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ハンガリー征服とは わかりやすい世界史用語2330
著作名: ピアソラ
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ハンガリー征服とは

オスマン帝国によるハンガリー征服は、16世紀から17世紀末にかけて、中央ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えた歴史的出来事です。この征服は単一の戦闘や短期間の戦争によって成し遂げられたものではなく、約150年以上にわたる断続的な軍事衝突、政治的駆け引き、そして文化的変容の連続でした。その発端は、オスマン帝国のヨーロッパへの拡大政策と、中世ハンガリー王国の弱体化が交差した点にあります。最終的にハンガリーは三分割され、その中央部は長らくオスマン帝国の直接統治下に置かれることになりました。



征服前夜:ハンガリー王国とオスマン帝国の状況

16世紀初頭、ハンガリー王国は深刻な内的問題を抱えていました。かつてマティアス・コルヴィヌスの下で中央ヨーロッパの強国として栄えた時代は過ぎ去り、王権は弱体化し、大貴族たちの権力闘争が絶えませんでした。ヤゲロー朝のウラースロー2世と、その後継者である若きラヨシュ2世の治世において、中央政府の権威は著しく低下し、国家財政は破綻寸前でした。特に、国の防衛を担うべき軍事力の維持が困難になっていました。かつて強力だった常備軍「黒軍」は解体され、国境の要塞群は適切な維持管理がなされず、兵士への給与も滞りがちでした。このような状況は、南から迫りくるオスマン帝国の脅威に対して、ハンガリーが極めて脆弱であることを意味していました。貴族たちは自らの領地の利益を優先し、国家的な防衛体制の構築に非協力的であり、国内の政治的分裂は深刻の度を増していました。
一方、オスマン帝国はスレイマン1世(在位1520-1566年)の治世下で、その最盛期を迎えていました。彼の父セリム1世が東方のサファヴィー朝やマムルーク朝との戦いに勝利し、帝国の東側と南側を安定させたことで、スレイマン1世はヨーロッパへの拡大に集中することが可能となりました。 彼の目標は、かつてのローマ帝国に匹敵する世界帝国を築くことであり、その野望を実現するためには、中央ヨーロッパへの進出が不可欠でした。ハンガリー王国は、ウィーン、そして神聖ローマ帝国へと至る戦略的な経路上に位置しており、オスマン帝国にとって征服すべき重要な目標と見なされていました。 スレイマン1世は、強力な中央集権体制と、イェニチェリと呼ばれる精鋭歩兵軍団や、シパーヒーと呼ばれる騎兵、そして当時最新鋭の兵器であった大砲を擁する、規律の取れた巨大な軍隊を率いていました。
オスマン帝国のヨーロッパにおける拡大は、14世紀から着実に進行していました。バルカン半島の征服は、1389年のコソボの戦いなどを経て確実なものとなり、1453年のコンスタンティノープル陥落は、その象徴的な出来事でした。 これにより、オスマン帝国はヨーロッパへの兵站基地を確保し、さらなる進軍のための体制を整えました。 15世紀後半には、黒海沿岸とドナウ川下流域を支配下に置き、ハンガリー南方の国境に直接的な圧力をかけるようになっていました。 ハンガリーは、ニコポリスの戦い(1396年)やヴァルナの戦い(1444年)などでオスマン帝国の進撃を食い止めようと試みましたが、その勢いを完全に止めることはできませんでした。
スレイマン1世がスルタンに即位すると、ハンガリーに対する圧力は一層強まります。彼の最初の主要な軍事行動の一つが、ハンガリー王国の南の玄関口と見なされていたベオグラード要塞の攻略でした。 1521年、オスマン軍はベオグラードを包囲し、これを陥落させました。 この勝利は、オスマン帝国にとってハンガリー平原への道を開くものであり、ハンガリーにとっては防衛線の重要な拠点を失うという致命的な打撃でした。ベオグラードの陥落は、来るべき大規模な侵攻の前触れであり、ハンガリー王国の運命を大きく左右する転換点となったのです。国内の政治的混乱と軍事力の低下という内部要因と、強大なオスマン帝国の拡大という外部要因が重なり合い、ハンガリーは破局へと向かっていました。

モハーチの戦いとハンガリー王国の崩壊

ベオグラード陥落から5年後の1526年、スレイマン1世はハンガリー征服を本格化させるため、大規模な軍隊を率いて侵攻を開始しました。 伝えられるところによれば、その兵力は10万人に達したとも言われています。 これに対し、ハンガリー側の兵力は著しく劣っており、国王ラヨシュ2世が動員できたのは、わずか2万5千から3万人程度の軍勢でした。 しかも、トランシルヴァニアの有力貴族であるサポヤイ・ヤーノシュが率いる部隊や、クロアチアからの援軍は戦場に間に合わず、ハンガリー軍は数的に圧倒的な不利な状況で決戦に臨むことになりました。
同年8月29日、両軍はハンガリー南部のモハーチ近郊の平原で激突しました。 ハンガリー軍の指導部は、援軍の到着を待つべきか、即時決戦に打って出るべきかで意見が分かれていましたが、最終的に若き国王ラヨシュ2世は、貴族たちの圧力に屈し、攻撃を命じました。 ハンガリー軍の戦術は、伝統的な重装騎兵の突撃による衝撃力に依存するものでした。 戦いの序盤、ハンガリー騎兵の突撃はオスマン軍の前衛に深刻な損害を与え、一時的に優勢に見えました。 しかし、スレイマン1世はこれを予測しており、周到な計画を立てていました。オスマン軍は、中央に配置したイェニチェリ歩兵部隊と、彼らが装備する火縄銃、そして300門とも言われる圧倒的な数の大砲を効果的に使用しました。 ハンガリー軍の突撃がオスマン軍陣地深くに誘い込まれたところで、大砲が一斉に火を噴き、ハンガリー兵は引き裂かれました。 同時に、オスマン軍の軽快なシパーヒー騎兵が両翼からハンガリー軍を包囲し、退路を断ちました。
この巧妙な包囲殲滅戦術の前に、ハンガリー軍は完全に崩壊しました。 戦いはわずか数時間で決着がつき、ハンガリー側は壊滅的な敗北を喫しました。 この戦いで、国王ラヨシュ2世自身も戦死しました。彼は戦場から退却する途中、重い甲冑を身に着けたまま馬から落ち、近くの小川で溺死したと伝えられています。 国王の死に加え、大司教、司教、そして多くの大貴族を含むハンガリーの指導者層のほとんどがこの戦いで命を落としました。 モハーチの戦いは、単なる軍事的な敗北にとどまらず、中世ハンガリー王国の実質的な終焉を意味する歴史的な大惨事となったのです。
戦後、スレイマン1世はハンガリーの首都ブダに進軍し、9月10日には無抵抗のまま入城しました。 しかし、彼はこの時点ではハンガリーを直接統治下に置かず、ブダを焼き払った後、10万人以上とも言われる捕虜を連れて帝国領へと引き揚げました。 スルタンの撤退後、ハンガリーは深刻な政治的混乱に陥りました。国王ラヨシュ2世に正統な後継者がいなかったため、王位を巡る争いが勃発したのです。 一方の勢力は、トランシルヴァニアの有力貴族であり、モハーチの戦い後に国内で最も権力を持つ人物となったサポヤイ・ヤーノシュを国王に選びました。 もう一方の勢力は、ハプスブルク家のオーストリア大公であり、ラヨシュ2世の義理の兄にあたるフェルディナント1世を支持しました。 こうして、ハンガリーは二人の王を戴く内戦状態に突入し、国家の分裂は決定的となりました。 この内戦が、オスマン帝国とハプスブルク家の両大国によるハンガリーを巡る長い闘争の幕開けとなり、ハンガリーは独立した統一国家としての存在を終えることになったのです。

ハンガリーの三国分裂:オスマン、ハプスブルク、トランシルヴァニア

モハーチの戦い後のハンガリーは、二人の対立する王、サポヤイ・ヤーノシュとハプスブルク家のフェルディナント1世の間で引き裂かれました。 この内戦は、外部勢力であるオスマン帝国とハプスブルク家の介入を招き、ハンガリーの運命をさらに複雑なものにしました。当初、フェルディナント1世の軍はサポヤイの軍を破り、彼をハンガリー東部とトランシルヴァニアへと追い込みました。 劣勢に立たされたサポヤイは、自らの王位を維持するため、オスマン帝国のスレイマン1世に助けを求め、その宗主権を認めるという重大な決断を下しました。これにより、サポヤイはオスマン帝国の属国の王という立場になりました。
サポヤイの要請に応じ、スレイマン1世は1529年に再びハンガリーへ遠征しました。この遠征の主な目的は、ハプスブルク家の勢力をハンガリーから駆逐し、自らの影響下にあるサポヤイの支配を確立することでした。 オスマン軍はブダを奪還し、サポヤイに返還しました。 そして、その勢いのまま、スレイマン1世はハプスブルク家の本拠地であるウィーンへと進軍し、包囲を開始しました。 これは「第一次ウィーン包囲」として知られています。しかし、この包囲は失敗に終わります。オスマン軍は長距離の遠征による兵站の問題、悪天候、そしてウィーン守備隊の頑強な抵抗に直面しました。 特に、遠征開始時期の遅れと豪雨により、大型の攻城砲の多くを道中で放棄せざるを得なかったことが大きな痛手となりました。 最終的にスレイマン1世は包囲を解き、撤退を余儀なくされました。 このウィーンでの失敗は、オスマン帝国の中央ヨーロッパへの進出の限界を示す最初の兆候となりましたが、ハンガリーにおけるオスマン帝国の優位性を揺るがすものではありませんでした。
1540年にサポヤイ・ヤーノシュが亡くなると、ハンガリーの情勢は再び流動化します。彼の息子であるヤーノシュ・ジグモンドはまだ幼児であり、その後見を巡って対立が生じました。 フェルディナント1世はこの機に乗じてハンガリー全土を統一しようと試み、1541年に軍隊を派遣して首都ブダを包囲しました。 これに対し、スレイマン1世は再び自ら軍を率いてハンガリーに介入します。彼はハプスブルク軍を打ち破り、ブダを救援しました。 しかし、スレイマン1世はブダをヤーノシュ・ジグモンド側に返還せず、策略を用いてこれを直接占領しました。 そして、1541年、スルタンはハンガリーの中央部をオスマン帝国の直接統治領とすることを宣言しました。
この1541年のブダ占領によって、ハンガリーの三国分裂は確定的なものとなりました。 国土は以下の三つの部分に分割されたのです。
王領ハンガリー: 西部および北部の地域で、ハプスブルク家のフェルディナント1世とその子孫によって統治されました。 この領域は、神聖ローマ帝国の一部として、オスマン帝国に対する防波堤の役割を担うことになります。首都はポジョニ(現在のブラチスラヴァ)に置かれました。
オスマン帝国領ハンガリー: 首都ブダを含むハンガリー大平原の大部分とトランスダヌビア南部からなる中央部で、オスマン帝国の直接統治下に置かれました。 この地域は「マジャリスタン」と呼ばれ、ブディン州として帝国に編入されました。
トランシルヴァニア公国: 東部に位置し、サポヤイ・ヤーノシュの息子ヤーノシュ・ジグモンドが統治する、オスマン帝国の宗主権下の半独立国家となりました。 トランシルヴァニア公国はオスマン帝国に貢納の義務を負う属国でしたが、一定の内政自治権を保持し、ハンガリーの国家性の存続を象徴する存在となりました。
この三国分裂の状態は、その後約150年間にわたって続くことになります。 ハンガリーの国土は、オスマン帝国とハプスブルク帝国という二大帝国の恒久的な戦場と化し、絶え間ない戦争と破壊に苦しむことになったのです。
オスマン帝国統治下のハンガリー

1541年のブダ占領後、ハンガリーの中央部はオスマン帝国の行政システムに組み込まれました。 この地域は「オスマン帝国領ハンガリー」として知られ、約150年間にわたり帝国の支配下にありました。 統治の中心はブダに置かれ、この地の総督(パシャ)は「ブディン・パシャ」として、ハンガリーにおけるオスマン帝国の最高位の役人でした。
行政区分と軍事体制
オスマン帝国は、征服したハンガリー領を「エヤレト(州)」と呼ばれる行政単位に分割し、エヤレトはさらに「サンジャク(県)」に細分化されました。 当初、ハンガリーの占領地はすべてブディン・エヤレトに属していましたが、後に領土が拡大するにつれて、テメシュヴァール、ジゲトヴァール、カニジャ、エゲル、ヴァラトといった新たなエヤレトが設立されました。 これらの行政区画は、軍事と行政の両方の機能を担っていました。
オスマン帝国領ハンガリーは、ハプスブルク家が支配する王領ハンガリーとの長大な国境線を抱える辺境地帯であったため、その統治は極めて軍事的な性格を帯びていました。 ブダ、ペシュト、セーケシュフェヘールヴァール、エステルゴムといった主要な都市には、強力な要塞が築かれ、多数の兵士が駐屯していました。 16世紀半ばの時点で、ハンガリー領内のオスマン帝国 гарниゾンに所属する兵士の数は1万7千から1万9千人程度であったと推定されています。 これらの兵士は、トルコ人だけでなく、アルバニア人、ギリシャ系イスラム教徒、イスラム教に改宗したバルカン半島のスラブ人など、多様な民族で構成されていました。 また、国境地帯での略奪や偵察を目的とする非正規の軽騎兵「アキンジ」として、南スラブ系の兵士も活動していました。
土地制度と経済
オスマン帝国の土地制度の基本は「ティマール制」でした。征服された土地の大部分は国有地とされ、その徴税権が軍事奉仕(特にシパーヒーと呼ばれる騎兵)の対価として軍人や官僚に分与されました。 この制度により、帝国は広大な領土から安定した税収を得ると同時に、強力な騎兵軍団を維持することができました。ハンガリーの旧貴族層の多くは北の王領ハンガリーへ逃亡し、その所領はオスマンの軍人たちの手に渡りました。
しかし、オスマン帝国領ハンガリーの経済は、絶え間ない戦争のために停滞しました。 国境地帯は常に戦闘の危険にさらされ、農村部はオスマン軍やタタール軍による襲撃で頻繁に荒廃しました。 多くの農民が安全を求めて森や沼沢地へ逃げ込み、広大な土地が耕作放棄されて無人地帯となりました。 この長期にわたる戦争と人口減少は、ハンガリー大平原の経済基盤を著しく損ない、この地域はオスマン帝国にとって財政的な負担となっていきました。 一方で、いくつかの都市では商業活動が続けられ、例えばワインなどはチェコやオーストリア、ポーランドへ輸出されていました。
社会と宗教
16世紀末のオスマン帝国領ハンガリーの人口は、約90万人と推定されており、これは王領ハンガリーの人口の約半分、トランシルヴァニア公国の人口とほぼ同等でした。 この地域には、オスマン帝国の役人や兵士として、5万人から8万人のトルコ人が移住しました。 彼らは主に都市部に居住し、行政の中心を担いました。
オスマン帝国は、イスラム教を国教としていましたが、被征服民に対してイスラム教への改宗を強制することはありませんでした。 キリスト教徒やユダヤ教徒は、「ズィンミー(保護民)」として、人頭税(ジズヤ)を支払うことを条件に、自らの信仰を維持し、一定の自治を認められていました。このため、オスマン帝国支配下のハンガリーでは、カトリック教会だけでなく、宗教改革によって広まったプロテスタント(カルヴァン派やルター派)も存続することができました。 特に、ハプスブルク家が強力に推進した対抗宗教改革の動きが及ばなかったため、オスマン帝国領内ではプロテスタントが勢力を伸ばすという現象も見られました。 都市部にはモスクが建設され、イスラム文化が持ち込まれましたが、ハンガリーの農村部ではキリスト教信仰が根強く残りました。しかし、長年の戦争と統治による人口動態の変化は避けられませんでした。ハンガリー人の人口は激減し、その空白を埋めるように、バルカン半島からセルビア人などの南スラブ系の人々が移住してきました。 この人口構成の変化は、地域の民族的景観を大きく変えることになりました。

絶え間ない戦争:要塞戦と長期消耗戦

ハンガリーが三国に分裂した後、その国土はオスマン帝国とハプスブルク帝国の二大勢力が覇権を争う主戦場となりました。 16世紀半ばから17世紀末に至るまで、大小さまざまな規模の軍事衝突が絶え間なく続きました。この時代の戦争は、大規模な野戦よりも、国境地帯に点在する要塞を巡る攻防戦が中心となる消耗戦の様相を呈していました。

小戦争
1541年のブダ占領後、スレイマン1世はハンガリー全土の征服を目指し、軍事行動を継続しました。1543年には、ハンガリー王国の古都であり戴冠式が行われる重要な都市であったセーケシュフェヘールヴァールと、宗教的中心地であったエステルゴムを相次いで攻略しました。これにより、オスマン帝国はハンガリー中央部の支配をさらに強固なものにしました。
ハプスブルク側も反撃を試みますが、オスマン軍の優位は揺るぎませんでした。1552年、オスマン帝国は二つの大軍をハンガリーに派遣しました。 一方の軍はハンガリー西部と中央部へ、もう一方の軍は東部のバナト地方へ進軍しました。 この遠征で、オスマン軍はソルノクなどの重要な要塞を次々と陥落させました。 しかし、この年の遠征で最も象徴的だったのは、エゲル要塞の包囲戦でした。イシュトヴァーン・ドボーが率いる少数の守備隊は、圧倒的な数のオスマン軍の猛攻に耐え抜き、ついに撃退に成功しました。この英雄的な防衛戦は、ハンガリー人の抵抗精神の象徴として語り継がれています。
この時期の戦争は、特定の講和条約によって完全に終結することはなく、休戦協定が結ばれては破られるという状況が続きました。 大規模な遠征が行われない期間でも、国境地帯ではオスマン軍のアキンジやハプスブルク側の軽騎兵による襲撃や小競り合いが日常的に発生しており、この断続的な紛争状態は「小戦争」と呼ばれています。

ジゲトヴァール包囲戦(1566年)
1566年、高齢となったスレイマン1世は、生涯最後となる大規模な遠征を開始しました。その最終目標はウィーン攻略にあったと考えられています。 しかし、遠征の途中、スルタンはハンガリー南部のジゲトヴァール要塞を攻撃することを決定しました。この要塞の守将ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ(ハンガリー名:ズリーニ・ミクローシュ)が、オスマン軍の補給部隊を襲撃したことへの報復が目的でした。
オスマン軍は10万人を超える大軍でジゲトヴァールを包囲しましたが、ズリンスキ率いるわずか2300人ほどの守備隊は、英雄的な抵抗を続けました。 包囲戦は約1ヶ月に及び、オスマン側は多大な損害を被りました。 1566年9月7日、要塞の陥落が目前に迫る中、ズリンスキは残った兵士たちを率いて城から打って出て、壮絶な最後の突撃を行い全員が戦死しました。
奇しくも、この最後の突撃の直前、スレイマン1世は陣営のテントの中で病によりこの世を去っていました。 大宰相ソコルル・メフメト・パシャは、軍の士気が低下することを恐れ、スルタンの死を48日間にわたって秘匿しました。 ジゲトヴァールは最終的に陥落しましたが、オスマン軍の損害は甚大であり、また指導者であるスルタンを失ったことで、ウィーンへの進軍を断念せざるを得なくなりました。 この戦いは、オスマン帝国にとっては多大な犠牲を払った「ピュロスの勝利」であり、ハプスブルク側にとってはウィーン防衛のための貴重な時間を稼ぐ結果となりました。

長期戦争
スレイマン1世の死後、オスマン帝国とハプスブルク帝国の間には比較的平穏な時期が続きましたが、1593年に再び大規模な戦争が勃発しました。 この戦争は15年戦争(ハンガリーでの呼称)または13年戦争とも呼ばれ、ハンガリー、トランシルヴァニア、ワラキアなどを舞台に、1606年まで続きました。
この戦争では、両軍ともに決定的な勝利を収めることができず、一進一退の攻防が繰り返されました。 オスマン軍はエゲルやカニジャといった重要拠点を占領しましたが、ハプスブルク側もジェールなどを奪還し、頑強に抵抗しました。 戦争は長期化し、双方の財政を著しく圧迫しました。また、この戦争中には、トランシルヴァニア公やワラキア公がオスマン帝国に反旗を翻すなど、情勢は複雑に展開しました。
最終的に、1606年にジトヴァトロク条約が締結され、戦争は終結しました。 この条約は、両帝国間の勢力均衡をある程度反映したものでした。オスマン帝国は戦争中に獲得した領土の多くを維持しましたが、ハプスブルク皇帝を対等な君主として認めざるを得なくなり、これはオスマン帝国の威信に影を落とすものとなりました。 この戦争は、オスマン帝国のヨーロッパにおける拡大が限界に達したことを明確に示し、両帝国の関係が新たな段階に入ったことを象徴する出来事でした。

大トルコ戦争とオスマン帝国の撤退

17世紀後半、ヨーロッパの勢力均衡は大きく変動し始めました。オスマン帝国は内政の混乱や長期にわたる戦争によって徐々に国力を消耗させていたのに対し、ハプスブルク・オーストリアは中央集権化を進め、軍事力を再建していました。この力関係の変化が頂点に達したのが、大トルコ戦争(1683-1699年)です。

第二次ウィーン包囲(1683年)
1683年、大宰相カラ・ムスタファ・パシャに率いられたオスマン帝国の大軍は、再びウィーンを包囲しました。 これは、1529年のスレイマン1世による第一次包囲以来、約150年ぶりの大規模なウィーン攻略作戦でした。オスマン軍はウィーンを完全に包囲し、激しい攻撃を加えましたが、都市の守備隊は頑強に抵抗しました。
包囲が長期化し、ウィーンの陥落が目前に迫ったとき、事態を打開する援軍が現れました。ポーランド王ヤン3世ソビエスキが率いるポーランド・神聖ローマ帝国連合軍がウィーン郊外に到着し、1683年9月12日、オスマン軍に決戦を挑みました。 特に、ヤン3世自らが率いたポーランド重装騎兵(有翼重騎兵)の突撃は、オスマン軍の陣形を打ち破り、壊滅的な打撃を与えました。 オスマン軍は総崩れとなり、大敗を喫して撤退しました。この第二次ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国のヨーロッパにおける攻勢の終わりを告げる決定的な転換点となりました。

神聖同盟の結成とハンガリーの再征服
ウィーンでの勝利を機に、ヨーロッパのキリスト教諸国は反オスマン帝国で結束します。1684年、教皇インノケンティウス11世の提唱により、ハプスブルク帝国、ポーランド・リトアニア共和国、ヴェネツィア共和国からなる「神聖同盟」が結成されました(後にロシアも加わります)。 神聖同盟軍は、オスマン帝国に対する大規模な反攻作戦を開始しました。
戦争の主戦場は、再びハンガリーとなりました。しかし、今回は攻守が逆転していました。ロレーヌ公シャルル5世やサヴォイア公オイゲンといった有能な司令官に率いられた同盟軍は、次々とオスマン側の拠点を攻略していきました。1686年、145年間にわたってオスマン帝国のハンガリー支配の象徴であった首都ブダが、激しい包囲戦の末に同盟軍によって奪還されました。 これは、ハンガリー解放における極めて重要な勝利でした。
翌1687年、同盟軍はかつてハンガリー王国が壊滅的な敗北を喫したモハーチの地で、再びオスマン軍と激突しました(第二次モハーチの戦い)。 この戦いで同盟軍は圧勝し、オスマン軍をハンガリーからさらに後退させました。この勝利を受けて、ハンガリー議会はハプスブルク家による王位の世襲を承認し、ハンガリーがハプスブルク君主国に組み込まれる道筋が確定しました。 同盟軍はその後も進撃を続け、トランシルヴァニアを含むハンガリーのほぼ全土をオスマン帝国の支配から解放しました。

カルロヴィッツ条約とオスマン支配の終焉
神聖同盟の攻勢は続き、1697年にはサヴォイア公オイゲン率いる軍がゼンタの戦いでオスマン軍に決定的な勝利を収めました。 この大敗により、オスマン帝国は和平交渉の席に着かざるを得なくなりました。
イギリスとオランダの仲介により、1698年から和平交渉が開始され、1699年1月26日、カルロヴィッツ(現在のセルビア、スレムスキ・カルロフツィ)で講和条約が調印されました。 カルロヴィッツ条約は、オスマン帝国の歴史における画期的な出来事でした。この条約により、オスマン帝国は初めてヨーロッパにおいて広大な領土を恒久的に喪失することを認めました。
条約の主な内容は以下の通りです。
オスマン帝国は、バナト地方を除くハンガリー全土、トランシルヴァニア、クロアチア、スラヴォニアをハプスブルク帝国に割譲する。
ポドリアをポーランドに返還する。
ダルマチアの大部分とペロポネソス半島(モレア)をヴェネツィアに割譲する。
この条約によって、約150年間にわたったオスマン帝国によるハンガリー支配は公式に終わりを告げました。 ハンガリーの三国分裂状態は解消され、その領土はハプスブルク君主国のもとで再統一されることになりました(ただし、一部の領土は1718年のパッサロヴィッツ条約で最終的に回復されます)。 カルロヴィッツ条約は、中央ヨーロッパにおけるオスマン帝国の覇権の終焉と、ハプスブルク・オーストリアがこの地域の新たな支配勢力として台頭したことを明確に示すものでした。 オスマン帝国の拡大の時代は終わり、長い後退の時代が始まったのです。

オスマン帝国支配がハンガリーに与えた影響

オスマン帝国による約150年間のハンガリー支配は、この国の歴史、社会、文化に深く、そして永続的な影響を及ぼしました。その影響は多岐にわたりますが、特に人口動態の変化、経済の停滞、そして国家のアイデンティティ形成において顕著に見られます。
人口動態の劇的な変化と民族構成の変容
オスマン帝国による征服と、それに続くハプスブルク帝国との絶え間ない戦争は、ハンガリーの人口に壊滅的な打撃を与えました。 国土の中央部が恒久的な戦場と化したことで、多くの村や町が破壊され、広大な地域が荒廃しました。 戦闘による直接的な死者だけでなく、オスマン軍やその同盟者であるクリミア・タタール軍による襲撃は、住民の虐殺や奴隷としての連行を引き起こしました。 多くのハンガリー人農民は、安全を求めて北の王領ハンガリーや西の地域へ、あるいは防御が容易な森や沼沢地へと逃れました。
その結果、かつてはハンガリー人が多数を占めていたハンガリー大平原南部などの地域では、人口が著しく減少し、広範囲にわたる無人地帯が生まれました。 オスマン帝国は、この人口の空白を埋めるため、また国境地帯の防衛力を強化するために、バルカン半島からセルビア人、ボスニア人などの南スラブ系の人々を組織的に移住させました。 これらの新しい入植者は、オスマン帝国の軍事活動を支える役割も担いました。 このような人口移動の結果、ハンガリー南部の民族構成は大きく変化し、多民族が混在する地域へと変貌しました。 この時に形成された民族分布は、後世のこの地域の歴史にも大きな影響を与え続けることになります。

経済の停滞と発展の遅れ
オスマン帝国領ハンガリーは、帝国の辺境防衛線という軍事的な役割を最優先されたため、経済的な発展は大きく阻害されました。 絶え間ない戦争状態は農業生産に深刻な打撃を与え、かつては豊かであった土地も荒廃しました。インフラの整備もほとんど行われず、商業活動は都市部での限定的なものにとどまりました。この地域は、帝国の中心部から富を生み出す属州というよりは、むしろ軍事費を消耗する財政的な負担となっていました。
一方で、ハプスブルク家の支配下にあった王領ハンガリーや、半独立を保ったトランシルヴァニア公国は、西ヨーロッパとの経済的な結びつきを維持し続けました。このため、オスマン支配が終わった17世紀末には、かつてオスマン領だった中央部と、ハプスブルク領だった西部・北部との間に、著しい経済的格差が生じていました。オスマン帝国による統治は、ハンガリーの近代化を遅らせる一因となったと評価されています。

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