都護府とは
唐の都護府(都護府)は、唐代の中国が中央アジアの支配を強化するために設立した行政機関です。特に有名なのは「安西都護府」と「安北都護府」です。
安西都護府の設立と背景
安西都護府(安西大都護府)は、唐の太宗(李世民)が640年に設立したもので、タリム盆地を支配するための拠点として機能しました。この地域は、シルクロードの重要な交差点であり、経済的および戦略的に非常に重要でした。唐はこの地域を支配することで、東西交易の安全を確保し、中央アジアの諸国に対する影響力を強化しようとしました。
初期の拠点と移転
安西都護府の本部は最初、現在のトルファンにあたる西州に設置されましたが、後にクチャ(亀茲)に移されました。この移転は、地域の政治的および軍事的状況に応じたものでした。クチャは、タリム盆地の中心に位置し、周辺のオアシス都市との連絡が容易であったため、戦略的に重要な位置にありました。
安西四鎮の設置
648年から658年にかけて、唐はクチャ、ホータン(于闐)、カシュガル(疏勒)、カラシャール(焉耆)に「安西四鎮」を設置しました。これらの駐屯地は、安西都護府の軍事的支柱として機能し、地域の安定と唐の支配を維持するための重要な役割を果たしました。
唐の中央アジア支配の拡大
659年、唐の高宗(李治)の治世下で、ソグディアナ、フェルガナ、タシュケント、ブハラ、サマルカンド、バルフ、ヘラート、カシミール、パミール高原、トハリスタン、カブールなどの地域が安西都護府に服属しました。これにより、唐の影響力は中央アジア全域に広がり、シルクロードの安全と繁栄が確保されました。
安史の乱とその影響
755年から763年にかけて発生した安史の乱は、唐の中央アジア支配に大きな影響を与えました。この反乱により、唐の中央政府と安西都護府との連絡が途絶え、地域の支配が困難になりました。しかし、都護府の長官である郭昕は、孤立した状況下でも地域を守り続けました。
都護府の終焉
安西都護府の最後の数年間は不確実な時期とされていますが、多くの資料によれば、790年頃にチベット軍によって都護府とその駐屯地が最終的に敗北し、唐の中央アジア支配は終焉を迎えました。これにより、約150年間続いた唐の中央アジアにおける影響力は消滅しました。
安西都護府の歴史的意義
安西都護府は、唐の中央アジア支配の象徴であり、シルクロードの安全と繁栄を支える重要な役割を果たしました。この都護府の設立と運営は、唐の軍事力と外交力の象徴であり、東西文化交流の促進にも寄与しました。また、唐の中央アジア支配は、後の中国王朝にも影響を与え、地域の歴史に深い足跡を残しました。
安西都護府は、唐代の中国が中央アジアを支配し、シルクロードの安全と繁栄を確保するために設立した重要な行政機関でした。その設立から終焉までの歴史は、唐の軍事力、外交力、そして文化交流の象徴であり、現代の歴史研究においても重要な位置を占めています。