新規登録 ログイン

18_80 内陸アジア世界の形成 / モンゴル民族の発展

『世界の記述』(『東方見聞録』)とは わかりやすい世界史用語2069

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
『世界の記述』(『東方見聞録』)とは

マルコ=ポーロの旅路と『世界の記述』の意義 13世紀のヴェネツィア商人マルコ=ポーロがアジアを横断した壮大な旅を記録した『世界の記述』、通称『東方見聞録』は、西洋世界に東洋の驚異を初めて包括的に紹介した画期的な書物です。この物語は、マルコ=ポーロが口述し、ピサの作家ルスティケッロが筆記したもので、1271年から1295年にかけての中央アジア、中国、インド、東南アジアでの体験が綴られています。本書は単なる冒険譚にとどまらず、クビライ=カンが統治するモンゴル帝国の壮大さ、中国の進んだ文明、そしてヨーロッパ人が知らなかった数々の文化や習慣を詳細に描き出し、その後のヨーロッパの探検時代に計り知れない影響を与えました。



第1章:旅の背景と出発

マルコ=ポーロの物語は、彼が生まれる前から始まっていました。彼の父ニッコロと叔父マッフェオは、ヴェネツィアの裕福な商人であり、すでに中東との交易で富を築いていました。1260年、兄弟はコンスタンティノープルやクリミア半島に交易所を設け、モンゴル帝国の西部にまで足を延ばしていました。彼らはそこでクビライ=カンの使者と出会い、大ハーンに謁見する機会を得ます。クビライ=カンはラテン世界について強い関心を示し、ポロ兄弟にローマ教皇への使者としての役目を与え、学識あるキリスト教徒100人を連れて戻るよう依頼しました。 1269年にヴェネツィアに帰還したポーロ兄弟は、新しい教皇の選出を待った後、1271年に再び東方への旅に出発します。この時、17歳になっていた若きマルコも同行することになりました。彼らは教皇からの書簡と贈り物を携え、クビライ=カンの要請に応えるべく、壮大な旅路へと足を踏み出したのです。

第2章:東方への長く険しい道のり

ポーロの一行の旅は、陸路と海路を組み合わせた過酷なものでした。ヴェネツィアを出発後、彼らはまずアクレ(現在のイスラエル)へ船で渡り、そこからラクダに乗ってペルシャ湾のホルムズを目指しました。当初は船で直接中国へ向かう計画でしたが、現地の船が航海に適さないと判断し、シルクロードを陸路で進むことを決意します。 この旅は3年半から4年にも及び、一行は中東、ペルシャ、中央アジアの広大な地域を横断しました。彼らの道のりは、パミール高原のような雪深い山脈や、ゴビ砂漠のような灼熱の乾燥地帯など、厳しい自然環境との戦いでした。また、盗賊による襲撃の危険にも常に晒されていました。ある時、砂嵐に紛れて盗賊に襲われたことも記録されています。しかし、こうした困難な旅の途中で、マルコは多様な文化、風景、宗教を目の当たりにし、その後の記述の源となる貴重な経験を積んでいきました。彼らは古代の隊商路をたどり、サマルカンド、カシュガルといった中央アジアの重要な都市を経由して、ついにクビライ=カンの夏の都、上都(ザナドゥ)に到着しました。

第3章:クビライ=カンの宮廷にて

1275年頃、上都に到着したポーロたちは、クビライ=カンから温かい歓迎を受けました。大ハーンは特に若きマルコの知性と順応性に感銘を受け、彼を宮廷の使者として重用するようになります。マルコはクビライ=カンの信頼を得て、帝国内の様々な地域へ視察の旅に派遣されました。これにより、彼は雲南やビルマといった辺境の地を含む、広大な元朝の支配領域を直接見聞する機会を得たのです。 マルコはクビライ=カンに約17年間仕え、その間にモンゴル政府内で重要な役職を務めたとされています。彼は現地の言語や文化を学び、モンゴル帝国の統治システム、経済、社会についての深い知識を蓄積しました。大ハーンはマルコの報告を高く評価し、彼を厚遇しました。ポーロ家がこれほど長く中国に滞在したこと自体が、彼らがいかに大ハーンに重宝されていたかを示しています

第4章:『世界の記述』の成立

ポロ一家が中国を離れることを許されたのは1291年頃のことでした。彼らは、ペルシャの王子に嫁ぐモンゴルの皇女ココチンを護衛するという最後の任務を与えられ、海路で帰国の途につきます。この航海もまた過酷なもので、スマトラ島やインド洋を経由する2年間の旅の間に、多くの乗組員が命を落としたと伝えられています。 1295年、24年ぶりにヴェネツィアに帰還したマルコでしたが、その直後、ヴェネツィアとジェノヴァの間で戦争が勃発し、彼は海戦に参加して捕虜となってしまいます。1298年から1299年にかけてジェノヴァの牢獄に収監されていた時期に、彼は同房の囚人であったピサ出身の物語作家、ルスティケッロ・ダ・ピサに自らの旅の体験を口述しました。ルスティケッロは、マルコが持っていた旅の記録ノートも参考にしながら、その驚くべき物語をフランコ・ヴェネト語で書き留めたのです。この共同作業によって、『世界の記述』(当初の題名は『世界の驚異の書』または『世界の叙述』)が誕生しました。 ルスティケッロはもともとアーサー王物語などのロマンス作家であり、彼がマルコの物語に脚色を加え、中世ヨーロッパの読者が好むような幻想的でロマンチックな要素を付け加えた可能性が指摘されています。例えば、本の冒頭で皇帝や王侯貴族に語りかける形式は、ルスティケッロが以前に書いたアーサー王物語の様式を借用したものでした。このような創作的要素が、本書をベストセラーにした一因とも考えられています。

第5章:書物の構成と内容

『世界の記述』は序章と4つの書から構成されています。序章では、父と叔父の最初の旅、そしてマルコを含めた3人での二度目の旅の経緯が語られます。第1書は、ヴェネツィアからクビライ=カンの宮廷に至るまでの陸路の旅を描いています。小アルメニアから始まり、ペルシャ、中央アジアの各地の地勢、産物、宗教、風習などが詳細に記述されています。第2書は、本書の中核をなす部分であり、中国(当時はカタイおよびマンジと呼ばれていた)とクビライ=カンの宮廷について詳述しています。大都(現在の北京)の壮大さ、宮殿の豪華絢爛さ、統治システム、紙幣や石炭の使用といった、当時のヨーロッパ人にとっては驚くべき事柄が記録されています。第3書は、日本(ジパング)、インド、スリランカ、東南アジア、さらにはアフリカ東海岸といった、中国からの帰路や伝聞で得た沿岸地域の情報を扱っています。第4書は、モンゴル諸部族間の近年の戦争や、ロシアを含む極北の地域に関する記述が含まれています。この構成は、単なる時系列の旅行記ではなく、マルコが見聞した地域の地理、民族、文化を体系的に整理しようとする意図を示しています。

第6章:中国社会に関する詳細な記述

マルコ=ポーロが記述した13世紀の中国は、ヨーロッパのどの都市よりもはるかに進んだ、豊かで複雑な社会でした。彼の記述は、当時のヨーロッパ人の世界観を根底から覆すものでした。

第6章第1節:都市の繁栄と規模

マルコは、訪れた中国の都市の壮大さと繁栄に驚嘆しています。彼が「カンバルク」と呼んだ大都(北京)については、城壁が正方形で一辺が1マイル(約1.6km)あり、その周囲は4マイルにも及ぶと記しています。都市の街路は直線的で広く、端から端まで見通せたと述べています。また、美しい宮殿や多数の宿屋が立ち並び、世界中から貴重で珍しい品々が集まる一大商業拠点であったと描写しています。 特に彼を感銘させたのは、南宋の旧都であった杭州でした。彼はこの都市を「世界で最も素晴らしく、最も高貴な都市」と絶賛しています。杭州には150万人の人口がおり、これは彼の故郷ヴェネツィアの15倍に相当する規模でした。街には無数の橋がかかり、美しい邸宅が立ち並び、人々は絹の衣服をまとい、磁器の器で食事をしていたと記しています。彼は杭州の住民が平和を愛し、外国人商人に対しても非常に親切であったと述べています。

第6章第2節:進んだ経済システム

マルコは、ヨーロッパではまだ普及していなかった革新的な経済システムについても詳細に報告しています。その一つは紙幣です。彼は、クビライ=カンが桑の木の皮から紙幣を作り、それを帝国内の公式な通貨として流通させていることに驚きを記しています。この紙幣は金や銀と同じように価値を持ち、帝国全土で商品やサービスの支払いに使用されていました。この記述は、ヨーロッパにおける紙幣の概念の最も初期の紹介の一つです。次に石炭です。マルコは、中国の人々が「黒い石」を薪のように燃やして燃料として利用していることを報告しています。これは石炭のことであり、当時のヨーロッパではほとんど知られていないエネルギー源でした。彼は、人口が密集し、多くの浴場がある都市では、薪だけでは燃料を供給しきれないため、この石炭が非常に重宝されていると分析しています。そして製塩業と鉄鋼業です。彼はまた、中国の驚異的な生産力にも注目しています。ある省だけで年間3万トンの塩が生産され、鉄の生産量は年間12万5000トンに達したと報告しています。この鉄の生産量は、ヨーロッパが18世紀の産業革命期にようやく到達する水準でした。

第6章第3節:社会と文化

マルコは、モンゴル帝国と中国の多様な文化や習慣にも鋭い観察眼を向けています。まずクビライ=カンの宮廷です。彼はクビライ=カンを「古今東西、人民、土地、財宝において最も強大な人物」と称賛し、その宮廷の壮麗さを詳細に描写しています。大ハーンの宮殿は金銀で飾られ、宴会場では一度に6000人が食事をすることができたと述べています。また、大ハーンが4人の正妻と多数の側室を持ち、それぞれの皇后が1万人もの従者を抱える壮大な宮廷を維持していたことも記録しています。次に統治システムです。マルコは、クビライ=カンの統治能力を高く評価しています。帝国は12人の有力なバロン(貴族)によって管理され、効率的な官僚制度が敷かれていました。また、豊作の年に穀物を備蓄し、凶作の年に安価で民衆に供給する救済制度や、貧しい人々への食料や衣服の施しなど、福祉政策についても言及しています。帝国内には25マイルごとに宿駅が設けられた広大な道路網が整備され、迅速な通信と交易を可能にしていました。そして宗教的多様性です。モンゴル帝国は、多様な宗教に対して寛容な政策をとっていました。マルコは、キリスト教徒(ネストリウス派)、イスラム教徒、仏教徒、そして彼が「偶像崇拝者」と呼ぶ人々が共存している様子を観察しています。クビライ=カン自身は、特定の宗教に偏ることなく、それぞれの賢者を尊重する姿勢を見せていたとされています。最後に地域の風習です。彼は旅の途中で出会った様々な民族の独特な風習も記録しています。例えば、雲南地方のいくつかの部族では、生肉をニンニクと香辛料のソースにつけて食べる習慣があったことや、体に刺青を施す文化があったことなどを記述しています。これらの記述は、後にその地域に住む特定の民族の習慣と一致することが確認されています。

第7章:『世界の記述』の信憑性をめぐる議論

本書はその出版当初から、記述内容の信憑性について疑いの目で見られてきました。物語があまりに壮大で驚異に満ちていたため、多くの読者はそれを作り話だと考えました。マルコ自身、臨終の際に「私が見たことの半分も語っていない」と述べたと伝えられています。 近代以降も、学者たちの間で信憑性をめぐる議論が続いています。懐疑的な立場の論者が指摘する主な疑問点は、記述の欠落、地名の不一致、そして中国側の記録の不在です。記述の欠落に関しては、マルコは、中国を象徴するものである万里の長城、漢字、茶、箸、纏足といった習慣について一切言及していません。地名の不一致については、彼が使用している地名の多くは、ペルシャ語由来のものであり、中国語の音訳ではありません。また、いくつかの地名は現在のどの場所に該当するのか特定が困難です。中国側の記録の不在については、中国やモンゴルの公式な歴史記録の中に、「マルコ=ポーロ」という名前の人物がクビライ=カンに仕えたという記録が見つかっていません。これらの点から、一部の研究者は、マルコは実際には中国まで行っておらず、ペルシャなどの中継地で他の商人から聞いた話を自分の体験として語ったのではないか、という説を唱えています。 一方で、近年の研究では、これらの疑問点に対して反論がなされ、本書の記述の大部分は信頼できるとする見方が有力になっています。記述の欠落について、万里の長城については、マルコが訪れた元朝の時代には、現在見られるような明代に建設された壮大な城壁はまだ存在していませんでした。纏足も、当時はまだ一部の上流階級の習慣であり、モンゴル人の間では行われていませんでした。茶は南中国では一般的でしたが、彼が主に活動した北中国やモンゴルの宮廷では、まだそれほど普及していなかった可能性があります。地名について、元朝時代の中国では、ペルシャ語が国際的な商業公用語の一つとして広く使われていました。モンゴル帝国の行政においても、多様な民族出身者が登用されていたため、ペルシャ語の地名が公式に使われることも珍しくありませんでした。中国側の記録の不在について、「マルコ」という名前は当時一般的であり、彼が中国名やモンゴル名で記録されていた可能性も考えられます。また、彼が主張するほど高位の役人ではなく、中級の役人であったため、公式記録に残らなかったという可能性もあります。 さらに、経済史家などの研究により、マルコが記述した塩の生産量や税収に関する詳細なデータが、元朝時代の中国の記録と驚くほど一致することが示されています。また、彼が記述した紙幣や石炭、特定の地域の風習などは、実際にその場にいなければ知り得ないような正確な情報を含んでいます。

第8章:後世への影響と遺産

『世界の記述』が後世に与えた影響は計り知れません。本書は、それまで断片的で伝説に満ちていた東洋のイメージを、具体的で詳細な情報に置き換えました。
まず、探検時代への刺激です。マルコが描いた東洋の莫大な富、特に黄金の国ジパング(日本)の伝説は、ヨーロッパ人の探検熱を大いにかき立てました。クリストファー・コロンブスは、本書の写本を所有し、熱心に書き込みをしながら読んでいたことが知られています。彼は、マルコが記述した豊かなアジアへの西回り航路を発見しようと試み、その結果としてアメリカ大陸に到達しました。
次に、地図製作への貢献です。本書がもたらした新しい地理的情報は、15世紀から16世紀にかけての地図製作者たちに広く利用されました。これにより、より正確で包括的な世界地図が作られるようになり、ヨーロッパ人の世界認識を大きく広げました。
そして、文化交流の促進です。本書は、絹、香辛料、磁器といった東洋の産物へのヨーロッパ人の関心を高め、東西間の交易を活発化させました。また、紙幣、石炭、郵便制度といった中国の進んだ技術や制度を紹介し、ヨーロッパ社会に知的刺激を与えました。
マルコ=ポーロの旅は、単なる一個人の冒険ではなく、異なる文明が出会い、互いの世界観を広げるきっかけとなった歴史的な出来事でした。『世界の記述』は、その信憑性をめぐる議論を含めて、13世紀という時代の複雑な異文化交流を映し出す貴重な歴史的資料であり、探求心と冒険の精神を象徴する不朽の古典として、読み継がれています。
Tunagari_title
・『世界の記述』(『東方見聞録』)とは わかりやすい世界史用語2069

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 833 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。


最近読んだテキスト