「鎖国」(さこく)とは、江戸幕府がキリスト教を禁じ、貿易と日本人の海外往来を制限した対外政策のことです。ただしこの言葉は江戸時代の初めには存在せず、
1801年に生まれた造語です。しかも日本は完全に閉じていたわけではなく、長崎・対馬・薩摩・松前という
四つの口が開いていました。この記事では、言葉の由来と政策の実際を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる鎖国」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・「鎖国」という言葉は誰がいつ作り、いつ使われ出したのか
・四つの口は誰とつながっていたのか
・教科書がかぎ括弧を付けるようになった理由
1分でわかる「鎖国」
「鎖国」とは、一言でいえば、当時の人が使っていなかった言葉で、後の時代から名づけられた対外政策です。
言葉が生まれたのは1801年
長崎で通訳を務めた志筑忠雄が、オランダ語の書物の一章を訳し、その題名を『鎖国論』としたときの造語です。江戸幕府の公式な用語ではありませんでした。実際に世間で使われ出すのは、さらに半世紀ほど後の幕末です。
閉じていたのではなく、絞られていた
幕府は1633年から日本人の海外渡航を段階的に制限し、1639年にポルトガル船の来航を禁じ、1641年にオランダ商館を平戸から長崎の出島へ移しました。
開いていた「四つの口」
長崎ではオランダと中国、対馬では朝鮮、薩摩では琉球、松前ではアイヌの人々。四つの窓口が、それぞれ異なる国や地域とつながっていました。
いま「鎖国」とかぎ括弧を付けて書く教科書があるのは、以下の2つの理由からです。当時なかった言葉であること。そして「国を鎖す」という響きが、実態とずれていること。ただし言葉自体が消えたわけではありません。長く使われてきた呼び名として、括弧付きで残っています。
おまけトリビア
「鎖国」という言葉が生まれたのは1801年。ペリーが来航する、およそ50年前のことです。江戸時代の大半、この国に「鎖国」という呼び名はありませんでした。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、幕府の対外政策をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■「鎖国」という言葉の由来
出島のオランダ商館に医師として滞在したドイツ人、エンゲルベルト・ケンペル。帰国後にまとめた日本の紹介書『日本誌』には、日本が自国民の出国と外国人の入国を禁じている、という趣旨の一章がありました。
これを訳したのが、長崎の
通詞(つうじ・オランダ語の通訳)だった
志筑忠雄(しづきただお)です。1801年、彼はその一章に『鎖国論』という題を与えました。このときに作られたのが「鎖国」という語です。
つまり、徳川家光が対外政策を固めてから、160年ほど後に生まれた名前でした。政策を行った当人たちは、「鎖国」という言葉を使っていませんでした。
■言葉が広まったのはいつか
ただし、1801年に生まれたこの言葉が、すぐに世の中へ広まったわけではありません。
「鎖国」が実際に使われるようになったのは、19世紀に入ってからです。ロシアやアメリカの船が日本に通商を求めて近づくようになると、それまで続けてきた対外政策をさす言葉として、「鎖国」が持ち出されるようになりました。国を開くかどうかが問われるようになった幕末に、この呼び名が広まっていったと考えられています。
造語が生まれてから、およそ半世紀後。ペリーが浦賀に来航する時期と、ほぼ重なります。つまり「鎖国」という言葉は、その政策が終わろうとする頃になって、ようやく広く語られるようになった呼び名でした。
■政策が積み上がった流れ
| 年 | 出来事 |
| 1633年 | 奉書船以外の海外渡航を禁止。5年以上海外に住む日本人の帰国も禁じる |
| 1635年 | 日本人の海外渡航と帰国を全面的に禁止 |
| 1637年 | 島原・天草一揆が起こる |
| 1639年 | ポルトガル船の来航を禁止 |
| 1641年 | オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移す |
ひとつの法令で一気に閉じたのではありません。禁教から始まり、渡航の制限、来航先の限定へと、10年ほどかけて段階的に積み上がりました。
なお、これらは「第一次鎖国令」「第二次鎖国令」と番号で呼ばれることがありますが、番号の振り方は資料によって食い違います。年と中身で覚えるほうが確実です。
■四つの口と学説
日本が外とつながる窓口は、4か所ありました。長崎は幕府の直轄で、オランダと中国が相手です。対馬は宗氏が朝鮮との交渉と貿易を担い、薩摩は琉球王国を通じて、松前はアイヌの人々を通じて、それぞれ外へつながっていました。これを
四つの口と呼びます。
政策の目的については、理由が一つに定まっていません。キリスト教の禁止を軸とする見方が基本ですが、貿易を幕府が一手に管理するための統制と見る立場、幕府に対抗しうる勢力が海外貿易で力をつけるのを防ぐ狙いを重く見る立場もあります。どれか一つに決めつけない扱いが無難です。
近年は「鎖国」という枠組みそのものを見直し、江戸時代の日本を、東アジアの中で他国と結びついた存在として捉え直そうという動きが進んでいます。「鎖国」を一つの完成した体制と見るか、状況に応じて積み上がった政策の連なりと見るかでも、説明は変わります。
■トリビアの真相
年表に置いてみると、名前のつき方の遅さがよく分かります。政策がほぼ形を整えたのが1639年から1641年。そこに「鎖国」という名前が与えられたのが1801年。そしてペリーが来航して政策が終わるのが1853年です。160年ほど政策が無名のまま続き、終わりの50年前になって、ようやく呼び名がついたことになります。しかもその呼び名が世に広まるのは、開国が問われた幕末を待つことになりました。
教科書の書き方も変わってきました。かつては世界の進展から取り残された時代という否定的な評価が前に出ていましたが、いまは隣国との交流が江戸時代を通じて続いたことを書き添える形に改められています。かぎ括弧は、その変化の跡でもあります。
試験に出るポイント
「四つの口=長崎・対馬・薩摩・松前」と、その相手(オランダ・中国/朝鮮/琉球/アイヌ)の組み合わせが最頻出。あわせて「鎖国は当時の言葉ではなく、1801年の造語」という点も、記述問題で狙われます。1801年に生まれ、幕末に広まったという二段構えで覚えておくと、書きやすくなります。