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ヴォルムス帝国議会とは わかりやすい世界史用語2559 |
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著作名:
ピアソラ
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ヴォルムス帝国議会とは
1521年にライン川沿いの古都ヴォルムスで開催された神聖ローマ帝国の帝国議会、すなわち「ヴォルムス帝国議会」は、西洋史の流れを決定的に変えた、最も劇的な瞬間のひとつとして記憶されています。この議会は、表向きには帝国の統治や対トルコ戦争への課税といった、様々な政治的課題を討議するために召集されましたが、その歴史的な重要性は、ただ一人の人物、アウグスティノ会修道士であり、ヴィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン=ルターの喚問に集約されます。この舞台で、当時ヨーロッパで最も強大な権力者であった若き神聖ローマ皇帝カール5世と、教皇庁という巨大な宗教的権威に公然と異を唱えた一介の修道士が、ヨーロッパ中の注目の中で直接対峙しました。ルターが自説の撤回を拒否し、「我、ここに立つ。他になし能わず」という伝説的な言葉(その正確性については議論があるものの)に象徴される、個人の良心と聖書の権威への忠誠を宣言したこの出来事は、単なる神学論争のクライマックスではありませんでした。それは、中世以来のキリスト教世界の統一性を根底から揺るがし、宗教改革という時代の奔流を不可逆的なものにした、決定的な分水嶺でした。ヴォルムス帝国議会は、信仰のあり方、権威の本質、そして個人の尊厳をめぐる、普遍的な問いを投げかけました。
議会への道
ヴォルムスでの劇的な対決は、一夜にして起こったわけではありません。それは、1517年の九十五ヵ条の論題の提起から始まった、ルターとローマ教皇庁との間の、徐々にエスカレートしていく対立の必然的な帰結でした。
九十五ヵ条の論題からライプツィヒ討論へ
1517年10月31日、ルターは、贖宥状(免罪符)の販売を神学的に批判する「九十五ヵ条の論題」をヴィッテンベルク城教会の扉に掲示しました。当初、これは大学内での学術的な討論を呼びかけるものであり、ルター自身も、教会を分裂させる意図は毛頭ありませんでした。しかし、活版印刷という新しいメディアの力によって、彼の論題は、彼の意図を超えて、ドイツ中に急速に広まり、教皇庁による経済的搾取に不満を抱いていた人々の間で、爆発的な共感を呼びました。教皇庁は、当初この問題を「一修道士の些細な口論」と見なしていましたが、事態の深刻さを認識するにつれ、ルターに自説の撤回を求めるようになりました。1518年のアウクスブルクでの審問では、ルターは教皇特使カイエタン枢機卿の前で撤回を拒否し、1519年のライプツィヒ討論では、当代随一の神学者ヨハン=エックとの間で、教皇権の権威や公会議の無謬性をめぐる激しい論戦を繰り広げました。この討論で、ルターは、かつて異端として火刑に処されたヤン=フスの教えにも正しいものが含まれていると認め、自らがローマ教会の伝統的な権威構造そのものに疑問を呈していることを、自覚せざるを得なくなりました。この時点で、ルターと教皇庁との間の溝は、もはや修復不可能なほど深まっていました。
1520年の三大改革論文
ライプツィヒ討論の後、ルターの思想はさらに急進化し、1520年には、彼の宗教改革思想の核心を示す、三つの重要な論文を立て続けに出版しました。第一の『ドイツのキリスト者貴族に与う』は、ドイツ語で書かれ、教皇庁が築いた「三つの壁」(聖職者と平信徒の区別、教皇のみが聖書を解釈する権利、教皇のみが公会議を召集する権利)を打ち破るよう、ドイツの諸侯に呼びかける、政治的な檄文でした。第二の『教会のバビロニア捕囚』は、ラテン語で書かれ、カトリック教会の七つの秘跡を批判し、洗礼と聖餐の二つのみを聖書的なものとして認める、より根本的な神学批判を展開しました。第三の『キリスト者の自由』は、信仰義認の教理を簡潔に説明し、「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であり、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに仕える僕であり、何人にでも従属する」という、信仰者の内面的な自由と、隣人への愛の奉仕という、福音の本質を明らかにしました。これらの論文は、事実上、ローマ教皇庁に対する宣戦布告であり、もはや妥協の余地がないことを示すものでした。
教皇教書『エクスルゲ=ドミネ』とルターの破門
ルターの過激な言動に対し、教皇レオ10世は、1520年6月15日、教皇教書『エクスルゲ=ドミネ』(主よ、立ち上がりたまえ)を発布しました。この教書は、ルターの著作から41の命題を異端として断罪し、彼に60日以内に自説を撤回するよう命じ、従わない場合は破門に処すという最後通牒でした。しかし、ルターは、もはや教皇の権威を認めていませんでした。1520年12月10日、彼は、ヴィッテンベルクの市民や学生が見守る中、教皇教書と教会法の写しを公然と火の中に投じ、ローマとの完全な決別を劇的に示しました。これを受けて、教皇庁は1521年1月3日、最終的な破門宣告を含む教皇教書『デチェト=ロマヌム=ポンティフィチェム』(ローマ教皇にふさわしきこと)を発布し、ルターは正式にカトリック教会から追放されました。
政治的背景
ルターがヴォルムスに召喚された背景には、単なる宗教的な対立だけでなく、神聖ローマ帝国をめぐる、複雑な政治的力学と、主要な登場人物たちのそれぞれの思惑が絡み合っていました。
新皇帝カール5世の立場
1519年に神聖ローマ皇帝に選出されたばかりの若きカール5世にとって、1521年のヴォルムス帝国議会は、彼が皇帝として初めて主宰する、極めて重要な政治の舞台でした。彼は、広大なハプスブルク家の領地を相続し、ヨーロッパと新大陸にまたがる「太陽の沈まぬ帝国」の支配者であり、中世以来の「普遍的キリスト教帝国」の理念を受け継ぐ、敬虔なカトリック教徒でした。彼は、自らをカトリック信仰の守護者と任じており、教会の分裂は、彼の帝国理念の根幹を揺るがす、許容できない脅威でした。彼は、祖先たちが守り抜いてきた信仰のために戦うことを自らの使命と考えており、ルターの教えを異端として断固として鎮圧する意志を持っていました。しかし、同時に彼は、政治的な現実主義者でもありました。彼は、皇帝選挙の際に、ドイツの諸侯、特にザクセン選帝侯フリードリヒ賢公に多大な恩義があり、彼らの支持なしに帝国を統治することはできませんでした。また、東方からのオスマン帝国の脅威に対抗するためには、帝国内の結束、特に諸侯からの軍事的・財政的な支援が不可欠であり、ルター問題を一方的に処理して諸侯を敵に回すことは避けたかったのです。
教皇庁の要求
教皇レオ10世と、その特使として議会に派遣されたジローラモ=アレアンドロにとって、事態は単純明快でした。ルターは、すでに教皇によって正式に異端として破門宣告を受けており、教会法によれば、世俗の権力者は、教会の決定に従い、異端者を速やかに処罰する義務がありました。アレアンドロは、カール5世に対し、ルターに弁明の機会を与えることなく、直ちにヴォルムス勅令を発布して、彼を帝国の無法者として断罪するよう、執拗に要求しました。彼にとって、ルターを議会に召喚し、審問を行うこと自体が、教皇の権威に対する不当な挑戦であり、異端者に不必要な正当性を与える危険な行為でした。彼は、ルター問題がドイツ国民の反ローマ感情と結びつき、政治問題化することを極度に恐れていました。
ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公の戦略
ルターの保護者であったザクセン選帝侯フリードリヒ賢公は、この複雑な状況の中で、極めて慎重かつ巧みな外交手腕を発揮しました。彼自身がルターの教えをどの程度まで支持していたのかは定かではありませんが、彼は、自らが創設したヴィッテンベルク大学の著名な教授であるルターが、公正な審理もなしに断罪されることは、ドイツ諸侯の権利と「ドイツの自由」を侵害するものであると考えていました。彼は、皇帝選挙の際にカール5世の選出に決定的な役割を果たした、帝国内で最も尊敬される諸侯の一人であり、その政治的影響力は絶大でした。彼は、カール5世に対し、ルターが教皇の決定によって自動的に処罰されるのではなく、ドイツの地で、帝国議会という公的な場で、聖書に基づいて自らの立場を弁明する機会を与えられるべきだと、粘り強く主張しました。フリードリヒのこの要求は、他の多くのドイツ諸侯からも支持され、カール5世は、教皇特使の強い反対を押し切って、ルターに皇帝からの安全通行証を与え、ヴォルムスへ召喚することを決定せざるを得なくなったのです。
ヴォルムスへの旅
ルターのヴォルムスへの旅は、罪人として断罪の地へ向かう陰鬱な旅ではなく、むしろ、ドイツ国民の英雄としての、輝かしい凱旋パレードの様相を呈していました。
皇帝からの召喚と安全通行証
1521年3月、ルターは、皇帝カール5世からの正式な召喚状と、身の安全を保証する安全通行証を受け取りました。しかし、彼の友人たちは、この旅の危険性を深く憂慮していました。彼らの脳裏には、約100年前の1415年、コンスタンツ公会議に召喚されたボヘミアの改革者ヤン=フスが、皇帝から与えられた安全通行証を反故にされ、異端として火刑に処されたという、忌まわしい前例があったからです。多くの人々が、ルターにも同じ運命が待ち受けていると信じ、彼にヴォルムス行きを思いとどまるよう懇願しました。しかし、ルターの決意は固く、「たとえヴォルムスの屋根瓦の数ほど多くの悪魔が私を待ち受けていようとも、私はそこへ行くだろう」と語ったと伝えられています。彼は、この召喚を、自らの信仰を、皇帝と帝国全体の面前で公に証しするための、神から与えられた機会であると捉えていました。
民衆の熱狂的な歓迎
1521年4月2日、ルターはヴィッテンベルクを出発しました。彼の旅は、ライプツィヒ、エアフルト、フランクフルトといった都市を経由しましたが、行く先々で、彼は民衆から熱狂的な歓迎を受けました。彼がかつて学んだエアフルトでは、大学の学長をはじめとする人々が彼を迎え、彼は説教を行うよう請われました。彼の乗る馬車が都市に近づくと、教会の鐘が鳴らされ、群衆が彼を一目見ようと殺到しました。この熱狂は、人々がルターの難解な神学を完全に理解していたからというよりも、彼が、多くのドイツ人が長年抱いてきた、教皇庁による経済的搾取と霊的支配に対する不満と怒りを代弁する、国民的な英雄と見なされていたからです。ルターは、もはや一介の修道士ではなく、ローマの圧制に立ち向かう「ドイツの解放者」の象徴となっていたのです。教皇特使アレアンドロは、ヴォルムスからこの様子を伝える報告を受け取り、ルターの人気が、自分たちの想像をはるかに超えていることに愕然としました。
議会での対決
1521年4月16日、ルターはついにヴォルムスに到着しました。翌17日、彼は帝国議会が開催されている司教館に召喚され、歴史的な対決の火蓋が切られました。
第一日目(4月17日)=予期せぬ質問と熟慮の要求
午後4時頃、ルターは、皇帝カール5世、選帝侯たち、諸侯、そして教皇特使らが居並ぶ、荘厳な議場へと通されました。彼は、このような華々しい権力の世界に慣れておらず、その雰囲気に圧倒されたと言われています。彼の前には、彼が書いたとされる著作の山が積まれていました。トリーア大司教の顧問官が、ルターに二つの質問を投げかけました。第一に、「ここに積まれている本は、あなたの著作であるか」。第二に、「あなたは、これらの本の内容を、すべて撤回する用意があるか」。第一の質問に対し、ルターは、ためらうことなく、それらが自分の著作であることを認めました。しかし、第二の質問は、彼が予想していたものとは異なっていました。彼は、自らの教えについて弁証し、討論する機会が与えられるものと考えていましたが、彼に求められたのは、単純な「然り」か「否」かの答え、すなわち無条件の撤回だけでした。この重大な問いに対し、ルターは、小さな声で、これは神の言葉と魂の救いに関わる重大な問題であるため、軽率に答えることはできないと述べ、熟慮のための時間を与えられるよう願い出ました。皇帝は、側近と協議した後、これを認め、ルターに翌日の午後まで、24時間の猶予を与えました。
第二日目(4月18日)
翌4月18日の午後、ルターは再び議場に召喚されました。前日とは打って変わって、彼の態度は落ち着き、自信に満ちていました。彼は、まず、自らの著作を三つのカテゴリーに分類して説明を始めました。第一は、キリスト教の信仰と道徳に関する純粋な福音的な著作であり、これらは敵対者でさえも有益であると認めているため、撤回することはできないと述べました。第二は、教皇の圧制と偽りの教えを批判した著作であり、もしこれらを撤回するならば、それはローマの圧政をさらに助長することになるため、やはり撤回できないと主張しました。第三は、彼の教えに反対する個人を攻撃した著作であり、これらについては、時に言葉が激しすぎたかもしれないことを認めつつも、その内容自体は真理に基づいているため、撤回することはできないとしました。彼の長い説明の後、質問者は、彼が質問に答えていないと非難し、単純明快な答え、すなわち撤回するか否かを、再度要求しました。このとき、ルターは、歴史に残る、断固とした声明を発表しました。彼は、まずドイツ語で、そして聴衆にいた皇帝や外国人のためにラテン語で、次のように述べたと伝えられています。「あなたの神聖なる皇帝陛下と諸侯が、単純な答えを求めておられる以上、私は、角も歯もない、このような答えをいたしましょう。聖書の証し、あるいは明白な理性によって、私が論破されない限り、私は、私が引用した聖句に、私の良心は捕らえられています。私は、教皇と公会議の権威を信じません。なぜなら、彼らがしばしば誤りを犯し、互いに矛盾してきたことは、明らかだからです。私の良心は、神の言葉に捕らえられているのです。私は、何も撤回しませんし、できません。なぜなら、良心に反して行動することは、安全でもなければ、正しいことでもないからです。神よ、我を助けたまえ。アーメン」。いくつかの記録によれば、彼はこの言葉に続けて、「我、ここに立つ。他になし能わず」という、有名な言葉を付け加えたとされていますが、これが実際に彼によって語られたかどうかについては、歴史家の間で見解が分かれています。しかし、この言葉が、彼の取った態度の本質を完璧に要約していることは間違いありません。
議会の余波
ルターの断固たる拒絶は、議会に大きな衝撃を与え、その後の展開を決定づけました。
カール5世の決断
ルターが退場した後、議場は騒然となりました。カール5世は、その若さにもかかわらず、自らの立場を明確にする、断固とした行動を取りました。翌4月19日の朝、彼は、諸侯を前に、自らフランス語で起草した声明を読み上げました。その中で彼は、ルターの教えを、一人の修道士が、千年にわたるキリスト教会の伝統に反して主張する、誤った見解であると断じました。そして、彼は、自らの祖先である神聖ローマ皇帝、スペインのカトリック王、オーストリア大公、ブルゴーニュ公たちが、皆カトリック信仰の忠実な守護者であったことを誇り高く宣言し、自らもまた、その伝統に従い、カトリック教会とローマ教皇の権威を守るために、自らの王国、財産、友人、身体、血、そして命と魂を懸けて戦うことを誓いました。これは、カール5世自身の、個人的で情熱的な信仰告白であり、ルターとの対決が、彼にとっていかに重大な意味を持っていたかを示しています。
ヴォルムス勅令
皇帝の断固たる意志にもかかわらず、一部の諸侯は、なおもルターとの交渉を試みましたが、すべては無に終わりました。ルターは、皇帝から与えられた安全通行証の期限が切れる前に、ヴォルムスを去るよう命じられ、4月26日に帰途につきました。彼と、彼を支持する主要な諸侯がヴォルムスを去った後、1521年5月25日、カール5世は、残った少数の諸侯の同意を得て、「ヴォルムス勅令」を正式に発布しました。この勅令は、ルターを、教皇によって破門された、頑なな異端者であると断定し、彼を帝国の無法者として、法益の保護外に置くことを宣言しました。これにより、帝国内の誰もが、ルターを殺害しても罪に問われないことになりました。さらに、彼の著作を所有、印刷、販売、閲読することも固く禁じられ、彼に宿や食料を提供した者も、同様に処罰されると定められました。この勅令は、ルターとその運動を、帝国の法の下で完全に根絶しようとする、徹底的なものでした。
ヴァルトブルク城への「誘拐」
ヴォルムス勅令によって、ルターの命は風前の灯火となりました。しかし、彼の保護者であるザクセン選帝侯フリードリヒ賢公は、再び先手を打ちました。フリードリヒは、ルターがヴィッテンベルクへ帰る途中、テューリンゲンの森で、偽の襲撃を計画しました。覆面をした騎士たちがルターを「誘拐」し、人里離れたアイゼナハ近くのヴァルトブルク城へと連れ去ったのです。これは、ルターの身の安全を確保し、皇帝と教皇の追跡から彼を隠すための、巧妙な策略でした。ルターは、「ユンカー=イェルク」(騎士ゲオルク)という偽名を使い、髪と髭を伸ばして、約10か月間、この城に隠れ住みました。この強制的な隠遁生活の中で、ルターは、彼の生涯における最も重要な仕事の一つに着手しました。それは、新約聖書のギリシャ語原典からの、ドイツ語への翻訳です。彼が、わずか11週間という驚異的な速さで完成させたこの「ルター聖書」は、その力強く、分かりやすい言葉によって、聖書を初めてドイツの民衆の手に届け、宗教改革の思想を広める上で、計り知れない役割を果たすことになります。また、それは、近代ドイツ語の形成にも大きく貢献する、文化的な金字塔となりました。
不可逆的な分裂の象徴
ヴォルムス帝国議会は、キリスト教世界の統一を回復しようとする最後の試みでしたが、皮肉にも、その分裂を決定的にし、不可逆的なものにする結果となりました。ルターが、皇帝と帝国の権威を前にして、個人の良心と聖書の言葉への忠誠を貫いたその態度は、中世的な権威構造に対する、近代的な個人の自律性の象徴的な宣言となりました。彼の「撤回しないし、できない」という言葉は、宗教的な領域を超えて、思想と良心の自由を求める、後世のあらゆる闘いのための、力強いこだまとなったのです。一方、若き皇帝カール5世が示した、伝統的なカトリック信仰への揺るぎない忠誠もまた、彼のその後の治世全体を規定する、重要な瞬間でした。ヴォルムスでの対決は、彼の生涯を貫く、プロテスタントとの長い闘争の始まりを告げるものでした。ヴォルムス勅令は、ルターとその運動を法的に葬り去ろうとしましたが、それは全くの逆効果でした。ルターは英雄となり、彼の教えは、国民的な反ローマ感情と結びついて、ドイツ社会の隅々にまで浸透していきました。
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