周王朝の成立
紀元前11世紀になると、それまで繁栄していた殷王朝にも翳りが見え始めます。
殷王朝の最後の王である
紂王は、暴君として圧政を行い、次第に民衆から反感をかうようになっていきました。
このような状況の中、殷に服属していた周という国が、殷王朝の打倒を目指すようになります。
周の武王は多くの人民の支持を取り付けると同時に、紀元前1027年
牧野の戦いで殷の紂王を破ると、殷を滅ぼし
西周(殷滅亡から前770年まで)という王朝を建てました。
殷の滅亡と周の誕生を描いた作品として、明代に成立した『封神演義』があります。日本でも漫画で人気の作品でしたね。
西周は首都を
鎬京にさだめ、各地の諸侯に、封土という領地を与え、周王室都の関係性から公・候・伯・子・男という称号を与え統治しました。
この称号は、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵といった日本の爵位にも受け継がれていました。
各地の諸侯には、卿・大夫・士などの世襲の家臣がいて、諸侯は采邑という領土を与え、その見返りに貢納や軍事奉仕といった主従関係が見られました。これを
封建制といいます。
周王朝では、親族の血縁関係を元にした支配構造が確立しました。父系の親族集団を
宗族といい、嫡流を大宗、傍流を小宗として区別し、大宗が強力な権限で一族をまとめ、支配していました。この秩序を定めたのが
宗法で、規則を
礼と言います。
宗法と礼はそれぞれ封建制を支える重要な役割を果たし、殷の祭政一致と比較して周の政治体制を礼政一致と表現します。
おわりに
以上が、黄河文明の成立から周の誕生まででした。周の衰退が始まると、このあと中国は春秋戦国時代へと向かいます。