咸陽とは
秦の都咸陽は、中国の歴史において非常に重要な役割を果たした都市です。現在の陝西省咸陽市に位置し、かつて秦朝の首都として栄えました。秦朝は紀元前221年に中国を統一した最初の王朝であり、その首都である咸陽は、中国史上初めての帝国の中心となりました。
歴史的背景
咸陽の歴史は、秦がまだ周の属国であった時代に始まります。秦の始祖である非子が周の孝王から嬴の姓を賜り、秦の地に封じられたことに由来します。その後、秦は西戎との戦いを経て領土を拡大し、春秋時代には諸侯の一員として認められました。戦国時代に入ると、秦は強大な国力を背景に中国統一を目指し始めます。
咸陽の発展
秦の都としての咸陽は、紀元前350年に建設されました。秦の孝公の時代には、商鞅による変法が行われ、中央集権体制が確立されます。これにより、秦は内政の安定と軍事力の強化を実現し、他の戦国七雄を圧倒する力を持つようになりました。
都市構造と文化
咸陽は、当時としては珍しい巨大都市であり、阿房宮などの壮大な宮殿が建設されました。始皇帝の治世には、直道と呼ばれる直線の軍用道路が建設され、咸陽から北に700kmも離れた九原郡まで続いていました。また、咸陽は文化的にも発展し、多くの学者や芸術家が集まる場となりました。
咸陽の終焉とその後
紀元前206年、項羽によって阿房宮は焼き払われたとされていますが、2003年にはそれが否定される説も出ました。その後、楚漢戦争に勝利した劉邦が長安(現在の西安市)を新たな首都と定め、前漢王朝が築かれました。咸陽はその後も重要な都市としての地位を保ちましたが、長安の影に隠れる形となりました。
現代の咸陽
現在の咸陽市は、古代の歴史を色濃く残す地域であり、多くの歴史的遺跡が残されています。特に兵馬俑などは世界的に有名で、多くの観光客が訪れるスポットとなっています。