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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)

八旗とは わかりやすい世界史用語2231

著者名: ピアソラ
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八旗とは

17世紀初頭、のちに清王朝の初代皇帝となるヌルハチは、満洲の地に八旗と呼ばれる独自の社会・軍事組織を創設しました。 これは単なる軍隊の編成ではなく、すべての満洲人世帯をいずれかの「旗」に所属させることで、政治、経済、社会のあらゆる側面を統合管理する包括的なシステムでした。 八旗の創設は、それまで分裂していた女真の諸部族を統一し、強力な国家を築き上げる上で決定的な役割を果たしました。 この制度は、後金時代から清王朝の終焉に至るまで、中国史に巨大な足跡を残すことになります。



八旗制度の起源と成立過程

八旗制度の萌芽は、女真族の伝統的な狩猟形態に遡ることができます。 女真社会では、血縁や地縁で結ばれた小集団が「ニル」と呼ばれる狩猟隊を組織し、共同で狩りを行う習慣がありました。 このニルは、有事の際にはそのまま戦闘単位としても機能する、社会と軍事が一体化した組織でした。 指導者であるニル・エジェンが隊を率い、獲物は集団内で分配されました。
1583年、父と祖父を明の策略によって失ったヌルハチは、女真諸部族の統一事業に乗り出します。 当初、彼の兵力は父祖伝来のわずかな甲冑と、血縁者を中心とした小規模な集団に過ぎませんでした。 しかし、ヌルハチは卓越した軍事的才能と政治的手腕を発揮し、周辺の女真部族を次々と平定していきます。 彼の勢力が拡大するにつれて、指揮下の兵士の数も急増しました。 従来の小規模な狩猟集団のままでは、増大した兵力を効率的に管理・運用することが困難になったのです。
この課題に対応するため、ヌルハチは1601年に大規模な組織改革に着手します。 彼は伝統的なニルを再編し、300世帯(壮丁300人)を1つの「ニル」(佐領)とする新たな基本単位を定めました。 この改革は、単に兵士を登録するだけでなく、その家族を含めた全世帯を組織に組み込むという点で画期的でした。 当初、彼の軍隊は黄、白、赤、青の4つの色の旗をシンボルとする4つの部隊に分けられました。 これが「四旗」の始まりです。各旗は、それぞれの色の旗印によって戦場で識別されました。
ヌルハチの勢力はその後も拡大を続け、1615年には兵力もさらに増大しました。 これを受けて、彼は再び組織の拡充を図ります。既存の四旗に加え、それぞれの旗に縁取りを施した「鑲辺」(縁取り)旗を新たに創設したのです。 例えば、黄旗に対して縁取りのある鑲黄旗が作られました。 これにより、正黄、鑲黄、正白、鑲白、正紅、鑲紅、正藍、鑲藍の合計八つの旗が揃い、「八旗」制度が完成しました。 この時点で、八旗は女真社会のすべての人々を網羅する、巨大な社会・軍事複合体へと変貌を遂げていたのです。 ヌルハチは、この強力な組織を基盤として1616年にハン(汗)の位に就き、後金を建国しました。

八旗の組織構造

八旗制度は、社会と軍事を緊密に結びつけた、階層的な構造を持っていました。 その組織は、平時においては行政単位として機能し、戦時においては軍事単位として動員されるという二重の性格を帯びていました。

基本単位:ニル(佐領)
八旗の最も基本的な構成単位は「ニル」であり、中国語では「佐領」と訳されます。 1つのニルは、原則として300人の壮丁とその家族から構成されていました。 ニルの長は「ニル・エジェン」(佐領)と呼ばれ、平時には配下の世帯の戸籍管理、徴税、司法、福祉などを担当し、戦時には彼らを率いて出征しました。 ニルの編成にあたっては、既存の血縁や地縁といった共同体を基礎とすることもあれば、ヌルハチへの忠誠心を高めるために、意図的に異なる集団を混成して新たなニルを創設することもありました。 これにより、旧来の部族意識を希薄化させ、ヌルハチ個人への権力集中を図る狙いがありました。

中間単位:ジャラン(参領)とグサ(固山)
複数のニルを束ねる上位の単位として、「ジャラン」(参領)と「グサ」(固山)が設けられました。 5つのニルで1つのジャランが編成され、その長は「ジャラン・エジェン」(参領)と呼ばれました。 そして、5つのジャランが集まって1つの「グサ」、すなわち「旗」を形成しました。 「グサ」は八旗における最大の単位であり、その長は「グサ・エジェン」(固山額真)と呼ばれ、旗全体の指揮を執りました。 後に、グサ・エジェンは「都統」という中国風の官職名で呼ばれるようになります。

上三旗と下五旗
八旗全体は、さらに「上三旗」と「下五旗」という二つのグループに大別されていました。 上三旗は、鑲黄旗、正黄旗、正白旗の三旗で構成され、皇帝の直轄部隊とされました。 これは最も精強で信頼の厚い部隊であり、皇帝の親衛隊としての役割を担いました。 一方、残りの鑲白旗、正紅旗、鑲紅旗、正藍旗、鑲藍旗の五旗は「下五旗」と呼ばれ、当初はヌルハチの息子や甥といった皇族の諸王(ベイデ)によって分担して統治されていました。 しかし、後には皇帝権力の強化に伴い、下五旗も実質的に皇帝の直接的な管理下に置かれることになります。 この序列は、北京の紫禁城周辺における旗人の居住区の配置にも反映されていました。

左右両翼
戦闘時や行軍の際には、八旗は「左翼」と「右翼」に分けられました。 この配置は、戦場での部隊展開や指揮系統を明確にするためのものでした。 どの旗がどちらの翼に属するかは定められており、この区分は平時の駐屯地の配置にも影響を与えました。
このように、八旗制度はニルという末端の世帯単位から、ジャラン、グサへと至る明確な指揮系統を持つ、極めて体系化された組織でした。 このシステムによって、ヌルハチは数十万に及ぶ人々を効率的に動員し、強力な軍事力を維持することが可能となったのです。

八旗の多民族構成

八旗は当初、ヌルハチが率いる女真族(後の満洲族)を中心として編成されましたが、その勢力拡大の過程で、他の民族も積極的に組み入れられていきました。 これにより、八旗は単一民族の組織から、満洲・モンゴル・漢の三民族を中核とする多民族混成軍へと変貌を遂げました。 この多民族性が、清の中国征服と広大な領域支配を可能にした重要な要因の一つです。

モンゴル八旗の成立
ヌルハチとその息子ホンタイジの時代、満洲の西方に位置するモンゴル諸部族との関係は、征服と同盟が複雑に絡み合うものでした。 1620年代後半から、後金に降伏したり同盟を結んだりしたモンゴル部族が、八旗の制度に組み込まれるようになります。 当初は既存の満洲八旗の中に補充兵として配置されていましたが、その数が増大するにつれて、独自の組織を編成する必要が生じました。 1629年頃からモンゴル人のみの旗が作られ始め、1635年には、満洲八旗と同様の組織を持つ「モンゴル八旗」が正式に成立しました。 これにより、モンゴル人は満洲人とほぼ同等の地位を与えられ、清帝国の支配エリート層の一翼を担うことになりました。 モンゴル人の卓越した騎馬技術は、八旗全体の機動力を大幅に向上させました。

漢軍八旗の成立
明との戦いが激化する中で、捕虜となったり、後金に投降してきたりする漢人の数も著しく増加しました。 特に、遼東地域に居住していた漢人の中には、早くからヌルハチに協力する者もいました。 当初、これらの漢人兵士も満洲八旗の中に組み込まれていましたが、その役割が重要になるにつれて、独立した部隊として組織化されるようになります。
1631年、投降した漢人兵士を中心に、火器の扱いに長けた砲兵部隊が編成されました。 これは、城郭攻略などにおいて火器の重要性を認識していたホンタイジの戦略的な判断によるものです。 その後、漢人部隊は段階的に拡充され、1637年に二旗、1639年に四旗、そして1642年には満洲・モンゴルと同様の「漢軍八旗」が完成しました。 漢軍八旗は、満洲語で「ウジェン・チョーハ」(重装兵)と呼ばれ、その名の通り、歩兵戦や攻城戦、そして火器の運用において八旗軍の中核を担いました。
明の将軍であった洪承疇や呉三桂といった有力者が漢軍八旗に加わったことは、清が明を征服する上で計り知れないほどの貢献をしました。 ホンタイジは、満洲人の家臣に対し、明を征服するためには漢人の協力が不可欠であると説き、投降者を厚遇しました。 実際に、1644年に清が北京に入城し、中国全土の支配を確立していく過程で、漢軍八旗の兵力と知識が決定的な役割を果たしたのです。 1648年の時点では、八旗全体に占める民族構成は、漢人が75%、満洲人が16%、モンゴル人が残りを占めるという比率に達しており、満洲人は少数派でした。 この数字は、清の征服が満洲人単独ではなく、多民族連合によって成し遂げられたことを明確に示しています。

三つの八旗の関係
満洲、モンゴル、漢軍の三つの八旗は、名目上はそれぞれ八旗ずつ、合計で二十四旗が存在する形となりましたが、全体としては依然として「八旗」という一つのシステムとして機能しました。 それぞれの民族集団は、その文化的背景や得意とする戦術に応じて、軍事的に異なる役割を担いました。 満洲八旗は騎射を得意とする中核的な騎兵部隊、モンゴル八旗も同様に強力な騎馬部隊、そして漢軍八旗は歩兵および砲兵部隊として、互いに連携して戦いました。
清朝は、これら三つの集団間の通婚を認め、支配層の結束を固めようとしました。 漢軍八旗出身の女性が皇帝の妃に選ばれることもありました。 このように、八旗制度は異なる民族を一つの巨大な軍事・社会組織に統合し、それぞれの能力を活用することで、清帝国の軍事力を最大化する装置として機能したのです。

八旗の機能:軍事、行政、社会

八旗制度は、単なる軍事組織にとどまらず、その構成員である旗人の生活全般を規定する包括的な社会システムでした。

軍事機能
八旗の最も重要な機能は、言うまでもなく軍事です。 八旗軍は清帝国の精鋭部隊であり、国家の存亡をかけた主要な戦闘に投入されました。 彼らは職業的な軍人であり、その地位は世襲制でした。 ヌルハチによる女真統一戦争から、明の征服、そしてその後の三藩の乱の平定やジュンガル部への遠征など、清朝初期から中期にかけての領土拡大において、八旗軍は中心的な役割を果たしました。
八旗の兵士たちは、騎射(馬に乗りながら弓を射る技術)を中心とした厳しい軍事訓練を日常的に行っていました。 狩猟は、単なる食料調達の手段ではなく、軍事演習としての重要な意味を持っていました。 集団での狩猟を通じて、部隊の連携や指揮官の統率力を高めることができたのです。
八旗軍は、満洲・モンゴルの騎馬部隊と、漢軍の歩兵・砲兵部隊が連携する、バランスの取れた編成を誇っていました。 特に漢軍がもたらした大砲などの火器技術は、明の堅固な城壁を攻略する上で絶大な威力を発揮しました。 清の中国征服後、八旗軍は首都北京の防衛と、全国の主要都市に設置された駐防(駐屯地)に分かれて配置されました。 北京には全旗人の約半数が集中し、皇帝の足元を固めました。 地方の駐防は、西安、杭州、南京といった戦略的要衝に置かれ、その地域の治安維持と反乱の抑止にあたりました。

行政・司法機能
平時において、八旗組織は旗人のための行政機関として機能しました。 各旗の都統が長官を務める都統衙門は、配下の旗人の戸籍登録、土地の分配、給与の支給、冠婚葬祭の管理、さらには訴訟の処理まで、広範な権限を持っていました。 旗人は、一般の漢人とは異なる法体系(旗例)に服し、旗人同士の争いごとは八旗の内部で裁かれました。 このように、旗人は一般民衆から隔離された、独自の社会を形成していました。

経済的基盤
旗人の生活は、国家によって保障されていました。 清が中国を征服する以前は、兵士への報酬は主に戦闘で得た戦利品の分配によって賄われていました。 しかし、国家体制が確立されると、安定した給与制度が導入されます。 旗人には、その階級に応じて定期的に俸給(銀や米)が支給されたほか、「旗地」と呼ばれる土地が与えられました。 これにより、旗人は生産活動に従事することなく、軍事訓練に専念することが期待されました。 彼らは「皇帝の米を食む」存在とされ、農業や商業といった生業に就くことは原則として禁じられていました。 この特権的な地位は、八旗を一種の世襲的な軍人貴族階級へと変質させていきました。

社会的身分
八旗に所属することは、単に職業軍人であること以上の意味を持っていました。 それは、清帝国における支配エリート層の一員であることを示す、特権的な社会的身分でした。 旗人は、一般の漢人(民人)とは明確に区別され、様々な法的・社会的特権を享受しました。 例えば、科挙(官僚登用試験)においても、旗人には特別枠が設けられており、一般の漢人よりも容易に官職に就くことができました。
旗人であることは、民族的アイデンティティとも強く結びついていました。 清朝後期になると、満洲語を話せなくなったり、満洲の伝統的な風習を失ったりする旗人が増えましたが、それでも彼らは自らを「旗人」として認識し、そのことに誇りを持っていました。 八旗制度は、満洲人が漢人の圧倒的な人口の中に埋没することなく、その支配者としてのアイデンティティを維持するための強力な装置として機能したのです。 時代が下るにつれて、「旗人」であることと「満洲人」であることは、ほぼ同義と見なされるようになっていきました。

八旗制度の変容と衰退

清王朝の成立と発展に絶大な貢献をした八旗制度ですが、王朝が安定期に入り、時代が下るにつれて、その内実には様々な変化が生じ、やがて深刻な問題を抱えるようになります。 かつて無敵を誇った精鋭部隊は、次第にその戦闘能力を失い、社会的な特権階級として固定化していく中で、多くの矛盾を露呈していきました。

軍事力の低下
清の支配が確立し、大規模な戦争が減少すると、八旗の兵士たちは実戦から遠ざかっていきました。 北京や地方の駐屯地での生活は平和で単調なものとなり、かつてのような厳しい軍事訓練は次第に形骸化していきました。 狩猟を通じた実践的な訓練も、儀礼的な行事へと姿を変えていきました。 世襲制であったため、戦闘経験のない世代が兵士の大半を占めるようになり、彼らの士気や戦闘意欲は著しく低下しました。
18世紀中頃の乾隆帝の時代に行われた「十全武功」と呼ばれる大規模な遠征では、八旗軍は依然として一定の役割を果たしましたが、その頃からすでに質の低下が指摘されていました。 19世紀に入ると、その衰退は誰の目にも明らかとなります。1840年代のアヘン戦争では、近代的な装備を持つイギリス軍に対し、旧態依然とした八旗軍はほとんど抵抗できずに敗北を喫しました。
決定打となったのは、1850年代から1860年代にかけて中国全土を揺るがした太平天国の乱です。 八旗軍および、同じく清の正規軍であった緑営は、この大規模な反乱を自力で鎮圧することができませんでした。 清朝政府は、曽国藩の湘軍や李鴻章の淮軍といった、地方の漢人官僚が組織した私兵(郷勇)に頼らざるを得なくなりました。 これらの新しい軍隊は、西洋式の訓練や装備を取り入れており、旧式の八旗軍に代わって国防の主役となっていきました。 この時点で、八旗の軍事組織としての実質的な命脈は、ほぼ尽きたと言えます。

経済的困窮
旗人の生活は、国家からの俸給と旗地からの収入によって支えられていました。 しかし、王朝初期に定められた俸給の額は、物価の上昇に追いつかず、時代が下るにつれて実質的な価値が目減りしていきました。 一方で、旗人の人口は世襲によって増加し続けたため、限られた俸給と土地を多くの人々で分け合わなければならなくなりました。
旗人は原則として他の職業に就くことを禁じられていたため、俸給だけでは生活できなくなった多くの旗人が経済的に困窮しました。 彼らは、禁止されていたにもかかわらず、与えられた旗地を漢人に売却したり、質入れしたりして糊口をしのぐようになります。 借金を重ね、貧困に喘ぐ旗人が急増し、社会問題化しました。 乾隆帝は、職を持たない旗人が旗から離脱することを許可するなどの対策を講じましたが、根本的な解決には至りませんでした。 かつての支配エリートは、多くの人々にとって、もはや名誉ある地位ではなく、貧困と無気力な生活の代名詞となっていったのです。

アイデンティティの揺らぎと制度の終焉
軍事的な役割を失い、経済的にも困窮する中で、旗人のアイデンティティも揺らぎ始めました。 長い平和の中で漢人社会に囲まれて生活するうちに、多くの旗人は満洲語を忘れ、漢人の言語や生活様式を身につけていきました。 満洲人としての文化的独自性は次第に失われ、「旗人」という身分だけが残りました。
19世紀後半、清朝は西洋の軍事技術を導入した「新軍」の創設を進めますが、その中心となったのは八旗ではなく、漢人官僚が率いる地方軍でした。 八旗はもはや時代遅れの制度と見なされていましたが、満洲人支配の象徴であったため、王朝の最後まで存続しました。
1911年の辛亥革命によって清王朝が倒れると、八旗制度もその歴史的役割を終えました。 中華民国政府は、民族的な出自にかかわらず、すべての旗人およびその子孫を「満洲族」として分類しました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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