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ウィーン体制① ~ウィーン会議 その意義と結果~
著作名: エンリケ航海王子
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「会議は踊る、されど進まず」

前に書いたように、ウィーン会議は正統主義と勢力均衡の原則をもとに、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すために行われた会議でした。

そのため、各国の利害関係がばらばらで、自国の利益を考えるあまり全く議題が進まない状況が続きました。

連日舞踏会や宴会が行われ、会議が進まない様子は「会議は踊る、されど進まず」と風刺されました。

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(風刺画 「会議は踊る、されど進まず」)

ウィーン議定書の締結

ところが、1815年2月にナポレオンがエルバ島を脱出し皇帝に復位すると、まずいと感じた各国は再び団結し、ワーテルローの戦いの直前にウィーン議定書が締結されます。

ウィーン議定書の締結により、以下の内容が決められました。

内容
オーストリアロンバルディア・南チロル・ヴェネツィアを獲得。
ロシアポーランド立憲王国国王をロシア皇帝が兼任。フィンランド・ベッサラビアを獲得。
イギリスセイロン島・ケープ植民地・マルタ島を獲得。
オランダベルギーを獲得。オランダ立憲王国になる。
プロイセンラインラント・西ポンメルンを獲得。
ドイツ地方ライン同盟が廃止。神聖ローマ帝国は復活せず、35の君主国と4つの自由都市からなるドイツ連邦(オーストリアが盟主)が成立。
サルディーニャサヴォイア・ジェノヴァを獲得。
スウェーデンノルウェーを獲得。
スイス永世中立国となる。
ブルボン朝スペイン・フランス・ナポリで復活。


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(ウィーン会議後、1815年当時のヨーロッパ)

ウィーン体制

ウィーン議定書により、ヨーロッパ各国の勢力圏が決まりました。

この新しい政治体制をウィーン体制(1815~1848)といい、その性格は各国の君主を中心とした国際的な保守・反動体制でした。わかりやすくいえば、支配層が民衆を抑圧し、勢力均衡のもと大国が影響力を持ち、保守主義がフランス革命以降各地に興った自由主義を抑圧する体制のことです。

ウィーン体制を維持するために結成されたのが、神聖同盟四国同盟です。

神聖同盟は、1815年9月に、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱によって成立しました。
キリスト教の精神に基づくヨーロッパ君主間の精神的盟約で、イギリス・オスマン帝国・ローマ教皇を除く全ヨーロッパの君主が参加しました。

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(アレクサンドル1世)

同年11月に成立したのが四国同盟で、ナポレオンを撃退したイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン間の政治・軍事面での結びつきが生まれます。1818年にはフランスも加盟し、五国同盟となります。

こうして、2つの同盟は支配層である各国の君主間の協力関係を作り出し、ウィーン体制を強化していきました。



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