シーア派とは
シーア派は、イスラム教の主要な宗派の一つであり、全世界のイスラム教徒の約10~15%がこの宗派に属しています。シーア派の特徴は、預言者ムハンマドの後継者としてアリーを認めることです。
シーア派の起源と歴史
ガディール・フムムの出来事
シーア派の信仰は、632年のガディール・フムムの出来事に基づいています。この際、ムハンマドがアリーを後継者として指名したとされています。シーア派は、ムハンマドが「私が彼のマウラーである者にとって、このアリーも彼のマウラーである」と述べたことを、アリーへの権威の委譲として解釈しています。
初期の分裂と対立
ムハンマドの死後、後継者を巡る対立がイスラム教徒の間で発生しました。スンニ派はアブー・バクルを初代カリフとして支持しましたが、シーア派はアリーが正当な後継者であると主張しました。この対立は、イスラム教徒の分裂を引き起こし、後の内戦(第一次フィトナ)へと発展しました。
カルバラの戦い
680年、アリーの息子フサイン・イブン・アリーがウマイヤ朝のヤズィード1世に対抗して反乱を起こしましたが、カルバラの戦いで敗北し、フサインは殉教しました。この出来事はシーア派の歴史において非常に重要であり、毎年アーシュラーの日にフサインの殉教を追悼する儀式が行われます。
シーア派の信仰と教義
イマームの概念
シーア派の中心的な教義はイマームの概念にあります。シーア派は、アリーとその子孫がイスラム教徒の正当な指導者であり、神から特別な知識と権威を授けられていると信じています。特に、十二イマーム派は、アリーから始まる12人のイマームを認めています。
アーシュラーとムハッラム
シーア派の重要な宗教行事には、アーシュラーとムハッラムがあります。アーシュラーはフサインの殉教を追悼する日であり、ムハッラムはその前後の月を指します。この期間中、シーア派の信者はフサインの犠牲を思い起こし、さまざまな儀式や行事を行います。
シーア派の分派
シーア派は、いくつかの主要な分派に分かれています。最も大きな分派は十二イマーム派であり、イラン、イラク、アゼルバイジャン、バーレーンなどで多数を占めています。他の分派には、イスマーイール派やザイド派があります。
十二イマーム派
十二イマーム派は、アリーから始まる12人のイマームを信仰の中心に据えています。最後のイマームであるムハンマド・アル=マフディは、隠れた状態にあり、終末に再臨すると信じられています。この信仰はシーア派の終末論と密接に関連しています。
イスマーイール派
イスマーイール派は、七代目のイマームとしてイスマーイール・イブン・ジャアファルを認める分派です。この派はさらにいくつかの分派に分かれており、特にファーティマ朝やアーガー・ハーンを指導者とするニザール派が知られています。
ザイド派
ザイド派は、五代目のイマームとしてザイド・イブン・アリーを認める分派です。この派はイエメンで強い影響力を持ち、ザイド派のイマームは長い間イエメンの政治と宗教の指導者として活動してきました。
シーア派の現代
イラン革命とシーア派の影響力
1979年のイラン革命は、シーア派の影響力を大きく高める結果となりました。アーヤトッラー・ホメイニーの指導のもと、イランはイスラム共和国として再編成され、シーア派の教義が国家の基盤となりました。この革命は、シーア派の政治的および宗教的影響力を中東全域に広げる契機となりました。
シーア派の迫害と対立
シーア派は歴史的にスンニ派の多数派から迫害を受けてきました。特にサウジアラビアやバーレーンなどの国々では、シーア派の信者が差別や弾圧を受けることが多く、このような迫害はシーア派とスンニ派の間の緊張を高める要因となっています。
シーア派はイスラム教の重要な宗派であり、その歴史、信仰、文化は非常に豊かです。シーア派の信者たちは、独自の教義や儀式を通じて、長い間続く伝統を守り続けています。