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李自成とは わかりやすい世界史用語2245 |
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著作名:
ピアソラ
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李自成とは
17世紀の中国は、明王朝の衰退とそれに続く清王朝の成立という、歴史的な転換期にありました。この激動の時代に、一人の農民反乱指導者が現れ、中国の運命を大きく揺るがしました。その人物こそ、李自成です。彼の名は、明王朝を滅亡に追い込み、短命ながらも自身の王朝を樹立したことで、中国史に深く刻まれています。
明末の動乱と李自成の出自
李自成の生涯を理解するためには、まず彼が生きた17世紀前半の明王朝がどのような状況にあったかを知る必要があります。1368年に成立した明王朝は、2世紀以上にわたって中国を統治してきましたが、16世紀末から17世紀にかけて、その支配体制は深刻な危機に直面していました。
衰退する明王朝
明王朝末期の衰退は、複合的な要因によって引き起こされました。政治的には、万暦帝の長期にわたる統治(1572年-1620年)が、王朝の衰退を決定づけたと言われています。彼は治世の後半、政務を放棄し、官僚間の派閥争いが激化しました。これにより、政府の機能は麻痺し、汚職が蔓延しました。特に、宦官の権力増大は深刻な問題でした。魏忠賢のような強力な宦官は、官僚組織を掌握し、私腹を肥やし、反対派を弾圧するなど、国政を大いに乱しました。
経済的には、国家財政が破綻寸前でした。万暦帝の浪費に加え、北方でのモンゴルや女真族(後の満州族)との防衛戦争、そして朝鮮出兵(文禄・慶長の役)などの対外戦争は、莫大な軍事費を必要とし、国庫を圧迫しました。さらに、17世紀に入ると、いわゆる「小氷期」と呼ばれる寒冷な気候変動が地球規模で発生し、中国もその影響を免れませんでした。この気候変動は、干ばつや洪水、蝗害といった自然災害を頻発させ、農業生産に壊滅的な打撃を与えました。特に、李自成の故郷である陝西省を含む中国北部は、深刻な干ばつと飢饉に繰り返し見舞われました。
社会的には、土地所有の集中が進み、多くの農民が土地を失い、小作農や流民へと転落していました。地主による過酷な搾取に加え、政府は財政難を補うために増税を繰り返しました。特に、「三餉」と呼ばれる遼東防衛費、剿匪費(反乱鎮圧費)、練兵費の徴収は、農民の負担を極限まで増大させました。このような状況下で、飢えに苦しむ人々が生きるために盗賊や反乱軍に身を投じるのは、もはや避けられない流れでした。
李自成の誕生と青年期
李自成(本名は李鴻基)は、1606年9月22日、陝西省延安府米脂県の貧しい農家に生まれました。彼の家は代々農家でしたが、彼の代にはすでに困窮していたと言われています。幼少期については詳しい記録は少ないですが、若い頃は地主のために羊飼いとして働いていたとされます。また、読み書きができたとされていますが、どこで教育を受けたのかは定かではありません。青年期には、農作業のほか、酒屋や鍛冶屋で働いたり、明朝の駅伝制度の下で郵便配達人として働いたりした経験もあったようです。
彼の人生が大きく変わるきっかけとなったのは、駅伝制度の改革でした。財政難に苦しむ明政府は、経費削減のために全国の駅伝を大幅に削減しました。これにより、李自成は職を失ったと言われています。失業した彼は、故郷で些細な罪を犯して投獄されたとも、あるいは高利貸しとのトラブルから殺人を犯して逃亡したとも伝えられていますが、いずれにせよ、彼は法を犯す身となりました。
この時期の李自成の人物像については、相反する記述が残っています。ある記録では、彼は暴力的で喧嘩早い無法者として描かれる一方、別の記録では、貧しい農民のために役人と戦う義賊的な人物として描かれています。このような二面性は、彼の生涯を通じて見られる特徴であり、彼が単なる盗賊から大衆の支持を集める反乱指導者へと変貌していく素地を示唆しているのかもしれません。
1629年頃、李自成は軍隊に身を投じます。当時、陝西省では飢饉が深刻化し、食うに困った農民たちが各地で暴動を起こしていました。政府軍もまた、給料の遅配や食糧不足に苦しんでおり、兵士の士気は著しく低下していました。李自成が所属していた部隊も例外ではなく、ある時、補給を拒否した地方官に反発した兵士たちが反乱を起こし、指揮官を殺害してしまいます。この反乱を主導した李自成は、少数の反乱兵を率いて、当時、明に反旗を翻していた反乱軍の指導者の一人である高迎祥の軍に合流しました。これが、李自成が反乱指導者としての道を歩み始める第一歩でした。
反乱の渦中へ:指導者への道
高迎祥の軍に加わった李自成は、その軍事的な才能をすぐに発揮し始めます。彼は騎馬弓術に長け、勇敢な戦いぶりで頭角を現しました。高迎祥は彼の能力を高く評価し、李自成はすぐにその腹心の一人となりました。高迎祥は「闖王(ちんおう)」という異名で知られており、李自成もその部下として「闖将(ちんしょう)」と呼ばれました。
反乱軍の群雄割拠
1630年代初頭の反乱軍は、統一された組織ではなく、大小さまざまな集団が陝西、山西、河南といった省々を転々としながら、略奪や戦闘を繰り返している状態でした。彼らの指導者たちは互いに競い合い、しばしば仲間割れを起こしていました。このような状況の中で、高迎祥は反乱軍の諸勢力を一つにまとめようと試みます。1635年初頭、河南で13家72営と称される主要な反乱指導者たちが一堂に会する大会議が開かれました。この会議において、李自成は高迎祥の代理人として、対立する指導者たちの間の調停役を務め、重要な役割を果たしたと言われています。この会議の結果、高迎祥が反乱軍全体の盟主として認められ、各指導者の活動範囲が定められました。しかし、この統一は長続きしませんでした。
この時期、李自成は明軍との戦いで経験を積んでいきます。彼は一度、明軍に捕らえられたこともありましたが、賄賂を使うか、あるいは反乱から手を引くという偽りの約束をして解放されたと言われています。解放されるとすぐに、彼は再び略奪活動を再開しました。
1636年、反乱軍にとって大きな転機が訪れます。盟主であった高迎祥が、陝西省中部で明軍に捕らえられ、北京に送られて処刑されてしまったのです。指導者を失った軍は混乱しましたが、李自成は残存兵力を巧みにまとめ上げ、高迎祥の地位と「闖王」の称号を継承しました。
この頃から、数多くいた反乱指導者たちは次第に淘汰され、二人の傑出した人物が反乱運動の主導権を握るようになります。一人は李自成であり、もう一人は張献忠でした。李自成と張献忠は、ともに陝西省の出身で、明末の農民反乱における二大巨頭として知られています。彼らは時に協力し、時に敵対しながら、それぞれの勢力を拡大していきました。例えば、1637年には、李自成と張献忠は共同で四川省に侵攻しましたが、翌1638年には明軍に敗れ、辺境の山岳地帯へと退却しています。
当初、李自成の軍は他の反乱軍と同様、主に略奪によって活動を維持する盗賊集団に近いものでした。しかし、1639年以降、彼の運動は大きな質的変化を遂げます。この変化には、李巌という知識人の存在が大きく関わっていたとされています。李巌は、李自成に対して、単なる略奪を戒め、「均田免賦(土地を等しく分け、税を免除する)」というスローガンを掲げるよう進言しました。この政策は、重税と地主の搾取に苦しむ農民たちの絶大な支持を集めることになります。
李自成は李巌の助言を受け入れ、規律の厳格化に努めました。彼の軍隊は、占領地での略奪を禁じ、富裕な役人や地主から没収した財産や食糧を貧しい人々に分け与えました。「闖王が来れば税は要らぬ」という歌が民衆の間で歌われるようになり、李自成は圧政からの解放者として英雄視されるようになりました。彼の軍隊が近づくと、人々は列をなして歓迎したと伝えられています。このような大衆の支持を背景に、李自成の軍は急速に膨れ上がりました。飢饉から逃れてきた難民たちが次々と彼の軍に加わり、その兵力は数十万人に達したと言われています。
1640年から1641年にかけて、李自成は河南省を席巻します。1641年初頭、彼は河南省の主要都市である洛陽を攻略しました。この時、彼は明の皇族である福王朱常洵を捕らえ、処刑しました。福王の莫大な財産は没収され、反乱軍の貴重な活動資金となりました。
続く1642年、李自成は河南省のもう一つの重要都市である開封を包囲します。数ヶ月にわたる攻防の末、追いつめられた明軍は、黄河の堤防を決壊させるという最終手段に訴えました。この人為的な大洪水は、反乱軍に打撃を与えたものの、それ以上に開封の街と住民に壊滅的な被害をもたらし、30万人以上が死亡したと推定されています。この悲劇は、明王朝の統治能力の欠如と非人道性を象徴する出来事として、人々の心をさらに明朝から離反させました。
開封での挫折にもかかわらず、李自成の勢いは衰えませんでした。明政府は、北方での満州族との戦いに主力を割かれており、国内の反乱を鎮圧する余力がほとんど残っていなかったのです。1643年、李自成は軍を西に向け、湖北省の襄陽を占領しました。ここで彼は「新順王」を名乗ります。そして同年11月、ついに故郷である陝西省の首府、西安を無血で占領しました。
西安を新たな拠点とした李自成は、王朝樹立への準備を着々と進めます。彼はまず、政府役人によって荒らされていた先祖の墓を修復し、父、祖父、曽祖父に皇帝の称号を追贈しました。これは、彼が新たな天命を受けた正統な支配者であることを示すための重要な儀式でした。そして1644年の旧正月、李自成は西安で即位を宣言し、国号を「大順」、元号を「永昌」と定めました。ここに、農民出身の皇帝による新しい王朝、順王朝が誕生したのです。
栄光の頂点:北京占領と明の滅亡
順王朝の建国を宣言した李自成は、次なる目標として明の首都、北京の攻略に乗り出します。彼の軍は、大衆の支持を追い風に、破竹の勢いで東へと進撃しました。
1644年2月、李自成は西安を出発し、北京を目指しました。彼の軍隊は二手に分かれ、北路軍は山西省を経由して大同などを攻略し、南路軍は河南省から河北省へと進みました。進路上にある明の諸都市は、ほとんど抵抗することなく降伏しました。兵士たちの士気は低く、民衆は李自成の軍を解放軍として歓迎したからです。
明の朝廷は、李自成の急速な進撃に対して有効な手を打つことができませんでした。崇禎帝は、北方で満州族の脅威に備えていた精鋭部隊の司令官、呉三桂に北京防衛のための南下を命じましたが、その決断は遅すぎました。
1644年4月23日、李自成率いる数十万の大軍は北京を完全に包囲しました。城内の防衛は手薄で、兵士たちの間には絶望的な空気が漂っていました。そして4月24日、城内の一部の宦官が裏切って城門を開けたため、反乱軍はやすやすと城内に侵入しました。
万策尽きた崇禎帝は、紫禁城の裏にある景山(煤山)に逃れ、一本の木で首を吊って自害しました。時に1644年4月25日の早朝でした。彼の死をもって、1368年から276年間にわたって続いた明王朝は、事実上滅亡しました。
同日、李自成は北京に無血入城を果たしました。当初、彼の軍隊は規律を保ち、市民への略奪行為は控えられていました。李自成は、明の官僚たちを登用し、新政権の基盤を固めようと試みます。しかし、この試みはすぐに破綻します。
北京を占領した李自成と彼の軍隊は、勝利に酔いしれ、急速に堕落していきました。最大の問題は、空になった明の国庫を埋めるための資金調達でした。李自成は、明の高官や富裕な商人たちから財産を没収することを決定します。この財産没収は、次第に拷問を伴う過酷なものへとエスカレートしました。多くの元明朝の役人が拷問によって命を落とし、その非人道的なやり方は、当初は李自成に協力的だった人々をも恐怖に陥れ、人心の離反を招きました。
この拷問政策は、李自成の政権にとって致命的な失策となります。特に、山海関で満州族と対峙していた明の将軍、呉三桂の父親である呉襄も標的とされたことは、重大な結果を招きました。呉襄は拷問され、財産を没収されました。さらに、呉三桂の愛妾であった陳円円が李自成の部下である劉宗敏に奪われたという話も伝わっています。これらの知らせは、呉三桂を激怒させ、彼のその後の行動を決定づけることになります。
李自成は、呉三桂の重要性を認識しており、彼を味方に引き入れるために使者を送っていました。明王朝が滅亡した今、呉三桂が自分に従うのは当然だと考えていたのかもしれません。しかし、北京での残虐行為と家族への仕打ちは、呉三桂に李自成への不信感と敵意を抱かせるのに十分でした。
北京占領からわずか1ヶ月あまりで、李自成政権は北京の官僚や市民の支持を完全に失いました。規律は乱れ、兵士による略奪が横行し、北京の街は混乱に陥りました。農民の解放者として北京に入城した李自成は、今や新たな圧制者と見なされるようになっていたのです。この急速な人心の喪失は、彼の政権が短命に終わる大きな原因となりました。
転落と最期:山海関の戦いと逃避行
北京での栄光は、束の間のものでした。李自成の運命は、北京の北東、万里の長城の東端に位置する要衝・山海関で劇的な転換を迎えます。ここで彼は、生涯最大の敵と対峙することになります。
山海関を守る呉三桂は、進退窮まる状況にありました。背後では李自成が北京を占領し、新たな皇帝を名乗っています。そして目の前には、中国侵攻の機会を虎視眈々と狙う満州族の大軍が迫っていました。当初、呉三桂は李自成に降伏する意向だったとも言われています。しかし、北京での父の受難と愛妾が奪われたという知らせ(後者については伝説的な要素が強いとされています)を受け、彼は李自成と敵対することを決意します。
降伏する相手を失った呉三桂は、驚くべき決断を下します。彼は、これまで敵として戦ってきた満州族に助けを求めたのです。彼は満州族の摂政王ドルゴンに使者を送り、李自成を討伐するための共同戦線を申し入れました。ドルゴンにとって、これは中国全土を手に入れるまたとない好機でした。彼は呉三桂の申し出を受け入れ、ただちに軍を南下させました。
呉三桂の裏切りを知った李自成は、自ら大軍を率いて山海関へと向かいました。彼は呉三桂の軍を打ち破り、北京の支配を確固たるものにしようと考えていました。1644年5月27日、両軍は山海関で激突します。
戦いは当初、数で勝る李自成軍が優勢に進めました。しかし、呉三桂の軍が劣勢に陥ったその時、かねてからの計画通り、ドルゴン率いる満州族の精鋭部隊が戦場に姿を現し、李自成軍の側面に襲いかかりました。満州族の参戦を予期していなかった李自成軍は、この奇襲によって大混乱に陥り、総崩れとなりました。この山海関の戦いは、李自成にとって決定的な敗北でした。
敗走した李自成は、わずかな手勢とともに北京へと逃げ帰りました。彼は、呉三桂と満州族の連合軍がすぐに北京に迫ってくることを悟ります。北京からの撤退を余儀なくされた李自成は、去り際に一つの儀式を執り行いました。1644年6月3日、彼は紫禁城の武英殿で慌ただしく皇帝への即位式を挙げ、正式に順王朝の皇帝となったのです。これは、敗北の中にあっても、自らが天命を受けた皇帝であることを主張するための最後の試みでした。
しかし、その治世はわずか1日しか続きませんでした。翌6月4日、李自成は自ら紫禁城に火を放ち、金銀財宝を略奪した後、残った軍隊を率いて西の故郷、西安へと逃亡を開始しました。そして6月6日、呉三桂に先導されたドルゴンの軍が北京に入城し、清王朝の中国支配が正式に始まったのです。
西安に逃げ帰った李自成でしたが、安息の地はありませんでした。清軍は追撃の手を緩めず、同年10月には李自成討伐の軍を陝西省に派遣しました。清軍の猛攻の前に、李自成軍は次々と敗北を喫します。1645年1月、李自成はついに拠点である西安を放棄せざるを得なくなり、さらに南へと逃避行を続けました。
彼の軍隊は湖北省、江西省、湖南省の境界付近の山岳地帯へと追い詰められていきました。そして1645年の夏、李自成はその生涯を終えます。しかし、彼の最期については、はっきりとした記録が残っておらず、いくつかの異なる説が伝えられています。
一つの説は、食糧を求めて村を襲った際に、自警団の農民たちによって殺害されたというものです。反乱の英雄として台頭した人物が、最後は略奪者として農民の手に掛かって死んだという、皮肉な結末です。また、追いつめられて自害したという説もあります。さらには、生き延びて僧侶となり、穏やかに余生を送ったという伝説的な話も存在します。
いずれにせよ、1645年に李自成が歴史の表舞台から姿を消したことは間違いありません。指導者を失った順の残存勢力は、その後も南明(明の残存勢力)と協力するなどして清に抵抗を続けましたが、数年のうちに完全に鎮圧されました。李自成のライバルであった張献忠も、1647年に四川で清軍に敗れ、殺害されています。こうして、明末の中国を揺るがした大規模な農民反乱は、完全に終焉を迎えました。
李自成の歴史的評価と遺産
李自成の反乱は、明王朝を直接的に滅亡させ、結果として満州族による清王朝の成立を招いたという点で、中国史における極めて重要な出来事でした。彼の歴史的評価は、時代や立場によって大きく異なり、単純な英雄でも悪漢でもない、複雑な人物像を浮かび上がらせます。
清王朝の時代、李自成は王朝の正統性を脅かす「反逆者」「無法者」として、徹底的に否定的な評価を受けました。清の公式な歴史書では、彼は天命を持たない不法な簒奪者として描かれ、その反乱は社会を混乱させただけの破壊行為とされました。これは、新たな支配者である清が、自らの統治の正当性を確立し、民衆の反乱を抑止するための政治的な意図が強く働いた結果です。
しかし、20世紀に入り、清王朝が倒れ、中国が新たな国家建設の道を歩み始めると、李自成の評価は大きく変わります。特に、中国共産党は、彼を封建的な圧政に立ち向かった農民反乱の英雄として再評価しました。彼の掲げた「均田免賦」のスローガンは、土地改革を目指す共産党の理念と重なるものと見なされ、李自成は階級闘争の先駆者として称賛されるようになりました。この視点から、彼の敗北は、農民反乱が持つ歴史的な限界、すなわち明確な政治綱領の欠如や指導者層の腐敗といった弱点によるものと分析されました。
李自成がなぜあれほど急速に支持を集めながら、北京占領後わずか40日あまりで敗走し、最終的に滅亡に至ったのか。その原因は多岐にわたります。
第一に、政治的・軍事的な視野の狭さが挙げられます。李自成は優れた軍事指導者でしたが、その関心は主に目の前の敵を打ち破ることに向けられていました。北京を占領した後、彼は最大の脅威が東の満州族とそれに通じる呉三桂であることを見誤りました。呉三桂を懐柔するための努力を怠り、逆に彼の家族を迫害して敵に回してしまったことは、致命的な戦略ミスでした。
第二に、政権担当能力の欠如です。長年の放浪生活を送ってきた反乱軍の指導者たちは、国家を統治するための知識や経験を持っていませんでした。北京占領後、彼らは勝利に酔いしれて規律を失い、拷問による財産没収という短絡的で残虐な手段に訴えました。これは、彼らが長期的な国家経営のビジョンを持たず、統治者としての正統性を自ら損なってしまったことを示しています。知識人や官僚層をうまく取り込み、安定した政権を樹立することに失敗したのです。
第三に、強力な敵の存在です。李自成が直面した敵は、腐敗しきった明王朝だけではありませんでした。北方で着実に力を蓄え、統一された軍事組織と政治体制を築き上げていた満州族は、極めて手ごわい相手でした。ドルゴンのような優れた指導者に率いられた満州八旗軍は、当時の東アジアで最強の軍事力を誇っていました。呉三桂という経験豊富な漢人将軍とその軍隊が彼らに加わったことで、その力はさらに増強されました。李自成の農民軍が、この強力な連合軍に敗れたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。
李自成の反乱が中国史に残した最も直接的な遺産は、明王朝の滅亡と清王朝の成立を決定づけたことです。もし彼の反乱がなければ、明王朝はもう少し長く存続したかもしれませんし、満州族がこれほど容易に中国全土を支配することもなかったでしょう。彼の行動は、意図せずして、中国史の大きな転換点となったのです。
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