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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

アシエンダ(大農園)制とは わかりやすい世界史用語2299

著者名: ピアソラ
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アシエンダ制の定義と起源

アシエンダ制は、スペインがアメリカ大陸を植民地化した時代に確立された土地所有と労働のシステムです。 この制度の根幹には、スペイン国王から個人、特にコンキスタドール(征服者)、兵士、役人へ与えられた広大な土地の所有権がありました。 これらの土地は「アシエンダ」と呼ばれ、その所有者は「アシエンダード」または「パトロン」として知られていました。 アシエンダは単なる農地ではなく、鉱業、製造業、畜産業など、多様な経済活動を含む複合的な生産単位でした。 当初、この土地の付与は、スペインによる新世界の征服と植民地化の功績に対する報酬として行われました。 アシエンダ制の主な目的は、植民地の経済を支配し、スペイン本国に富をもたらすことでした。 この制度は、先住民の労働力を利用して大規模な農業生産や鉱物採掘を行うことを可能にしました。 アシエンダは、その地域の経済的中心であるだけでなく、社会的、政治的な権力の中心でもありました。 アシエンダードは、自身の領地内で絶大な権力を持ち、しばしば地方政府の役人よりも大きな影響力を行使しました。 この制度は、ラテンアメリカの多くの地域で、植民地時代から独立後、さらには20世紀に至るまで、社会経済構造に深い影響を与え続けました。



アシエンダ制の起源は、スペイン本国で行われていたレコンキスタ(国土回復運動)の時代にまで遡ることができます。 レコンキスタの過程で、キリスト教徒の王たちはイスラム教徒から奪還した土地を、功績のあった貴族や騎士に分配しました。 この土地分配の慣行が、新世界におけるエンコミエンダ制、そしてアシエンダ制の原型となりました。 エンコミエンダ制は、特定の地域の先住民に対する貢納と労働を要求する権利をスペイン人入植者に与えるものでしたが、土地の所有権そのものを与えるものではありませんでした。 しかし、エンコミエンダ制の下で先住民労働力へのアクセスを得たエンコメンデーロたちは、次第にその地域の土地を事実上支配するようになりました。 16世紀を通じて、先住民人口の激減やスペイン国王によるエンコミエンダ制の制限(例えば1542年の新法)により、エンコミエンダ制は徐々に衰退していきました。 これに代わって、土地の直接所有に基づくアシエンダ制が発展しました。 スペイン国王は財政難を補うため、しばしば不法に占有されていた土地の所有権を追認する形で、または公有地を売却する形で、アシエンダの形成を促進しました。 これにより、アシエンダは植民地における主要な土地所有形態として確立され、広大な領地を持つ強力な地主階級が誕生しました。
アシエンダは、その地理的な位置や主要な生産活動によって多様な形態をとりました。 例えば、メキシコやペルーの高原地帯では、トウモロコシや小麦などの穀物生産が中心でした。 カリブ海地域やブラジル沿岸部では、サトウキビのプランテーションが発展し、輸出向けの砂糖生産が行われました。 アルゼンチンやウルグアイのパンパ(大草原)では、牛や羊の放牧を中心とした大規模な畜産アシエンダが形成されました。 また、ポトシ(現在のボリビア)やサカテカス(現在のメキシコ)のような鉱山地域の周辺では、鉱山労働者への食料供給を目的としたアシエンダが発展しました。 このように、アシエンダは地域の市場や国際貿易の需要に応じて、その生産内容を特化させていきました。 しかし、その形態に関わらず、アシエンダに共通していたのは、広大な土地と、その土地を耕作し生産活動に従事する従属的な労働力の存在でした。 この労働力は、アシエンダの経済的成功とアシエンダードの富の源泉であり、アシエンダ制の根幹をなす要素でした。

アシエンダ制における労働システム

アシエンダ制を支えた労働システムは、多様な形態の強制労働と従属的労働関係によって特徴づけられていました。 その中でも特に重要な役割を果たしたのが、債務奴隷制(ペオナヘ)です。 このシステムでは、アシエンダードは労働者(ペオン)に対して、食料、衣類、道具などを前貸ししました。 労働者は、この借金を労働によって返済することが義務付けられましたが、アシエンダードが運営する商店(ティエンダ・デ・ラヤ)での物価は不当に高く設定され、賃金は低く抑えられていたため、借金は雪だるま式に増え続けました。 この負債はしばしば親から子へと受け継がれ、労働者とその家族は世代を超えてアシエンダに縛り付けられることになりました。 法的には自由民であっても、事実上、土地を離れることのできない農奴のような状態に置かれていたのです。 この債務による束縛は、アシエンダードが安定的かつ安価な労働力を確保するための極めて効果的な手段でした。 ペオンは、アシエンダードの許可なく土地を離れることはできず、逃亡しようとすれば捕らえられ、罰せられました。
エンコミエンダ制からアシエンダ制への移行期には、レパルティミエント(またはミタ)と呼ばれる強制労働の割り当ても利用されました。 この制度は、先住民の共同体に対して、一定期間、鉱山やアシエンダでの労働を提供することを義務付けるものでした。 特にアンデス地域では、インカ帝国時代のミタ制度がスペインによって改変され、ポトシ銀山などの過酷な労働現場に多くの先住民が動員されました。 労働者は名目上、賃金を受け取ることになっていましたが、その額は極めて低く、しばしば現物で支払われました。 レパルティミエントは、先住民コミュニティの社会構造を破壊し、人口減少の一因ともなりました。 アシエンダードは、この制度を利用して季節的な労働需要を満たしましたが、次第により恒久的で安定した労働力供給源として、債務奴隷制への依存を深めていきました。
アシエンダの労働力は、債務奴隷であるペオンだけではありませんでした。 アシエンダの内部には、多様な身分や役割を持つ人々が存在しました。 例えば、小作人(アレンドタリオ)は、アシエンダの土地の一部を借りて耕作し、収穫物の一部を地代としてアシエンダードに納めたり、一定期間の労働奉仕を行ったりしました。 また、分益小作人(メディエロ)は、土地や種子、道具などをアシエンダードから提供され、収穫物をアシエンダードと折半する契約を結んでいました。 これらの小作人たちは、ペオンよりは自由度が高かったものの、依然としてアシエンダードに対して経済的に従属していました。 さらに、アシエンダには、管理人、監督者、職人、家事使用人など、様々な役割を担う人々が住んでいました。 これらの人々の中には、メスティーソ(スペイン人と先住民の混血)やムラート(白人と黒人の混血)も多く含まれており、アシエンダ内の複雑な社会階層を形成していました。 アフリカから連れてこられた奴隷も、特にカリブ海地域のサトウキビプランテーションなど、特定の地域や産業で重要な労働力として利用されました。 これらの多様な労働形態が組み合わさることで、アシエンダという巨大な経済単位の生産活動が維持されていたのです。

アシエンダの経済的機能と自給自足性

アシエンダの経済的な特徴は、その顕著な自給自足性にありました。 広大な領地内には、農地、牧草地、森林、水源などが含まれており、アシエンダは食料、衣類、建築資材など、生活に必要な物資のほとんどを自給することができました。 穀物、野菜、果物といった食料品はもちろんのこと、羊毛から織物を作ったり、皮革製品を生産したり、木材を加工して家具や建材を作ったりすることも行われました。 多くのアシエンダには、礼拝堂、鍛冶場、製粉所、そして労働者が買い物をするための商店(ティエンダ・デ・ラヤ)まで備わっていました。 この自給自足的な性格は、アシエンダを外部の経済的変動から守る役割を果たしました。 植民地経済は、しばしば鉱産物の国際価格の変動や、スペイン本国との貿易の不安定さに左右されましたが、アシエンダは内部で経済を完結させることで、ある程度の安定性を保つことができたのです。
しかし、アシエンダは完全に閉鎖された経済単位ではありませんでした。 多くの大規模アシエンダは、地域市場や国際市場と結びつき、商業的な生産を行っていました。 アシエンダの主な目的の一つは、アシエンダードとその家族に富と威信をもたらすことであり、そのためには余剰生産物を市場で販売し、現金収入を得る必要がありました。 例えば、鉱山都市の周辺に位置するアシエンダは、鉱山労働者や都市住民に食料(小麦、トウモロコシ、肉など)を供給する重要な役割を担っていました。 また、メキシコやペルーのアシエンダで生産された小麦粉や、アルゼンチンのパンパで生産された皮革や獣脂(タロー)などは、植民地内の他の地域や、さらにはヨーロッパへも輸出されました。 カリブ海地域やブラジルのサトウキビプランテーションは、その最たる例であり、生産された砂糖のほとんどはヨーロッパ市場向けでした。
アシエンダの経済運営において、アシエンダードは絶対的な権力を持っていました。 生産する作物の種類、作付け面積、労働者の管理、生産物の販売先や価格の決定など、すべての経済的な意思決定はアシエンダードによって行われました。 アシエンダの収益性を最大化することが常に最優先されたわけではありません。 アシエンダを所有することは、経済的な利益だけでなく、社会的地位や政治的権力の象徴でもありました。 そのため、アシエンダードの中には、利益の追求よりも、領地の広さや従属する労働者の数を誇示することに関心を持つ者もいました。 このような非効率的な経営は、しばしば土地の潜在的な生産性を十分に引き出せない原因となり、ラテンアメリカの農業発展の停滞につながったという指摘もあります。 とはいえ、アシエンダは植民地経済の根幹をなし、その生産活動は都市への食料供給、鉱業の維持、そしてスペイン本国への富の移転に不可欠な役割を果たしていました。 アシエンダは、自給自足的な側面と商業的な側面を併せ持つ、複雑な経済システムだったのです。

アシエンダの社会的・政治的役割

アシエンダは、単なる経済的な生産単位にとどまらず、植民地社会における社会秩序と政治権力の基盤でした。 アシエンダードは、自身の広大な領地内で、事実上の領主として君臨しました。 彼らは、領地内に住む数百人、時には数千人に及ぶ住民(ペオン、小作人、職人、家事使用人など)の生殺与奪の権を握っていました。 アシエンダードは、領地内の紛争を裁き、独自の規則を設け、私的な牢獄や鞭打ち台を持つことさえありました。 領地内にはアシエンダードの邸宅(カサ・グランデ)がそびえ立ち、その周りに労働者の住居、礼拝堂、作業場などが配置され、一つの閉鎖的な小宇宙を形成していました。 礼拝堂の司祭は、しばしばアシエンダードによって任命され、住民の精神的な生活をも支配下に置いていました。 このような状況下で、住民はアシエンダードに対して絶対的な忠誠を誓うことを期待され、パトロン(保護者)とクライアント(被保護者)という関係性が築かれました。 アシエンダードは、住民に最低限の生活保障(住居、食料、宗教的な儀式など)を提供する一方で、彼らの労働力と忠誠心を独占しました。 このパターナリズム(家父長主義)的な支配構造は、住民の自立を妨げ、アシエンダへの従属を永続させる役割を果たしました。
政治的な側面においても、アシエンダードは絶大な影響力を持っていました。 彼らは、地方の有力者として、しばしば地方自治体の役職を独占し、地域の政治を意のままに操りました。 中央政府の役人(コレヒドールやアルカルデ・マヨールなど)も、強力なアシエンダードの協力なしには、その地域の統治を円滑に行うことは困難でした。 アシエンダードは、姻戚関係や相互の利害関係を通じて、他のアシエンダードや都市のエリート層と広範なネットワークを形成し、植民地全体の支配階級であるクリオーリョ(植民地生まれのスペイン人)層の中核を担いました。 彼らは、その経済力と社会的威信を背景に、植民地政府の政策決定にも影響を及ぼしました。 例えば、自分たちに有利な税制を維持させたり、先住民労働力の確保に関する規制を緩和させたりすることがありました。
19世紀初頭にラテンアメリカ諸国がスペインから独立した後も、アシエンダ制とその支配構造はほとんど揺らぎませんでした。 独立革命を主導したのは、アシエンダードを含むクリオーリョのエリート層であり、彼らはスペイン本国の支配から脱することを望みましたが、植民地時代からの社会経済構造を根本的に変革する意図はありませんでした。 むしろ、独立後はスペイン国王という足枷がなくなったことで、アシエンダードの権力はさらに強化される傾向にありました。 新たに誕生した共和国の政治は、しばしば有力なアシエンダード一族の派閥争いの場となり、カウディーリョと呼ばれる軍事的な指導者(彼らの多くもまた大土地所有者であった)が権力を握ることも珍しくありませんでした。 このように、アシエンダ制は、ラテンアメリカにおける権威主義的な政治文化と、富と権力が一部の地主エリートに集中する不平等な社会構造を維持・再生産する上で、中心的な役割を果たし続けたのです。

アシエンダ制の衰退と土地改革

19世紀後半から20世紀にかけて、ラテンアメリカ諸国ではアシエンダ制に対する批判が高まり、その解体を求める社会運動や政治運動が活発化しました。 この動きの背景には、いくつかの要因がありました。 第一に、自由主義的な思想の普及です。 ヨーロッパの自由主義思想の影響を受けた知識人や政治家たちは、封建的な土地所有形態であるアシエンダ制が、個人の自由や経済の発展を阻害していると批判しました。 彼らは、土地市場を創出し、より効率的な農業経営を促進するためには、大土地所有を解体し、小規模な自作農を創設する必要があると主張しました。 第二に、輸出経済の発展です。 コーヒー、バナナ、ゴムといった新たな輸出作物の生産が拡大するにつれて、より近代的で資本集約的な農業経営(プランテーション)が求められるようになりました。 伝統的な自給自足型のアシエンダは、こうした新しい経済の要請に必ずしも適合しませんでした。 第三に、そして最も重要な要因は、農民自身の抵抗の激化です。 長年にわたる搾取と抑圧に苦しんできた農民たちは、土地の返還や労働条件の改善を求めて、各地で蜂起やストライキを繰り返すようになりました。
アシエンダ制の解体を目指す最も劇的な出来事の一つが、1910年に始まったメキシコ革命でした。 エミリアーノ・サパタのような農民指導者に率いられた革命軍は、「土地と自由」をスローガンに掲げ、大土地所有の解体と、村落共同体への土地の返還(エヒード制の復活)を要求しました。 革命後の1917年に制定された憲法は、土地改革の原則を明記し、その後の数十年間で、メキシコでは大規模な土地の再分配が実行されました。 多くのアシエンダが解体され、その土地は農民に分配されたり、共同所有地であるエヒードとして再編されたりしました。
メキシコ革命を皮切りに、20世紀を通じてラテンアメリカの多くの国で土地改革が試みられました。 1952年のボリビア革命では、農民組合の主導でアシエンダが占拠され、事実上の土地改革が断行されました。 翌年、政府はこれを追認する農地改革法を制定しました。 1959年に革命が成功したキューバでは、フィデル・カストロ政権が国内のすべての大土地所有地を接収し、国営農場や協同組合に転換しました。 1960年代には、アメリカの「進歩のための同盟」の支援の下、ペルー、チリ、コロンビアなどでも、より穏健な形での土地改革が進められました。 これらの改革は、アシエンダードから土地を(多くの場合、補償金を支払って)買い上げ、それを小作人や農民協同組合に再分配することを目指しました。 例えば、1969年にペルーのフアン・ベラスコ・アルバラード軍事政権が実施した土地改革は、国内の沿岸部のサトウキビプランテーションや山岳地帯の伝統的なアシエンダを解体し、農業生産協同組合(CAPs)や農民共同体へと再編する、当時としては最も急進的な改革の一つでした。
しかし、これらの土地改革の成果は、国や地域によって大きく異なり、必ずしも成功したとは言えません。 多くの場合、地主階級の強い抵抗に遭い、改革は骨抜きにされたり、不徹底なものに終わったりしました。 再分配された土地が、生産性の低い零細な土地に細分化されてしまい、農民の貧困を解決するには至らなかったケースも少なくありません。 また、土地を分配するだけでなく、農民が自立して農業経営を行うために必要な信用供与、技術指導、市場へのアクセスといった支援が不足していたことも、改革の効果を限定的なものにしました。 それでも、これらの土地改革は、ラテンアメリカの社会経済構造に深く根ざしていたアシエンダ制という巨大なシステムに終止符を打ち、何世紀にもわたって続いてきた地主支配の時代を終わらせる上で、決定的な役割を果たしたことは間違いありません。

アシエンダ制の遺産

アシエンダ制は、制度としては20世紀の土地改革によって解体されましたが、その遺産はラテンアメリカの社会、経済、政治に今なお深く刻み込まれています。 最も顕著な遺産は、極端な土地所有の不平等です。 多くの国で土地改革が試みられたにもかかわらず、依然として広大な土地がごく一部の富裕層や企業によって所有されている一方で、多くの農民は土地を持たないか、あるいは生活を維持するには不十分な零細な土地しか所有していません。 この土地所有の偏在は、ラテンアメリカにおける貧富の格差の根源的な原因の一つであり続けています。 土地を持たない農民は、都市部へ移住してスラムを形成したり、不安定な農業労働者として低賃金で働かざるを得ない状況に置かれています。
社会構造の面では、アシエンダ制が育んだパトロン・クライアント関係や家父長主義的な文化が、形を変えて存続しています。 地方の有力者(政治家や実業家など)が、地域住民に対して保護を与える見返りに、彼らの政治的な支持や忠誠を要求するという関係性は、多くの地域で見られます。 このような関係は、民主主義の健全な発展を妨げ、縁故主義や汚職の温床となることがあります。 また、アシエンダの閉鎖的な社会で育まれた、権威に対する服従の姿勢や、身分による差別意識も、人々の意識の中に根強く残っている場合があります。 先住民やアフリカ系住民に対する人種的な偏見や社会的・経済的な格差も、アシエンダ制における彼らの従属的な地位にその起源の一部を見出すことができます。
政治的には、アシエンダ制は強力な地主エリート層を生み出し、彼らが長年にわたって国政を支配する基盤となりました。 この伝統は、ラテンアメリカにおける権威主義的な政治体制や、一部のエリート層が国富を独占する寡頭制的な政治構造につながりました。 土地改革に対する地主階級の激しい抵抗は、しばしば軍事クーデターや内戦を引き起こし、政治的な不安定をもたらしました。 土地問題は、依然としてラテンアメリカの多くの国で、主要な政治的争点であり続けています。 農民団体や先住民団体は、さらなる土地の再分配や、祖先から受け継いできた土地の権利の承認を求めて、政府や大土地所有者との闘いを続けています。
経済的には、アシエンダ制はラテンアメリカの農業の発展を長期にわたって停滞させたという側面があります。 安価で豊富な労働力に依存し、技術革新や生産性の向上へのインセンティブが乏しかったため、非効率な土地利用が温存されました。 この遺産は、一部の近代的な輸出農業部門を除いて、ラテンアメリカの農業部門が依然として抱える課題の一つです。 総じて、アシエンダ制は、植民地時代に形成され、独立後も長く続いたラテンアメリカの社会経済構造の根幹をなすものであり、その解体後も、この地域の発展のあり方を規定し続ける複雑で多岐にわたる遺産を残したと言えます。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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