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カピチュレーションとは わかりやすい世界史用語2342
著作名: ピアソラ
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カピチュレーションとは

オスマン帝国のカピチュレーションは、オスマン帝国がヨーロッパのキリスト教国やその他の国々と締結した一連の特恵的な通商・法務契約です。 これらの契約は、オスマン帝国の領内で活動する外国人商人や居住者に対して、通商上の特権、治外法権、租税免除などの特別な権利を付与するものでした。 当初はオスマン帝国の主導のもと、国際貿易を促進し、政治的同盟を築くための手段として導入されましたが、時代が下るにつれて帝国の主権を侵害し、経済的な従属を深める要因へと変質していきました。



カピチュレーションの起源と初期の形態

カピチュレーションの起源は、イスラム法における「アマン」という概念に遡ることができます。 アマンは、イスラム教徒の支配地域において、非イスラム教徒(ムスタアミン)の生命、財産、信仰の自由を保障する制度でした。オスマン帝国のスルタンは、このアマンを与える権限を持ち、それによって外国人との外交関係や通商を円滑に進めようとしました。 この制度は、ビザンツ帝国がヨーロッパ諸国に対してとっていた政策を踏襲したものでもあります。
カピチュレーションは、ラテン語の「capitula」(章)に由来し、条約が章立てで構成されていたことからこの名が付きました。 オスマン帝国では「アヒドナーメ(勅令の書)」と呼ばれ、スルタンが一方的に恩恵として与えるという形式をとっていました。 これは、二国間の交渉によって対等な権利と義務を定める「条約(ムアヘーデ)」とは異なり、スルタンの意思によっていつでも取り消しうる性質のものでした。
記録に残る最初のカピチュレーションは、1453年にコンスタンティノープルを征服したメフメト2世がジェノヴァ共和国に与えたものとされています。 これにより、ジェノヴァ商人はオスマン帝国領内での平和的な通商活動を保証されました。その後、ヴェネツィア(1454年)、フィレンツェ、ラグーサ共和国など、他のイタリア都市国家にも同様の特権が付与されました。 これらの初期のカピチュレーションは、オスマン帝国が地中海貿易の覇権をヴェネツィアから奪うための戦略的な意図も含まれていました。
当初、カピチュレーションは、それを授与したスルタンの治世中のみ有効とされる個人的なものでした。 しかし、時代とともに、これらの特権は更新・拡大され、永続的な権利へと変化していきました。

フランスとの関係とカピチュレーションの確立

オスマン帝国のカピチュレーションの歴史において、フランスとの関係は極めて重要です。フランスは、1500年にエジプトのマムルーク朝と最初のカピチュレーションを締結していました。 1517年にオスマン帝国がマムルーク朝を征服した後、スルタン・セリム1世はフランスに与えられていたこの特権を追認し、帝国の全領土に適用しました。
画期的な転換点となったのは、1536年にスレイマン1世とフランス王フランソワ1世の間で結ばれたカピチュレーションです。 この合意は、ハプスブルク家のカール5世に対抗するという共通の戦略的利益に基づいた、仏土同盟(フランコ・オットマン同盟)の一環として成立しました。 このカピチュレーションにより、フランス商人はオスマン帝国のすべての港で自由に貿易を行う権利、低い関税率(輸出入ともに5%)、そしてフランス領事がフランス商人間の紛争を現地のイスラム法(シャリーア)裁判所ではなく、フランスの法律に基づいて裁くという治外法権(領事裁判権)を認められました。
この1536年のカピチュレーションは、キリスト教国とイスラム教国が結んだ初の本格的な軍事・政治同盟の証であり、当時のヨーロッパ世界に衝撃を与えました。 また、フランス人にはオスマン領内での信仰の自由が保証され、聖地のカトリック教会の管理権も与えられました。
1569年にはセリム2世によってカピチュレーションが更新され、フランスの特権はさらに強化されました。 そして、1740年に締結されたカピチュレーションは、フランスのオスマン帝国における影響力が頂点に達したことを示すものでした。 この条約により、カピチュレーションはスルタンの代替わりごとに更新される必要のない永続的なものとなり、フランスはレヴァント貿易において他国を圧倒する優位な地位を確立しました。

他国への拡大と最恵国待遇

フランスが獲得した特権は、他のヨーロッパ諸国にとっても魅力的なものでした。オスマン帝国は、フランスの影響力を牽制し、バランスをとるために、他の国々にもカピチュレーションを付与するようになります。
イギリスは1580年に、オランダは1612年にそれぞれカピチュレーションを獲得しました。 これらは、ハプスブルク家に対抗する新たな同盟国を求めるオスマン帝国の政治的判断によるものでした。 その後も、オーストリア、ロシア、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、サルデーニャ、スペイン、アメリカ合衆国など、多くの国々がオスマン帝国とカピチュレーションを締結しました。
これらのカピチュレーションには、「最恵国待遇」条項が含まれるのが一般的でした。 これは、ある国に与えられた最も有利な特権が、自動的に他のすべてのカピチュレーション締結国にも適用されるというものです。これにより、一国への新たな特権付与が、連鎖的に全締結国へと拡大する仕組みが生まれました。

カピチュレーションの主な内容

カピチュレーションによって外国人に与えられた特権は多岐にわたりますが、主に以下のものが含まれます。
通商の自由: オスマン帝国の領土内で、商品を自由に売買し、輸送する権利。
関税特権: 輸出入において、現地の商人よりも低い、固定された関税率(当初は3%や5%など)が適用される。
治外法権(領事裁判権): 外国人同士の民事・商事紛争は、現地の裁判所ではなく、その国籍の領事が自国の法律に基づいて裁判を行う権利。 外国人が関わる刑事事件についても、領事の立ち会いや特別な手続きが定められました。
租税免除: 外国人は、人頭税(ジズヤ)をはじめとする帝国の直接税から免除される。
身体と財産の不可侵: 外国人の住居は、現地の役人による捜索を受けず、その生命と財産は保護される。
信仰の自由: キリスト教徒である外国人が、自らの宗教を信仰し、礼拝を行う自由。
兵役免除: オスマン帝国の徴兵を免除される。
これらの特権は、オスマン帝国の領内に「治外法権の共同体」を形成することを可能にしました。 イスタンブールのガラタ地区のように、外国人商人が集住する地域が生まれ、そこでは領事が警察権や司法権を行使しました。

カピチュレーションの変質:強国からの恩恵から弱国への足枷へ

オスマン帝国が軍事的に優位にあった16世紀から17世紀にかけては、カピチュレーションは帝国にとって必ずしも不利益なものではありませんでした。 帝国は、これらの特権を与えることで、西欧の工業製品や希少な資源(銀、羊毛、鉄鋼など)を確保し、関税収入を増やし、さらにはハプスブルク家のような共通の敵に対抗するための政治的同盟を築くことができました。 スルタンは、カピチュレーションを自らの権威の象徴として、恩恵的に与えるという立場を維持していました。
しかし、18世紀以降、オスマン帝国の軍事力が相対的に衰退し、ヨーロッパ諸国が産業革命を経て経済力・軍事力を増大させると、両者の力関係は逆転します。 この力関係の変化に伴い、カピチュレーションの性質も大きく変質していきました。
かつてはスルタンの一方的な恩恵であったカピチュレーションは、ヨーロッパ列強によって恒久的で相互的な権利であると解釈されるようになり、オスマン帝国が一方的に撤回することは事実上不可能になりました。 列強は、カピチュレーションを盾に、オスマン帝国の内政に干渉し、さらなる特権を要求するようになります。
特に19世紀に入ると、カピチュレーションはオスマン帝国の主権を著しく侵害し、経済発展を阻害する「足枷」となっていきました。

経済への影響:不平等貿易と国内産業の衰退

カピチュレーションによる経済的影響は深刻でした。固定された低い関税率は、ヨーロッパの安価な工業製品の大量流入を招きました。 これにより、オスマン帝国の国内で伝統的に生産されてきた手工業製品、特に繊維産業などは、競争力を失い、衰退の一途をたどりました。
画期的かつ決定的な打撃となったのが、1838年にイギリスと締結されたバルタ・リマン条約です。 この条約は、エジプト総督ムハンマド・アリーの反乱に苦しむオスマン帝国が、イギリスの支援を得る代償として結んだものでした。 バルタ・リマン条約は、既存のカピチュレーションの特権をすべて再確認した上で、以下の内容を定めました。
オスマン帝国内のすべての専売制(独占)を撤廃する。
イギリス商人が帝国内のあらゆる場所で、あらゆる商品を自由に取引することを許可する。
輸入関税を3%、輸出に関わる内国関税を9%に固定し、イギリス商人を現地の商人と同等に扱う。
この条約は、イギリスの自由貿易政策をオスマン帝国に押し付けるものであり、帝国の経済的自立性を完全に破壊しました。 専売制の撤廃は、帝国の重要な財源を奪い、国内市場はイギリス製品の草刈り場と化しました。 他のヨーロッパ諸国も最恵国待遇を盾に同様の条約を締結したため、オスマン経済はヨーロッパに従属する構造に組み込まれていきました。
一方で、この状況は、ヨーロッパ商人との仲介役を務めた非ムスリム系のオスマン帝国臣民(ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人など)に富をもたらし、新たな商人層を形成するという側面もありました。

法的・社会的な影響:治外法権の乱用とプロテジェ制度

治外法権の存在は、オスマン帝国の司法権を著しく損ないました。 外国人はオスマン帝国の法律に従う義務がなく、犯罪を犯しても自国の領事裁判所で裁かれるため、事実上、法の支配が及ばない特権階級となりました。
さらに深刻な問題となったのが、「プロテジェ」と呼ばれる被保護民制度の乱用です。 これは、ヨーロッパ諸国の領事が、自国民ではないオスマン帝国の臣民(主に非ムスリム)に「保護」を与え、カピチュレーションの特権を享受させる制度でした。
本来は領事館の通訳や現地職員などに限定されるべきものでしたが、19世紀には、領事が賄賂を受け取って保護民の資格を乱発するようになり、その数は爆発的に増加しました。 プロテジェとなったオスマン臣民は、納税や兵役の義務を免れ、オスマンの司法権からも逃れることができました。 これにより、国家への忠誠心は薄れ、社会の一体性は損なわれました。また、プロテジェの地位が金で売買されるなど、深刻な腐敗も蔓延しました。
オスマン政府は、この状況を是正するため、1869年に国籍法を制定し、すべての臣民にオスマン国籍を与えることで、外国の保護を受けることを制限しようと試みましたが、列強の抵抗に遭い、十分な効果を上げることはできませんでした。

タンジマート改革とカピチュレーション

19世紀半ば、オスマン帝国は「タンジマート」と呼ばれる大規模な西欧化改革に着手しました。 この改革の目的の一つは、行政、司法、軍事を近代化することで、ヨーロッパ列強にカピチュレーションを撤廃させるための口実を与えることでした。
1850年にはヨーロッパの法典をモデルにした商法典が公布され、1856年の改革勅令では、ムスリムと非ムスリムの完全な平等を宣言し、非ムスリムの公職就任や兵役への参加を認めました。 これは、宗教の違いを理由とした治外法権の正当性を覆そうとする試みでした。
しかし、タンジマート改革は、オスマン帝国の近代化に一定の貢献をしたものの、カピチュレーションの撤廃という最大の目標を達成するには至りませんでした。 列強は、オスマン帝国の法制度が未だ不十分であるという理由をつけ、特権を手放そうとはしませんでした。 改革を進めるための資金をヨーロッパからの借款に頼った結果、帝国は深刻な財政難に陥り、1881年にはオスマン債務管理局が設立され、財政主権の一部を外国の管理下に置かれるという皮肉な結果を招きました。

カピチュレーションの廃止への道

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、カピチュレーションの廃止は、オスマン帝国の政治家や知識人にとって最も重要な課題となりました。 1908年の青年トルコ人革命によって成立した新政権は、列強との間でカピチュレーション撤廃の交渉を行いますが、これも失敗に終わります。
転機が訪れたのは、第一次世界大戦でした。 1914年9月、オスマン帝国は中央同盟国側での参戦を決断する直前に、すべてのカピチュレーションを一方的に撤廃すると宣言しました。 この決定に対し、ドイツやオーストリア=ハンガリーといった同盟国を含むすべての列強が抗議しましたが、戦時下においてオスマン政府はこの決定を強行しました。
しかし、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、連合国はカピチュレーションの復活を画策します。 1920年に連合国がオスマン政府に強要したセーヴル条約には、カピチュレーションの復活だけでなく、帝国の主権を著しく制限する屈辱的な条項が盛り込まれていました。
これに対し、ムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)が率いるトルコ国民運動は、セーヴル条約を拒否し、祖国解放戦争を開始します。 この戦争に勝利したトルコは、連合国と改めて講和条約を結ぶことになります。
そして、1923年7月24日に調印されたローザンヌ条約によって、カピチュレーションは最終的かつ完全に廃止されました。 条約の第28条には、「各締約国は、自国に関する限りにおいて、トルコにおけるカピチュレーションのあらゆる点での完全な廃止を受諾する」と明記されました。
ローザンヌ会議において、カピチュレーションの問題は最も激しい議論が交わされた議題の一つでした。 イギリスやフランスは、自国民の保護を理由に何らかの形で特権を維持しようとしましたが、イスメト・イノニュが率いるトルコ代表団は、国家の完全な独立と主権を主張し、一切の妥協を拒否しました。 トルコ側の断固たる態度の前に、最終的に連合国側が譲歩し、約500年にわたるカピチュレーションの歴史に終止符が打たれたのです。 エジプトにおけるカピチュレーションは、1937年のモントルー条約により廃止が決定され、1949年に完全に終了しました。
オスマン帝国のカピチュレーションは、当初は帝国の国益に資する外交・通商政策の一環として始まりましたが、時代の変遷とともにその意味合いを大きく変え、最終的には帝国の主権と経済を蝕む不平等条約の象徴となりました。その廃止は、トルコ共和国が完全な主権国家として国際社会に承認される上で、不可欠な一歩でした。

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