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李舜臣とは わかりやすい世界史用語2216
著作名: ピアソラ
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李舜臣とは

李舜臣(1545年4月28日 - 1598年12月16日)は、朝鮮王朝時代の将軍であり、日本の豊臣秀吉による朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)において、日本水軍に対して数々の勝利を収めたことで知られる海軍司令官です。 彼はその卓越した戦略、革新性、そして指導力により、歴史上最も偉大な海軍司令官の一人と評価されています。 彼の最も有名な勝利には、閑山島海戦や鳴梁海戦があり、特に鳴梁海戦では、わずか13隻の艦船で133隻以上からなる日本艦隊を打ち破るという驚異的な成果を上げました。 彼は文禄・慶長の役の最後の主要な海戦である露梁海戦で、銃弾に倒れました。



青年期と初期の軍歴

李舜臣は1545年4月28日、漢城(現在のソウル特別市中区)の乾川洞で生まれました。 彼の家系は徳水李氏であり、父は李貞、母は草渓卞氏の出身でした。 彼の家はかつて名門でしたが、祖父と父が政界で成功を収められなかったため、李舜臣は自らの力でキャリアを切り開く必要がありました。 幼少期、彼は戦争ごっこを好み、常に指導者を務めていました。弓矢を持ち歩き、不正だと感じた相手には大人であっても矢を射る真似をしたと伝えられています。
青年期と思春期は、母方の親戚が住む牙山で過ごしました。 彼は後に朝鮮侵攻期に軍を率いることになる高名な学者、柳成龍と親交を結びました。 1572年、28歳で武科の試験に挑みましたが、騎馬試験中に落馬してしまい、不合格となりました。 伝説によれば、彼は柳の木で自ら添え木をして試験を続けようとしたとされています。 4年後の1576年、32歳という比較的遅い年齢でついに武科に合格し、軍人としてのキャリアを開始しました。
彼の最初の任地は、朝鮮半島の北東国境にある咸鏡道の禿山堡でした。ここで彼は女真族の侵入から国境の集落を守る任務に従事し、その戦略的な手腕と指導力ですぐに頭角を現しました。 1583年には、女真族を巧みにおびき寄せて打ち破り、その首長である武派内を捕らえるという戦功を立てました。 しかし、彼の若くしての輝かしい功績は、上官たちの嫉妬を招くことになります。 特に、後に尚州の戦いで日本の侵攻を防げなかった李逸将軍が主導する陰謀により、彼は戦闘中の逃亡という偽りの罪で告発されました。 このような同僚を陥れる行為は、朝鮮王朝後期の軍や政府では珍しくありませんでした。 李舜臣は官位を剥奪され、投獄され、拷問を受けました。 釈放後、彼は一兵卒として戦うことを許されました。
しかし、彼の卓越した能力はすぐに再評価され、ソウルの訓練院の指揮官や地方の軍事判事などを歴任しました。 彼は上官の友人や親戚であっても、能力がなければ昇進させることを拒むなど、妥協のない誠実さで知られていました。 このような態度は、当時の朝鮮軍では異例であり、多くの敵を作りましたが、彼の将校としての価値が彼を失脚から守りました。 1591年2月、政府高官であり学者でもあった柳成龍の推薦により、彼は全羅左道水軍節度使(全羅左水使)に任命されました。 この時、彼は日本の侵攻を予見し、戦争への備えを始めました。

文禄・慶長の役と李舜臣の役割

1592年、日本の指導者である豊臣秀吉は、明を征服するための足掛かりとして朝鮮半島への侵攻を命じました。 1592年4月13日、小西行長率いる18,700人の兵士を乗せた400隻の輸送船が釜山に到着し、侵攻が開始されました。 日本軍は数週間のうちに158,000人もの兵力を釜山周辺に上陸させ、破竹の勢いで北上し、6月16日には首都漢城を占領しました。
この侵攻に対し、朝鮮側の多くの指揮官は混乱に陥りました。慶尚左水使の朴泓は武器や物資を破壊し、100隻の軍艦を戦闘もせずに自沈させました。 同様に、慶尚右水使の元均も、漁船団を日本艦隊と誤認し、武器や物資を破壊して艦隊を自沈させようとしました。
このような状況の中、全羅左水使であった李舜臣は冷静に行動しました。彼は侵攻以前から戦争の準備を進めており、兵士の訓練、装備や物資の備蓄、そして後に彼の象徴となる亀船の開発に力を注いでいました。 彼の部隊は、朝鮮軍のほとんどがそうではなかったのとは対照的に、戦闘準備が整っていました。
李舜臣は、海からの侵略者が最終的な勝利を得るためには、海を完全に支配しなければならないと考えていました。 彼の戦略の核心は、日本の補給路を断つことにありました。日本軍は陸上では連勝を重ねていましたが、兵士への食料や弾薬の補給は海上輸送に大きく依存していました。 李舜臣は、この海上補給線を攻撃することで、陸上の日本軍を孤立させ、その進撃を阻止しようとしたのです。
彼は海軍司令官としての経験がなかったにもかかわらず、その戦略的才能を存分に発揮しました。 彼は地形、潮流、天候に関する深い知識を駆使し、数的に劣勢な状況でも戦術的な優位性を確保しました。 彼の指導の下、朝鮮水軍は次々と勝利を収め、日本の野望を打ち砕く上で決定的な役割を果たしました。

亀船

李舜臣の成功を語る上で欠かせないのが、彼が改良し、実戦投入した亀船(거북선)です。 亀船は、歴史上最初の鉄甲戦艦の一つと考えられています。 その設計は以前から存在していましたが、李舜臣は部下の支援を得てこれを大幅に改良しました。
亀船の最大の特徴は、その名の通り亀の甲羅のような形をした、湾曲した屋根で覆われた上部甲板です。 この屋根は鉄板で覆われていた可能性があり、敵の砲撃から乗組員を保護しました。 さらに、屋根には鉄の棘が突き出ており、敵兵が船に乗り移るのを防ぎました。 船首には竜の頭が取り付けられ、その口から煙を吐き出して敵を威嚇したり、視界を遮ったりするだけでなく、大砲を発射することもできました。 船体は頑丈な板屋船を基礎としており、側面と船尾からも大砲を発射することが可能でした。 亀船はまた、日本の船に体当たりして破壊するための衝角としても設計されていました。
この革新的な軍艦は、日本の伝統的な白兵戦術に対して絶大な効果を発揮しました。日本の兵士は敵船に乗り移って戦うことを得意としていましたが、亀船の鉄の棘と閉鎖された甲板はそれを不可能にしました。 一方で、亀船は強力な火力を持ち、敵船に接近して一方的に砲撃を加えることができました。李舜臣はこの亀船を戦術の核として巧みに運用し、多くの海戦で勝利を収めました。

1592年の海戦:連戦連勝

日本の侵攻が始まると、李舜臣はすぐに行動を開始しました。彼はそれまで海戦を指揮した経験がありませんでしたが、その戦いは朝鮮にとって希望の光となりました。

玉浦海戦(1592年5月7日)

玉浦海戦は、文禄・慶長の役における最初の主要な海戦であり、李舜臣の初勝利でもあります。 慶尚右水使の元均からの救援要請を受け、李舜臣は自身の艦隊を率いて出撃しました。 巨済島の玉浦港に停泊していた日本の輸送船団を発見した李舜臣の艦隊は、奇襲攻撃を仕掛けました。 当時、日本の兵士の多くは上陸して村で略奪行為を行っており、船はほとんど無人でした。 朝鮮艦隊は、日本の兵士たちが船に戻るのを待ってから一斉に砲撃を開始しました。
李舜臣は、当時一般的だった敵船に乗り移って戦う移乗攻撃ではなく、圧倒的な火力による砲撃戦術を採用しました。 この戦術は功を奏し、朝鮮艦隊は藤堂高虎が率いる日本の船団に大打撃を与え、26隻の船を撃沈しました。 朝鮮側の損害は負傷者1名のみという、一方的な勝利でした。 この勝利は、陸戦で敗北を重ねていた朝鮮にとって、初めての勝利となり、国民の士気を大いに高めました。 また、この戦いをきっかけに、李舜臣は日本の補給船や輸送船を積極的に攻撃するようになり、日本の指導部に不安と緊張をもたらしました。

泗川海戦(1592年5月29日)

玉浦での勝利から約3週間後、李舜臣は泗川湾に日本の艦隊がいるとの報告を受け、元均の艦隊と合流して出撃しました。 この泗川海戦は、李舜臣の第二次作戦の最初の戦いであり、亀船が初めて実戦投入されたことで歴史的に重要です。
泗川に到着した朝鮮艦隊でしたが、干潮のため港に進入することができませんでした。 そこで李舜臣は、意図的に後退するふりをして日本艦隊を広い海上に誘い出す「偽装退却」戦術を用いました。 崖の上から朝鮮艦隊の動きを見ていた日本の指揮官はこの誘いに乗り、12隻から13隻の船で追撃を開始しました。
日本艦隊が十分に沖合に出たところで、朝鮮艦隊は反転し、先頭に亀船を立てて猛攻撃を開始しました。 亀船は日本の船列に突入し、その頑丈な船体と強力な火力で敵船を次々と破壊しました。 突然の激しい攻撃に日本側は混乱し、なすすべもなく撃破されていきました。 この戦いで、追撃してきた日本の軍艦はすべて破壊されました。 しかし、この戦闘中に李舜臣自身も敵の銃弾を左肩に受け、負傷しました。 それでも彼は指揮を続け、朝鮮を圧倒的な勝利に導きました。 この勝利は、亀船の有効性と李舜臣の戦術の巧みさを証明し、日本の補給線にさらなる打撃を与えました。

唐浦海戦(1592年6月2日)

泗川海戦の翌日、休息をとっていた李舜臣の艦隊は、唐浦港に21隻の日本船が停泊しているとの報告を受け、再び出撃しました。 唐浦では、来島通之の部下が沿岸の町で略奪を行っていました。
唐浦港に接近した李舜臣は、日本の旗艦が他の船の中に停泊しているのを見つけました。 これを絶好の機会と捉えた彼は、自らの旗艦(亀船)で日本の旗艦を直接攻撃する作戦をとりました。 亀船は日本の船列を突き破り、日本の旗艦に接近して集中砲火を浴びせ、数分で撃沈しました。 さらに、朝鮮の将軍である権俊が日本の指揮官、来島通之を矢で射殺し、その首級を挙げました。 指揮官を失った日本兵はパニックに陥り、朝鮮軍によって掃討されました。 この戦いでも朝鮮艦隊は停泊していた21隻の日本船すべてを破壊するという完勝を収めました。

閑山島海戦(1592年7月8日)

李舜臣の連勝に危機感を抱いた豊臣秀吉は、脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明といった水軍の主力を投入し、朝鮮水軍の撃滅を命じました。これに対し、李舜臣は全羅右水使の李億祺、慶尚右水使の元均と連合艦隊を編成して対抗しました。
1592年7月8日、李舜臣の連合艦隊は、見乃梁海峡に多数の日本船団が集結しているのを発見しました。 見乃梁は水深が浅く、狭いため、大型の板屋船が自由に活動するには不向きでした。 そこで李舜臣は、再び偽装退却戦術を用いて、日本艦隊を閑山島沖の広い海域へと誘い出すことにしました。 5、6隻の船をおとりとして先行させ、日本艦隊の追撃を誘いました。
脇坂安治率いる日本艦隊はこの誘いに乗り、朝鮮艦隊を追って閑山島沖へと進出しました。 そこで彼らを待ち受けていたのは、李舜臣が考案した「鶴翼の陣」でした。 これは、鶴が翼を広げたようなU字型の陣形で、中央に大型の軍艦を配置し、両翼に軽い船を置いて敵を包み込み、一斉に集中砲火を浴びせるという殲滅戦術でした。
鶴翼の陣に包囲された日本艦隊は、四方八方からの砲撃を受け、逃げ場を失いました。 日本の船は次々と撃沈され、脇坂安治の旗艦も大きな被害を受けました。戦闘は数時間で決着し、日本側は参加した73隻のうち59隻が撃沈または拿捕されるという壊滅的な打撃を受けました。 一方、朝鮮側の損害はごくわずかでした。
この閑山島海戦の勝利は、文禄・慶長の役における朝鮮の最も重要な勝利の一つとされています。 この戦いにより、日本は制海権を完全に失い、水陸並進作戦(陸軍と水軍が連携して進撃する作戦)は頓挫しました。 補給路を脅かされた日本軍は、陸上での進撃を停止せざるを得なくなり、戦況は大きく転換しました。

政治的陰謀と失脚

1592年の輝かしい勝利にもかかわらず、李舜臣の立場は安泰ではありませんでした。彼の成功は、朝廷内の派閥争いや、同僚である元均などの嫉妬を煽る結果となりました。
1593年、李舜臣は閑山島海戦などの功績により、三道水軍統制使(朝鮮水軍の総司令官)に任命されました。 しかし、日本との和平交渉が始まると、彼の存在は和平推進派にとって邪魔なものとなっていきました。
1597年、日本は再び朝鮮への侵攻を開始しました(慶長の役)。この際、日本側は李舜臣を排除するための策略を巡らせました。小西行長は、朝鮮側の内通者を通じて「加藤清正が特定の日に特定の場所を通過する」という偽の情報を流し、李舜臣に出撃してこれを討つように仕向けました。
宣祖王はこれに乗り、李舜臣に出撃を命じましたが、李舜臣はこれが罠であることを見抜き、命令を拒否しました。彼は、その海域が暗礁が多く危険であること、そして情報そのものが疑わしいことを理由に挙げました。しかし、この命令拒否が、彼の政敵に彼を陥れる絶好の口実を与えてしまいました。
元均をはじめとする敵対者たちは、これを王命への反逆であると激しく非難しました。 結局、李舜臣は逮捕され、漢城に連行されて投獄され、死刑宣告寸前まで追い込まれました。 彼は再び拷問を受け、官職をすべて剥奪され、一兵卒として白衣従軍(罪人の身分で軍務に服すること)を命じられました。

漆川梁海戦と朝鮮水軍の壊滅

李舜臣の後任として三道水軍統制使に就任したのは、彼のライバルであった元均でした。 元均は、李舜臣が慎重に築き上げてきた166隻もの大艦隊の指揮を執ることになりました。 しかし、彼は李舜臣とは対照的に、無謀で戦略性に欠ける指揮官でした。
1597年7月、元均は朝廷からの圧力もあり、艦隊を率いて釜山へ向けて出撃しました。 しかし、彼の艦隊は日本の水軍と遭遇すると、小競り合いで30隻の船を失うなど、初戦から苦戦を強いられました。 さらに、加徳島で水を補給しようとした際には、島津義弘率いる部隊の待ち伏せに遭い、さらに損害を出しました。
敗走した元均は、巨済島と漆川島の間の狭い海峡である漆川梁に艦隊を停泊させ、一週間もの間、何の行動も起こさずに留まりました。 彼は旗艦に引きこもり、誰とも会おうとしなかったと伝えられています。 この場所は、日本の城塞からわずか3キロメートルの距離にあり、朝鮮水軍の動向は日本側に筒抜けでした。
1597年8月28日の夜、日本の水軍は500隻の船で漆川梁に停泊中の朝鮮艦隊に奇襲をかけました。 不意を突かれた朝鮮艦隊はなすすべもなく、夜明けまでにはほぼ壊滅状態に陥りました。 この漆川梁海戦で、李舜臣が築き上げた朝鮮水軍は、わずか12隻の船を残して全滅しました。 元均は陸に逃れましたが、その後殺害されたとされています。 この大敗北により、朝鮮は制海権を完全に失い、再び国家存亡の危機に立たされました。

復帰と鳴梁海戦の奇跡

漆川梁での壊滅的な敗北の報を受け、朝鮮朝廷はパニックに陥りました。宣祖王と廷臣たちは、もはや水軍の再建は不可能と判断し、残った船を放棄して陸軍に合流するよう命じようとしました。 しかし、このような絶望的な状況の中で、彼らは唯一の希望である李舜臣を再び起用することを決定しました。
李舜臣は、一兵卒から再び三道水軍統制使に任命されました。 彼が引き継いだのは、元均の敗戦から裴楔(ペ・ソル)が辛うじて脱出させた12隻の船と、後に合流した1隻を加えた、わずか13隻の板屋船でした。 これに対して、日本水軍は朝鮮の南西岸を制圧し、陸軍と合流して首都漢城へ進撃するため、300隻以上の大船団を組織していました。
王と朝廷が水軍の放棄を促す中、李舜臣は「臣にはまだ12隻の船があります(今臣戦船尚有十二)」という有名な言葉で、水軍の重要性を訴え、戦い続ける決意を表明しました。 彼は、水軍が存在する限り、敵は西海岸を自由に航行できず、首都への直接的な脅威を防ぐことができると主張しました。 彼の固い決意に、王もついに海での戦闘継続を許可しました。
李舜臣は、この圧倒的な戦力差を覆すため、戦場として鳴梁海峡を選びました。 鳴梁海峡は、珍島と本土の間に位置する非常に狭い海峡で、その名は「鳴く梁」を意味するほど潮流が速く、激しいことで知られています。 彼はこの海峡の特異な地形と、予測可能な潮流の変化を利用することを考えました。海峡が狭いため、日本の大船団は一度に少数の船しか進入できず、その大軍の利点を活かせません。
1597年10月26日、藤堂高虎らが率いる日本の艦隊が鳴梁海峡に進入してきました。 少なくとも133隻の軍艦と、それを支援する多数の輸送船からなる大船団でした。 戦いの序盤、朝鮮の艦長たちは敵の圧倒的な数に恐怖を覚え、後退してしまいました。一時は李舜臣の旗艦だけが敵中に孤立する状況となりました。 しかし、李舜臣は一歩も引かず、単独で敵艦隊に立ち向かい、砲撃を続けました。彼の不屈の姿に鼓舞され、他の艦長たちも勇気を取り戻し、次々と戦闘に加わりました。
李舜臣は、狭い海峡で密集する日本艦隊に集中砲火を浴びせました。そして、戦いが最高潮に達したとき、海峡の潮流が逆転し始めました。 この流れの変化は、朝鮮側にとっては追い風となり、日本側にとっては逆風となりました。潮流に逆らえなくなった日本の船は互いに衝突し、操船不能に陥りました。 この混乱に乗じて、朝鮮艦隊はさらに激しい攻撃を加えました。
この鳴梁海戦の結果、日本側は31隻以上の船が撃沈または大破し、指揮官の一人である来島通総が戦死するなど、甚大な被害を受けました。 一方、朝鮮側は一隻の船も失うことなく、奇跡的な勝利を収めました。
この勝利は、戦術的な成功にとどまらず、戦略的にも極めて重要な意味を持ちました。 日本の水陸並進作戦は完全に頓挫し、西海岸への進出と補給路の確保という計画は破綻しました。 この敗北により、陸上の日本軍は孤立し、南岸地域への撤退を余儀なくされました。 鳴梁海戦は、朝鮮を滅亡の危機から救い、戦争の流れを再び朝鮮側に引き寄せる決定的な転換点となったのです。

露梁海戦と最期

鳴梁海戦の勝利後、李舜臣は艦隊の再建と兵力の増強に努めました。彼の勝利は、明朝にも朝鮮水軍の健在を確信させ、明の水軍が朝鮮への援軍として派遣されるきっかけとなりました。
1598年8月、豊臣秀吉が死去すると、朝鮮に駐留していた日本軍に撤退命令が下されました。 日本の諸将は、それぞれの領地へ帰還するため、急いで撤退を開始しました。 しかし、李舜臣と明の提督である陳璘は、このまま無事に日本軍を帰すつもりはありませんでした。特に李舜臣は、7年間にわたる戦争で祖国が受けた被害への報復として、撤退する日本軍に最大限の打撃を与えることを固く決意していました。
小西行長が順天の倭城に籠城し、撤退しようとしていることを知った李舜臣と陳璘の連合艦隊は、これを海上封鎖しました。 追い詰められた小西行長は、島津義弘、立花宗茂、高橋統増、宗義智らが率いる救援艦隊に助けを求めました。 この救援艦隊は、小西行長を救出し、安全に撤退させるため、露梁海峡へと向かいました。
1598年12月16日の未明、露梁海峡で朝鮮・明連合艦隊と島津義弘率いる日本艦隊との間で、文禄・慶長の役最後の大規模な海戦が始まりました。 連合艦隊は約150隻(朝鮮水軍82隻、明水軍約70隻)、対する日本艦隊は約500隻でしたが、その多くは輸送船でした。
李舜臣は、斥候や地元の漁師からの情報で、島津艦隊の動きを正確に把握していました。 連合艦隊は待ち伏せ、海峡に進入してきた日本艦隊に奇襲攻撃を仕掛けました。 激しい戦闘が繰り広げられ、連合艦隊の優れた戦術と火力により、日本艦隊は大きな損害を受けました。
戦いが最高潮に達したとき、李舜臣は自ら太鼓を叩いて兵士を鼓舞し、追撃の先頭に立っていました。その最中、彼は敵の鉄砲玉に左脇下を撃ち抜かれ、致命傷を負いました。 彼は自らの死期を悟り、側にいた長男の李薈と甥の李莞に「戦いは今まさに酣である。私の死を知らせるな(戦方急 慎勿言我死)」と言い遺し、息を引き取りました。 これは、自らの死が兵士たちの士気を下げ、戦況に悪影響を及ぼすことを懸念しての最後の命令でした。
彼の息子と甥は、悲しみをこらえながら提督の遺体を船室に運び、戦闘が終わるまでその死を隠し通しました。 甥の李莞は叔父の鎧を身につけ、代わりに軍鼓を叩き続け、追撃を奨励しました。
この露梁海戦で、連合艦隊は日本の船約200隻を撃沈し、100隻を拿捕するという大勝利を収めました。 島津義弘の艦隊は壊滅的な打撃を受け、辛うじて釜山へと退却しました。 この戦いにより、日本の朝鮮からの撤退は決定的となり、7年間にわたる長き戦乱は終結しました。しかし、朝鮮は勝利の代償として、最も偉大な英雄を失うことになったのです。

遺産と評価

李舜臣は、その生涯を通じて、卓越した軍事的才能だけでなく、高い人格でも知られていました。 彼は兵士たちの命を重んじ、その家族にも敬意を払いました。戦争の苦難に苦しむ人々に対する彼の優しさと配慮は、多くの民衆から支持を集めました。 彼は自ら模範を示して部下を導き、彼らの潜在能力を最大限に引き出す指導力を発揮しました。
彼の軍事的功績は、世界史的に見ても高く評価されています。彼は公式に記録されている少なくとも23回の海戦すべてで勝利を収め、一度も敗北しませんでした。 その多くは、数的に圧倒的に不利で、物資も不足している状況での勝利でした。 彼は海戦の歴史を持たないにもかかわらず、海戦があるべき姿で戦われれば決定的な結果を生むことを示し、最終的には国を守るために最高の犠牲を払いました。
彼の戦略と戦術は、後世の海軍軍人からも尊敬を集めています。日本の東郷平八郎提督は、日露戦争の日本海海戦で勝利した後、自身をネルソン提督や李舜臣と比較するスピーチに対して、「私をネルソンと比較するのは構わないが、李舜臣に比較するのはやめてほしい。彼は誰と比較することもできないほど偉大だ」と述べ、李舜臣を自身の上官と見なしていたと伝えられています。
李舜臣が残した『乱中日記』は、戦争中の彼の日々の記録であり、彼の戦略、苦悩、そして人間性が克明に記されています。
李舜臣は、単なる軍事英雄にとどまらず、逆境にあっても決して屈しない不屈の精神、国への揺るぎない忠誠心、そして民衆への深い愛情を持った人物として、朝鮮半島の歴史において最も尊敬される人物の一人です。 彼の生涯は、危機に瀕した国家を救った救国の英雄として、語り継がれています。

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