南北朝の分裂(なんぼくちょうのぶんれつ)とは、鎌倉幕府がほろんだ1333年から数年後、朝廷が京都の
北朝と吉野の
南朝の2つに分かれた出来事です。後醍醐天皇の建武の新政、足利尊氏の離反、光明天皇の即位をへて、天皇が2人並ぶ南北朝時代が始まりました。この記事では、幕府の滅亡から2つの朝廷が並び立つまでの流れを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる南北朝の分裂」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・武士たちは、なぜ新しい政治に不満をつのらせたのか
・神器を渡したはずの後醍醐天皇が、なぜ吉野で朝廷を続けたのか
・南北朝時代の始まりは、何年と数えるのが適当か
1分でわかる南北朝の分裂
一言でいえば、後醍醐天皇の政治から離れた足利尊氏が京都で別の天皇を立て、吉野へ移った後醍醐天皇と朝廷が2つに割れた流れです。
1333年 後醍醐天皇が京都で政治を始める
1333年に鎌倉幕府がほろぶと、後醍醐天皇は、天皇が中心となって政治を進める建武の新政に取りかかりました。後醍醐天皇が領地の権利を綸旨(りんじ、天皇の命令を伝える文書)で確かめることにすると、京都には綸旨を求める武士が押し寄せ、大混乱になります。さらに、朝廷に仕える貴族である公家(くげ)が重んじられ、戦いの手柄に対するほうびである恩賞(おんしょう)も不公平だったため、武士たちの不満は高まりました。
1335〜1336年 足利尊氏が離れ、京都に光明天皇が即位
鎌倉幕府を倒す戦いで活躍した武士の足利尊氏は、1335年、中先代の乱で北条時行(鎌倉幕府を動かしていた北条氏の生き残り)に奪われた鎌倉を取り返しに向かい、そのまま京都へ戻りませんでした。天皇は尊氏を討つ軍を送ります。尊氏は一度は京都に攻め入りましたが、天皇方に敗れて、いったん九州へ逃れました。それでも1336年、天皇側の武将である楠木正成らの軍を湊川(みなとがわ)の戦いで破り、京都に入ります。そして、後醍醐天皇とは別の家系である持明院統(じみょういんとう)から、光明天皇(こうみょうてんのう)を即位させました。
建武3年の暮れ 後醍醐天皇が吉野に入る
尊氏に京都を押さえられた後醍醐天皇は、比叡山(ひえいざん)にこもりました。やがて尊氏と和睦して京都に戻り、三種の神器(さんしゅのじんぎ、天皇の位を受け継ぐしるしとされたもの)を光明天皇の側に引き渡します。ところがその年の暮れ、ひそかに京都を出て吉野(よしの、いまの奈良県)へ向かい、渡した神器は偽物だと主張しました。
こうして、京都の朝廷は北朝、吉野の朝廷は南朝と呼ばれるようになりました。天皇が2人並ぶ
南北朝時代は、1392年に2つの朝廷が1つになるまで、およそ60年続きます。
おまけトリビア
この時代は、年号も2つありました。北朝は「建武」を使い続け、南朝は「延元(えんげん)」を使ったため、1336年は北朝では建武3年、南朝では延元元年と呼ばれます。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、この流れをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■分裂の背景
鎌倉時代の後半から、天皇の家系は
持明院統と大覚寺統(だいかくじとう)の2つに分かれており、後醍醐天皇は大覚寺統の出身でした。
1333年に鎌倉幕府がほろぶと、京都へ戻った後醍醐天皇は、持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)の即位を認めず、自ら政治を始めました。翌1334年には年号を建武と改めたため、この政治は建武の新政と呼ばれます。
後醍醐天皇は、領地の権利を綸旨で確かめる方針をとりました。すると、自分の領地を認めてもらおうとする武士が京都に集まり、手続きは追いつかなくなります。天皇はまもなく方針を改め、いま持っている領地の確認は、各地の国を治める国司に任せました。訴えを裁く
雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)も整えています。
それでも武士たちの不満は消えません。新しい政治は公家(朝廷に仕える貴族)を重く用い、恩賞(戦いの手柄へのほうび)も不公平だったからです。混乱ぶりは、新しい政治を皮肉った
二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)にも書かれています。
■人物と流れ
1335年、鎌倉幕府を動かしていた北条高時の子、北条時行が兵を挙げ、鎌倉を奪いました。
中先代の乱です。足利尊氏は征夷大将軍の位と出陣の許しを求めましたが、後醍醐天皇は認めません。尊氏は許しのないまま東へ向かい、鎌倉を取り返しました。ところが、天皇が京都へ戻るよう命じても、尊氏は従いませんでした。
天皇は
新田義貞(にったよしさだ)らに尊氏を討たせます。尊氏はいったん京都に攻め入りましたが、天皇方に敗れて九州へ逃れました。九州で多々良浜(たたらはま)の戦いに勝った尊氏は、東へ攻め上ります。
建武3年(1336年)5月、尊氏は天皇側の楠木正成と新田義貞の軍を、湊川の戦いで破ります。正成はこの戦いで命を落としました。京都に入った尊氏は、光明天皇を即位させます。
尊氏に京都を押さえられた後醍醐天皇は、比叡山にこもって戦いを続けました。しかし建武3年(1336年)10月に尊氏と和睦して京都に戻り、光明天皇の側へ三種の神器を引き渡します。
建武3年12月(西暦では1337年1月)、後醍醐天皇はひそかに京都を出て、吉野へ向かいます。そして、渡した神器は偽物だと主張し、光明天皇の即位を認めない立場をとりました。
■史実と学説
南北朝時代の始まりは、1336年とするのが一般的です。この年に足利尊氏が京都で光明天皇を即位させたことを、区切りとみるためです。ただし、どの出来事を区切りにするかによって、後醍醐天皇が吉野に入った時点を始まりとする見方や、1333年の建武の新政から含める見方もあり、数え方は分かれています。
北朝の天皇は持明院統、南朝の天皇は大覚寺統でした。鎌倉時代から続いた家系の分かれが、2つの朝廷の分かれとして表に出たのです。
渡した神器が本物だったか偽物だったかは、資料によって書き方が分かれます。確かなのは、後醍醐天皇が偽物だと主張し、光明天皇の即位を認めなかったことです。
■トリビアの真相
「延元」は、1336年に後醍醐天皇が改めた年号です。尊氏の側はこの改元を認めず、「建武」を使い続けました。2つの朝廷はその後も、それぞれ別の年号を立てています。
南北朝が1つになった1392年も、北朝では明徳3年、南朝では元中9年と、呼び方が2つあります。
試験に出るポイント
京都で足利尊氏が立てた北朝は持明院統、吉野へ移った後醍醐天皇の南朝は大覚寺統という組み合わせがよく問われます。南北朝時代が1392年の合一まで約60年続いたことも頻出です。
なお、尊氏はその後、1338年に征夷大将軍になりました。