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システィナ礼拝堂とは わかりやすい世界史用語2538 |
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著作名:
ピアソラ
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システィナ礼拝堂とは
ヴァチカン市国、教皇公邸の内に静かに佇むシスティナ礼拝堂は、その控えめな外観とは裏腹に、西洋文明の芸術的達成の頂点を内包する、世界で最も重要な聖なる空間の一つです。その名は、15世紀後半にこの礼拝堂の建設を命じた教皇シクストゥス4世に由来し、以来、教皇の私的な礼拝の場として、またカトリック教会の最高儀式、特に新しい教皇を選出するコンクラーヴェの会場として、極めて重要な役割を果たしてきました。しかし、この礼拝堂を不滅の存在たらしめているのは、その壁面と天井を覆い尽くす、ルネサンス期の最も偉大な芸術家たちによって描かれた壮大なフレスコ画群です。サンドロ=ボッティチェッリ、ピエトロ=ペルジーノ、ドメニコ=ギルランダイオといった15世紀の巨匠たちが描いたモーセとキリストの生涯の物語、そして何よりも、ミケランジェロ=ブオナローティがその創造力のすべてを注ぎ込んだ天井画『創世記』と祭壇壁画「最後の審判」は、この場所を単なる礼拝堂から、人類の創造、堕落、そして救済の物語を壮大なスケールで語る、神学的な宇宙へと変貌させました。
建設の歴史と建築的特徴
システィナ礼拝堂の歴史は、教皇シクストゥス4世が、中世から存在した古い礼拝堂(カペラ=マッジョーレ)を取り壊し、その跡地に新しい教皇礼拝堂を建設することを決定した1470年代に始まります。この建設プロジェクトは、単なる建物の建て替えではなく、オスマン帝国の脅威や教会内の分裂といった内外の危機に直面していた教皇庁の権威を再確立し、ローマをキリスト教世界の揺るぎない中心として視覚的に示すという、シクストゥス4世の強い政治的・宗教的意志の表明でした。建築家バッチョ=ポンテッリの設計に基づき、1477年から1482年にかけて建設された礼拝堂は、意図的に、旧約聖書に記述されているエルサレムのソロモン神殿の寸法を模倣して設計されました。この象徴的な建築は、新しい教皇礼拝堂が、失われたソロモン神殿に代わる、神との契約の新たな場所であることを示唆するものでした。その外観は、要塞のように簡素で飾り気のないものですが、それは、外部からの攻撃に対する防御という実際的な機能と、内部に秘められた聖なる宝を守るという象徴的な意味を兼ね備えていたのです。
教皇シクストゥス4世の構想
フランチェスコ=デッラ=ローヴェレ、すなわち教皇シクストゥス4世は、ルネサンス期の最も野心的で、物議を醸した教皇の一人でした。彼は、フランシスコ会の神学者として高い学識を誇る一方で、一族の勢力拡大のために政治的陰謀を巡らせる、冷徹な現実主義者でもありました。彼の治世において、教皇庁は、ローマの都市改造やヴァチカン図書館の創設など、数多くの文化事業を推進しましたが、その中でもシスティナ礼拝堂の建設は、彼の名を後世に不滅のものとする最大の功績となりました。シクストゥス4世にとって、この新しい礼拝堂は、教皇庁のすべての枢機卿や高官が一堂に会する、教会の中心的な儀式の場であると同時に、彼の神学的な思想と、教皇権の正当性を視覚的に表現するための壮大な舞台装置でもありました。彼は、この礼拝堂の内部装飾のために、フィレンツェやウンブリアから当代最高の画家たちをローマに招聘し、極めて精緻で複雑な神学的プログラムに基づいたフレスコ画の連作を制作させたのです。
ソロモン神殿との関連
システィナ礼拝堂の建築的な寸法は、旧約聖書の列王記に記されている、古代イスラエルのソロモン神殿の大きさと正確に一致するように設計されています。その長さは約40.9メートル、幅は約13.4メートル、そして高さは約20.7メートルであり、これは神殿の最も神聖な場所であった至聖所の比率を反映しています。この意図的な寸法の模倣は、深い神学的な意味合いを持っていました。ソロモン神殿は、神がモーセと結んだ契約の証である「契約の箱」が安置された、地上における神の住まいでした。シクストゥス4世は、新しい教皇礼拝堂を、この失われた神殿の後継者として位置づけることで、キリスト教会が、ユダヤ教に代わる神との新しい契約(新約)の継承者であり、教皇が、キリストから直接その権威を受け継いだ聖ペテロの後継者であることを、建築的に宣言しようとしたのです。礼拝堂の内部空間は、この神学的な意図をさらに強化するように構成されています。
簡素な外観と内部空間の構成
外部から見たシスティナ礼拝堂は、装飾的な要素を一切排した、煉瓦造りの巨大な箱のような、極めて簡素で武骨な印象を与えます。高い壁の上部には、狭間のような窓が並び、その姿は、教会というよりも中世の要塞を思わせます。この要塞のような外観は、当時のローマが依然として政情不安であったことを反映しており、教皇の身の安全を確保するという実際的な目的がありました。しかし、この飾り気のない外観は、内部に広がる壮麗な芸術空間との劇的な対比を生み出す、計算された演出でもあります。内部は、大理石の美しい格子状の仕切り(トランセンナ)によって、二つの空間に分割されています。東側の広い空間は、教皇や枢機卿といった聖職者のための内陣であり、西側の狭い空間は、一般の信者や招待客のための場所でした。この仕切りは、聖なる空間と俗なる空間を明確に区別する役割を果たし、床に施された精緻なコズマーティ様式のモザイク模様は、儀式の際の行列の動きを導くように設計されています。
15世紀の壁画装飾:モーセとキリストの生涯
ミケランジェロの圧倒的な作品群に目を奪われがちですが、システィナ礼拝堂の本来の装飾プログラムの根幹をなすのは、シクストゥス4世の時代に制作された、南北の壁面を飾るフレスコ画の連作です。教皇は、この重要な装飾事業のために、1481年から1482年にかけて、フィレンツェとウンブリアから、サンドロ=ボッティチェッリ、ドメニコ=ギルランダイオ、コジモ=ロッセッリ、そしてピエトロ=ペルジーノといった、ルネサンス中期を代表する最高の画家たちを招聘しました。彼らは、それぞれの工房を率いてローマに赴き、統一された神学的プログラムのもとで、見事な共同作業を成し遂げました。このフレスコ画群は、北側の壁にモーセの生涯の物語を、南側の壁にキリストの生涯の物語を、それぞれ対になるように描き出し、旧約と新約、律法と恩寵、そしてユダヤ教とキリスト教の間の連続性と対比を、視覚的に論証する壮大な試みでした。
教皇権の正当化という神学的プログラム
システィナ礼拝堂の壁画プログラムの根底にあるのは、教皇権の神聖な起源と、その絶対的な正当性を主張するという、明確な神学的・政治的メッセージです。このプログラムは、モーセをキリストの予型(先行するモデル)として、そしてキリストを聖ペテロの予型として描き出すことで、モーセからキリストへ、そしてキリストから初代教皇である聖ペテロへと、神の権威が途切れることなく受け継がれてきたことを示そうとしました。モーセが神から律法を授かったように、キリストは新しい教えを授け、そしてその教えを地上で広めるための権威を、ペテロとその正当な後継者であるローマ教皇に委ねた、という論理です。この神権の継承の物語は、特に、ペルジーノが描いた『聖ペテロへの天国の鍵の授与』の場面でその頂点に達します。この作品は、礼拝堂全体の神学的プログラムの鍵となる、中心的なイメージなのです。
北壁:モーセの生涯
北側の壁面(祭壇に向かって右側)には、モーセの生涯における重要な出来事を描いた、6つのフレスコ画が並んでいます。物語は、祭壇側から始まり、『モーセのエジプトへの旅』(ペルジーノ作)、『モーセの試練』(ボッティチェッリ作)、『紅海横断』(コジモ=ロッセッリ作)、『シナイ山からの下山』(コジモ=ロッセッリ作)、『コラ、ダタン、アビラムの懲罰』(ボッティチェッリ作)、そして『モーセの死と遺言』(ルカ=シニョレッリ作)へと続きます。これらの場面は、モーセがイスラエルの民を導き、神から律法を授かり、そして神の権威に背く者たちを罰するという、指導者としての役割を強調しています。特に、ボッティチェッリが描いた『コラの懲罰』は、モーセとアロンの神権に反逆した者たちが、地面が裂けて飲み込まれるという罰を受ける場面を描いており、教皇の権威に挑戦する者は、神の厳しい罰を免れないという、明確な警告のメッセージを、シクストゥス4世の同時代人たちに送っていました。
南壁:キリストの生涯
南側の壁面(祭壇に向かって左側)には、モーセの物語と対になるように、キリストの生涯を描いた6つのフレスコ画が配置されています。物語は、こちらも祭壇側から始まり、『キリストの洗礼』(ペルジーノ作)、『キリストの誘惑』(ボッティチェッリ作)、『使徒たちの召命』(ギルランダイオ作)、『山上の垂訓』(コジモ=ロッセッリ作)、『聖ペテロへの天国の鍵の授与』(ペルジーノ作)、そして「最後の晩餐」(コジモ=ロッセッリ作)へと展開します。これらの場面は、キリストが洗礼によって公生涯を始め、悪魔の誘惑を退け、弟子たちを選び、新しい教えを説き、そして教会の礎としてペテロに権威を授けるという、彼の救済者としての使命を明らかにします。各場面は、向かい側の壁にあるモーセの物語と、神学的に呼応するように構成されています。例えば、『キリストの洗礼』は『モーセのエジプトへの旅』と対になり、どちらも重要な使命の始まりを示唆しています。
ペルジーノ作『聖ペテロへの天国の鍵の授与』
南壁の連作の中で、そして礼拝堂全体の15世紀装飾プログラムの中で、最も重要な作品が、ピエトロ=ペルジーノが描いた『聖ペテロへの天国の鍵の授与』です。このフレスコ画は、マタイによる福音書の一節に基づき、キリストが跪く聖ペテロに、天国の門を開くための金と銀の鍵(霊的な権威の象徴)を授ける決定的な瞬間を描いています。この場面は、カトリック教会が主張する、教皇の首位権の聖書的な根拠そのものであり、ペテロの後継者であるローマ教皇が、地上におけるキリストの代理人として、絶対的な権威を持つことを視覚的に宣言しています。ペルジーノは、この荘厳な出来事を、広々とした広場を背景に、理想的な一点透視図法を用いて描き出しました。背景には、ソロモン神殿を模した壮大な集中式神殿が描かれ、この権威の委譲が、神の計画の一部であることを示唆しています。この作品は、盛期ルネサンスの古典的な調和と秩序を先取りした、15世紀イタリア絵画の最高傑作の一つです。
ミケランジェロの天井画:創世記の物語(1508年–1512年)
1508年、シクストゥス4世の甥であり、野心的な芸術のパトロンであった教皇ユリウス2世は、彫刻家として名声を確立していたミケランジェロ=ブオナローティに、システィナ礼拝堂の天井画の制作を命じました。当初、ミケランジェロは、自分は画家ではなく彫刻家であるとして、この依頼に強く抵抗しましたが、教皇の頑なな意志に屈し、この困難な大事業を引き受けることになります。もともと、天井にはピエルマッテオ=ダメリアによって星空が描かれていましたが、ユリウス2世は、これをより壮大な主題で描き直すことを望みました。ミケランジェロは、当初提案された十二使徒を描くという単純な計画を退け、代わりに、旧約聖書の『創世記』から、天地創造、アダムとイブの物語、そしてノアの物語に至るまでを、壮大なスケールで描き出す、全く新しい、複雑で独創的なプログラムを考案しました。たった一人で、足場の上で仰向けの苦しい体勢をとりながら、4年以上の歳月をかけて完成させたこの天井画は、人間の肉体と精神の可能性を極限まで追求した、ミケランジェロの天才の記念碑であり、西洋美術の歴史全体においても比類のない、圧倒的な傑作です。
ユリウス2世の依頼とミケランジェロの抵抗
教皇ユリウス2世が、なぜ彫刻家であるミケランジェロに、これほど巨大なフレスコ画の制作を託したのかについては、いくつかの説があります。一つには、ミケランジェロのライバルであった建築家ブラマンテが、彼をこの困難な仕事で失敗させようと、教皇に推薦したという陰謀説があります。しかし、より可能性が高いのは、ユリウス2世が、ミケランジェロの比類なき才能を正しく見抜き、彼ならば、この壮大な礼拝堂にふさわしい、英雄的でモニュメンタルな天井画を創造できると確信していたという説です。ミケランジェロ自身は、フレスコ画の経験がほとんどなく、この巨大な曲面天井に絵を描くという技術的な困難さを恐れて、依頼を固辞しました。彼は、自身の天職は、大理石を彫り、三次元のフォルムを解放することにあると信じていました。しかし、彼の抵抗も虚しく、教皇の命令は絶対でした。この不本意な形で始まったプロジェクトは、結果的に、ミケランジェロの芸術家としてのキャリアの頂点を画し、彼を不滅の存在へと押し上げることになったのです。
独創的な図像プログラム
ミケランジェロが考案した天井画のプログラムは、その神学的な深さと、構成の複雑さにおいて、前例のないものでした。彼は、天井の中央部分を、9つの長方形の区画に分割し、そこに『創世記』の物語を描きました。これらの場面は、祭壇側から順に、『光と闇の分離』、『太陽、月、植物の創造』、『大地と水の分離』、『アダムの創造』、『イブの創造』、『原罪と楽園追放』、『ノアの燔祭』、『大洪水』、そして『ノアの泥酔』へと続きます。これらの中心場面の周囲には、キリストの到来を予言したとされる、7人の旧約聖書の預言者たちと、5人の異教の巫女(シビュラ)たちが、巨大な姿で描かれています。さらに、天井の四隅の三角面(スパンプレル)と、窓の上の半月形の部分(ルネット)には、キリストの祖先たちが描かれ、救済史の壮大なパノラマが完成します。この複雑な構造全体を、ミケランジェロは、建築的な枠組みをだまし絵(グリザイユ)で描き込み、その中に、イニューディとして知られる、20体の美しい裸体の青年像を配置することで、見事な統一感と視覚的な豊かさを与えています。
中央の9つの創世記の場面
天井の中央を貫く9つの場面は、人類の歴史の始まりを、三つのグループに分けて物語ります。最初の三場面は、神が宇宙を創造する、純粋に神的な行為を描いています。特に『アダムの創造』は、天井画全体の中で最も有名であり、神が、生命のないアダムに向かって指を差し伸べ、生命の火花を伝えようとする、緊張感に満ちた瞬間を捉えています。神の指とアダムの指が触れ合う寸前のこの構図は、神と人間との間の、隔たりと繋がりを象徴する、西洋美術における最も象徴的なイメージの一つとなりました。続く三場面は、アダムとイブの創造、彼らが蛇の誘惑に負けて禁断の果実を食べる「原罪」、そしてエデンの園から追放されるという、人類の堕落の物語を描いています。最後の三場面は、大洪水とノアの物語を通じて、罪深い人類が一度滅ぼされ、ノアの家族を通して新たな始まりを迎えるという、神の罰と救済のテーマを扱っています。
預言者と巫女(シビュラ)
創世記の物語を取り囲むように、大理石の玉座に座す、12人の巨大な預言者と巫女の姿が描かれています。旧約聖書の預言者たち(ヨナ、エレミヤ、エゼキエルなど)と、古代ギリシャ・ローマの伝説に登場する女性預言者である巫女たち(デルフォイの巫女、クメのアポロ神殿の巫女など)を同等に並べて描くというこのアイデアは、ルネサンス人文主義の思想を反映しています。それは、キリストによる救済が、ユダヤの民だけでなく、異教の世界にも、予言という形で示されていたという考え方に基づいています。ミケランジェロは、これらの人物を、単なる象徴としてではなく、それぞれが神の啓示を受けて苦悩し、あるいは瞑想にふける、個性と内面性を持った人間として描き出しました。彼らの力強い肉体、複雑なポーズ、そして深い精神性を感じさせる表情は、ミケランジェロの彫刻家としての才能が、絵画という二次元のメディアの中でいかに発揮されたかを、雄弁に物語っています。
ミケランジェロの祭壇壁画:最後の審判(1536年–1541年)
天井画の完成から20年以上が経過した1534年、教皇クレメンス7世は、再びミケランジェロをローマに呼び寄せ、システィナ礼拝堂の祭壇壁に、巨大なフレスコ画「最後の審判」を描くよう依頼しました。この時、ミケランジェロはすでに60歳に近く、カトリック教会は、マルティン=ルターに始まるプロテスタント宗教改革の嵐と、1527年のローマ劫掠という壊滅的な打撃によって、深刻な危機に瀕していました。このような動乱の時代背景は、ミケランジェロの芸術観にも深い影響を与え、彼が描いた「最後の審判」は、盛期ルネサンスの調和と秩序に満ちた天井画とは対照的に、混沌と不安、そして神の恐るべき裁きの厳しさを前面に押し出した、マニエリスム様式の記念碑的な作品となりました。ミケランジェロは、この大事業のために、ペルジーノらによる既存のフレスコ画をすべて破壊し、1536年から1541年にかけて、再び孤独な闘いを繰り広げました。完成した壁画は、その圧倒的なスケールと、400人以上の人物が渦巻く裸体表現によって、激しい賞賛と、それ以上に激しい非難の的となりました。
制作の背景:宗教改革とローマ劫掠
「最後の審判」が構想された1530年代は、カトリック教会にとって、かつてないほどの試練の時代でした。宗教改革は、教会の権威を根底から揺るがし、聖人崇敬や贖宥状(免罪符)といった伝統的な慣習を厳しく批判しました。さらに、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世の軍隊がローマを略奪した「ローマ劫掠」は、ルネサンス文化の中心地であった永遠の都を廃墟に変え、人々の心に終末論的な恐怖を植え付けました。このような危機的状況の中で、カトリック教会は、自らの教義を再確認し、失われた権威を回復する必要に迫られていました(対抗宗教改革)。「最後の審判」の制作依頼は、まさにこの時代の空気の中で行われ、この作品は、罪深い人類に対する神の厳しい裁きと、教会の再生への願いを込めた、時代の証言となったのです。ミケランジェロ自身の信仰も、この時期、より内省的で、罪の意識に苛まれる、厳しいものへと変化していきました。
混沌とした構図と伝統からの逸脱
ミケランジェロは、「最後の審判」において、中世以来の伝統的な図像を完全に打ち破りました。彼は、画面を天国、地上、地獄といった階層に分割する慣例を捨て去り、代わりに、審判者キリストを中心とした、巨大な渦巻くような人物群の回転運動によって、画面全体を構成しました。祝福された者たちが天に昇り、呪われた者たちが地獄に堕ちていく、この上昇と下降のダイナミックな動きは、観る者を宇宙的なドラマの渦中へと引き込みます。背景には、地平線も風景も描かれず、ただ深遠な青一色の空が広がるのみで、この出来事が、この世のものではない、超自然的な空間で起こっていることを強調しています。この混沌とした構言は、審判の日には、地上のいかなる秩序も無意味となり、すべての魂が神の絶対的な力の前に投げ出されるという、恐るべきメッセージを伝えています。
アポロンのようなキリストと聖人たち
壁画の中心に君臨するのは、若々しく、力強い肉体を持つ、恐るべき審判者としてのキリストです。その姿は、伝統的な髭をたくわえた荘厳なキリスト像とは全く異なり、古代の神アポロンを思わせる、異教的な美しさと、人間的な怒りをたたえています。彼は、慈悲深い救い主ではなく、右腕を振り上げ、罪人を断罪する、厳格な裁き主として描かれています。彼の傍らに寄り添う聖母マリアでさえ、もはや人類のためにとりなしをすることはなく、息子の厳格な裁きから目をそむけるかのように、その身を縮めています。キリストを取り巻く聖人たちも、天国で安らかに座っているのではなく、自身が受けた殉教の道具を誇示しながら、不安げな表情で審判の行方を見守っています。特に、生きたまま皮を剥がれた聖バルトロマイが持つ、その剥がされた皮の顔には、ミケランジェロ自身の苦悩に満ちた自画像が描き込まれており、この大事業に懸ける芸術家の魂の叫びが刻まれています。
裸体論争と後代の修正
「最後の審判」が1541年に公開されると、その大胆な裸体表現は、直ちに激しい論争を巻き起こしました。教皇の公式な礼拝堂の祭壇壁に、キリストや聖母マリアを含む、数多くの人物が裸で描かれていることは、多くの聖職者にとって、神への冒涜であり、不道徳であると見なされました。この批判は、対抗宗教改革の厳格化する道徳観の中でさらに高まり、ミケランジェロの死後、1564年に、トリエント公会議の決定に基づき、壁画の裸体部分に腰布を描き加えることが命じられました。この不名誉な修正作業は、ミケランジェロの弟子であったダニエーレ=ダ=ヴォルテッラに委ねられ、彼は「イル=ブラゲットーネ(ふんどし画家)」というあだ名で呼ばれることになりました。これらの腰布は、20世紀後半に行われた大規模な修復作業によって、その多くが除去され、壁画は、ミケランジェロが意図した、本来の衝撃的な姿を取り戻しました。
コンクラーヴェの舞台としての役割
システィナ礼拝堂は、その比類なき芸術的価値に加えて、カトリック教会の歴史において、極めて重要な宗教的・政治的機能を果たしてきました。それは、教皇が亡くなった後、次の教皇を選出するための選挙、すなわち「コンクラーヴェ」が行われる、神聖な会場です。世界中から集まった枢機卿たちが、外部から完全に隔離されたこの礼拝堂に閉じこもり、聖霊の導きを祈りながら、聖ペテロの後継者を選ぶというこの厳粛な儀式は、15世紀末以来、この場所で繰り返し行われてきました。ミケランジェロが描いた「最後の審判」の、厳かなキリストの視線の下で、枢機卿たちは、教会の未来を左右する一票を投じます。選挙の結果は、礼拝堂の屋根に設置された煙突から立ち上る煙の色によって、サン=ピエトロ広場で待つ信者たちに知らされます。黒い煙は選挙の不成立を、そして白い煙は、新しい教皇の誕生を告げるのです。
コンクラーヴェの起源と手順
「コンクラーヴェ」という言葉は、ラテン語の「cum clave(鍵がかかった)」に由来し、選挙人である枢機卿たちが、外部からの圧力を一切受けないように、完全に隔離された状態に置かれることを意味します。この制度は、13世紀に、教皇選挙が長引き、教会が混乱した経験から確立されました。システィナ礼拝堂がコンクラーヴェの会場として初めて使用されたのは、1492年のことであり、それ以来、主要な会場として定着しました。コンクラーヴェの期間中、枢機卿たちは、礼拝堂に隣接する部屋で生活し、選挙の時だけ礼拝堂に集まります。投票は、秘密投票で行われ、当選には、全投票数の三分の二以上の票を獲得する必要があります。投票用紙は、各回の投票が終わるたびに、特別なストーブで焼かれ、その際の煙の色が、外部への唯一の合図となります。
儀式と象徴性
コンクラーヴェは、単なる選挙ではなく、深い象徴性に満ちた、荘厳な宗教儀式です。枢機卿たちは、礼拝堂に入ると、ミサを捧げ、聖霊の導きを求める聖歌「ヴェニ=クレアトール=スピリトゥス(来たれ、創造主なる聖霊よ)」を歌います。そして、選挙権のないすべての者が退場を命じられ、「エクストラ=オムネス(皆、外へ)」という声と共に、礼拝堂の扉が内と外から施錠されます。この瞬間から、枢機卿たちは、神と、そしてミケランジェロが描いた聖なる物語の登場人物たちに見守られながら、教会の最高指導者を選ぶという重責と向き合うことになります。彼らが投票用紙に候補者の名を記す祭壇の上には、「最後の審判」のキリストが君臨しており、その姿は、枢機卿たちに、彼らの決定が、最終的には神の裁きを受けるものであることを、絶えず思い起こさせます。この空間全体が、人間の選択が神の意志と交差する、劇的な舞台となるのです。
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