manapedia
更新日時:
コロンブスとは わかりやすい世界史用語2269
著作名: ピアソラ
161 views
コロンブスとは

クリストファー=コロンブスは、大航海時代の幕開けを象徴する人物として、世界史にその名を深く刻んでいます。彼の航海は、ヨーロッパとアメリカ大陸の恒久的な接触をもたらし、その後の世界のあり方を根底から変えました。しかし、その功績は輝かしい「発見」の物語として語られる一方で、植民地主義の暴力性や先住民文化の破壊といった暗い側面も伴っていました。



ジェノヴァでの生い立ちと航海への目覚め(1451年~1476年)

クリストファー=コロンブスは、1451年の8月から10月の間に、当時強力な海運力と商業ネットワークを誇ったジェノヴァ共和国で生を受けました。彼の父親はドメニコ・コロンボといい、ジェノヴァとサヴォーナで羊毛の梳き手や織物職人として生計を立てる中流階級の職人でした。母親はスザンナ・フォンタナロッサで、彼女の父親もまた羊毛商人でした。クリストファーは長男であり、彼にはバルトロメオ、ジョヴァンニ・ペッレグリーノ、ジャコモ(スペイン語名ディエゴ)という3人の弟と、ビアンキネッタという姉妹がいました。
彼の幼少期に関する記録は断片的ですが、ジェノヴァという都市の環境が彼に与えた影響は計り知れません。ジェノヴァはヴェネツィアと並ぶ海洋国家であり、その港には地中海のあらゆる場所から商品や情報、そして様々な文化背景を持つ人々が集まっていました。幼いコロンブスは、港に響き渡る船乗りたちの異国の話や、遠い土地から運ばれてくる香辛料の匂いに囲まれて育ったことでしょう。彼は正式な高等教育は受けていませんでしたが、実践的な知識を重んじる商人や職人の家庭で育ち、読み書きや基本的な計算能力は身につけていたと考えられます。
父親の家業である羊毛取引を手伝う傍ら、彼は早くから海に魅了されていました。彼自身が後に記したところによれば、14歳の時に初めて船乗りとして海に出たとされています。10代の頃には、ジェノヴァの商船に乗って地中海やエーゲ海を航海し、商業活動に従事しました。これらの航海は、彼に実践的な航海術、船の操縦方法、そして地中海の風や海流に関する知識を授けました。特に、1474年から1475年にかけてジェノヴァの商船団の一員として、東地中海のキオス島へ航海した経験は重要です。キオス島は当時ジェノヴァの植民地であり、乳香の産地として知られていました。この航海は、彼がアジアの富に最も近づいた経験であり、東方への関心を一層かき立てるきっかけとなった可能性があります。
1470年代半ば、コロンブスの人生は大きな転機を迎えます。1476年、彼はジェノヴァの船団の一員としてフランドル地方へ向かう大西洋航海の途上、ポルトガル南西部のサン・ヴィセンテ岬沖でフランスとポルトガルの私掠船団による激しい海戦に巻き込まれました。彼の乗っていた船は炎上し、彼は燃え盛る船から海へ飛び込みました。壊れた船の残骸につかまりながら、彼は驚異的な体力と精神力で約10キロメートルを泳ぎきり、ポルトガルのラゴスの海岸に漂着しました。この九死に一生を得る経験は、彼の運命を大きく変えることになります。

ポルトガルでの飛躍と「西への航海」計画の形成(1477年~1485年)

命からがらポルトガルにたどり着いたコロンブスは、首都リスボンへと向かいました。当時、リスボンはヨーロッパにおける海洋探検の最前線であり、エンリケ航海王子以来の国家的な事業として、アフリカ西岸の探検とインドへの東回り航路開拓が精力的に進められていました。この活気あふれる都市で、コロンブスは弟のバルトロメオと再会します。バルトロメオは地図製作者としてリスボンで工房を構えており、コロンブスもそこで働き始めました。
地図製作の仕事は、彼に最新の地理学の知識と、世界各地から集まる航海者たちの生の情報に触れる絶好の機会を与えました。彼は、アゾレス諸島やマデイラ諸島から帰還した船乗りたちが語る、西の海に浮かぶ未知の島々の噂や、西風に乗って海岸に流れ着く奇妙な植物や木彫りの道具の話に熱心に耳を傾けました。これらの断片的な情報は、彼の心の中に「大西洋の向こうには何があるのか」という壮大な問いを芽生えさせました。
この時期、コロンブスは独学で天文学、地理学、歴史、そして聖書を熱心に学びました。特に彼に大きな影響を与えたのは、フィレンツェの地理学者パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリの理論でした。トスカネッリは、地球が球体であるならば、ヨーロッパから西へ航海すればアジアに到達できるはずだと主張し、その距離を比較的短く見積もっていました。コロンブスはトスカネッリと書簡を交わし、その理論を自身の計画の科学的根拠としました。また、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に描かれた黄金の国ジパング(日本)やカタイ(中国)の記述は、彼の想像力を掻き立て、西回り航路の先に待つ莫大な富への欲望を燃え上がらせました。
コロンブスは、古代ギリシャの学者プトレマイオスの地理学や、中世アラビアの天文学者アル=ファルガーニーの著作からも知識を吸収しましたが、彼は意図的に地球の円周を実際よりも小さく見積もる計算を採用しました。彼は、ユーラシア大陸の東西の広がりを過大評価し、大西洋の幅を極端に狭く見積もることで、西回りでのアジア到達が数週間の航海で可能であるという、楽観的すぎる結論を導き出しました。この計算の誤りは、彼の計画が多くの専門家から非現実的だと見なされる原因となりましたが、同時に彼自身に不可能を可能にできるという強い確信を与えることにもなりました。
ポルトガル滞在中、コロンブスは自身の社会的地位も向上させました。1479年頃、彼はポルト・サント島の総督の娘であった貴族の女性、フィリパ・モニス・ペレストレーリョと結婚します。この結婚により、彼はポルトガルの貴族社会との接点を得るとともに、義父が残した海図や航海日誌といった貴重な資料を手に入れることができました。1480年頃には、長男のディエゴが生まれています。
彼はポルトガルの船乗りとしても活動を続け、1482年から1485年にかけては、アフリカ西岸のギニア沿岸での貿易航海に参加しました。彼はポルトガルの拠点であったサン・ジョルジェ・ダ・ミナ(現在のガーナのエルミナ城)まで航海し、金や象牙、奴隷の取引を目の当たりにしました。この経験は、彼に大西洋の風系、特に貿易風と偏西風の存在と利用法に関する貴重な知識をもたらしました。この知識は、後の大西洋横断航海の成功に不可欠な要素となります。

支援者を求める苦難の道(1485年~1492年)

豊富な知識と経験を基に、「西への航海」と名付けた計画を具体化したコロンブスは、その実現に向けて王室の支援を求める活動を開始します。1484年、彼はポルトガル王ジョアン2世に謁見し、西回りでのアジア到達計画を熱心に説きました。しかし、ジョアン2世の諮問委員会は、コロンブスの計算が非現実的であると判断しました。さらに、ポルトガルはバルトロメウ・ディアス率いる探検隊によるアフリカ南端回航に国家の資源を集中させており、不確実な西回り航路に投資する余裕はありませんでした。1488年にディアスが喜望峰を発見し、インドへの東回り航路の可能性が確実になると、ポルトガルはコロンブスの計画に完全に関心を失いました。
ポルトガルでの失敗の後、コロンブスは妻フィリパの死をきっかけに、幼い息子ディエゴを連れてスペインのカスティーリャ王国へと渡ります。1486年、彼はスペインの共同統治者であるイサベル1世女王とフェルナンド2世王に初めて謁見する機会を得ました。しかし、当時のスペインは、イベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝グラナダ王国との戦争(レコンキスタの最終段階)の真っ只中にあり、国家の財政と関心はすべてこの戦争に注がれていました。
女王の聴罪司祭であったエルナンド・デ・タラベラが率いる専門家委員会がコロンブスの計画を審査しましたが、ポルトガルと同様に、その距離計算の誤りを指摘し、実現不可能との結論を下しました。しかし、コロンブスは諦めませんでした。彼はその後約7年間にわたり、スペインの宮廷に留まり、有力な貴族や聖職者たちに働きかけ続けました。この間、彼は経済的に困窮し、地図製作や書籍販売で生計を立てながら、粘り強く機会を待ちました。この時期に、彼はコルドバでベアトリス・エンリケス・デ・アラーナという女性と出会い、彼女との間に次男のフェルナンドが生まれています。
コロンブスは、弟のバルトロメオをイングランド王ヘンリー7世やフランス王シャルル8世の宮廷へ派遣し、支援を求めさせましたが、いずれも成果は上がりませんでした。絶望しかけたコロンブスがフランスへ渡ろうと決意した矢先、事態は劇的に好転します。
1492年1月、グラナダが陥落し、約800年にわたるレコンキスタが終結しました。これにより、スペイン王室は新たな事業に目を向ける余裕ができました。コロンブスの計画を支持していた数少ない有力者の一人、王室の財務官ルイス・デ・サンタンヘルが、イサベル女王を強力に説得しました。サンタンヘルは、この計画が成功した場合の利益の大きさと、失敗した場合の損失の小ささを強調し、ポルトガルに先を越される危険性を訴えました。彼の情熱的な説得が功を奏し、イサベル女王はついに計画の承認を決断しました。
1492年4月17日、グラナダ近郊のサンタフェで、コロンブスとスペイン王室との間に歴史的な契約、通称「サンタフェ協約」が結ばれました。この協約で、コロンブスは以下の破格の条件を約束されました。
彼が発見するすべての島と大陸における「大洋提督」の世襲の地位。
これらの土地の副王および総督に任命される権利。
これらの土地から得られるすべての収益(金、銀、香辛料など)の10パーセントを永久に受け取る権利。
現地の貿易に関する紛争を裁く司法権。
これらの条件は、一介の外国人に与えるものとしては前例のないほど寛大なものであり、コロンブスの強い野心と交渉力を物語っています。資金の大部分は王室の私財と、サンタンヘルをはじめとする民間投資家によって賄われ、コロンブス自身も一部を出資しました。こうして、長年の夢であった西への航海が、ついに現実のものとなろうとしていました。

第1回航海:新世界との遭遇(1492年~1493年)

1492年8月3日の早朝、コロンブスは3隻の船団を率いて、スペイン南西部の港町パロス・デ・ラ・フロンテーラを出航しました。船団は、コロンブスが座乗する旗艦で、フアン・デ・ラ・コサが所有・船長を務める比較的大型のナオ船(カラック船)「サンタ・マリア号」、そしてマルティン・アロンソ・ピンソンが船長の「ピンタ号」と、その弟ビセンテ・ヤーニェス・ピンソンが船長の「ニーニャ号」という2隻の軽快なキャラベル船で構成されていました。乗組員は約90名で、その多くはアンダルシア地方出身の経験豊富な船乗りたちでした。
船団はまず、補給と最終準備のためにカナリア諸島へ向かいました。グラン・カナリア島でピンタ号の舵を修理し、ラ・ゴメラ島で食料と水を積み込んだ後、1492年9月6日、彼らは既知の世界の西端から、未知の大海原へと乗り出しました。
コロンブスは、大西洋の風系に関する知識を巧みに利用しました。彼はカナリア諸島から南西に進路を取り、東から西へと恒常的に吹く貿易風を捉えました。これにより、船団は順調に西へと進むことができましたが、何週間も陸地が見えない航海は、乗組員たちの間に次第に不安と不満を募らせていきました。彼らは、このままでは二度と故郷に帰れないのではないかと恐れました。コロンブスは、航海距離を実際よりも短く記録した偽の航海日誌を乗組員に見せることで彼らを安心させようと試み、また黄金の国が近いことを繰り返し説いて士気を鼓舞しました。
10月に入ると、鳥の群れや、明らかに陸地から流れてきたと思われる植物の枝など、陸地が近いことを示す兆候が現れ始めました。そして1492年10月12日の未明、ピンタ号の見張り番であったロドリゴ・デ・トリアナが、ついに月光に照らされた陸地を発見しました。この瞬間は、ヨーロッパとアメリカ大陸の歴史が交差し、世界が永遠に変わった瞬間として記憶されています。
コロンブスが上陸したのは、現在バハマ諸島に属すると考えられている島でした。彼はこの島に「聖なる救世主」を意味する「サン・サルバドル」と名付けました。島にはタイノ族と呼ばれる人々が暮らしており、コロンブスは彼らを、自分が到達したと信じていたインドの住民、すなわち「インディアン」と呼びました。彼は王の旗を立て、スペイン王室の名において島の領有を宣言しました。タイノ族の人々は、見たこともない大きな船と奇妙な服装の来訪者たちに驚きながらも、友好的に彼らを迎え、オウムや綿、槍などをガラス玉や鈴と交換しました。コロンブスは彼らが身につけていたわずかな金の装飾品に目をつけ、金の産地について執拗に尋ねました。
その後、コロンブスは金の産地を求めて南へと航海を続け、現在のキューバ北東岸に到達しました。彼はその広大さから、ここがマルコ・ポーロの記述にあるカタイ(中国)の一部であると信じ込みました。さらに東へ進み、彼は「ラ・イスパニョーラ(スペインの島)」と名付けた、現在のイスパニョーラ島(ハイチとドミニカ共和国がある島)に到着しました。
1492年のクリスマスイブの夜、イスパニョーラ島沖で悲劇が起こります。サンタ・マリア号がサンゴ礁に乗り上げ、座礁してしまったのです。船は修復不可能なほど損傷し、コロンブスは船の木材を利用して、この地に砦を築くことを決意しました。地元のカシケ(首長)であるグアカナガリの協力を得て、彼は「ラ・ナビダッド(クリスマス)」と名付けたヨーロッパ人初の入植地を建設し、39人の部下を残して金の探索と地域の調査を命じました。
残されたニーニャ号に乗り移ったコロンブスは、スペインへの帰路につきました。途中、行方が分からなくなっていたピンタ号と再会し、2隻で大西洋を東へと向かいました。帰りの航海は、偏西風を利用しましたが、激しい嵐に何度も見舞われ、船団は離れ離れになりました。コロンブスが乗るニーニャ号は、1493年2月にポルトガル領のアゾレス諸島に漂着し、その後さらに嵐に遭ってリスボンへの寄港を余儀なくされました。リスボンで彼はポルトガル王ジョアン2世に謁見し、自身の発見を報告しましたが、王はそれがポルトガルの権益を侵害するものではないかと警戒しました。
ようやく1493年3月15日、コロンブスは出発地のパロス港に帰還しました。彼の帰還はスペインに熱狂的な歓迎をもって迎えられました。彼はバルセロナの宮廷に赴き、イサベル女王とフェルナンド王に謁見しました。彼は証拠として、数人のタイノ族の人々、未知の鳥や植物(トウモロコシ、タバコ、唐辛子など)、そしてわずかながら持ち帰った金製品を献上しました。アジアの香辛料は見つからなかったものの、彼の報告は西回り航路の可能性を証明し、スペイン王室を熱狂させるには十分でした。この発見のニュースは、印刷技術によって瞬く間にヨーロッパ全土に広まり、コロンブスは一躍、時代の英雄となりました。

第2回航海:植民と失望(1493年~1496年)

第1回航海の成功を受け、スペイン王室は直ちに第2回航海の準備を命じました。今回は単なる探検ではなく、大規模な植民とキリスト教の布教を目的としていました。1493年9月25日、コロンブスは17隻の船と約1,200人から1,500人もの人々(兵士、農民、職人、聖職者など)からなる大船団を率いてカディスを出航しました。この船団には、馬、牛、豚といった家畜や、小麦、サトウキビ、ブドウなどの作物の種や苗も積み込まれており、まさに旧世界を新世界に移植しようとする試みでした。
より南の航路を取った船団は、11月3日に小アンティル諸島のドミニカ島に到達しました。その後、グアドループ島、プエルトリコなどを次々と「発見」しながら北上し、11月22日にイスパニョーラ島に到着しました。しかし、彼がラ・ナビダッドの砦で目にしたのは、焼き払われた残骸と、残してきた39人の部下全員の無残な遺体でした。部下たちが金や女性をめぐってタイノ族と対立し、殺害されたことが後に判明します。
この悲劇的な出来事にもかかわらず、コロンブスは島の北岸に新たな入植地「ラ・イサベラ」を建設しました。しかし、この場所は湿地帯で不健康であり、入植者たちはすぐに病気や食糧不足に苦しみ始めました。期待していたほどの金は簡単には見つからず、入植者たちの間では不満と幻滅が急速に広がりました。
総督としてのコロンブスの統治は、過酷で専制的でした。彼は金の発見に固執し、14歳以上のすべてのタイノ族の民に、3ヶ月ごとに一定量の砂金を納めることを義務付ける貢納制度を導入しました。このノルマを達成できなかった者は、手を切り落とされるなどの残虐な罰を受けました。多くのタイノ族は、この過酷な労働から逃れるために山中へ逃げたり、抵抗したりしましたが、スペイン人の優れた武器(鉄の剣、クロスボウ、マスケット銃)と軍用犬、そして騎馬隊の前に無力でした。抵抗した者たちは容赦なく殺害され、あるいは奴隷として捕らえられました。
1495年、コロンブスはスペイン王室への報告と利益の証として、約500人のタイノ族を奴隷としてスペインに送りました。しかし、その多くは過酷な船旅の途中で死亡し、この行為は奴隷制に反対していたイサベル女王の不興を買うことになりました。
植民地の経営に苦慮する一方、コロンブスは探検活動も続けました。1494年春、彼はキューバの南岸を探検し、ジャマイカ島に到達しました。彼は依然としてキューバがアジア大陸の半島であると信じ込み、乗組員たちにそれを証明する誓約書への署名を強制さえしました。
イスパニョーラ島での統治の失敗、金の不足、そして入植者たちの反乱といった問題がスペイン本国に伝わると、王室は彼の統治能力に疑問を抱き始めました。自身の立場を弁明し、新たな支援を取り付けるため、コロンブスは1496年3月にスペインへ向けて出発し、6月に帰国しました。彼は弟のバルトロメオを総督代理として島に残しましたが、彼の不在中も混乱は続きました。

第3回航海:大陸の発見と失脚(1498年~1500年)

スペインで2年間を過ごし、王室の信頼を何とか回復したコロンブスは、1498年5月30日に6隻の船で第3回航海に出発しました。今回は、ポルトガルがトルデシリャス条約で主張する海域の南に新たな土地があるという情報を確かめる目的もありました。
船団を二つに分け、3隻をイスパニョーラ島へ直行させた後、コロンブスは残りの3隻でさらに南の航路を取りました。赤道近くの無風地帯で苦しんだ後、彼は南西に進路を変え、1498年7月31日、三つの峰を持つ島を発見し、「三位一体」を意味する「トリニダード島」と名付けました。
その後、彼はトリニダード島と本土の間の湾に入り、南アメリカ大陸の海岸線を初めて目にしました。彼は巨大なオリノコ川の河口から流れ出す膨大な量の淡水に遭遇し、これほどの大河を持つ土地は単なる島ではなく、広大な大陸に違いないと正しく推測しました。しかし、彼はこの大陸を聖書に登場する「エデンの園」に近い「地上の楽園」であり、アジア大陸の一部であると考え続けました。
8月末にイスパニョーラ島のサント・ドミンゴ(バルトロメオが新たに建設した首都)に到着したコロンブスが目にしたのは、植民地が完全な内乱状態にあることでした。多くの入植者がコロンブス兄弟の統治に反旗を翻し、独自の支配地を築いていました。コロンブスは反乱者たちに土地と先住民労働力を与えるという譲歩を余儀なくされ、彼の権威は地に落ちました。
コロンブス兄弟の統治の失敗と残虐行為に関する報告が次々とスペインに届くと、フェルナンド王とイサベル女王はついに決断を下します。1500年、彼らは王室の全権調査官として、カラトラバ騎士団の騎士であるフランシスコ・デ・ボバディラをイスパニョーラ島に派遣しました。
サント・ドミンゴに到着したボバディラは、入植者たちからコロンブス兄弟に対する数多くの告発を聞き取りました。彼は職権乱用、反逆者の不当な処罰、そして王室の許可なく先住民を奴隷にした罪などで、クリストファー、バルトロメオ、ディエゴのコロンブス三兄弟を逮捕しました。大洋提督であったコロンブスは、足枷をはめられ、囚人として鎖につながれたままスペイン本国へ送還されるという屈辱を味わいました。
1500年後半にカディスに到着したコロンブスの姿は、スペイン社会に衝撃を与えました。国王夫妻は、彼を鎖につないで送還したのはやり過ぎだと考え、彼を丁重に解放し、宮廷に呼び寄せました。しかし、彼が失った信頼と権威が回復することはありませんでした。サンタフェ協約で約束された副王および総督の地位は剥奪され、彼の独占的な権益も事実上無効化されました。コロンブスの栄光は、この失脚によって頂点からどん底へと突き落とされたのです。

第4回航海:最後の挑戦と漂流(1502年~1504年)

名誉を失ったものの、コロンブスは依然として西回りでのアジア到達という当初の目標を諦めていませんでした。ヴァスコ=ダ=ガマがアフリカ経由でインドに到達したというニュースは、彼をさらに焦らせました。彼は、自分が発見した土地のどこかに、インド洋へ抜ける海峡が必ず存在するはずだと信じ、最後の航海の許可を王室に懇願しました。
国王夫妻は、彼の提督や総督としての権限は認めなかったものの、純粋な探検航海としての4回目の航海を承認しました。1502年5月11日、コロンブスは4隻の老朽化した船と約140人の乗組員を率いてカディスを出航しました。この航海には、弟のバルトロメオと、当時13歳になっていた息子のフェルディナンドも同行しました。
航海の目的は、マルッカ諸島(香料諸島)へ至る海峡を見つけることでした。彼はイスパニョーラ島への寄港を固く禁じられていましたが、船の1隻の状態が悪かったことと、ハリケーンの接近を予測したことから、サント・ドミンゴ港への入港許可を求めました。しかし、新総督ニコラス・デ・オバンドはこれを冷たく拒否しました。コロンブスは近くの河口に避難して嵐をやり過ごしましたが、彼の警告を無視してスペインへ向けて出航したオバンドの財宝船団はハリケーンに直撃され、ボバディラを含む多くの人命と莫大な財宝とともに海の藻屑と消えました。
嵐の後、コロンブスは西へと航海を続け、中央アメリカの沿岸に到達しました。彼は現在のホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマの海岸線を何か月もかけて丹念に調査しました。パナマの地で、彼は先住民から金が豊富な土地の話や、山の向こうに別の広大な海(太平洋)が存在することを聞き出しました。海峡はすぐそこにあると確信したコロンブスでしたが、彼の船は船食い虫(フナクイムシ)の被害で深刻なダメージを受けており、船底からは絶えず水が漏れていました。
乗組員の疲労と反抗、そして先住民との武力衝突に悩まされながらも、彼は探索を続けましたが、ついに船の状態が限界に達します。1503年6月、彼は航行不能となった2隻の船をジャマイカのセント・アンズ・ベイで座礁させ、陸に乗り上げさせることを余儀なくされました。
コロンブスと生き残った乗組員たちは、ジャマイカの地で1年以上にわたる絶望的な孤立生活を送ることになりました。彼らは船の残骸を解体して住居や防御施設を築き、当初は地元のタイノ族との物々交換で食料を得ていました。しかし、時間が経つにつれて乗組員の半数が反乱を起こし、また先住民との関係も悪化して食料の供給が途絶え、餓死の危機に瀕しました。
この絶体絶命の状況で、コロンブスは彼の知識を最後の切り札として使いました。彼は持っていた天文学の暦本で、1504年2月29日に月食が起こることを知っていました。彼は先住民の首長たちを集め、キリスト教の神が彼らの協力の欠如に怒っており、その罰として月を空から消し去るだろうと予言しました。予言通りに月が欠け始めると、恐怖に陥った先住民たちは彼に許しを請い、食料の供給を再開しました。この機転により、彼らは救助が来るまで生き延びることができたのです。
一方、コロンブスが派遣した勇敢な部下ディエゴ・メンデスらが、カヌーを漕いでジャマイカからイスパニョーラ島までの約170キロの危険な海峡を渡り、ようやく救助を要請することに成功しました。1504年6月29日、ついに救助の船が到着し、コロンブスと生き残った乗組員たちはジャマイカを脱出しました。この第4回航海は、海峡を発見できず、すべての船と多くの人命を失い、何の利益ももたらさなかった、彼のキャリアの中で最も過酷で失敗に終わった航海となりました。

晩年、死、そして不朽の遺産

1504年11月7日、コロンブスは心身ともに疲れ果てた状態でスペインに帰国しました。彼を長年支援してきたイサベル女王がその直後に亡くなったことは、彼にとって大きな打撃でした。フェルナンド王は彼に冷淡であり、コロンブスはサンタフェ協約で約束された権利と利益の回復を求めて宮廷に訴え続けましたが、その願いが聞き入れられることはありませんでした。
彼は晩年を、王室との法廷闘争に費やしました。これは「コロンブス訴訟」として知られ、彼の死後も息子ディエゴによって引き継がれ、数十年にわたって争われました。コロンブスは、自身の功績が正当に評価されず、約束された富と名誉が不当に奪われたという思いを抱きながら、病気がちな日々を送りました。
1506年5月20日、クリストファー=コロンブスはスペインのバリャドリッドで、痛風または反応性関節炎が原因とされる病により、54歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。彼は最期の時まで、自分が到達した土地がアジア大陸の東端であると固く信じ続けていました。
彼の遺体は、その死後も数奇な運命をたどりました。バリャドリッドに埋葬された後、セビーリャの修道院に移され、その後、彼の遺言に従って息子のディエゴと共にイスパニョーラ島のサント・ドミンゴ大聖堂に埋葬されました。18世紀末にフランスが島を領有すると、遺体はキューバのハバナへ移され、米西戦争後に再びセビーリャへと戻され、現在はセビーリャ大聖堂の壮麗な霊廟に安置されています。しかし、サント・ドミンゴにも彼のものとされる遺骨が残っており、どちらが本物であるかについては今なお議論が続いています。
クリストファー=コロンブスの歴史的評価は、時代と共に大きく揺れ動いてきました。長らく彼は、未知の世界への扉を開いた勇敢な探検家、近代の幕開けを告げた英雄として称賛されてきました。彼の航海は「コロンブス交換」として知られる、動植物、文化、技術、そして病原菌の大規模な相互伝播を引き起こしました。ジャガイモやトウモロコシが旧世界の食糧事情を改善し、馬が新世界の文化を変容させた一方で、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘や麻疹は、免疫を持たないアメリカ大陸の先住民に壊滅的な打撃を与え、人口の激減を招きました。
近年、歴史研究が進むにつれて、彼の負の側面に光が当てられるようになりました。植民地総督としての彼の残虐な統治、先住民の奴隷化と虐待、そして金への飽くなき渇望は、ヨーロッパによる植民地主義の暴力性と搾取の始まりを象徴するものとして厳しく批判されています。アメリカ大陸にはすでに高度な文明を持つ人々が暮らしていたことから、「発見」という言葉そのものの妥当性も問われ、多くの地域で「コロンブス・デー」を「先住民の日」に置き換える動きが広がっています。
クリストファー=コロンブスは、ルネサンス期のヨーロッパが生んだ野心、科学的探究心、宗教的情熱、そして強欲のすべてを体現した複雑な人物でした。彼の行動は、現代の価値観からは到底容認できないものですが、彼の航海が世界史の転換点となり、グローバル化時代の幕開けを告げる画期的な出来事であったことは紛れもない事実です。彼の遺産は、英雄か、それとも侵略者かという単純な二元論では捉えきれない、光と影の入り混じった複雑なものであり、その評価をめぐる議論は、私たちが過去とどのように向き合い、現代世界をどう理解するのかを問い続けています。

このテキストを評価してください。
役に立った
う~ん・・・
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。






世界史