新規登録 ログイン

17_80 近代日本の形成とアジア / 開国・明治維新

西郷隆盛はなぜ西南戦争で散ったのか?政府を去ってから最期までをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
Text_level_1
マイリストに追加
西郷隆盛(さいごうたかもり)(1828〜1877年)は、「維新の三傑」の一人に数えられる政治家です。幕末には幕府を倒す動きの中心となり、新政府でも要職につきました。ところが1877年、故郷の鹿児島から兵を率いて政府軍と戦い、鹿児島県の城山で最期を遂げます。この記事では、その西郷隆盛がなぜ西南戦争に至ったのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる西郷隆盛はなぜ西南戦争で散ったのか」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・西郷隆盛は、なぜ政府を去ることになったのか

・特権を失った士族と、鹿児島の私学校はどう結びついたのか

・西郷隆盛は、自分の意志で兵を挙げたのか



1分でわかる西郷隆盛はなぜ西南戦争で散ったのか


西郷隆盛が西南戦争で散るまでの流れは、一言でいえば、政府を去った西郷隆盛のもとに士族が集まり、火薬庫の襲撃をきっかけに政府との戦いへ進んでいった、というものです。

明治六年の政変で、政府を去る

1873年、西郷隆盛は鎖国していた朝鮮に開国を求めるため、自分が使節として朝鮮に行くことを求めましたが、帰国した大久保利通らが国内の整備を優先すべきだと反対し、使節の派遣は見送られました。いわゆる征韓論論争です。この結果、西郷隆盛は政府を去り、鹿児島に帰ります。これを明治六年の政変といいます。

私学校と、特権を失った士族

翌1874年、鹿児島に私学校がつくられ、帰郷した士族が集まりました。士族(元の武士)は、徴兵令で戦う役目の独占を、秩禄処分で収入を、廃刀令で刀を身につける特権を、それぞれ失い、各地で反乱が相次いでいました。

火薬庫襲撃から、城山での最期へ

1877年1月、政府が鹿児島の弾薬を運び出したことに反発して、私学校の生徒たちが火薬庫を襲います。西郷隆盛は2月に約1万3000人を率いて出発し、約7か月の戦いの末、9月24日に城山で最期を遂げました。


西南戦争は、士族による最大で最後の反乱とされます。以後は士族の武力による反乱がなくなり、政府への抵抗は言論が中心になりました。

おまけトリビア

西郷隆盛は、西南戦争の最中に官位を取り上げられ、賊軍の将として扱われました。しかしのちに赦され、正三位という位を贈られています。


ここから深掘り


■なぜ西郷隆盛は政府を去ったのか


新政府の参議だった西郷隆盛は、岩倉使節団が欧米に出ている間、国内に残った留守政府の中心人物の一人でした。国交が進まない朝鮮との関係が議論になると、西郷隆盛は自分が使節として行くことを求め、いったんは閣議で決まります。しかし欧米から帰った大久保利通らは、国内の整備が先だと反対しました。使節の派遣は見送られ、西郷隆盛は明治6年(1873年)10月23日に辞表を出します。板垣退助らも続いて辞職し、西郷隆盛に従って軍人や官僚が約600人も職を辞したと伝えられます。
西郷隆盛の狙いは、平和的な交渉で国交を開くことだったとする見方と、拒まれれば武力も辞さない強硬な方針だったとする見方があり、分かれています。


■私学校と、特権を失った士族


士族とは、明治維新後の旧武士階級に与えられた身分の呼び名です。明治政府は、士族の特権を次々になくしていきました。1873年の徴兵令で、戦うのは士族だけの役目ではなくなります。1876年には、廃刀令(明治9年3月28日)で刀を身につけることが禁じられ、秩禄処分(同年8月5日の金禄公債証書発行条例)で給与にあたる禄が廃止されました。刀は士族の身分の象徴で、廃刀令に反発した士族は、熊本で神風連の乱を起こしました。

特権を失っていく士族のうち、鹿児島で不満を抱える士族が集まる場になったのが、私学校です。政府を去った翌年の1874年6月ごろ、鹿児島に帰っていた西郷隆盛がつくりました。銃隊学校と砲隊学校からなる学校です。設立の目的は、西郷隆盛に従って帰郷した士族の暴発を抑えることだったとも、外国との争いに備えて兵士を育てることだったともいわれます。県令の大山綱良の協力もあり、私学校の関係者が県政を握って、反政府勢力の最大の拠点になりました。政府は、鹿児島が半ば独立した状態にあると見ていました。

■挙兵のきっかけと、西郷隆盛の最期


1877年(明治10年)1月、政府が鹿児島の弾薬を運び出したことに反発して、私学校の生徒たちが火薬庫を襲いました。政府の密偵が西郷隆盛を暗殺しようとしているという話も広まります。
暗殺計画が実際にあったのかは、分かれています。計画が明らかになったともいわれ、うわさにすぎない、あるいは真偽は不明ともいわれます。


西郷隆盛は2月15日、約1万3000人を率いて鹿児島を出発しました。ただし、自分で決断したのか、私学校の士族に押されたのかは、意見が分かれています。私学校の生徒に促されて兵を挙げたともいわれ、幹部の意志の強さを知って西郷隆盛も決意したともいわれます。

戦いは熊本城をめぐる攻防、田原坂の激戦を経て、西郷軍の敗北が続きました。西郷隆盛は9月24日、鹿児島の城山で最期を遂げます。死の様子は、戦死とも、自ら命を絶ったともいわれ、分かれています。

■この戦争は何を終わらせたのか


西南戦争は、徴兵を中心にした政府軍が、士族を中心にした西郷軍に勝った戦いでした。士族による最大で最後の反乱とされ、以後は士族の武力による反乱がなくなります。政府への抵抗は、言論による自由民権運動へ移りました。武士の時代の終わりを告げた戦いともいわれます。戦争の直後、福澤諭吉は『明治十年丁丑公論(ていちゅうこうろん)』を書き、政府に武力で抵抗した西郷隆盛を擁護しました。

幕末から明治の初めにかけての西郷隆盛の働きは、「西郷隆盛は結局何をした人か」の記事で取り上げています。

■トリビアの真相


西郷隆盛は、挙兵の直後に官位を取り上げられ、賊軍の将とされました。のちに赦され、正三位という位が贈られています。

試験に出るポイント

1873年の明治六年の政変で西郷隆盛が下野し、1874年に鹿児島の私学校が設立された。1876年の廃刀令・秩禄処分で士族が特権を失い、1877年の西南戦争は士族の最大で最後の反乱だった、という流れで押さえましょう。

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
日本史用語集 山川出版

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 0 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。