーフは、メンバーに経済的な安定と社会的なセーフティネットを提供し、都市の秩序維持に貢献する一方で、時には政府と対立し、政治的な変革の主体となることもありました。 宗教的な多様性を受け入れ、異なる信仰を持つ人々が協力し共存する場を提供したことは、オスマン社会の多文化的な性格を象徴していました。
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・エスナーフとは わかりやすい世界史用語2341

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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