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『カンタベリ物語とは』 わかりやすい世界史用語2512 |
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著作名:
ピアソラ
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『カンタベリ物語』とは
ジェフリー・チョーサーが晩年に心血を注いだ未完の傑作、『カンタベリー物語』。それは、英語で書かれた文学作品の中で、最も重要で、最も影響力のあるものの一つです。この物語は、一見すると単純な枠組みを持っています。春の訪れとともに、身分も職業も、そして性格も全く異なる約三十人の男女が、ロンドン郊外のサザークにあるタバード亭という宿屋に偶然集まります。彼らの目的はただ一つ、聖トマス・ベケットの聖遺物が祀られているカンタベリー大聖堂への巡礼です。長い道中の退屈を紛らわすため、宿屋の主人ハリー・ベイリーが提案します。カンタベリーへの往復の道中、各自が二つずつ物語を語り、最も面白い話をした者には、帰りに皆でご馳走をしよう、と。こうして、壮大な物語の競演が幕を開けるのです。
しかし、この単純な枠組みの中に、チョーサーは、中世イングランド社会の、驚くほど豊かで複雑なパノラマを織り込みました。巡礼団のメンバーは、高潔な騎士から、敬虔な修道女、学識あるオックスフォードの学僧、抜け目のない法律家、そして下品で腕っぷしの強い粉屋や、五度の結婚を経験した精力的なバースの女房まで、まさに社会の縮図そのものです。彼らが語る物語は、騎士道ロマンス、聖人伝、猥雑な笑い話(ファブリオー)、動物寓話、道徳的な説教と、当時の文学ジャンルの見本市のような多様性を見せます。
さらにチョー-サーの独創性は、それぞれの物語が、語り手の性格や社会的背景を色濃く反映している点にあります。物語は、語り手の自己表現の手段となり、時には自己正当化の道具ともなります。そして、物語と物語の間に挿入される「間奏」では、巡礼たちが互いの話にヤジを飛ばし、口論し、あるいは共感し合う、生き生きとしたドラマが繰り広げられます。
『カンタベリー物語』は、単なる物語の寄せ集めではありません。それは、巡礼という旅のダイナミズムの中で、多様な人間たちが織りなす、一つの巨大な人間喜劇です。チョーサーは、ラテン語やフランス語が支配的だった時代に、あえて自らの母語である中英語を用いて、これほど壮大で、人間味あふれる文学世界を創造しました。その鋭い人間観察、巧みな語りの技術、そして寛容なユーモアの精神は、六百年以上の時を超えて、今なお多くの人々を魅了し続けているのです。
巡礼たちの肖像画ギャラリー
『カンタベリー物語』の壮大な旅は、「総序詩」として知られる、約858行の序章から始まります。この部分は、単なる物語の導入にとどまらず、それ自体が、中世イングランド文学における、最も優れた人間描写の傑作の一つと見なされています。チョーサーは、ここで、語り手である自分自身(巡礼者チョーサー)の目を通して、タバード亭に集まった巡礼たち一人ひとりの姿を、鮮やかな筆致で描き出していきます。
春の訪れと旅立ちの動機
総序詩は、生命の再生を告げる、有名な春の描写で幕を開けます。
「四月の甘き雨が、三月の旱をその根元まで貫き、
すべての葉脈を潤し、その力によって
花が生まれる時…
そして、若き太陽が、その半ばの道のりを
牡羊座の中で走り終え、
小鳥たちが、開いた目で夜通し眠りながら
さえずり始めるとき(自然がその心に彼らを駆り立てるのだ)、
その時こそ、人々は巡礼に出たくなるものだ。」
この冒頭部分は、単なる季節の描写ではありません。それは、自然界の生命力の復活と、人々の心に宿る、精神的な再生への渇望とを、見事に重ね合わせています。巡礼という行為が、冬の停滞を打ち破り、新たな始まりを求める、根源的な人間の衝動に根差していることを、詩的に示唆しているのです。人々は、遠い異国の聖地や、イングランド各地の有名な聖人の祠を目指します。そして、チョーサーが描く一行が目指すのは、ロンドンからほど近い、カンタベリー。そこには、「聖なる祝福に満ちた殉教者」、すなわち、病を癒す力を持つと信じられていた聖トマス・ベケットが眠っているのです。
三つの身分
チョーサーは、巡礼たちを、ある種の秩序に従って紹介していきます。その秩序は、中世社会の理想的な構造と考えられていた、「三つの身分」、すなわち「祈る者」(聖職者)、「戦う者」(騎士・貴族)、そして「働く者」(平民)という区分に、大まかに対応しています。
最初に登場するのは、「戦う者」の代表である騎士です。彼は、キリスト教世界のために、数々の異教徒との戦いに身を投じてきた、騎士道の理想を体現する人物として描かれます。彼は、真実、名誉、寛大さ、そして礼節を重んじ、その武勇にもかかわらず、物腰は乙女のように慎み深い。彼の質素な服装は、その内面的な高潔さを象徴しています。彼に同行するのは、若く、伊達者の息子である従騎士と、武骨なヨーマン(自由農民出身の従者)です。
次に、「祈る者」である聖職者たちが、次々と紹介されます。しかし、ここでチョーサーの筆致は、理想化から、鋭い風刺へと転じます。女子修道院長(マダム・エグランタイン)は、宮廷風の洗練された作法を身につけ、感傷的で、小さな犬を溺愛していますが、その信仰の深さについては、疑問符がつけられます。彼女のモットー「Amor vincit omnia(愛はすべてに打ち勝つ)」も、神への愛なのか、世俗的な恋愛なのか、曖昧に響きます。一方、狩猟好きの修道士や、金儲けに熱心で、裕福な人々としか付き合わない托鉢修道士(フバート)は、聖職者としてのあるべき姿から、著しく逸脱した存在として、皮肉たっぷりに描かれます。
最後に、「働く者」に属する、多様な平民たちが登場します。オックスフォードの学僧は、貧しいながらも、アリストテレスの書物を手に入れるために、最後の金をはたき、ひたすら学問に打ち込んでいます。法律家は、有能で抜け目がなく、実際以上に多忙に見せかける術を心得ています。裕福な地主(フランクリン)は、美食家で、その館では、常に宴会が開かれています。そして、五人の市民組合の組合員、料理人、船長、医者、そして有名な「バースの女房」と続きます。彼女は、五度の結婚を経験し、ヨーロッパ中の聖地を巡った、精力的で、自立した女性として、強烈な個性を放っています。
この身分制度による配列は、しかし、厳格なものではありません。チョーサーは、理想的な人物(騎士、貧しい牧師、鋤を持つ農夫)を、腐敗した人物(免罪符売り、召喚吏)と巧みに対比させながら、読者に、中世社会の複雑な現実を提示します。
語り手チョーサーの役割
この肖像画ギャラリーを読者に紹介するのは、語り手である「チョーサー」自身です。彼は、自分は、頭の回転が鈍く、ただ、見たまま、聞いたままを、忠実に記録するだけだと、繰り返し述べます。彼は、もし、誰かの言葉が下品であったとしても、それは、自分の責任ではなく、そのように語った本人の言葉を、そのまま再現しているだけだと、弁解します。
これは、チョーサーの巧妙な戦略です。彼は、この素朴で信頼できない語り手という仮面をかぶることで、登場人物たちの腐敗や偽善を、より客観的に、そして効果的に、告発することができるのです。彼は、直接的な道徳的判断を下すことを避け、読者自身の判断に、その評価を委ねます。
総序詩は、単なる登場人物のリストではありません。それは、これから始まる物語の競演への、期待感を高める、壮大な序曲です。チョーサーは、読者に、これらの個性豊かな巡礼たちが、一体どのような物語を語るのだろうか、という強い好奇心を抱かせ、カンタベリーへの旅へと、巧みに誘うのです。
ジャンルとテーマの多様性
『カンタベリー物語』の最大の魅力の一つは、その驚くべき多様性にあります。チョーサーは、巡礼たちが語る物語の中に、中世ヨーロッパに存在した、ありとあらゆる文学ジャンルを、意図的に盛り込みました。それぞれの物語は、異なる世界観、異なる価値観を提示し、互いに響き合い、あるいは反発し合うことで、作品全体に、多層的で、ダイナミックな構造を与えています。
騎士道ロマンスと宮廷風恋愛
物語の幕開けを飾るのは、巡礼団の中で最も身分の高い騎士の物語です。彼の物語は、古代ギリシャのテーバイとアテナイを舞台にした、壮大な騎士道ロマンスです。二人の若いテーバイの騎士、パラモンとアルキーテは、アテナイの公爵テセウスの捕虜となり、塔に幽閉されます。ある朝、彼らは、窓の外の庭を散歩する、テセウスの義理の妹、エミリーの姿を同時に目にし、二人とも、一瞬にして恋に落ちます。親友であったはずの二人は、恋のライバルとなり、その後、運命のいたずらによって、馬上槍試合でエミリーをめぐって雌雄を決することになります。
この物語は、騎士道的な名誉、運命の非情さ、そして宮廷風恋愛の理想といった、ロマンスの伝統的なテーマを扱っています。チョーサーは、ボッカチオの『テセイーダ』を典拠としながら、物語に、ボエティウス的な哲学思想を織り込み、人間の情熱と、宇宙的な秩序との関係について、深く思索しています。物語の語り口は、荘重で、格調高く、語り手である騎士の高潔な人格を、見事に反映しています。
下世話な笑いと肉体の賛歌
騎士の荘重な物語とは、全く対照的なのが、粉屋やリーブ(荘園管理人)が語る、ファブリオーです。ファブリオーとは、中世フランスに由来する、短く、滑稽で、しばしば猥雑な内容を持つ、韻文の物語です。その登場人物は、主に、抜け目のない学生、嫉妬深い年老いた夫、そして浮気な妻といった、庶民階級の人々です。物語の筋書きは、たいてい、姦通や、巧妙な騙しの手口、そして身体的なユーモア(おならや排泄物など)を中心に展開します。
粉屋の物語は、その典型です。オックスフォードに住む、年老いた大工ジョンは、若く美しい妻アリソンを娶りますが、彼女の浮気を心配して、片時もそばを離れません。そこに、下宿人の学生ニコラスが、アリソンに言い寄り、二人は、大工を騙して、一夜を共にする計画を立てます。ニコラスは、ノアの洪水のような大洪水が再びやってくると嘘をつき、大工に、三つの大きな桶を天井から吊るさせ、その中で祈りながら、洪水をやり過ごすように説得します。大工が桶の中で眠り込んだ隙に、アリソンとニコラスは、階下で情事に及びます。
この物語は、騎士の物語が描いた、高尚な恋愛観を、徹底的に嘲笑し、転覆させます。ここでは、愛は、精神的なものではなく、純粋に肉体的な欲望として描かれます。知恵(学生の悪知恵)は、老い(大工の愚かさ)を打ち負かし、若さと肉体のエネルギーが、高らかに賛美されます。チョーサーは、粉屋の酔っ払った、乱暴な口調を巧みに再現し、物語の猥雑な内容と、語り手の品性のない性格とを、完璧に一致させています。
聖人伝と道徳的な寓話
宗教的なテーマもまた、『カンタベリー物語』の重要な要素です。第二の尼僧は、聖セシリアの生涯と殉教を描いた、伝統的な聖人伝を語ります。この物語は、異教のローマ帝国による迫害にも屈せず、自らの信仰を貫き通した、初期キリスト教徒の、揺るぎない勇気を称賛します。その文体は、荘厳で、ラテン語の典礼文を思わせる、格調高いものです。
一方、オックスフォードの学僧が語る、グリーゼルダの物語は、より複雑で、問題含みの道徳的な寓話です。サルッツォ侯爵ヴァルターは、身分の低い羊飼いの娘グリーゼルダを妻に迎えますが、彼女の服従心を試すために、次々と、残酷な試練を与えます。彼は、生まれたばかりの娘と息子を、彼女から取り上げ、殺したと偽り、さらには、彼女を離縁し、新しい花嫁を迎えると言い渡します。グリーゼルダは、これらすべての試練に、一言の不平も漏らさず、夫の命令に、絶対的に服従し続けます。最終的に、ヴァルターは、これがすべて試練であったことを明かし、彼女の忍耐力を称賛します。
この物語は、ペトラルカのラテン語のテキストを典拠としており、中世においては、妻の理想的な忍耐と服従の模範として、広く読まれていました。しかし、チョーサーは、物語の最後に、学僧自身の声で、このような非人間的な試練は、現代の女性には通用しないだろう、という皮肉なコメントを付け加えています。これにより、物語は、単純な道徳訓を超えた、権力と服従、そしてジェンダーの関係についての、より複雑な問いを、読者に投げかけるのです。
動物寓話と説教
尼僧院つきの神父は、イソップ寓話の伝統に連なる、動物寓話を語ります。主人公は、自らの美しい声に自信過剰な、雄鶏のシャンテクレール。ある日、彼は、狐に捕らえられそうになる悪夢を見ます。彼の妻である雌鶏のパーテロートは、それを、消化不良のせいだと一蹴しますが、シャンテクレールは、夢の持つ預言的な力について、長々と学問的な議論を展開します。結局、彼は、お世辞を言う狐にそそのかされ、目をつぶって高らかに歌っているところを、まんまと捕らえられてしまいます。しかし、シャンテクレールは、機転を利かせて、狐に、追手たちを罵るように仕向け、狐が口を開いた瞬間に、木の上に逃れることに成功します。
この滑稽な物語は、「お世辞に耳を貸すべからず」という、単純な教訓を語っているように見えますが、その中には、自由意志と予定説に関する、神学的な議論が、パロディとして織り込まれており、チョーサーの学識とユーモアが、見事に融合しています。
免罪符売りが語る物語は、彼自身の説教の、実演となっています。彼の説教のテーマは、常に「貪欲は諸悪の根源である」。彼は、三人の若い悪党が、「死」という名の盗賊を殺しに行こうと誓い合う物語を語ります。彼らは、道端で出会った老人から、「死」は、近くの樫の木の下にいると教えられます。しかし、彼らがそこで見つけたのは、金貨の山でした。彼らは、金貨を独り占めしようと、互いに裏切り合い、結局、三人とも死んでしまいます。
この物語は、それ自体、非常に効果的な道徳的な寓話です。しかし、その効果を、著しく損なっているのが、語り手である免罪符売り自身の、破廉恥な告白です。彼は、物語を語る前に、自分は、人々から金を巻き上げるためなら、どんな嘘でもつき、偽りの聖遺物を見せびらかす、徹底した貪欲漢であると、公言してはばからないのです。この強烈な皮肉によって、チョーサーは、中世後期の教会が抱える、深刻な腐敗の問題を、鋭く告発しています。
このように、『カンタベリー物語』は、様々なジャンルの物語が、互いに競い合い、対話し、時にはパロディ化し合う、ダイナミックな空間を創り出しています。この多様性こそが、この作品に、尽きることのない豊かさと、解釈の可能性を与えているのです。
旅のドラマと人間模様
『カンタベリー物語』の構造的な独創性は、個々の物語の面白さだけでなく、物語と物語の間に挿入された「間奏」(links)と呼ばれる部分に、色濃く表れています。これらの間奏部分では、物語の語りが中断され、舞台は、カンタベリーへの道を進み、巡礼団そのものへと戻ります。ここで、巡礼者たちは、前の話に感想を述べたり、次の語り手を指名したり、あるいは、互いに口論を始めたりします。この間奏こそが、個別の物語を、一つの連続した旅のドラマとして結びつけ、登場人物たちに、生き生きとした血肉を与える、重要な役割を果たしているのです。
物語への反応と口論
巡礼者たちの反応は、語られた物語の内容と、語り手の性格によって、様々です。騎士の高潔なロマンスが終わると、宿屋の主人をはじめ、皆が、その見事な語り口を称賛します。しかし、この荘重な雰囲気を、台無しにするのが、酔っ払った粉屋です。彼は、身分の高い者の次に、自分が語ると言い張り、騎士の物語とは正反対の、下品なファブリオーを語り始めます。
この粉屋の物語は、登場人物の一人が、大工であったため、巡礼団の一員であるリーブ(荘園管理人)を激怒させます。リーブは、若い頃、大工の経験があったため、この物語が、自分の職業を馬鹿にしたものだと感じたのです。彼は、仕返しとして、今度は、粉屋が、いかにして大学の学生に騙され、妻と娘の両方を寝取られたかという、悪意に満ちたファブリオーを語ります。
このように、物語は、巡礼者たちの間の、個人的な対立や、職業的なライバル意識を、煽るきっかけとなります。托鉢修道士と召喚吏の間の、激しい罵り合いもまた、その典型です。托鉢修道士が、召喚吏がいかに地獄で歓迎されるかを語る物語を披露すると、激怒した召喚吏は、托鉢修道士が、いかにして金持ちの寄付をだまし取るかを暴露する物語で、応酬します。
これらの口論は、単なる滑稽な場面であるだけでなく、中世社会における、様々な職業間の緊張関係を、リアルに映し出しています。物語を語るという行為が、単なる娯楽ではなく、自己主張や、他者への攻撃の手段ともなり得ることを、チョーサーは、巧みに示しているのです。
宿屋の主人ハリー・ベイリーの役割
この騒がしく、まとまりのない巡礼団を、なんとかまとめ上げ、旅を進行させていくのが、宿屋の主人ハリー・ベイリーです。彼は、物語コンテストの発案者であり、旅の司会進行役であり、そして審判でもあります。彼は、陽気で、実際的で、そして少々権威主義的な人物として描かれています。
彼は、次の語り手を指名し、物語の出来栄えを評価し、時には、長すぎる話や、退屈な話に、容赦なく口を挟みます。例えば、語り手チョーサー自身が、陳腐な騎士道ロマンスである「サー・トパスの物語」を語り始めると、ハリー・ベイリーは、「もうたくさんだ!こんな下手くそな詩は、聞いていられない!」と、途中で強制的にやめさせてしまいます。
彼は、巡礼者たちの間の、個人的な感情にも、敏感に反応します。オックスフォードの学僧が語る、グリーゼルダの悲しい物語を聞いた後、彼は、自分の妻がいかに口やかましいかを嘆き、場を和ませようとします。
ハリー・ベイリーは、文学的な洗練とは無縁の、現実的な庶民の代表です。彼の関心は、物語の道徳的な深さや、芸術的な価値よりも、それが、いかに面白いか、いかに旅の気晴らしになるか、という点にあります。彼の存在は、高尚な文学の世界と、庶民的な娯楽の世界とを、結びつける、重要な役割を果たしています。彼は、読者と同じ視点に立ち、物語の世界に、現実的な手触りと、ユーモアを与えているのです。
バースの女房の序詩=自己主張の舞台
間奏部分が、単なる繋ぎではなく、それ自体が、一つの独立した文学作品として、極めて高い完成度を持つ例として、「バースの女房の序詩」が挙げられます。彼女の物語が始まる前に、チョーサーは、800行以上にも及ぶ長大な序詩を挿入しています。これは、彼女自身の、結婚と性に関する、大胆で率直な自叙伝となっています。
彼女は、聖書の権威を、自分に都合よく解釈し、五度の結婚を経験した自らの人生を、力強く正当化します。彼女は、貞潔が、完璧な状態であることは認めつつも、神は、人間を、繁殖するために創られたのであり、結婚は、神聖な制度であると主張します。彼女にとって、結婚とは、夫を、その富と肉体の両方において、完全に支配するための、戦いの場です。彼女は、いかにして、年老いた夫たちから財産を相続し、若い夫を、腕力でねじ伏せたかを、誇らしげに語ります。
彼女の語りは、当時の教会が説く、女性蔑視的な教えや、貞潔を至上とする価値観に対する、真っ向からの挑戦です。彼女は、男性の学者たちが書いた、反女性的な書物を嘲笑し、女性自身の「経験」こそが、書物の「権威」に勝る、と宣言します。
この「バースの女房の序詩」は、中世文学において、女性の声が、これほど力強く、そして個性的に響き渡る、稀有な例です。彼女は、理想化された聖女でも、悪魔的な誘惑者でもない、欲望と知性を兼ね備えた、一人の生身の人間として、圧倒的な存在感を放っています。この序詩は、彼女が後に語る、アーサー王伝説を題材にした物語(女性が本当に望むものは何か、という問いがテーマとなる)の、完璧な導入となっているだけでなく、それ自体が、『カンタベリー物語』全体の中でも、最も独創的で、影響力のある部分の一つと考えられています。
間奏部分は、『カンタベリー物語』を、静的な物語のコレクションから、動的な旅の記録へと、変貌させます。それは、人間関係の複雑さ、社会的な緊張、そして、物語という行為そのものが持つ、多面的な機能を、浮き彫りにする、巧みな劇的装置なのです。
未完の傑作とチョーサーの撤回
『カンタベリー物語』は、その壮大な構想にもかかわらず、チョーサーの死によって、未完のまま残されました。総序詩で提示された計画では、各巡礼が、カンタベリーへの往復で、合計四つの物語を語り、全体で約120の物語が集まるはずでした。しかし、現存する写本には、24の物語しか含まれておらず、そのうちのいくつかは、未完成のままです。また、物語の順序も、写本によって異なっており、チョーサーが、最終的にどのような配列を意図していたのかは、研究者の間でも、長年の議論の的となっています。
物語の断片と配列の問題
学者たちは、現存する物語群を、物語と間奏の繋がりから、いくつかの「断片」と呼ばれるグループに分類しています。例えば、断片Iは、総序詩から始まり、騎士、粉屋、リーブ、料理人の物語(未完)までを、連続した一つのブロックとして含んでいます。しかし、これらの断片が、互いにどのように繋がるべきかについては、明確な指示がありません。
例えば、船長の物語の終わりで、宿屋の主人は、女子修道院長に、次の物語を語るように頼みます。しかし、多くの写本では、船長の物語と、女子修道院長の物語(聖人伝)は、全く別の断片に属しており、その間には、他の多くの物語が挿入されています。このような矛盾は、チョーサーが、執筆の過程で、全体の構成を、何度も変更し、最終的な形を決定する前に、亡くなってしまったことを示唆しています。
また、カンタベリーへの旅そのものも、物語の終盤で、ようやくカンタベリーの町に近づいていることが示唆されるだけで、巡礼たちが、目的地に到着する場面や、帰りの旅が描かれることはありません。物語コンテストの勝者が、誰になるのかも、読者には、永遠に知らされないままです。
この未完成性は、しかし、作品の価値を、少しも損なうものではありません。むしろ、それは、読者に、無限の解釈の可能性と、想像の余地を与えてくれます。それぞれの物語は、それ自体で、高い完成度を誇っており、全体として、中世社会と人間の本質についての、豊かで、多角的な視点を、提供してくれます。
チョーサーの撤回
『カンタベリー物語』の最後に置かれているのは、「チョーサーの撤回」として知られる、短い散文の一節です。ここで、チョーサーは、読者に対して、もし、この本の中に、何か道徳的に有益なことが書かれていたならば、それは、主イエス・キリストの恵みのおかげであると感謝し、もし、罪深い内容があったならば、それは、自分の無知と能力のなさのせいであるとして、許しを請います。
そして、彼は、自らが書いた、世俗的な作品のリストを挙げ、それらを、明確に「撤回」します。そのリストには、『トロイルスとクリセイデ』や、『名誉の館』、『鳥たちの議会』といった、彼の主要な作品が含まれており、『カンタベリー物語』の中でも、「罪へと誘う」物語、すなわち、ファブリオーのような猥雑な物語も、その対象となっています。彼は、これらの作品を書いたことを悔い、今後は、自らの魂の救済のために、祈りに専念したいと述べます。
この「撤回」が、チョーサー自身の、偽らざる心からの言葉なのか、それとも、敬虔なキリスト教徒として、死に臨む際の、一種の形式的な表明なのかについては、様々な解釈があります。一部の研究者は、これを、チョーサーの晩年の、深い宗教的な回心の表れと見なします。一方、他の研究者は、これを、作品全体を締めくくるための、文学的な装置、あるいは、教会からの非難を避けるための、巧妙な予防線であった可能性を指摘します。
この「撤回」は、作品全体が提示してきた、多様な価値観、特に、世俗的な笑いや、肉体的な喜びの賛美と、真っ向から対立するように見えます。それは、陽気で、寛容なユーモアに満ちた『カンタベリー物語』の旅の終わりに、突然、読者を、厳粛な、死と審判の世界へと、引き戻します。
しかし、この矛盾こそが、『カンタベリー物語』という作品の、本質的な複雑さを、象徴しているのかもしれません。チョーサーは、一方では、人間存在の、あらゆる側面、その高潔さも、その卑俗さも、ありのままに描き出す、ルネサンス的なヒューマニストであり、もう一方では、自らの魂の救済を、何よりも重要視する、中世的なキリスト教徒でもありました。
『カンタベリー物語』は、この二つの世界の間に、揺れ動く、一人の偉大な詩人の、壮大な格闘の記録です。彼は、答えを一つに定めることなく、高尚なものと低俗なもの、精神的なものと肉体的なもの、悲劇と喜劇を、並置し、その間の緊張関係の中に、人間の真実を描き出そうとしました。その未完の旅は、六百年後の我々にとっても、いまだ、尽きることのない、魅力と謎に満ちているのです。
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