西郷隆盛(さいごうたかもり)(1828〜1877年)は、「維新の三傑」の一人に数えられる政治家です。薩摩藩の出身で、幕末には幕府を倒す動きの中心になり、新政府でも要職につきました。この記事では、
大久保利通・
木戸孝允とともに三傑に数えられる彼が、結局何をした人かを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる西郷隆盛」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・西郷隆盛は、幕府を倒す動きの中で何をしたのか
・西郷隆盛は、新政府で何をしたのか
・なぜ西郷隆盛は、「維新の三傑」に数えられるのか
1分でわかる西郷隆盛
西郷隆盛とは、一言でいえば、幕府を倒す動きの中心となり、新政府の国づくりにも加わった人物です。
薩長同盟と王政復古で、倒幕を進める
薩摩藩の中心人物となった西郷隆盛は、1866年、それまで敵対していた長州藩の木戸孝允と薩長同盟を結びました。さらに大久保利通とともに、幕府を倒す方向へ薩摩藩をまとめ、王政復古(新しい政府をつくる宣言)を成功させます。
戊辰戦争で、江戸城の無血開城を実現する
1868年に戊辰戦争(新政府軍と旧幕府側の戦争)が始まると、西郷隆盛は新政府軍の参謀として江戸へ向かいました。旧幕府の勝海舟と話し合って江戸城への総攻撃を中止し、戦わずに城を明け渡す無血開城を実現させます。
新政府で廃藩置県を進め、のちに政府を去る
1871年に参議となった西郷隆盛は、大久保利通や木戸孝允らとともに廃藩置県を推し進めました。岩倉使節団が欧米にいる間は留守政府の中心にいましたが、1873年、征韓論論争で大久保利通らと意見が分かれ、政府を去ります。
西郷隆盛は、幕府を倒す動きでも新政府の国づくりでも中心にいた人物です。維新の三傑に数えられるのは、そのどちらでも大きな働きをしたからとされます。
おまけトリビア
西郷隆盛の写真は、1枚も確認されていません。よく知られた肖像画は、弟の西郷従道と従弟の大山巌の顔を基に描かれたと伝えられます。
ここから深掘り
■西郷隆盛の生涯
西郷隆盛は、文政10年12月7日(1828年)に薩摩藩の下級武士の家に生まれ、1877年の西南戦争で最期を遂げました。藩主の島津斉彬に見いだされて側近となりますが、斉彬の死後、幕府に追われて奄美大島に送られます。のち藩の実力者の島津久光の怒りを買い、徳之島、さらに沖永良部島に流されましたが、1864年に呼び戻され、大久保利通とともに藩のリーダーとして動き出します。
生まれ年は1827年とも1828年ともされます。旧暦12月7日が、西暦では1828年1月23日にあたるためです。
■幕府を倒す動きの中で、何をしたのか
西郷隆盛の役割は3つあります。1つ目は、薩摩藩と長州藩を結びつけたことです。1863年に薩摩藩が会津藩と協力して長州藩を京都から追い出し、翌年の禁門の変でも戦うなど、両藩は、敵対していました。薩摩藩の代表として、1866年、坂本龍馬らの仲介で長州藩の木戸孝允と結んだのが薩長同盟です。この同盟は、のちの倒幕の動きを進めたとされます。
2つ目は、王政復古を成功させたことです。西郷隆盛は大久保利通らとともに幕府を倒す方向へ薩摩藩をまとめ、慶応3年12月9日、幕府に代わる新しい政府をつくる王政復古の大号令が出されました。
3つ目は、江戸城の無血開城です。新政府軍の参謀として江戸に迫った西郷隆盛は、新政府軍が慶応4年3月15日に予定した江戸城への総攻撃を前に、旧幕府の山岡鉄舟、続いて勝海舟と話し合います。総攻撃は中止され、江戸城は同年4月11日に新政府へ引き渡されました。
中止の理由には、山岡鉄舟の交渉、徳川家の女性たちの嘆願、イギリス公使の意向などが挙げられます。公使の意向がどれほど影響したかは、見方が分かれています。
■新政府で何をしたのか
西郷隆盛は、大久保利通らの求めに応じて1871年に新政府に加わり、参議(太政官という政府の最高機関で政治に加わる役職)になりました。
廃藩置県は、藩を廃止して府と県を置き、国が直接地方を治める仕組みに変えた改革です。西郷隆盛は大久保利通や木戸孝允らとこれを推し進め、薩摩・長州・土佐の兵を集めた御親兵の設置にも力を尽くしました。
廃藩置県の実現には西郷隆盛の決断が大きかったともいわれ、木戸孝允の邸宅に西郷隆盛や大久保利通らが集まって案をまとめたともいわれ、分かれています。
同じ1871年末、岩倉使節団が欧米へ出発します。国内に残った留守政府では、西郷隆盛が中心人物の一人となり、学制や徴兵令などの改革が進められました。
1873年、西郷隆盛は、鎖国していた朝鮮に開国を迫るため、自分が使節として朝鮮に行くことを求めます。帰国した大久保利通らは国内の整備を優先すべきだと反対し、使節の派遣は見送られました。西郷隆盛は辞表を出して政府を去り、板垣退助ら4人の参議も辞職します。これが
明治六年の政変です。
西郷隆盛の狙いは、平和的な交渉で国交を開くことだったとする見方と、拒まれれば武力も辞さない強硬な方針だったとする見方があり、分かれています。
その後の西郷隆盛の歩みは、「
西郷隆盛はなぜ西南戦争で散ったのか」で詳しく取り上げます。
■なぜ「維新の三傑」に数えられるのか
維新の三傑は、明治維新の改革を指導した西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の3人です。西郷隆盛は、薩長同盟、王政復古、江戸城の無血開城、廃藩置県のすべてにかかわりました。倒幕でも新政府の国づくりでも中心にいたことが、三傑に数えられる大きな理由とされます。新政府では軍事の面を担ったといわれます。
■トリビアの真相
西郷隆盛が写真を残さなかったのは、写真嫌いだったからといわれます。教科書にある肖像画は、西郷隆盛の死後に描かれたもので、弟の西郷従道と従弟の大山巌の顔を基にしたとされます。上野公園の西郷隆盛像は、1898年に建てられました。
試験に出るポイント
西郷隆盛は薩摩藩出身の「維新の三傑」の一人。1866年に薩長同盟を結び、江戸城の無血開城を実現した。1871年に参議として廃藩置県を進め、1873年の明治六年の政変で政府を去った、と押さえましょう。