朱子学の登場
戦国時代は徳川家によっておさめられ、時代は江戸時代へと変化していくことになります。
江戸幕府は、戦国時代へと戻らないように(つまり他の武将から謀反をおこされないように)、様々な方法で国の整備を行なっていきます。外様大名を江戸から遠ざけた位置に領地替えさせたことや士農工商の身分制度を作り、安定した封建社会を作ったこともその一環です。
そんな中で、武士が学ぶべき学問というものも変化しました。信仰や武力ではなく、
道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとする朱子学が盛んになります。
朱子学とは
日本の朱子学は
藤原惺窩(ふじわらせいか)によって確立され、弟子の
林羅山の手によって幕府に取り入れられるようになります。
林羅山
林羅山は、空は高く地は低いのように、
万物には必ず上下があると考えました。これは人間社会においても同じで、父と子や主君と家来のように、上に来るものを敬わなければならないと説いたのです。この考え方は
上下定分の理と言い、幕府の考える秩序と一致するものだったのです。
ちなみにこの林羅山ですが、
方広寺証明事件の火付け役であるとも言われています。