|
|
|
|
|
更新日時:
|
|
![]() |
ピサロとは わかりやすい世界史用語2295 |
|
著作名:
ピアソラ
74 views |
|
ピサロとは
フランシスコ・ピサロは、16世紀のスペインのコンキスタドール(征服者)であり、インカ帝国の征服を主導したことで歴史にその名を刻んでいます。彼の生涯は、野心、残虐性、そして新大陸における富と権力への飽くなき探求の物語です。貧しい出自からペルー総督にまで上り詰めた彼の軌跡は、大航海時代のスペイン帝国が持つ光と影を象徴しています。
出自と初期の経歴
フランシスコ・ピサロは、1478年頃、スペインのエストレマドゥーラ地方にあるトルヒーヨという町で生まれました。 彼の正確な生年月日は不明ですが、多くの歴史家は1470年代、おそらく1475年頃であると考えています。 彼の父親は歩兵大佐のゴンサロ・ピサロ・ロドリゲス・デ・アギラールであり、母親はフランシスカ・ゴンサレス・マテオスという召使いでした。 二人は結婚していなかったため、フランシスコは私生児として生まれました。 当時の社会において、私生児であることは大きなハンデであり、彼は正規の教育を受ける機会を与えられませんでした。 そのため、読み書きができなかったと言われています。
幼少期、彼は両親から十分な関心を寄せられることなく、貧しい環境で育ちました。 若い頃は、豚飼いとして生計を立てていたと伝えられています。 これは彼の故郷であるエストレマドゥーラ地方では一般的な仕事でしたが、決して恵まれたものではありませんでした。 このような逆境の中、彼は新大陸からもたらされる富と冒険の物語に強く惹かれるようになります。 クリストファー・コロンブスが新大陸に到達した1492年、ピサロはまだ10代後半でした。 コロンブスの航海がもたらした富と名声の噂は、ピサロのような野心的な若者たちを刺激し、大西洋を渡る決意を固めさせました。
1502年頃、コロンブスの航海から約10年後、ピサロはスペインを離れ、イスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)へと渡りました。 イスパニョーラ島はスペインの新大陸における拠点であり、ピサロはそこで数年間、軍務に就きました。 しかし、彼の野心は単なる兵士で終わることを許しませんでした。 彼は常に新大陸のさらなる探検と、そこに眠るであろう莫大な富を夢見ていました。
1509年、ピサロはアロンソ・デ・オヘーダが率いるウラバーへの遠征に参加します。 この遠征は、南米大陸の沿岸部に植民地を建設することを目的としていました。 彼らはサン・セバスティアン(現在のコロンビア)と名付けた植民地を設立しましたが、この試みは失敗に終わります。 熱帯の病気、飢餓、そして先住民の攻撃により、多くの入植者が命を落としました。 オヘーダが補給のためにイスパニョーラ島へ戻った際、ピサロは残された入植者たちの指揮を任されましたが、最終的には生き残った者たちと共に植民地を放棄せざるを得ませんでした。
その後、ピサロはマルティン・フェルナンデス・デ・エンシソの船団に合流し、1513年にはバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが率いるパナマ地峡横断の探検に参加しました。 この探検において、彼らはヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸から太平洋を発見するという歴史的快挙を成し遂げます。 この経験は、ピサロの探検への情熱をさらに燃え上がらせました。
パナマでは、新しく総督に任命されたペドロ・アリアス・ダビラ(ペドラリアスとしても知られる)の下で、ピサロはエンコメンデロ(先住民の労働力を利用する権利を与えられたスペイン人)となり、牧畜業を営むなどして財産を築きました。 彼は新しく設立されたパナマシティの市長も務め、ある程度の地位と富を手にします。 しかし、彼の野心はパナマでの安定した生活に満足することなく、南方に広がる未知の土地への探検と征服へと向かっていきました。
ペルーへの最初の遠征
1522年、パスクアル・デ・アンダゴヤによる南米西部への最初の探検が行われ、彼が遭遇した原住民から「ビル」と呼ばれる黄金郷の噂がもたらされました。 この話が、後に「ペルー」という名の由来となります。 この黄金郷の伝説に魅了されたピサロは、当時48歳という年齢にもかかわらず、新たな冒険に乗り出すことを決意します。
1524年、ピサロは兵士のディエゴ・デ・アルマグロ、そして聖職者のエルナンド・デ・ルケとパートナーシップを結びます。 彼らは、南米を探検し、征服することを目的とした共同事業「エンプレサ・デル・レバンテ」を立ち上げました。 この協定では、ピサロが遠征隊の指揮を執り、アルマグロが軍事および食料の補給を担当し、ルケが資金調達と追加の物資供給を担うことになっていました。 彼らは、征服によって得られるであろう帝国を平等に分割することに合意しました。
同年11月、ピサロは最初の遠征隊を率いてパナマを出航しました。 遠征隊は約80人の兵士と4頭の馬という小規模なものでした。 アルマグロは、追加の兵員と物資を調達するため、パナマに残りました。 当時のパナマ総督ペドロ・アリアス・ダビラは、当初この探検を承認していました。 しかし、この最初の遠征は困難を極めました。 彼らは現在のコロンビアの海岸沿いを進みましたが、厳しい自然環境、食料不足、そして敵対的な先住民との衝突に苦しめられました。 多くの隊員が命を落とし、ピサロは価値あるものを何一つ発見できないまま、パナマへの帰還を余儀なくされました。 この遠征は完全な失敗に終わりました。
第二の遠征と「栄光の13人」
最初の遠征の失敗にもかかわらず、ピサロの決意は揺らぎませんでした。1526年初頭、彼は第二の遠征を開始します。 今回の遠征隊は、160人の兵士と数頭の馬を2隻の船で運ぶ、より大規模なものでした。 遠征隊は二手に分かれ、熟練の航海士であるバルトロメ・ルイスが部隊の半分を率いて先行しました。
ルイスの船団は赤道を越え、南下を続けました。 そして、エクアドル沖で、大きな三角形の綿帆を張ったバルサ材のいかだに乗ったインカの交易船と遭遇します。 スペイン人たちはそのいかだに乗り込み、金や銀の装飾品、宝石、そして精巧に織られた布地を発見しました。 これは、彼らが追い求めていた豊かな文明が実在する確固たる証拠でした。ルイスは、通訳として育成するために3人のインカ人を捕虜にしました。 彼らは身振り手振りで、金ははるか南の驚異に満ちた土地から来たのだと伝えました。
一方、ピサロと彼の部隊は、コロンビア沿岸の無人島で野営していましたが、食料不足と病気に苦しみ、反乱寸前の状態にありました。 ルイスが吉報と共に帰還したことで、彼らの士気は一時的に回復しました。遠征隊はさらに南下し、エクアドルまで到達します。 しかし、再び困難に直面したため、ピサロと一部の部下はガロ島に残り、アルマグロが補給と増援を求めてパナマへ戻ることになりました。
しかし、パナマでは状況が変わっていました。新しい総督は、これ以上の人命の損失を避けるため、遠征の中止を命令しました。 総督は2隻の船をガロ島に派遣し、ピサロたちにパナマへの帰還を命じます。この時、ピサロのキャリアにおける最も有名な逸話が生まれます。帰還を拒否したピサロは、剣で地面に一本の線を引きました。そして、兵士たちに向かい、「こちら側(パナマ側)には、貧困が待っている。あちら側(ペルー側)には、富と栄光がある。勇敢なるカスティーリャ人よ、各自、己にふさわしい道を選べ」と呼びかけたと伝えられています。
この呼びかけに応じ、ピサロと共に南に残ることを決意したのは、わずか13人の男たちでした。 彼らは後に「ロス・トレセ・デ・ラ・ファマ(栄光の13人)」として知られるようになります。 ピサロと13人の仲間たちは、ルイスが戻ってくるまでの数ヶ月間、ゴルゴナ島という別の島で厳しい環境を耐え忍びました。やがてルイスが船と共に帰還し、彼らは探検を再開します。彼らは南に進み、インカ帝国の国境にあるトゥンベスに到達しました。 そこで彼らは、黄金の噂が単なる伝説ではないことを確信します。 しかし、兵力不足のため、それ以上の進軍は断念し、パナマへ帰還しました。
スペイン国王との交渉とカピトゥラシオン・デ・トレド
二度の遠征でインカ帝国の存在を確信したピサロでしたが、パナマ総督は彼のさらなる探検を許可しませんでした。 そこでピサロは、自らスペインへ赴き、国王に直接支援を請うことを決意します。 1528年の春、彼はパナマを離れ、スペインへと向かいました。
スペインで、ピサロは神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)に謁見する機会を得ます。 彼は、南米で発見した豊かな土地について熱弁をふるい、その征服と植民地化の許可を求めました。 皇帝はピサロの計画に興味を示し、彼にペルー征服の許可を与えるだけでなく、紋章やその他の名誉も授与しました。
1529年7月26日、スペイン王妃イサベル・デ・ポルトゥガルは、皇帝の名において「カピトゥラシオン・デ・トレド」として知られる勅許状に署名しました。 この勅許状により、ピサロは新たに発見された海岸線に沿ったパナマ以南の地域、「ヌエバ・カスティーリャ」州の総督兼総司令官に任命されました。 この勅許は、ピサロに絶大な権限を与えるものでした。しかし、この協定は、彼のパートナーであるアルマグロとの間に深刻な亀裂を生む原因ともなります。ピサロが総督という最高の地位と莫大な利益の大部分を保証されたのに対し、アルマグロにはトゥンベスの要塞の司令官という、はるかに低い地位しか与えられなかったからです。 この不平等な分配は、後の二人の対立の火種となりました。
勅許を得たピサロは、故郷のトルヒーヨに戻り、ゴンサロ、フアン、エルナンドといった彼の兄弟たちを含む遠征隊員を募集しました。 1530年1月、彼らはパナマに向けて出航しました。
第三の遠征とインカ帝国の征服
1530年後半にパナマに戻ったピサロは、第三次遠征の準備を進め、1531年1月にペルーへ向けて出航しました。 当初の遠征隊は、1隻の船に180人の兵士と37頭の馬という、依然として小規模なものでした。 後に2隻の船が合流します。 エルナンド・デ・ソトのような著名な探検家もこの遠征に加わりました。
彼らが1532年にペルーに上陸したとき、インカ帝国は5年前にピサロが見た時とは全く異なる状況にありました。 帝国は、前皇帝ワイナ・カパックの死後、彼の二人の息子、ワスカルとアタワルパの間で勃発した内戦によって荒廃していました。 この内戦は、アタワルパの勝利で終わったばかりでした。 さらに、ヨーロッパ人がもたらした天然痘などの疫病がアンデス地方で猛威をふるい、多くのインカ人が命を落としていました。 ピサロは、この帝国の弱体化と内部分裂という好機を最大限に利用することになります。
ピサロはまず、ペルー北部にスペイン初の入植地サン・ミゲル・デ・ピウラを建設しました。 そして、内陸部へと進軍し、インカ皇帝アタワルパが滞在しているというカハマルカを目指しました。 アタワルパは、ワスカルとの内戦に勝利した後、カハマルカ近郊の温泉で休養していました。 ピサロの軍勢はわずか110人の歩兵、67人の騎兵、3丁の火縄銃、そして2門の小型大砲というものでした。 一方、アタワルパは数万人の大軍を率いていました。
カハマルカの戦いとアタワルパの捕縛
1532年11月15日、ピサロの小規模な軍隊がカハマルカの谷に到着しました。 周囲の丘には、約8万人のインカ兵が陣取っていたと推定されています。 アタワルパは、ピサロの軍勢があまりに小規模であったため、侮っていました。 彼は、この侵入者たちを容易に制圧できると考えていたのです。ピサロは、エルナンド・ピサロとエルナンド・デ・ソトをアタワルパの陣営に派遣し、会見を申し込みました。 アタワルパはこれに応じ、翌日カハマルカの中央広場で会うことに同意しました。
ピサロは、この会見を奇襲の絶好の機会と捉えました。彼は広場の周囲の建物に兵士と大砲を隠し、待ち伏せの準備を整えました。 11月16日、アタワルパは豪華な輿に乗って広場に現れました。 彼には3千から4千人の従者が付き添っていましたが、彼らは非武装か、あるいはチュニックの下に短い棍棒や投石器を隠し持っている程度でした。 アタワルパは、自軍の圧倒的な兵力を背景に、スペイン人たちに脅威を感じていませんでした。
広場の中央で、ピサロの代理として聖職者のビセンテ・デ・バルベルデがアタワルパに近づきました。 通訳のフェリピージョを介して、バルベルデはアタワルパに対し、キリスト教への改宗とスペイン王カール5世への服従を要求しました。 彼はアタワルパに聖書を手渡しましたが、文字を持たない文化の皇帝にとって、それは意味をなさないものでした。 アタワルパは聖書を地面に投げ捨てたと言われています。
これを合図に、ピサロは攻撃を命じました。 隠れていたスペイン兵が一斉に銃撃を開始し、騎兵隊が広場になだれ込みました。 インカの人々にとって、馬や火器、鉄製の武器や鎧は全く未知のものであり、その轟音と破壊力に大きな衝撃を受けました。 混乱状態に陥った非武装のインカ兵は、ほとんど抵抗することができませんでした。 スペイン兵は、アタワルパとその側近たちを標的に虐殺を繰り広げました。 ピサロ自身も馬に乗ってアタワルパに突進し、彼を捕らえようとしました。 この乱戦の中で、ピサロはアタワルパを守ろうとする兵士を退け、自らの手で皇帝を捕虜にしました。 この時、彼は剣で手を負傷したと伝えられています。 この「カハマルカの戦い」と呼ばれる奇襲は、わずかな時間で終わり、数千人のインカ人が殺害された一方で、スペイン側の死者はほとんどいませんでした。
アタワルパの身代金と処刑
捕虜となったアタワルパは、自らの解放と引き換えに莫大な身代金を支払うことを申し出ました。 彼は、自分が幽閉されている部屋を一度は金で、二度は銀で満たすことを約束しました。 ピサロはこの申し出をすぐに受け入れました。
インカ帝国全土から、金銀の財宝がカハマルカへと運び込まれ始めました。 1532年12月20日から宝物の引き渡しが始まり、1533年5月3日までに、ピサロが要求したすべての財宝が集まりました。 集められた金銀は溶かされ、延べ棒にされました。 この身代金の総額は、金が約13,000ポンド、銀はその倍に達したと言われ、歴史上最も高額な身代金の一つとされています。
しかし、ピサロはアタワルパを解放するつもりはありませんでした。 スペイン人たちは、アタワルパの将軍たちが反乱を企てているという噂を恐れていました。 彼らは、アタワルパを生かしておくことは危険すぎると判断しました。 ピサロは、アタワルパに対して見せかけの裁判を開きます。 アタワルパは、スペインに対する反逆、偶像崇拝、そして異母兄弟であるワスカルの殺害など、様々な罪で告発されました。
裁判の結果、アタワルパは有罪とされ、火刑を宣告されました。 インカの信仰では、遺体が焼かれることは来世への道を閉ざすことを意味するため、アタワルパはこの判決を恐れました。 処刑の直前、彼はキリスト教に改宗すれば、より苦痛の少ない絞首刑(ガローテ)に変更するという申し出を受け入れます。 1533年7月26日(いくつかの資料では8月29日)、洗礼を受けたアタワルパは、絞首刑によって処刑されました。 300年続いたインカ帝国の最後の皇帝の死は、帝国の終焉を決定づける出来事となりました。
クスコの占領とリマの建設
アタワルパの死の知らせが広まると、カハマルカを包囲していたインカ軍は撤退し、スペイン軍の前進を阻むものはいなくなりました。 ピサロはインカ帝国の首都クスコへと進軍し、1533年11月15日に大きな抵抗を受けることなくクスコを占領しました。 スペイン人たちは、アタワルパの異母兄弟であるワスカルの弟、マン コ・インカ・ユパンキを新たな傀儡のインカ皇帝として即位させました。
ピサロは、ペルーの新たな首都を建設する場所を探しました。 彼は当初、アンデス山中のハウハを首都に定めましたが、標高が高く、海から遠すぎるため不便であると考えました。 彼の偵察隊は、太平洋に近く、水や木材が豊富で、広大な農地と温暖な気候に恵まれたリマック川の渓谷をより良い場所として報告しました。
1535年1月18日、ピサロはペルーの中央海岸に新たな都市を建設し、「シウダー・デ・ロス・レジェス(王たちの都)」と名付けました。 この都市は後にリマとして知られるようになり、ペルーの首都となりました。 ピサロは、リマの建設を自らの人生で最も重要な功績の一つと考えていました。
しかし、スペインの支配は安泰ではありませんでした。1536年初頭、傀儡皇帝であったマン コ・インカはスペインの支配に反旗を翻し、10万人ともいわれる大軍を率いてクスコを包囲しました。 同時に、他のインカ軍も各地のスペイン人の拠点を攻撃しました。 クスコの包囲は10ヶ月以上続きましたが、スペイン軍は持ちこたえ、最終的にインカ軍の反乱を鎮圧しました。
アルマグロとの対立と内戦
インカ帝国の征服という共通の目標を達成した後、ピサロと彼の長年のパートナーであったディエゴ・デ・アルマグロとの間の対立が表面化します。 対立の主な原因は、征服によって得られた富と領土の分配をめぐる不満でした。 特に、インカ帝国の首都であったクスコの領有権が大きな争点となりました。
スペイン国王によって定められた領地の境界線は曖昧であり、ピサロとアルマグロの両者がクスコは自らの管轄地であると主張しました。 当初、アルマグロはピサロからチリ(当時はヌエバ・トレドと呼ばれた)の探検と征服を任されていました。 1535年、アルマグロはチリへの遠征に出発しますが、この遠征は過酷な自然環境と先住民の抵抗に阻まれ、期待したような富を得ることはできず、失敗に終わりました。
1537年、失意のうちにペルーに戻ったアルマグロは、クスコが自らの領地であると主張し、武力でこれを占拠しました。 この時、クスコにはピサロの兄弟であるエルナンドとゴンサロがいましたが、彼らはアルマグロによって捕らえられました。
この事態に対し、フランシスコ・ピサロは弟のエルナンドを解放させるための交渉を行いましたが、両者の対立は決定的となり、ついにスペイン人同士の内戦へと発展しました。
1538年4月26日、クスコ近郊のラス・サリナス(塩田)で、エルナンド・ピサロが率いるピサロ派の軍と、ロドリゴ・オルゴニェスが率いるアルマグロ派の軍が激突しました。 この「ラス・サリナスの戦い」において、ピサロ軍はマスケット銃の斉射を効果的に用いるなどして、アルマグロ軍を打ち破りました。 アルマグロ軍の指揮官オルゴニェスは戦死し、アルマグロ自身も捕虜となりました。
戦いの後、エルナンド・ピサロは捕らえたアルマグロを裁判にかけ、反逆罪で死刑を宣告しました。1538年7月、ディエゴ・デ・アルマグロはクスコの広場で処刑されました。 長年の盟友であった男の処刑は、ピサロの冷酷さを示す出来事として、多くの人々の反感を買うことになりました。
暗殺と最期
アルマグロの処刑により、ピサロはペルーにおける絶対的な権力者となりました。 しかし、この勝利は長くは続きませんでした。アルマグロの処刑は、彼の息子であるディエゴ・デ・アルマグロ2世(エル・モソ、若者の意)とその支持者たちに深い恨みを残しました。
アルマグロの支持者たちは、ピサロへの復讐の機会をうかがっていました。1541年6月26日、ディエゴ・デ・アルマグロ2世に率いられた約20人の武装した一団が、リマにあるピサロの総督宮殿を襲撃しました。
当時、ピサロは夕食の席についていましたが、襲撃者たちの侵入に気づきました。 彼の客人の多くは逃げ出しましたが、ピサロと彼の異母兄弟であるマルティン・デ・アルカンタラを含む数名は侵入者に立ち向かいました。 ピサロは胸当てを身につける間もなく、壁から剣を引き抜き、襲撃者のうち2人を殺し、もう1人を負傷させたと伝えられています。 しかし、多勢に無勢であり、激しい戦いの末、ピサロは喉を突かれて致命傷を負いました。 彼は床に倒れ、自らの血で十字架を描き、それに口づけをしようとしたところで、襲撃者によってとどめを刺されたと言われています。
ピサロの死後、ディエゴ・デ・アルマグロ2世は一時的にペルーの新たな総督となることを宣言させましたが、彼の支配も長くは続きませんでした。 スペイン本国から派遣された総督によって彼の反乱は鎮圧され、翌年、彼もまた処刑されました。 こうして、ペルーをめぐるコンキスタドールたちの血で血を洗う権力闘争は、スペイン王権による直接統治の強化という形で一つの終結を見ることになります。
遺産
フランシスコ・ピサロの遺産は、非常に複雑で多面的な評価を受けています。彼は、スペイン帝国に広大な領土と莫大な富をもたらした、最も成功したコンキスタドールの一人です。 彼が建設したリマは、現在もペルーの首都として繁栄しています。 彼の行動は、野心、勇気、そして逆境に屈しない不屈の精神の表れとして評価されることもあります。
しかしその一方で、彼の征服活動は、インカ文明の破壊、先住民文化の根絶、そして数え切れないほどの人々の死と搾取をもたらしました。 彼の策略、裏切り、そして残虐性は、征服という行為が内包する暗黒面を象徴しています。 アタワルパの欺瞞に満ちた捕縛と処刑は、その典型例です。 彼の動機は、富と権力への飽くなき欲望であり、その目的のためには手段を選びませんでした。
ピサロの生涯は、16世紀の大航海時代におけるヨーロッパの拡大主義が、新世界の文明や人々に与えた破壊的な影響を物語っています。
このテキストを評価してください。
|
役に立った
|
う~ん・・・
|
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。 |
|
テノチティトランとは わかりやすい世界史用語2294
>
インカ帝国滅亡とは わかりやすい世界史用語2296
>
コロンブスとは わかりやすい世界史用語2269
>
アントウェルペン(アントワープ)とは わかりやすい世界史用語2310
>
エンリケとは わかりやすい世界史用語2254
>
バルトロメウ=ディアスとは わかりやすい世界史用語2256
>
イサベルとは わかりやすい世界史用語2268
>
デイリーランキング
世界史
- 先史時代
- 先史時代
- 西アジア・地中海世界の形成
- 古代オリエント世界
- ギリシア世界
- ヘレニズム世界
- ローマ帝国
- キリスト教の成立と発展
- アジア・アメリカの古代文明
- イラン文明
- インドの古代文明
- 東南アジアの諸文明
- 中国の古典文明(殷・周の成立から秦・漢帝国)
- 古代の南北アメリカ文明
- 東アジア世界の形成と発展
- 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)
- 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)
- 東アジア諸地域の自立化(東アジア、契丹・女真、宋の興亡)
- 内陸アジア世界の形成
- 遊牧民とオアシス民の活動
- トルコ化とイスラーム化の進展
- モンゴル民族の発展
- イスラーム世界の形成と拡大
- イスラーム帝国の成立
- イスラーム世界の発展
- インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
- イスラーム文明の発展
- ヨーロッパ世界の形成と変動
- 西ヨーロッパ世界の成立
- 東ヨーロッパ世界の成立
- 西ヨーロッパ中世世界の変容
- 西ヨーロッパの中世文化
- 諸地域世界の交流
- 陸と海のネットワーク
- 海の道の発展
- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























