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コペルニクスとは わかりやすい世界史用語2493
著作名: ピアソラ
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コペルニクスとは

コペルニクスは、その名が歴史の転換点そのものを指し示す「コペルニクス的転回」という言葉を生んだ、稀有な人物です。彼は、一千年以上もの間、ヨーロッパの宇宙観を支配してきた地球中心説(天動説)に異を唱え、太陽こそが宇宙の中心にあり、地球は他の惑星と共にその周りを公転する一つの惑星に過ぎないという、太陽中心説(地動説)を提唱しました。この革命的な思想は、彼の死後、天文学のみならず、科学・哲学・宗教といった人間の精神世界のあらゆる領域に、静かでありながら根源的な変革をもたらすことになります。しかし、その偉大な業績の背後にいるコペルニクス本人の姿は、しばしば謎に包まれています。彼は情熱的な革命家ではなく、むしろ教会に忠実で、自らの職務を勤勉にこなす、物静かな聖職者であり学者でした。



若き日の教育と知的環境

ニコラウス=コペルニクスは、1473年2月19日、ポーランド王国の庇護下にあった王領プロイセンの都市トルン(現在のポーランド領トルニ)で、裕福な商人の家庭に生まれました。彼の父親、同名のミコワイ=コペルニクは、クラクフ出身の銅商人であり、母親のバルバラ=ヴァッツェンローデは、トルンの有力な一族の出身でした。ニコラウスは四人兄弟の末っ子として、比較的恵まれた環境で幼少期を過ごしたと考えられます。
しかし、彼が10歳頃になった1483年、父親がこの世を去り、コペルニクス家の生活は一変します。この時、若きニコラウスと兄弟たちの後見人となったのが、母方の叔父であるルーカス=ヴァッツェンローデでした。ヴァッツェンローデは、後にヴァルミアの司教となる、野心的で学識豊かな聖職者であり、甥であるニコラウスの将来に決定的な影響を与えることになります。彼は、ニコラウスに最高の教育を受けさせることを決意し、そのキャリアを教会での安定した地位へと導こうとしました。
1491年、18歳になったコペルニクスは、叔父の勧めに従い、当時のポーランド王国の首都であったクラクフの大学(現在のヤギェウォ大学)に入学します。クラクフ大学は、中央ヨーロッパにおける学問の中心地の一つであり、特に数学と天文学の分野で高い評価を得ていました。ここでコペルニクスは、リベラルアーツ(自由七科)の課程を学び、幾何学=算術=そして天文学の基礎を固めました。
クラクフ大学での彼の師の中で、特に重要な人物が、アルベルト=ブルゼフスキです。ブルゼフスキは、当代随一の天文学者であり、アリストテレスやプトレマイオスの宇宙論に精通していました。彼は、プトレマイオスの体系が持つ複雑さや、惑星の動きを説明するための周転円やエカントといった技巧的な装置の不自然さに、批判的な目を向けていた学者の一人でした。ブルゼフスキの講義を通じて、コペルニクスは、公式の教科書であったプトレマイオスの天文学の深遠な世界に触れると同時に、その体系が抱える問題点についても初めて意識するようになったと考えられます。クラクフでの4年間は、コペルニクスに天文学への情熱を植え付け、彼の生涯を決定づける知的探求の出発点となったのです。
イタリア=ルネサンスの洗礼

クラクフ大学での学業を終えた後、コペルニクスは、叔父ヴァッツェンローデのさらなる期待を背負い、学問の最先端であったイタリアへと旅立ちます。ヴァッツェンローデは、甥をヴァルミア司教区の参事会員という聖職禄(収入を伴う聖職者の地位)に就かせ、その上で、教会法の専門家として将来の司教区の運営を担わせようと考えていました。このイタリアでの長期にわたる留学は、コペルニクスをルネサンス=ヒューマニズムの精神に深く触れさせ、彼の視野を大きく広げる重要な時期となりました。
ボローニャ大学での法学と天文学

1496年、コペルニクスは、ヨーロッパ最古の大学の一つであり、法学研究の中心地として名高いボローニャ大学に入学しました。彼はここで教会法を学び始めますが、彼の真の情熱は、依然として天文学にありました。ボローニャで、彼は運命的な出会いを果たします。それは、大学の天文学教授であったドメニコ=マリア=ノヴァーラ=ダ=フェラーラとの出会いです。
ノヴァーラは、プトレマイオスの体系に対して批判的な視点を持つ、新プラトン主義的な思想家でした。彼は、宇宙は数学的に単純で調和のとれたものであるべきだと考え、プトレマイオスの複雑なモデルに疑問を抱いていました。コペルニクスは、単なる学生としてではなく、ノヴァーラの助手兼同居人として、彼と緊密な関係を築きました。二人は共に天体観測を行い、議論を交わしました。1497年3月9日、コペルニクスはノヴァーラと共におうし座のアルデバランが月に隠される星食を観測し、プトレマイオスの月の距離に関する理論に誤りがある可能性を確認します。
ノヴァーラとの交流を通じて、コペルニクスは、古代の権威を鵜呑みにせず、自らの観察と数学的思考に基づいて宇宙を探求するという、科学的な精神を深く身につけていきました。また、ボローニャのヒューマニストたちのサークルを通じて、彼はギリシャ語の学習を始め、プトレマイオスや他の古代ギリシャの著作を原典で読む能力を獲得します。これは、後に彼が古代の文献の中から太陽中心説の着想を得る上で、不可欠なスキルとなりました。
ローマでの講義とパドヴァでの医学研究

1500年の聖年には、コペルニクスはローマを訪れ、そこで数学と天文学に関する私的な講義を行ったと伝えられています。これは、彼の天文学者としての評判が、すでにイタリアの学術界である程度知られていたことを示唆しています。
その後、1501年に一度ポーランドに戻ったコペルニクスは、参事会からさらに2年間の留学許可を得て、再びイタリアへ向かいます。今度の目的地は、医学研究で名高いパドヴァ大学でした。叔父ヴァッツェンローデは、甥に医学の知識も身につけさせ、将来の司教区における有能な顧問となることを期待したのです。コペルニクスはパドヴァで2年間、当時の最新の医学を学びました。彼の医学研究は、人体という小宇宙と天体という大宇宙との間に照応関係を見る、ルネサンス期に広く見られた世界観とも関連しており、彼の宇宙論的思索に影響を与えた可能性もあります。
最終的に、コペルニクスは1503年、フェラーラ大学で教会法の博士号を取得し、10年近くに及んだイタリアでの留学生活を終えました。彼は、法学者=医師=そして天文学者という、ルネサンス的な万能人としての学識を身につけて、故郷プロイセンへと帰還します。イタリアでの経験は、彼にプトレマイオス体系への根本的な疑問を抱かせ、新しい宇宙体系を探求するための知的道具と自信を与えた、決定的な形成期だったのです。
ヴァルミアの聖職者

イタリアから帰国したコペルニクスは、その後の生涯のほとんどを、バルト海に面したポーランド王領プロイセンの辺境、ヴァルミア司教区で過ごすことになります。彼は、情熱的な天文学者であると同時に、教会と地域社会に仕える忠実な聖職者=行政官でもありました。彼の革命的な宇宙論は、こうした日々の公務の合間に、人知れず、しかし着実に育まれていったのです。
叔父ヴァッツェンローデの顧問として

1503年から1512年頃まで、コペルニクスは、ヴァルミア司教である叔父ルーカス=ヴァッツェンローデの秘書兼侍医として、リズバルク=ヴァルミニスキにある司教の城館で暮らしました。この期間、彼は叔父の右腕として、司教区の統治に関わる様々な行政的=外交的な任務に従事しました。彼は、プロイセンの地方議会に叔父の代理として出席し、ポーランド王国や、隣接するドイツ騎士団との複雑な政治交渉にも関わりました。
この時期、彼は天文学の研究を完全に中断していたわけではありません。公務の合間を縫って、彼は古代の文献を読み解き、自らの新しい宇宙体系の構想を練り続けていました。1509年には、7世紀のビザンツ帝国の歴史家テオフィラクトス=シモカッタの書簡集を、ギリシャ語からラテン語に翻訳して出版しています。これは、彼の唯一の、天文学以外の出版物であり、彼がルネサンス=ヒューマニストとしての教養を維持していたことを示しています。
フロムボルクでの生活と『コメンタリオルス』

1512年に叔父ヴァッツェンローデが亡くなると、コペルニクスはフロムボルク(ドイツ語名フラウエンブルク)に移り住みます。フロムボルクは、ヴィスワ潟に面した小さな町で、ヴァルミア司教区の参事会が置かれた大聖堂がありました。彼は、この町の北西の隅にある塔の一つを住居兼観測所とし、その後の生涯のほとんどをここで過ごしました。
参事会員としての彼の職務は多岐にわたりました。彼は、参事会の会計監査や、司教区が所有する領地の管理、パンの価格の監督、さらにはドイツ騎士団との戦争で荒廃した地域の復興計画の策定など、様々な行政的役割を担いました。特に、彼は通貨改革に関する専門家として知られ、悪貨が良貨を駆逐するという現象(後に「グレシャムの法則」として知られる)を分析し、プロイセンの通貨制度を安定させるための論文を執筆しています。これらの活動は、コペルニクスが、現実世界の問題に対処する有能な実践家であったことを示しています。
しかし、彼の心の中心にあったのは、常に天文学でした。1514年頃までには、彼は自らの太陽中心説の基本的な考えをまとめた短い手稿、『コメンタリオルス』を執筆し、ごく親しい友人たちの間で回覧しました。この手稿の中で、コペルニクスは、地球が宇宙の中心ではなく、月と共に太陽の周りを公転する惑星であること、そして惑星の見かけの逆行運動は、地球の公転運動によって説明できることなど、彼の理論の核心となる7つの公理を提示しました。彼は、この新しい体系が、プトレマイオスの体系よりも数学的に単純で、調和が取れていると主張しました。
『コメンタリオルス』は印刷されることはありませんでしたが、その写本はヨーロッパの学者たちの間で少しずつ広まり、コペルニクスの名は、新しい宇宙論を唱える天文学者として、専門家の間で知られるようになっていきました。彼は、フロムボルクの塔から、限られた観測器具を用いて、惑星の位置を地道に観測し続け、自らの理論を検証し、それを壮大な数学的体系として完成させるための、長く孤独な作業に没頭していったのです。
『天球の回転について』

コペルニクスの生涯をかけた研究の集大成が、主著『天球の回転について』です。この一冊の書物は、古代から受け継がれてきた宇宙観を根底から覆し、近代科学の扉を開くことになる、まさに革命の書でした。しかし、その誕生の道のりは平坦ではなく、一人の若い数学者の情熱的な訪問がなければ、この偉大な著作は世に出ることなく埋もれていたかもしれません。
レティクスの訪問と出版への決意

コペルニクスは、自らの太陽中心説が、長年の伝統や聖書の解釈と衝突することを深く認識しており、その理論の公表には極めて慎重でした。彼は、専門家でない人々の嘲笑や非難を恐れ、主著の原稿を完成させながらも、30年近くにわたってその出版をためらっていました。
この状況を一変させたのが、1539年、ゲオルク=ヨアヒム=レティクスという若いドイツ人数学者のフロムボルクへの訪問でした。レティクスは、プロテスタントのヴィッテンベルク大学の教授であり、コペルニクスの新しい宇宙論の噂を聞きつけ、その詳細を学ぶために、はるばるカトリックの地であるヴァルミアまで旅してきたのです。当時25歳だったレティクスの情熱と深い数学的理解力は、年老いたコペルニクスを感銘させました。
コペルニクスは、レティクスに自らの原稿を公開し、その理論のすべてを教えました。レティクスは、この新しい宇宙論の素晴らしさに衝撃を受け、これを世界に知らせることが自らの使命だと確信します。彼は、コペルニクスの許可を得て、その理論の概要をまとめた『ナラティオ=プリマ』と題する書物を執筆し、1540年にグダニスクで出版しました。
『ナラティオ=プリマ』は、ヨーロッパの学術界で大きな反響を呼び、コペルニクスの主著への期待を高めました。レティクスは、友人や他の学者たちと共に、コペルニクスに対して、完全な著作を出版するよう根気強く説得を続けました。ついに、コペルニクスも長年の沈黙を破ることを決意し、レティクスに原稿を託して、その出版を委ねたのです。
出版の経緯とオジアンダーによる序文

レティクスは、原稿をドイツに持ち帰り、ニュルンベルクの著名な印刷業者ヨハネス=ペトレイウスのもとで印刷の準備を始めました。しかし、レティクスがライプツィヒ大学の新しい役職に就くことになったため、彼は印刷の最終的な監督を、ニュルンベルクのルター派の神学者であり、数学にも詳しいアンドレアス=オジアンダーに依頼しました。
ここで、コペルニクスの意図とは異なる、重大な変更が加えられることになります。オジアンダーは、コペルニクスの理論が引き起こすであろう神学的な論争を懸念し、読者の反発を和らげるために、匿名の序文を本に付け加えたのです。この「読者へ」と題された序文で、オジアンダーは、本書で述べられている太陽中心説は、必ずしも物理的な真実を主張するものではなく、単に惑星の運行を計算するための、より便利な数学的な仮説に過ぎないと述べました。これは、宇宙の真の姿を解き明かそうとしたコペルニクス自身の意図とは全く異なるものでした。
この序文は、コペルニクスやレティクスの許可なく挿入されたものであり、レティクスは後にこれを知って激怒したと言われています。しかし、この序文があったために、当初、本書は危険な異端思想としてではなく、天文学者向けの専門的な計算手法の提案として受け入れられ、カトリック=プロテスタント双方からの即座の断罪を免れるという皮肉な結果を生みました。
コペルニクスの死と著作の完成

『天球の回転について』の初版がニュルンベルクの印刷所から刷り上がったのは、1543年の春でした。その頃、コペルニクスはすでに重い病の床にあり、脳卒中の後遺症で意識も朦朧としていたと言われています。伝説によれば、完成した本がフロムボルクに届けられ、彼がその一冊を手に取ったのは、まさに彼が息を引き取る1543年5月24日のことであったと伝えられています。
『天球の回転について』は、ローマ教皇パウルス3世に献呈されています。コペルニクスは、その献辞の中で、自らの理論が奇異に聞こえることを認めつつも、それが古代の哲学者たちの思想にヒントを得たものであり、何よりも惑星の運行をより合理的に、調和をもって説明できる優れた体系であることを訴えています。彼は、自らの著作が、数学を理解する者によって正しく評価されることを願っていました。一人の聖職者が、その生涯をかけて静かに紡ぎ出した宇宙の新しい物語は、著者自身の死と入れ替わるようにして、ついに世界の前にその姿を現したのです。
近代天文学の礎

ニコラウス=コペルニクスが1543年に出版した『天球の回転について』は、すぐさまヨーロッパ中の世界観を覆したわけではありませんでした。その影響は、むしろゆっくりと、しかし確実に、天文学の専門家たちの間で広まっていきました。彼の著作は、単に地球と太陽の位置を入れ替えただけのものではなく、宇宙を数学的な調和と合理性に基づいて理解しようとする、新しい科学の時代の到来を告げるものでした。その遺産は、後継者たちの手によって受け継がれ、近代天文学、ひいては近代科学そのものの礎となったのです。
太陽中心説の数学的体系

コペルニクスの最大の功績は、それまで断片的に語られることのあった太陽中心的な思想を、プトレマイオスの『アルマゲスト』に匹敵する、首尾一貫した壮大な数学的体系として完成させたことにあります。彼は、単に「地球が動いている」と主張しただけではありませんでした。彼は、その仮定に基づいて、惑星の順序=公転周期=そして太陽からの相対的な距離を、三角法を用いて合理的に決定する方法を示しました。
彼の体系では、惑星の見かけの逆行運動(空で惑星が一時的に逆向きに進むように見える現象)は、もはやプトレマイオスの体系のように、周転円という複雑な装置を必要としませんでした。それは、公転速度の速い地球が、外側を回る公転速度の遅い惑星(火星=木星=土星)を追い越す際に生じる、見かけ上の動きとして、極めて自然に説明されたのです。また、内惑星(水星=金星)が常に太陽の近くにしか見えない理由も、それらの軌道が地球の軌道の内側にあることで、明快に説明されました。このように、コペルニクス体系は、ばらばらだった天体の現象を、一つの統一された原理の下に結びつけ、宇宙に内在する調和と秩序を明らかにしたのです。
しかし、コペニクスの体系もまた、完全ではありませんでした。彼は、古代ギリシャ以来の伝統に従い、惑星の軌道は完全な円であると信じていました。実際の惑星の軌道は楕円であるため、円軌道だけでは観測結果を正確に説明することができず、彼は結局、プトレマイオスの体系と同様に、周転円や離心円といった補正装置をいくつか残さざるを得ませんでした。その結果、彼の体系は、計算の複雑さにおいては、必ずしもプトレマイオスの体系より単純なものにはなりませんでした。これが、彼の理論がすぐには受け入れられなかった理由の一つでもあります。
後継者たちによる発展・ティコ、ケプラー、ガリレオ

コペルニクスの思想が真に開花するためには、後継者となる偉大な天文学者たちの登場を待たねばなりませんでした。
デンマークの天文学者ティコ=ブラーエは、コペルニクスの太陽中心説には同意しませんでしたが、その理論の数学的な利点には気づいていました。彼は、生涯をかけて、前例のない精度で惑星と恒星の位置を観測し続け、膨大なデータを蓄積しました。このティコの精密な観測データこそが、次の革命の鍵となります。
ティコの助手であったドイツの天文学者ヨハネス=ケプラーは、コペルニクスの太陽中心説の熱烈な信奉者でした。彼は、ティコが残した火星の観測データを用いて、その軌道を計算しようと試みますが、コペルニクスが仮定した円軌道では、どうしても観測結果と一致しないことに気づきます。数年間にわたる苦闘の末、ケプラーは、惑星の軌道は円ではなく、太陽を一つの焦点とする楕円であることを発見しました。このケプラーの法則の発見によって、コペルニクス体系に残っていた周転円などの不自然な装置は一掃され、太陽中心説は、観測精度においても、理論的な単純さにおいても、プトレマイオス体系を完全に凌駕するものとなったのです。
そして、イタリアの科学者ガリレオ=ガリレイは、自作の望遠鏡を夜空に向け、コペルニクス説を支持する決定的な視覚的証拠を次々と発見しました。彼は、月が山や谷を持つ、地球と同じような天体であること、木星に4つの衛星が周回していること(すべての天体が地球の中心を回っているわけではないことの証拠)、そして金星が月のように満ち欠けをすることを発見しました。特に金星の満ち欠けは、金星が太陽の周りを公転していることを直接的に示すものであり、プトレマイオスの体系では説明不可能な現象でした。ガリレオの発見は、専門家だけでなく、一般の人々にも、新しい宇宙の姿を鮮烈に印象付けました。
コペルニクス的転回とその影響

コペルニクスの理論は、最終的にアイザック=ニュートンの万有引力の法則によって、その物理学的な基礎が与えられ、近代科学の揺るぎない土台となりました。しかし、その影響は科学の領域に留まりませんでした。
地球を宇宙の中心という特権的な地位から引きずり下ろし、広大な宇宙に浮かぶ一惑星に過ぎないとした彼の思想は、人間の自己認識に深刻な影響を与えました。それは、人間中心的な世界観からの脱却を促し、哲学や宗教における根本的な問い直しを迫るものでした。カトリック教会は、当初はコペルニクスの著作を専門書として静観していましたが、ガリレオがそれを公然と擁護し始めると、その教えを聖書の権威を脅かすものと見なし、1616年に『天球の回転について』を禁書目録に加えました(禁書指定は1835年まで続く)。
コペルニクス自身は、自らの思想が引き起こすであろう地殻変動を予期し、その公表をためらった、慎重で敬虔な人物でした。彼は、革命家としてではなく、古代の知恵に立ち返り、宇宙の真の調和を探求しようとした、ルネサンスの学者でした。しかし、彼が放った一石は、静かに、しかし止めようのない波紋を広げ、人類の知性の歴史における最も深遠な「コペルニクス的転回」を引き起こしたのです。

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