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神権政治《カルヴァン》とは わかりやすい世界史用語2575 |
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著作名:
ピアソラ
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神権政治《カルヴァン》とは
ジャン=カルヴァンが16世紀のジュネーヴで築き上げた体制は、しばしば「神権政治」という言葉で語られます。この言葉は、聖職者が絶対的な権力で都市を支配し、市民生活の隅々までを厳格な宗教的規律で縛り上げた、息苦しい独裁体制のイメージを呼び起こします。カルヴァン自身が、ジュネーヴの冷酷な独裁者として君臨したという姿は、彼の批判者たちによって何世紀にもわたって描かれ、広く受け入れられてきました。しかし、この「神権政治」というレッテルは、ジュネーヴで実際に展開された教会と国家の関係の複雑な実態を、正確に捉えているとは言えません。
カルヴァンの目指した社会は、確かに神の主権がすべての領域に及ぶ「神の都市」の実現でした。しかし、その方法は、聖職者が直接国家権力を握るという単純なものではありませんでした。むしろ彼の思想の核心には、教会(霊的領域)と国家(世俗的領域)の権限を明確に区別するという、中世以来の政治思想とは一線を画す、画期的な理念がありました。ジュネーヴの現実は、この二つの権力が、時には協力し、時には激しく対立しながら、一つの共同体を統治しようとする、緊張に満ちた動的な関係の物語です。
カルヴァンの「神権政治」の実像を探ることは、単に歴史上の一都市の統治形態を分析することにとどまりません。それは、宗教的権威と世俗的権力がどのように関わるべきか、信仰は個人の内面にとどまるべきか、それとも社会全体の秩序を形成する原理となるべきか、という、より普遍的な問いを投げかけます。ジュネーヴという実験室で繰り広げられた葛藤と協力のドラマを丹念に追うことで、私たちは「神権政治」という単純化されたレッテルを剥がし、その下に隠された思想の射程と、歴史の複雑な綾を解き明かすことができるでしょう。
「神権政治」という言葉の再検討
カルヴァンのジュネーヴを論じる前に、まず「神権政治」という言葉そのものが持つ意味と、それが歴史的にどのように用いられてきたかを吟味する必要があります。この言葉は、感情的な反発を呼び起こしやすく、しばしば不正確な形で適用されてきた経緯があるからです。
定義と歴史的誤用
神権政治(Theocracy)とは、文字通りには「神による支配」を意味します。より具体的には、神、あるいは神の代理人とされる聖職者が、直接的に国家を統治する政治体制を指します。この体制では、国家の法は神の法と同一視され、教会と国家は一体化しています。古代イスラエルや、一部のイスラム国家などが、その典型的な例として挙げられます。
この厳密な定義に従うならば、カルヴァンのジュネーヴを神権政治と呼ぶことは、明らかに不正確です。なぜなら、カルヴァン自身は生涯を通じて、ジュネーヴのいかなる公的な政治的役職にも就かなかったからです。彼は一人の牧師であり、フランスからの亡命者であって、ジュネーヴの市民権を得たのは、死の数年前の1559年のことでした。彼は、都市の法律を制定したり、税金を徴収したり、軍隊を指揮したりする直接的な権力を持っていませんでした。ジュネーヴの政治は、あくまで市民の中から選ばれた市参事会によって運営される、共和制の体裁を保っていました。
にもかかわらず、なぜジュネーヴは「神権政治」の代名詞のようになったのでしょうか。その起源は、カルヴァンに敵対した人々によるプロパガンダに遡ることができます。ヴォルテールのような啓蒙思想家たちは、カルヴァンを、宗教的狂信と不寛容の象徴として描き出し、ジュネーヴを自由を抑圧する暗黒の独裁国家として非難しました。彼らにとって、セルヴェトゥス事件は、その格好の証拠でした。この否定的なイメージは、後世にわたって繰り返し再生産され、カルヴァン=神権政治=独裁者という単純な図式を定着させていったのです。
カルヴァンの意図=神政政治か、聖書政治か
では、カルヴァン自身は、どのような社会を目指していたのでしょうか。彼が目指したのは、聖職者が支配する「神権政治」ではなく、むしろ神の言葉である聖書が最高の権威として君臨する「聖書政治」とでも呼ぶべき体制でした。
カルヴァンの思想の根底には、神の絶対的な主権という信念があります。神は、教会だけでなく、国家、社会、家庭、個人の生活のすべてを支配する王です。したがって、人間社会のあらゆる領域は、神の御心に従って秩序づけられなければなりません。そして、その神の御心を明らかにするのが、聖書です。
この考えによれば、国家の為政者も、教会の牧師も、等しく「神の僕」です。彼らは、それぞれ異なる領域で、神から委ねられた権威を行使します。為政者は「剣の権威」をもって外面的な秩序を維持し、牧師は「言葉とサクラメントの権威」をもって霊的な秩序を維持します。両者は、どちらが上という階層関係にあるのではなく、それぞれが直接、神に対して責任を負う、並列的な関係にあります。
しかし、両者の権威の源は、究極的には同じ聖書にあります。したがって、国家の法律もまた、聖書に示された神の道徳法(特に十戒)の原則に反するものであってはなりません。国家は、真の宗教を保護し、偶像崇拝や冒涜を取り締まり、神の栄光が保たれるように配慮する義務を負います。
このように、カルヴァンの目指した社会は、教会が国家を支配するのではなく、神の言葉(聖書)が、教会と国家の両方を支配し、導く社会でした。それは、聖職者による支配ではなく、神の法による支配を目指すものでした。この区別は、ジュネーヴにおける教会と国家の複雑な関係を理解する上で、極めて重要です。
カルヴァンの二王国論=教会と国家の区別
カルヴァンの政治思想の核心をなすのが、「二王国論」あるいは「二重統治論」と呼ばれる教えです。これは、神が人間を二つの異なる領域、すなわち「霊的な王国」と「政治的な王国」において統治するという考え方です。この区別は、彼の主著『キリスト教綱要』の最終巻の冒頭で、明確に提示されています。
霊的統治と政治的統治
カルヴァンによれば、霊的な王国とは、良心に関わる領域であり、魂が永遠のいのちへと導かれる、内面的な世界です。この王国を統治するのは、キリストご自身であり、その手段は、聖霊の働きと、神の言葉である福音です。この領域における唯一の法は、神の言葉であり、その執行機関は教会です。教会は、説教とサクラメント、そして霊的な規律(破門など)を通じて、人々の魂を養い、導きます。
一方、政治的な王国とは、市民社会に関わる領域であり、人々の外面的な行動を律し、社会の平和と秩序を維持する、この世の事柄です。この王国を統治するのは、神によって立てられた為政者(王、君主、あるいは市参事会など)です。その手段は、法律と「剣」、すなわち強制力です。国家は、犯罪者を罰し、財産を守り、市民が互いに平和に暮らせるように配慮します。
カルヴァンは、この二つの統治を混同してはならないと、強く警告しました。霊的な自由を、政治的な無政府状態と取り違える再洗礼派の急進主義を、彼は厳しく批判しました。キリスト者は、霊的にはキリストのみに属する自由な存在ですが、市民としては、この世の国家の法に従う義務を負います。
同時に彼は、教会が国家の権威である「剣」を取ることを禁じました。教会は、強制力によって信仰を押し付けたり、異端者を罰したりする権限を持ちません。教会の唯一の武器は、「霊の剣」、すなわち神の言葉です。教会の最も厳しい罰である破門でさえ、それは相手を社会的に抹殺するものではなく、悔い改めへと導くための、霊的な懲らしめに過ぎません。
中世カトリック教会との違い
この教会と国家の機能の明確な区別は、中世のローマ=カトリック教会の支配的な見解からの、重要な離脱を意味していました。中世において、教皇は、キリストの代理人として、霊的な権威(霊剣)だけでなく、世俗的な権威(俗剣)をも究極的に所有するという「両剣論」を主張しました。皇帝や王は、教皇から世俗の剣を委ねられた存在と見なされ、教会は国家の上位に立つ階層的な構造が想定されていました。教会は、広大な領地を持つ封建領主であり、独自の裁判権を行使し、時には国家を破門し、王を廃位させるほどの強大な世俗的権力を持っていました。
カルヴァンは、このような教会の世俗化と権力乱用を、聖書の教えからの逸脱として、厳しく批判しました。彼にとって、教会が国家の役割を担うことは、その本来の霊的な使命を放棄することに他なりませんでした。同様に、国家が教会の信仰内容に口出しすることも、越権行為でした。
ルター派との違い
カルヴァンの二王国論は、マルティン=ルターのそれとは、重要な違いがありました。ルターもまた、霊の国と世の国を厳しく区別しました。しかし、ルターは、教会の外面的な組織や運営(人事や財産管理など)に関しては、それを世俗の領域に属する事柄と見なし、国家の君主(領主)にその監督権を委ねる傾向がありました。これは、ドイツの宗教改革が、多くの領邦君主の保護と主導のもとで進められたという、歴史的な状況を反映しています。結果として、ルター派の教会は、国家の管理下に置かれる「領邦教会」としての性格を強く持つことになりました。
これに対し、カルヴァンは、教会が、国家から独立した、独自の組織と規律を持つべきだと強く主張しました。教会の職務者(牧師や長老)の選出や、教会の規律の執行は、国家の介入を受けることなく、教会自身が行うべきだと考えたのです。彼は、教会が国家に従属することを、キリストの王としての主権を侵害するものと見なしました。この教会(特にコンシストリー)の自律性の主張こそが、ジュネーヴにおけるカルヴァンと市参事会の間の、長年にわたる権力闘争の核心的な原因となったのです。
ジュネーヴにおける二つの権力:コンシストリーと市参事会
カルヴァンの教会と国家に関する思想が、具体的にどのような制度としてジュネーヴに導入されたのかを見ることで、彼の「神権政治」の実像はより明確になります。ジュネーヴの統治は、霊的権力を担うコンシストリー(教会会議)と、世俗的権力を担う市参事会という、二つの中心的な機関によって行われました。この二つの機関の関係こそが、ジュネーヴの政治力学の鍵でした。
市参事会=世俗の剣
市参事会は、ジュネーヴ共和国の最高統治機関でした。それは、市民の中から選挙で選ばれたメンバーで構成され、立法、行政、司法のすべての権限を握っていました。小参事会(25名)、六十人会、二百人会といった階層的な評議会があり、その頂点に立つのが4名のサンディック(市長)でした。
市参事会は、都市の防衛、外交、財政、インフラ整備、そして犯罪者の訴追と処罰といった、国家のすべての世俗的な機能を担っていました。カルヴァン自身は、この市参事会のメンバーではなく、その議決に直接参加する権限はありませんでした。彼は、あくまで一人の牧師として、市参事会に助言を与えたり、勧告を行ったりすることができるに過ぎませんでした。
しかし、市参事会の権限は、純粋に世俗的な事柄に限定されてはいませんでした。宗教改革以前から、市参事会は、市民の道徳を取り締まるための条例(奢侈禁止令など)を制定し、教会の財産管理にも深く関与していました。宗教改革によって司教の権力が排除された後、市参事会は、自らを都市の唯一の支配者と見なし、教会の事柄を含む、都市のすべての事柄に対する最終的な監督権を持つと考えていました。彼らは、牧師たちを、都市が雇用する職員の一種と見なす傾向があったのです。この認識が、教会の自律性を求めるカルヴァンとの間に、避けられない衝突を生み出すことになります。
コンシストリー=霊の剣
この市参事会の包括的な権力に対し、カルヴァンが対置したのが、コンシストリーでした。1541年の『教会規定』によって設立されたコンシストリーは、ジュネーヴ教会の霊的な規律を維持するための機関でした。それは、市のすべての牧師(約10名)と、市参事会のメンバーの中から選ばれた12名の長老から構成されていました。
コンシストリーの議長は、法律上は4名のサンディックのうちの一人が務めることになっていましたが、事実上の議論を主導したのは、カルヴァンその人でした。コンシストリーは、毎週木曜日に開かれ、市民の宗教的・道徳的な逸脱行為を審議しました。その対象は、神への冒涜、礼拝の欠席、異端思想、迷信的行為といった宗教的な問題から、姦淫、賭博、飲酒、夫婦喧嘩、親への不従順、商業上の不正といった、広範な道徳的問題にまで及びました。
コンシストリーは、被告人を召喚し、証人から話を聞き、罪が認められた者に対して、罰を科しました。その罰は、あくまで霊的な性質のものでした。最も軽いものは、牧師による非公式な戒告でした。より重い場合には、会衆の前での公的な謝罪が求められました。そして、最も重い罰が、聖餐式への参加を一時的に停止する「破門」でした。
重要なのは、コンシストリーが、罰金、投獄、追放、あるいは死刑といった、世俗的な罰を科す権限を持っていなかったことです。それは、あくまで市参事会の権限でした。コンシストリーの審議の過程で、犯罪行為が明らかになった場合、コンシストリーは、その事件を市参事会に付託することしかできませんでした。コンシストリーは、警察でも裁判所でもなく、あくまで教会の規律を維持するための、牧会的な機関として構想されていたのです。
権力闘争の核心=破門権
理論上は、コンシストリーと市参事会の役割は明確に分かれていました。しかし、現実には、両者の権限が重なり合い、衝突する領域が数多く存在しました。その中でも、最も激しい権力闘争の舞台となったのが、「破門権」の帰属をめぐる問題でした。
カルヴァンにとって、破門権、すなわち、ふさわしくない者を聖餐の交わりから排除する権限は、教会の純潔を保つための生命線でした。聖餐は、キリストとの聖なる交わりであり、公然と罪深い生活を送る者がそれに参加することは、聖なるものを汚す冒涜行為でした。したがって、誰が聖餐に与るにふさわしいかを判断し、ふさわしくない者を排除する権限は、教会の霊的な権威の核心であり、牧師と長老に委ねられるべきだと、彼は固く信じていました。
しかし、市参事会は、この考えを到底受け入れることができませんでした。彼らにとって、破門は、単なる霊的な懲らしめではありませんでした。それは、市民を共同体から排除し、その名誉を傷つける、社会的な制裁でした。したがって、そのような重大な権限は、都市の最高統治機関である市参事会が最終的に管理すべきだと考えたのです。彼らは、牧師たちが、かつてのカトリックの司教たちのように、破門権を武器に、市民を支配し、国家の権威に挑戦する、新たな「聖職者支配」を確立することを恐れました。
この対立は、カルヴァンがジュネーヴに帰還した1541年から、1555年にかけて、絶え間なく続きました。1541年の『教会規定』では、この問題は曖昧にされ、コンシストリーは破門を「勧告」するに留まり、最終的な決定権は市参事会が留保するという、妥協的な形が取られました。
カルヴァンはこの妥協に不満であり、その後も説教や著作を通じて、破門権が教会に固有の権限であることを粘り強く主張し続けました。一方、アミ=ペランらに率いられた反カルヴァン派(リベルタン)は、市参事会を舞台に、コンシストリーの権限を削ごうと画策しました。ある時、市参事会は、コンシストリーによって破門された人物の破門を、一方的に解除する決定を下しました。これに対し、カルヴァンは、説教壇から、もし市参事会がその決定を強行するならば、自らの命にかけて、その人物に聖餐を授けることを拒否すると宣言し、市参事会に決定を撤回させたこともありました。
この長い闘争は、1555年に、リベルタン派の政治的失脚によって、ようやく決着します。カルヴァン派が市参事会を完全に掌握したことで、コンシストリーが破門を最終的に決定する権限を持つことが、事実上確立されたのです。しかし、この勝利は、カルヴァンが独裁権を握ったことを意味するのではありません。それは、彼の長年の主張であった、教会がその霊的な事柄において、国家から自律する権利を、市参事会が最終的に認めたということを意味していました。
「神の都市」の統治=協力と緊張
破門権をめぐる闘争は、教会と国家の間の緊張関係を象徴していますが、ジュネーヴの統治は、常に対立ばかりだったわけではありません。むしろ、日常的なレベルでは、コンシストリーと市参事会は、市民社会の道徳的・宗教的な秩序を維持するという共通の目標のために、緊密に協力していました。この協力関係こそが、ジュネーヴを「規律正しい都市」へと変貌させた原動力でした。
道徳的規律の共同実施
コンシストリーは、市民の道徳的な逸脱を審議しましたが、その情報は、しばしば市参事会から提供されました。また、コンシストリーが明らかにした犯罪行為は、市参事会に報告され、法的な処罰の対象となりました。逆に、市参事会も、結婚に関する争いなど、神学的な判断が必要な問題を、コンシストリーに諮問することがありました。
例えば、ある市民が姦淫の罪でコンシストリーに召喚された場合、コンシストリーは、その人物を尋問し、悔い改めを促し、聖餐停止を宣告することができました。しかし、姦淫は、ジュネーヴの法律では犯罪でもあったため、コンシストリーは、その事件を市参事会に付託しました。市参事会は、独自の法的な手続きを経て、その人物に投獄や追放といった、世俗的な罰を科すことができました。このように、一つの逸脱行為に対して、教会と国家が、それぞれ異なる種類の罰を科すという、二重の統治が機能していたのです。
この協力関係は、社会の隅々にまで及ぶ、包括的な道徳的規律のネットワークを生み出しました。奢侈禁止令、賭博や演劇の禁止、日曜日の労働の禁止といった条例は、市参事会によって制定されましたが、その遵守を監視し、違反者を摘発する上で、コンシストリーは重要な役割を果たしました。教会と国家は、いわば車の両輪のように、一体となって、ジュネーヴを「聖なる共同体」へと作り変えようとしたのです。
社会福祉と教育
教会と国家の協力は、社会福祉や教育の分野でも顕著でした。1541年の『教会規定』は、教会の四つの職務の一つとして、貧者や病人の世話を担当する「執事」を定めました。執事たちは、市が運営する総合病院の管理を任され、施し物の分配、孤児や寡婦の世話、そして亡命者への支援といった、広範な社会福祉活動を展開しました。この活動の資金は、教会の献金だけでなく、市の予算からも支出されており、教会と国家が共同で、社会の弱者を支える責任を負っていました。
教育もまた、重要な協力分野でした。カルヴァンは、すべての市民が聖書を自分で読めるようになるべきだと考え、公教育の整備を強く推進しました。彼の主導のもと、市は初等教育の制度を整備し、すべての子供たちがカテキズム(信仰問答)を学ぶことを義務付けました。
その集大成が、1559年に設立されたジュネーヴ=アカデミーです。このアカデミーの設立は、市参事会が資金を提供し、カルヴァンがその教育内容と教授陣を組織するという、教会と国家の共同プロジェクトでした。アカデミーは、ジュネーヴの市民に高度な教育を提供すると同時に、ヨーロッパ全土から集まる学生たちに、カルヴァンの神学を教え、改革派の牧師を養成する国際的なセンターとなりました。これは、ジュネーヴを「プロテスタントのローマ」たらしめた、最も成功した協力事業の一つでした。
異端との戦い=セルヴェトゥス事件の力学
しかし、教会と国家の協力関係が、最も暗い形で現れたのが、異端者との戦いにおいてでした。その象徴が、1553年のミシェル=セルヴェトゥス事件です。
セルヴェトゥスは、三位一体の教義を否定したため、カトリックとプロテスタントの双方から、神を冒涜する危険な異端者と見なされていました。彼がジュネーヴで逮捕されたとき、その裁判は、教会と国家の共同作業として進められました。
カルヴァンと牧師会は、神学的な専門家として、セルヴェトゥスの著作を詳細に検討し、その教えが聖書とキリスト教の基本的な信仰に反するものであることを論証する、神学的な告発状を作成しました。彼らは、セルヴェトゥスと神学論争を行い、彼の誤りを指摘し、悔い改めを迫りました。これは、教会の霊的な役割の遂行でした。
しかし、セルヴェトゥスを逮捕し、裁判にかけ、最終的に判決を下したのは、あくまで世俗の権力である市参事会でした。当時のヨーロッパでは、異端は、単なる神学的な意見の相違ではなく、社会の根幹を揺るがし、神の怒りを招く、国家に対する犯罪と見なされていました。市参事会は、ジュネーヴが異端者の巣窟であるという汚名を着せられることを恐れ、他のスイス諸州のプロテスタント都市に意見を求めました。すべての都市が、セルヴェトゥスを処罰すべきであると回答したことを受けて、市参事会は、彼に火刑を宣告しました。
この事件において、カルヴァンは、神学的な検察官として、セルヴェトゥスの有罪を確信し、その処罰を支持したという、道徳的な責任を免れることはできません。しかし、彼がセルヴェトゥスを直接死刑に処したわけではありません。判決を下し、それを執行したのは、あくまで国家(市参事会)でした。この事件は、教会と国家が、真の宗教を守り、社会の秩序を維持するという共通の目的のために協力したときに、いかに致命的な結果をもたらしうるかを示す、悲劇的な実例です。それは、カルヴァンの「神権政治」が、単なる聖職者支配ではなかったことと同時に、彼の体制が、近代的な意味での「信教の自由」や「政教分離」とは、いかにかけ離れたものであったかを、明確に示しています。
結論=神権政治という神話の解体
カルヴァンのジュネーヴを「神権政治」と呼ぶことは、歴史的な現実を著しく単純化し、歪めるものです。厳密な意味での神権政治、すなわち聖職者が直接国家を統治する体制は、ジュネーヴには存在しませんでした。カルヴァンは、政治的な独裁者ではなく、その影響力は、あくまで彼の思想の力、説得力、そして粘り強い交渉力に由来する、道徳的・霊的な権威でした。
彼の政治思想の核心には、教会と国家の機能と権限を明確に区別する「二王国論」がありました。彼は、教会が国家の権力を奪うことも、国家が教会の霊的な事柄に介入することも、共に退けました。彼の生涯にわたる市参事会との闘争は、何よりも、この教会の自律性を確保するための戦いでした。
しかし、その一方で、カルヴァンは、教会と国家が、完全に分離された、無関係な存在であるとは考えませんでした。両者は、神の主権のもとで、社会の秩序を維持し、神の栄光を現すという共通の目的のために、協力すべきパートナーでした。国家は、真の宗教を保護し、促進する義務を負っていました。この協力関係は、社会福祉や教育といった分野で実り豊かな成果を生みましたが、異端者の処罰という形をとったときには、非寛容で抑圧的な側面を露呈しました。
結局のところ、カルヴァンのジュネーヴは、神権政治というよりも、「聖書に基づいた規律正しい共和国」と呼ぶのが、より正確かもしれません。それは、神の言葉が、教会と国家の両方を含む、社会のすべての領域を律するべきであるという、壮大な理念に基づいた実験でした。この実験は、カルヴァン個人の権威と、ジュネーヴの特殊な政治状況に深く依存しており、多くの緊張と矛盾をはらんでいました。
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