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輸入作物とは わかりやすい世界史用語2463 |
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著作名:
ピアソラ
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輸入作物とは
清王朝の時代、中国の農業、社会、そして経済は、新大陸からもたらされた作物の導入によって、静かな、しかし決定的な変革を遂げました。これらの作物は、コロンブス交換として知られる、ヨーロッパとアメリカ大陸間の動植物、文化、人、技術、そして思想の広範な交換の一部として、16世紀後半の明王朝末期に中国に到達し始めました。しかし、これらの作物が中国全土に広まり、その影響が社会の隅々にまで及んだのは、清の時代、特に18世紀以降のことです。トウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ、ラッカセイ、トウガラシ、タバコといった新大陸由来の作物は、単に食卓を豊かにしただけではありませんでした。それらは、伝統的な米や小麦の栽培に適さない土地の活用を可能にし、食料供給を増大させ、爆発的な人口増加を支える基盤となりました。さらに、これらの作物は商品作物として経済活動を活発化させ、人々の食生活や文化、さらには社会構造にまで深く浸透し、清代中国の歴史を大きく動かす原動力の一つとなったのです。
新大陸作物の伝播と定着
主要作物の導入経路
清代の中国に広まった新大陸作物の多くは、明代後期にあたる16世紀頃、複数の経路を経て中国に伝わりました。これらの作物は、大航海時代にヨーロッパの探検家や商人によってアメリカ大陸から持ち出され、世界中に広まっていきました。中国への主要な伝播ルートは、東南アジアを経由する海路でした。当時、スペインはフィリピンを、ポルトガルはマカオを拠点としており、これらの地域が新大陸作物の中継地となりました。
サツマイモは、その代表的な例です。南米原産のサツマイモは、スペイン植民地時代のフィリピンにもたらされました。 16世紀末の1593年、福建省出身の商人である陳振龍が、当時スペインの支配下にあったフィリピンのルソン島からサツマイモの蔓を密かに持ち帰ったという話は広く知られています。 当時、フィリピンからの植物の持ち出しは厳しく制限されていましたが、彼は蔓を泥で覆い、ロープのように偽装して持ち帰ることに成功したと伝えられています。 翌年、福建省が深刻な干ばつに見舞われた際、彼の息子である陳経綸が福建総督に進言し、サツマイモの栽培を奨励した結果、多くの人々が飢饉から救われたと言われています。 この成功をきっかけに、サツマイモの栽培方法はマニュアル化され、中国各地へと広まっていきました。
トウモロコシもまた、複数のルートで中国に伝わりました。一つは、中央アジアを経由してシルクロードを通り、中国北西部の甘粛省に至る陸路です。二つ目は、インドやミャンマーを経由して南西部の雲南省に伝わるルート。そして三つ目が、ポルトガル商人によって南部の沿岸地域である福建省にもたらされた海路です。 記録によれば、1551年には河南省で、1555年には雲南省から北京へ向かう途中の貢物としてトウモロコシの存在が確認されています。 しかし、明代においてはその栽培は限定的で、「珍しい」作物と見なされていました。
ジャガイモの中国への伝来は16世紀末から17世紀初頭にかけての明代末期とされています。 当初は北京周辺の宮廷で珍味として扱われていました。 ある記録では、「多くの珍味の中でも、ジャガイモはその味から見た目まで特筆すべき点はない。最も魅力的なのは、それが異国の地から来たという事実である」と記されており、当初は物珍しさから注目されていたことがうかがえます。
トウガラシもまた、16世紀後半の明代末期に、ポルトガル商人などによって海路を通じて中国にもたらされました。 当初は、その鮮やかな色合いから食用としてではなく、観賞用の植物として栽培されていました。 中国の文献で「番椒(外国のコショウ)」や「海椒(海から来たコショウ)」といった名称で呼ばれていたことからも、その外来性が認識されていたことがわかります。
タバコは、16世紀にフィリピンから伝わりました。 スペイン人がアメリカ大陸から持ち込んだタバコは、フィリピンで栽培され、そこから中国へと広まりました。当初は薬草として、あるいは気分転換のための嗜好品として受け入れられました。
これらの作物は、明代末期に中国に到達したものの、その栽培が本格的に拡大し、中国社会に根付いていくのは、国内が安定し、人口が増加し始めた清の時代、特に18世紀に入ってからのことでした。
清代における栽培の拡大
清王朝の時代、特に康熙帝、雍正帝、乾隆帝の治世(1661年~1796年)は、長期にわたる平和と政治的安定が続きました。この安定期は、農業生産の発展と人口増加の大きな要因となりました。 このような社会背景のもと、明代に導入された新大陸作物は、その真価を発揮し、中国全土へと急速に普及していきました。
サツマイモは、その驚異的な生命力と適応能力から、特に貧しい農民に歓迎されました。干ばつや洪水に強く、米や小麦が育たないような痩せた土地や山間部でも栽培が可能だったためです。 17世紀後半には福建省から浙江省、山東省、河南省へと伝わり、18世紀半ばまでには中国南部全域、さらには黄河流域や北部地域にまで栽培が拡大しました。 乾隆帝は1786年に「民衆の食を補うため、広く栽培せよ」との勅令を出し、その普及を後押ししました。
トウモロコシも同様に、山間地や乾燥地帯での栽培に適していたため、これまで農耕に不向きとされてきた土地の開墾を可能にしました。 18世紀になると、湖南省の地方史にはトウモロコシが広く栽培されているとの記録が見られるようになります。 特に、陝西省のいくつかの県では、トウモロコシが主要な食料源となり、人々の生活を支えました。 湖北省や湖南省からの移住者が雲南省に流入したことなども、トウモロコシ栽培の拡大を加速させました。
ジャガイモは、当初宮廷の珍味でしたが、清代中期になると、人口増加に伴う食料需要の高まりを背景に、一般民衆の間にも広まっていきました。 特に、乾隆年間(1735年~1796年)以降、農民の移動が自由になると、種芋や栽培技術が遠隔地へと伝播し、雲南省、貴州省、山西省、甘粛省などの山岳地帯で重要な作物となりました。 これらの地域では、ソバしか育たないような土地でもジャガイモは栽培でき、貧しい人々の貴重な食料源となったのです。
トウガラシが食用として広く受け入れられるようになったのも清の時代です。 特に、内陸の南西部、貴州省でその消費が始まりました。 この地域は湿潤な気候で、塩の生産が困難であり、塩が高価であったため、安価で風味豊かな調味料としてトウガラシが注目されたのです。 18世紀から19世紀にかけて、トウガラシは貴州省から四川省、湖南省、雲南省など周辺地域へと広まり、それぞれの地域の食文化に深く根付いていきました。
ラッカセイもまた、油を採るための重要な作物として、また食料として清代に広く栽培されるようになりました。 タバコは、嗜好品として急速に広まり、一大産業へと発展しました。 康熙年間(1662年~1722年)の記録には、北方の辺境地域で馬一頭と加工タバコが交換されたり、ロシアの国境警備隊が牛一頭で中国産のタバコを購入したりしたとあり、その価値の高さがうかがえます。
このように、清代、特に18世紀は、新大陸作物が中国の地理的・気候的条件の多様性に対応しながら、未利用だった土地を開拓し、食料生産の新たな可能性を切り開いた時代でした。これらの作物の普及は、単に新しい食べ物が加わったというだけでなく、中国の農業景観そのものを変え、来るべき社会の大きな変動の礎を築いたのです。
農業生産への影響
耕作地の拡大と土地利用の変化
新大陸作物の導入は、清代中国の土地利用に革命的な変化をもたらしました。伝統的な主要作物であった米や小麦は、それぞれ特定の気候や水利条件を必要としました。例えば、米の栽培には豊富な水と灌漑設備が整った水田が不可欠であり、小麦は比較的乾燥した土地を好みます。 このため、従来の農業は、河川流域の平野部や盆地といった条件の良い土地に集中していました。
しかし、トウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモといった新大陸作物は、こうした制約を打ち破る特性を持っていました。これらの作物の多くは、乾燥に強く、急な斜面や痩せた土壌といった、これまで農耕には不向きとされてきた「限界地」でも栽培が可能でした。 例えば、トウモロコシやジャガイモは、山がちな土地での栽培を可能にし、サツマイモは干ばつに見舞われやすい地域でも安定した収穫をもたらしました。
この結果、清代を通じて、耕作可能地の面積は劇的に増加しました。農民たちは、丘陵地、山間部、そして辺境地域へと進出し、次々と新しい農地を開墾していったのです。 ある研究によれば、清代の約300年間で増加した耕地面積は、それ以前の1600年間における増加分を上回るほどでした。 この耕地拡大は、特に開発が遅れていた南西部や北東部、内モンゴルといった地域で顕著に見られました。 例えば、客家(ハッカ)と呼ばれる移住者集団は、中国南東部の沿岸地域の山間部に入植し、米や小麦の栽培には適さない土地で、サツマイモやトウモロコシ、タバコなどを栽培して生計を立てました。 1700年から1850年にかけて、こうした移住者たちによる開墾によって、中国の耕地面積はほぼ3倍になったと推定されています。
この耕地の拡大は、森林破壊という負の側面も伴いました。人口増加と食料需要の高まりを背景に、農地を確保するために多くの森林が伐採されたのです。 1950年代以前の中国における農地拡大の約半分は、森林伐採によるものだったという分析もあります。 このように、新大陸作物の普及は、中国の土地利用のフロンティアを大きく押し広げると同時に、生態環境にも深刻な影響を与えることになりました。土地利用の変化は、単に農業生産の場が広がったというだけでなく、人口の地理的分布、社会構造、そして自然環境との関係性を根本から変容させる、大きな原動力となったのです。
食料生産量の増大と安定化
新大陸作物の普及は、耕作地の拡大と相まって、清代中国の食料生産量を飛躍的に増大させました。これらの作物は、単位面積あたりの収穫量が多いという特徴を持っていました。例えば、ジャガイモは同じ面積で栽培した場合、小麦の数倍の食料を生産できたと言われています。 サツマイモもまた、米や小麦よりも多収穫であり、その上、干ばつや洪水といった天災にも強い耐性を持っていました。
これにより、全体の食料供給量が大幅に増加しました。20世紀初頭の推計では、トウモロコシの作付面積は全耕地の約6%、サツマイモは約2%を占め、トウモロコシだけで年間700万から800万トン、サツマイモで年間400万トンの増産に貢献したとされています。 湖北省と湖南省では、清代後期にはトウモロコシとサツマイモの生産量だけで、約185万人を養うことができたという計算もあります。
さらに、これらの作物は食料供給の安定化にも大きく貢献しました。伝統的な米や小麦は、天候不順、特に干ばつや長雨に弱く、凶作に見舞われるリスクが常にありました。歴史的に見ても、中国では数年おきに地域的な飢饉が発生していました。 しかし、天候への耐性が強いサツマイモやジャガイモは、米や小麦が不作の年でも収穫が期待できる「救荒作物」としての役割を果たしました。 飢饉の際には、これらの作物が人々の命を繋ぐ最後の砦となったのです。サツマイモが「飢饉に対する保険」と評されたのも、そのためです。
また、新大陸作物の導入は、作付け体系の多様化も促しました。例えば、トウモロコシは小麦やアワ、コーリャンなどとの輪作や間作が可能で、土地の利用率を高め、単位面積あたりの総収量を向上させました。 清代の複作指数(一年間に同じ土地で何回作付けが行われたかを示す指標)は平均で1.23でしたが、トウモロコシを組み込んだ作付け体系では、これを上回る土地利用効率が実現されました。
このように、新大陸作物は、生産量の絶対的な増加と、天災に対するリスク分散という二つの側面から、清代中国の食料安全保障を劇的に改善しました。この安定した食料基盤こそが、後述する未曾有の人口増加を可能にした、最も重要な要因の一つであったと言えるでしょう。
人口動態への影響
爆発的な人口増加の背景
清代、特に18世紀は、中国史上類を見ないほどの急激な人口増加が起きた時代として知られています。17世紀半ばの清王朝成立時には1億5千万人程度だった人口が、18世紀末には3億人を超え、19世紀半ばには4億人以上に達したと推定されています。 この驚異的な人口増加の背景には、いくつかの要因が複合的に絡み合っていますが、その中でも新大陸作物の普及による食料供給の増大が、最も根本的な要因であったと考えられています。
前述の通り、トウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモといった作物は、それまで耕作不可能とされていた山間地や痩せた土地での農業を可能にし、耕地面積を大幅に拡大させました。 これにより、増え続ける人口を養うための食料生産のキャパシティが飛躍的に向上したのです。乾隆帝が「人口は増え続けるが、土地は増えない」と嘆いたと伝えられていますが、まさにこのジレンマを解決する鍵となったのが、新大陸作物でした。
これらの作物は、単に生産量を増やしただけではありません。栄養価の面でも人口を支える上で重要な役割を果たしました。サツマイモやジャガイモはカロリーが高く、ラッカセイは貴重な脂肪源となりました。 これにより、人々の栄養状態が改善され、乳幼児の死亡率の低下や平均寿命の延伸に繋がったと考えられます。特に、女性の健康状態が改善し、出産可能年齢まで生存する女児の割合が増加したことが、人口増加に寄与したという指摘もあります。
さらに、長期にわたる平和と社会の安定も、人口増加を後押ししました。明末清初の混乱期が終わり、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の治世下で国内の平和が維持されたことで、人々は安心して生活を営み、子供を育てることができました。 このような安定した社会環境と、新大陸作物によってもたらされた食料基盤の安定が組み合わさることで、人口は「マルサスの罠」(人口増加が食料生産の増加を上回り、貧困や飢饉に陥るという理論)を一時的に回避し、爆発的な増加を遂げたのです。
ある研究では、1776年から1910年の間に見られた中国の人口増加のうち、約19%はトウモロコシの栽培によるものだと試算されています。 この数字は、新大陸作物がいかに人口動態に直接的な影響を与えたかを示しています。清代の人口爆発は、中国社会のあり方を根本から変え、その後の歴史に大きな影響を及ぼすことになりますが、その引き金を引いたのは、遠いアメリカ大陸からやってきた作物たちだったのです。
マルサスモデルとの関連
清代中国における新大陸作物の導入とそれに伴う人口爆発は、経済学者トマス・マルサスが提唱した人口論、いわゆる「マルサスの罠」という観点から非常に興味深い事例を提供します。マルサス理論の核心は、人口は幾何級数的に増加する傾向があるのに対し、食料生産は算術級数的にしか増加しないため、長期的には人口増加が食料供給の限界に突き当たり、飢饉、疫病、戦争といった「積極的抑制」によって人口が調整される、というものです。
18世紀から19世紀にかけての中国は、まさにこのモデルを体現しているかのように見えます。新大陸作物の導入という農業技術の革新は、食料生産能力を飛躍的に向上させました。 これにより、中国は一時的に食料供給の制約から解放され、人口は前例のない規模で増加しました。 しかし、この技術革新がもたらした恩恵は、一人当たりの生活水準の向上、つまり所得の増加にはほとんど結びつかなかったのです。
ある経済史研究では、トウモロコシの普及が1776年から1910年にかけての人口を約19%増加させた一方で、都市化率や実質賃金といった一人当たりの豊かさを示す指標には、顕著な影響を与えなかったことが示されています。 つまり、増えた食料は、生活を豊かにするためではなく、単に増えた人口を養うために消費されてしまったのです。これは、農業技術の進歩が、生活水準の向上ではなく、人口増加に吸収されてしまうという、マルサス的停滞の典型的なパターンです。
なぜこのような結果になったのでしょうか。当時の中国社会の状況が大きく関係しています。ヨーロッパでは、同時期に農業革命が産業革命へと繋がり、一人当たりの所得が増加していく「大分岐」が起きていました。しかし、清代中国では、増えた労働力は安価な労働力として農業や手工業に吸収されるばかりで、資本集約的な技術革新や産業構造の転換には繋がりませんでした。 土地は細分化され、一人当たりの耕地面積は減少し、人々は常に生存ギリギリの生活を強いられるという状況が続きました。
やがて19世紀に入ると、人口増加の圧力は限界に達します。過剰な開墾による環境破壊(森林伐採、土壌流出など)が農地の生産性を低下させ、洪水などの自然災害を頻発させました。 増えすぎた人口は、限られた資源をめぐる競争を激化させ、社会不安を増大させました。そして、アヘン戦争、太平天国の乱といった内憂外患が重なり、清王朝は長い衰退の時代へと突入していきます。
このように、新大陸作物は中国を一時的に飢餓から救い、人口を増大させましたが、それは同時に、より大規模なマルサス的危機への序章でもありました。この歴史は、技術革新が必ずしも社会の持続的な発展に繋がるわけではなく、その成果がどのように分配され、社会構造の変革に結びつくかが重要であることを示唆しています。清代中国の経験は、マルサスモデルの有効性を実証する、壮大な歴史的実験であったと言えるかもしれません。
経済と社会への影響
商品経済の発展と作物の現金化
新大陸作物の普及は、清代中国の自給自足的な農村経済に変化をもたらし、商品経済の発展を促す一因となりました。これらの作物の多くは、農家が自家消費するだけでなく、市場で販売される「商品作物(キャッシュクロップ)」としての性格を強く持っていました。
特にタバコは、その代表格です。嗜好品であるタバコは、食料とは異なり、完全に市場での販売を目的として栽培されました。 16世紀に導入されて以降、喫煙の習慣は急速に広まり、タバコの需要は増大しました。 これに応える形で、福建省、広東省、江西省南部などの地域でタバコ栽培が盛んになり、一大産業へと成長しました。 山東省のある地域では、400人の労働者を雇用し、年間200万両(約75トン)の銀を売り上げる大規模なタバコ生産が行われていたという記録もあります。 このようにして得られた収益は、商人や地主、そして農家に富をもたらし、地域経済を潤しました。
食料作物であったトウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモなども、商品としての側面を持っていました。これらの作物は収量が多く、比較的安価であったため、貧しい人々の主食となりました。 これにより、農家は自家消費分を確保した上で、余剰分を市場で販売することができました。また、より高価で取引される米や小麦の消費を節約し、それらを市場に出して現金収入を得ることも可能になりました。 このようにして、新大陸作物は穀物市場の供給量を増やし、食料価格の安定に貢献すると同時に、農家の現金収入の機会を創出したのです。
ラッカセイも、食用油の原料として重要な商品作物でした。 ラッカセイから採れる油は、人々の食生活に欠かせないものとなり、その栽培は商業的な利益を生み出しました。上海地域で生産されたジャガイモが商品として大量に輸出されていたという記録もあり、地域によっては特定の作物が特産品として生産・取引されるようになっていたことがうかがえます。
18世紀には、市場向けの作物を栽培するために、土地を購入または賃借し、雇われ労働者を使って経営を行う新しいタイプの「経営的地主」も出現しました。 このように、利益を追求する商業的農業の拡大は、土地の所有形態や労働関係にも変化を及ぼし始めました。
新大陸作物の現金化は、農村経済を貨幣経済へとより深く組み込んでいく役割を果たしました。農民は、市場を通じて茶、砂糖、綿製品といった他の商品を購入できるようになり、経済全体の循環が活発化しました。 もちろん、清代の経済は依然として農業が中心であり、その発展には限界がありましたが、新大陸作物が商品経済の裾野を広げ、後の時代に繋がる経済的変化の萌芽を育んだことは間違いありません。
食文化の変容と多様化
新大陸作物の普及は、清代中国の人々の食生活に深く浸透し、その食文化を大きく変容させ、豊かにしました。それまで米、小麦、アワなどを主食としてきた食卓に、新しい食材と調理法が加わったのです。
サツマイモは、その多様な調理法によって、中国全土の食生活に溶け込みました。焼いたり、蒸したり、煮たりするだけでなく、乾燥させて保存食にしたり、粉にして麺や餅を作ったりもしました。 北京の街角では、焼き芋が庶民に愛される冬の味覚となりました。 また、サツマイモの蔓や葉も野菜として食べられました。 貧しい農村では、一年の半分をサツマイモに頼って生活することも珍しくなく、まさに人々の命を支える食料でした。
トウモロコシもまた、主食として、あるいは主食を補う食材として重要な位置を占めるようになりました。湖北省の恩施のような地域では、トウモロコシは米と並ぶ主食となりました。 トウモロコシの粉は、パンや粥、団子などに加工され、日々の食事に取り入れられました。
ジャガイモは、当初は宮廷の珍味でしたが、次第に庶民の食材となり、様々な料理に使われるようになりました。特に、穀物の生産が少ない山岳地帯では、ジャガイモが主食の代わりとなりました。 煮込み料理や炒め物、あるいは粉にして加工するなど、多様な形で食されました。
しかし、食文化に最も劇的な変化をもたらしたのは、トウガラシかもしれません。トウガラシが伝わる以前の中国料理にも、サンショウやショウガといった辛味を持つ香辛料は存在しましたが、トウガラシの持つ燃えるような辛さは、全く新しい味覚でした。 特に、貴州省、四川省、湖南省といった南西部の地域では、トウガラシが料理に不可欠な要素となりました。 四川料理の「麻辣(マーラー)」(サンショウの痺れるような辛さとトウガラシの燃えるような辛さ)という独特の風味は、まさにこの時代に形成されたものです。 湿潤で塩が貴重だったこれらの地域で、安価で食欲を増進させるトウガラシは急速に受け入れられ、人々の味覚の嗜好そのものを変えてしまいました。
ラッカセイは、おやつや料理の材料として、また油の原料として食生活を豊かにしました。
一方で、これらの新しい作物の普及は、社会階層による食文化の違いも生み出しました。例えば、サツマイモは「貧者の食料」「飢饉の時の非常食」というイメージが強く、社会的に地位の低い人々の食べ物と見なされる傾向がありました。 同様に、トウガラシも当初は塩を買えない貧しい人々が使う調味料という階級的な含意を持っていました。
このように、新大陸作物は、中国の伝統的な食文化に新たな彩りを加え、地域ごとの特色をより鮮明にすると同時に、人々の食生活に深く根ざし、その後の中国料理の発展の基礎を築いたのです。
社会構造への長期的影響
新大陸作物の導入が清代中国の社会構造に与えた影響は、長期的かつ多岐にわたります。その最も顕著な影響は、前述した爆発的な人口増加と、それに伴う社会全体の圧力の高まりです。
18世紀を通じて人口が倍増した結果、19世紀に入ると、一人当たりの土地面積は減少し、土地を持たない農民や小作人の数が増加しました。 増えすぎた人口は、限られた土地と資源をめぐる競争を激化させ、社会的な緊張を高めました。多くの人々が、より良い土地や機会を求めて、辺境地へと移住していきました。この人口移動は、国内の民族分布や地域社会のあり方にも変化をもたらしました。
また、人口圧力は環境破壊という深刻な問題を引き起こしました。食料を確保するために、人々は丘陵地や山間部の森林を次々と伐採し、農地へと変えていきました。 この無計画な開墾は、深刻な土壌流出を引き起こし、土地の生産性を低下させました。さらに、森林の保水能力が失われたことで、黄河や長江などの大河で洪水が頻発するようになり、農業生産と人々の生活に甚大な被害をもたらしました。 このように、人口増加を支えたはずの農業生産の拡大が、長期的にはその基盤である自然環境を破壊するという、自己矛盾的な状況に陥っていったのです。
経済的な側面では、商品作物の栽培が拡大し、農村経済が市場経済に組み込まれていく一方で、伝統的な手工業、特に綿織物業などに影響を与えました。例えば、タバコのような収益性の高い作物が、米やサトウキビといった他の作物と土地を奪い合うようになりました。 また、安価な外国製の綿糸が流入すると、国内の綿花栽培や手紡ぎ糸の生産が打撃を受けるといった現象も見られました。
社会不安の増大も、見逃せない影響です。人口過剰、貧困、環境破壊、そして政府の統治能力の低下が重なり、19世紀の中国は大規模な社会的混乱の時代を迎えます。その最大のものが、1850年から1864年にかけて中国を席巻した太平天国の乱です。この反乱は、土地問題や貧困に苦しむ農民の不満を背景に拡大し、清王朝の支配を根底から揺るがしました。新大陸作物がもたらした人口増加が、間接的にこのような大規模な社会反乱の温床を作り出したと見ることもできます。
一方で、新大陸作物は、特定の地域や集団に新たな機会をもたらしました。例えば、山間地に移住した客家の人々は、サツマイモやトウモロコシを栽培することで、新しい環境で生計を立てることに成功しました。 また、トウガラシの普及は、四川や湖南といった地域のアイデンティティ形成にも寄与しました。
総じて言えば、新大陸作物は清代中国に繁栄と危機の両方をもたらしました。食料供給を増やし、人口を支えるという「恩恵」は、同時に人口過剰、環境破壊、社会不安という「呪い」の種を蒔くことにもなったのです。この複雑で両義的な影響こそが、清代後期の中国社会を理解する上で極めて重要な鍵となります。
特定の作物に関する詳細
タバコとアヘン:嗜好品がもたらした光と影
清代中国において、新大陸から伝わった嗜好品であるタバコと、それに続いて社会問題化したアヘンは、経済と社会に複雑な光と影を落としました。
タバコは16世紀にフィリピンを経由して中国に伝わり、明代末期から清代にかけて急速に普及しました。 当初は、気を静めたり、病を癒したりする薬草としての一面も信じられていました。 しかし、その主な用途はすぐに嗜好品としての喫煙へと移り、身分や性別、年齢を問わず、多くの人々の間に広まっていきました。
この需要の高まりを受け、タバコは極めて収益性の高い商品作物となりました。 福建省や広東省などの南部地域を中心に大規模な栽培が行われ、一大産業を形成しました。 タバコ交易は莫大な富を生み出し、商人や地主だけでなく、栽培に携わる農民にも現金収入をもたらしました。 その価値は非常に高く、17世紀の記録では、馬一頭とタバコが交換されるほどだったと伝えられています。
しかし、清朝政府は喫煙の流行に対して警戒感を抱いていました。明朝末期の崇禎帝は喫煙を禁止し、違反者を死刑に処すという厳しい法令を出しました。 清朝の康熙帝も当初はこの政策を引き継ぎ、タバコの所持者にも死刑を適用したとされています。 しかし、喫煙の習慣はあまりにも広く浸透してしまったため、これらの禁止令は実質的に効果を上げることができませんでした。
一方で、嗅ぎタバコ(スナッフ)は、喫煙とは異なり、風邪や頭痛に効く薬と見なされたため、使用が許可されていました。 このため、清代には皇帝から庶民に至るまで嗅ぎタバコの習慣が広まり、それを入れるための精巧な「鼻煙壺(びえんこ)」が数多く作られました。 これらは、玉や磁器、ガラスなどで作られた美術工芸品としても価値の高いものです。
タバコが社会に定着する一方で、18世紀末から19世紀にかけて、より深刻な問題が浮上します。それがアヘンです。イギリスは、中国からの茶や絹の輸入によって生じる貿易赤字を解消するため、植民地インドで生産したアヘンを中国に大量に輸出し始めました。 アヘンは瞬く間に中国社会に広まり、深刻な中毒者を生み出し、健康被害や生産性の低下といった社会問題を引き起こしました。
経済的にも、アヘンの輸入代金として大量の銀が国外に流出したため、銀の価格が高騰し、銀で納税しなければならない農民の負担が増大するなど、経済の混乱を招きました。 当初、アヘンの輸入を黙認していた清朝政府も、事態の深刻さを認識し、1839年、林則徐を広東に派遣してアヘンの厳禁を断行します。 これが引き金となり、イギリスとの間でアヘン戦争(1840年~1842年)が勃発しました。
興味深いことに、アヘンの国内需要が高まるにつれて、皮肉にもアヘンの原料であるケシの国内栽培が拡大し、アヘンの輸入量は減少していきました。 ケシは収益性の高い作物であったため、多くの農民が食料作物の栽培からケシ栽培へと転換しました。
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- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























