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ジョアン2世とは わかりやすい世界史用語2255
著作名: ピアソラ
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ポルトガル王ジョアン2世の生涯

15世紀後半のポルトガルを統治したジョアン2世(在位1481年-1495年)は、その治世において王権の強化、経済の再建、そして大航海時代の推進という三つの大きな功績を残し、「完全なる君主」として後世に名を刻みました。 彼の統治は、中世的な封建体制から近代的な中央集権国家へとポルトガルが移行する上で、決定的な転換点となりました。

生い立ちと教育

ジョアン2世は1455年5月3日、リスボンで国王アフォンソ5世とその妻イザベル・デ・コインブラの間に生まれました。 彼はアヴィス朝の創始者であるジョアン1世の曾孫にあたります。 幼少期から、宮廷に集う人文主義者たちの下で高度な教育を受け、その知性を磨きました。 若きジョアンは、早くから他者の影響を受けにくく、陰謀を嫌う独立心旺盛な性格を示していました。 このような性格は、後に彼が直面することになる貴族との対立の遠因ともなりました。
1471年、ジョアンは15歳で従妹のレオノール・デ・ヴィゼウと結婚します。 この結婚は、ポルトガルの有力な貴族であるヴィゼウ家との結びつきを強めるための政略的なものでした。 同年、父アフォンソ5世に従って北アフリカのアルカセル・セゲール(ポルトガル語名アルカセル・セゲール)遠征に参加し、その武功により騎士の称号を授与されました。 この遠征は、若き王子にとって初めての実戦経験であり、彼の軍事的な才能を開花させるきっかけとなりました。



カスティーリャ継承戦争と摂政時代

1474年、父アフォンソ5世は、ギニア貿易とアフリカ探検の全権を19歳のジョアン王子に委ねます。 これは、将来の国王としての彼の能力を試すとともに、当時急速に利益を上げていたアフリカ貿易の重要性を国王が認識していたことを示しています。ジョアンはこの機会を捉え、アフリカ沿岸への外国船の進入を禁じ、ポルトガルの独占権を確立しようと努めました。
翌1475年、隣国カスティーリャで王位継承を巡る内戦が勃発すると、ポルトガルの運命は大きく揺らぎます。カスティーリャ王エンリケ4世が亡くなると、その異母妹であるイサベル1世が王位を宣言しました。しかし、エンリケ4世の娘とされるフアナを支持する貴族たちは、アフォンソ5世にフアナとの結婚とカスティーリャ王位の継承を申し出ます。 ジョアン王子は父に進言し、カスティーリャへの介入を強く主張しました。
アフォンソ5世はこの提案を受け入れ、1475年4月にジョアンを摂政に任命して、自らはカスティーリャへ侵攻しました。 ジョアンは摂政として国内の統治を担い、父の軍隊を支援するための兵站を確保しました。 1476年3月、トロの戦いでポルトガル軍はカスティーリャ軍と激突します。 この戦いでアフォンソ5世の部隊は敗走しましたが、ジョアン王子が率いる部隊はカスティーリャ軍の右翼を破り、ポルトガルの王旗を奪還するなど奮戦しました。 戦いそのものは決着がつかなかったものの、政治的にはイサベルと彼女の夫フェルナンドにとって大きな勝利となり、アフォンソ5世の王位継承の望みは絶たれました。
失意のアフォンソ5世はフランスへ渡り、ルイ11世との同盟を模索しますが、これも失敗に終わります。 1477年、彼は退位を宣言し、巡礼の旅に出てしまいました。 父の不在中、ジョアンは国王として宣言されますが、父が帰国すると王位を返し、父に復位を促しました。 この一連の出来事は、ジョアンの政治的成熟と、困難な状況下で国を守るという強い意志を示しています。アフォンソ5世は1481年に亡くなるまで王位にありましたが、治世の最後の数年間は、実質的にジョアンが国政を主導していました。

王権の確立と貴族との対決

1481年8月、父アフォンソ5世の死を受けてジョアン2世が正式に即位すると、彼は直ちに王権を強化し、父の代に肥大化した貴族の権力を削ぐための一連の改革に着手しました。 彼の治世は、ポルトガル史上最も重要な転換期の一つと見なされています。
即位後、ジョアン2世はエヴォラでコルテス(議会)を招集し、貴族たちに国王への絶対的な服従を誓わせる儀式を執り行いました。 これは、国王を「同輩中の第一人者」と見なす封建的な伝統に慣れていた大貴族たちにとって、屈辱的なものと受け止められました。 さらに彼は、教皇の勅書であっても、国内で公布される前に国王の承認を必要とする「ベネプラセトゥム」を再確認し、教会に対する王権の優位性をも示しました。 また、貴族が自身の領地で裁判権を行使することを禁じ、国王が任命した役人による司法制度を全国に広げました。
これらの急進的な中央集権化政策は、当然ながら大貴族たちの激しい反発を招きました。 中でも最も強力な貴族であり、ポルトガルで最も裕福な一族であったブラガンサ公フェルナンド2世は、国王に対する陰謀を企て始めます。 彼はカスティーリャのイサベル女王からの支援も得ようとしていたとされています。 しかし、ジョアン2世は事前にこの陰謀を察知していました。彼はブラガンサ公とカスティーリャ女王との間で交わされた書簡を密かに入手し、その写しを作成していました。
1483年、ジョアン2世は息子アフォンソ王子の身の安全を確保した後、ブラガンサ公に対して行動を起こします。 ブラガンサ公は反逆罪で逮捕・裁判にかけられ、同年6月にエヴォラで公開処刑されました。 ブラガンサ家の広大な領地は没収され、一族はカスティーリャへ亡命しました。
ブラガンサ公の処刑は、他の貴族たちをさらに恐怖と反感に駆り立てました。 今度は、国王の従弟であり、王妃レオノールの弟でもあるヴィゼウ公ディオゴが、新たな陰謀の中心人物となります。 1484年9月、ジョアン2世はヴィゼウ公を宮殿の私室に呼び出し、反逆の証拠を突きつけ、自らの手で彼を刺殺しました。 この陰謀に関わった他の者たちも処刑されたり、追放されたりしました。 エヴォラ司教も牢獄で毒殺されたと伝えられています。
この一連の粛清により、ジョアン2世はポルトガルの封建領主のほとんどを処刑または追放し、その財産を没収することで王室の財政を豊かにしました。 彼の治世の残り期間、国内で国王に逆らう者は現れず、新たな貴族の称号が与えられることもほとんどありませんでした。 この冷徹かつ断固とした権力集中策こそが、後にニッコロ・マキャヴェッリが『君主論』で描いた理想の君主像と重なり、「完全なる君主」という異名の由来となったのです。

経済再建と行政改革

ジョアン2世が即位した当時、ポルトガルの財政は破綻状態にありました。 彼はこの経済危機を解決するため、卓越した手腕を発揮します。彼は能力主義に基づき、身分にかかわらず才能ある学者や専門家を評議会に登用し、国家運営における重要な役割を担わせました。
彼の経済政策の柱の一つは、アフリカとの貿易でした。1482年、彼はギニア沿岸のエルミナにサン・ジョルジェ・ダ・ミナ要塞を建設させます。 この要塞は、金、奴隷、象牙、胡椒などの貿易を保護するための拠点となり、ポルトガルにもたらされる利益を倍増させました。 1485年には、ジョアン2世は「ギニアの主」という称号を名乗るようになります。 海外探検と貿易から得られる莫大な利益は、王室財政を潤し、ポルトガルはヨーロッパで最も健全な通貨を持つ国の一つとなりました。
行政面では、貴族の司法権を剥奪し、国王直属の監察官を全国に派遣して司法を監督させるなど、中央集権的な統治システムを構築しました。 また、貴族の土地所有権の正当性を調査する政策を打ち出し、不正に得られた領地を没収することで、王権の優位性をさらに高めました。 これらの改革は、ポルトガルを中世的な封建国家から、国王を中心とする近代的な国民国家へと変貌させる上で、不可欠なものでした。

大航海時代の推進者

ジョアン2世の治世は、大航海時代の黄金期と重なります。彼は、大叔父であるエンリケ航海王子の事業を復活させ、さらに発展させました。 インドへの海上航路を発見し、香辛料貿易を掌握することは、彼の統治における最優先事項でした。

アフリカ探検の再開と体系的な計画

ジョアン2世は、探検事業を単なる冒険ではなく、国家的なプロジェクトとして体系的に推進しました。彼は、航海術や天文学の専門家を集めた委員会を組織し、探検家たちに科学的な知識と最新の航海用具を提供しました。 この委員会は、ヨーロッパで最初の航海マニュアルや天文暦を作成する基礎を築いたとされています。
彼の治世下で、ポルトガルの探検家たちはアフリカ南下を精力的に進めました。
1482年: ディオゴ・デ・アザンブージャがサン・ジョルジェ・ダ・ミナ要塞を建設。
1484年: ディオゴ・カンがコンゴ川を発見。 彼はポルトガルの主権を示す石柱(パドラン)をアフリカ沿岸に設置しながら南下しました。
1485年: ディオゴ・カンが第二次航海で南西アフリカに到達。
1488年: バルトロメウ=ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を発見し、周航に成功。
ディアスの喜望峰到達は、インドへの海上航路が実現可能であることを証明する画期的な出来事でした。 これにより、ポルトガルは東方への道を切り開く上で、決定的な優位に立ちました。

プレスター・ジョン探索と陸路からのアプローチ

ジョアン2世は、海上からの探検と並行して、陸路からの情報収集も重視していました。当時ヨーロッパでは、東方に存在する伝説的なキリスト教国の王「プレスター・ジョン」の存在が信じられていました。 ジョアン2世は、このプレスター・ジョンと連携することで、イスラム勢力を挟撃し、インドへの道を確保しようと考えていました。
1487年、彼は二人の密使、ペロ・ダ・コヴィリャンとアフォンソ・デ・パイヴァを派遣します。 彼らの任務は、アラビア語を話す商人に扮して中東を横断し、プレスター・ジョンの国(当時はエチオピアと同一視されていた)とインドの位置を突き止めることでした。 コヴィリャンはインドのカリカットに到達し、香辛料貿易に関する貴重な情報を収集した後、エチオピアへ向かいました。彼はそこでプレスター・ジョン(エチオピア皇帝)に謁見しますが、帰国を許されず、その地で生涯を終えました。しかし、彼がポルトガルに送った報告書は、後のヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路開拓に不可欠な情報を提供しました。

コロンブスの提案とトルデシリャス条約

1484年頃、ジェノヴァ人のクリストファー=コロンブスがポルトガル宮廷を訪れ、西回りでインドに到達する計画をジョアン2世に提案します。 ジョアン2世は彼の計画を専門家の委員会に諮問しました。 委員会は、コロンブスが地球の周長を過小評価しており、彼が想定する航海距離(約2,400海里)は非現実的であると結論付け、計画を却下しました。 この判断は、当時の科学的知見に基づいた正確なものでした。
1488年、コロンブスは再びポルトガル宮廷に現れ、ジョアン2世に謁見します。 しかし、その直後にバルトロメウ=ディアスが喜望峰周航の成功を報告したため、ポルトガルはもはや西回り航路に興味を失っていました。 コロンブスはその後、スペインのイサベル女王の支援を得て、1492年に新大陸に到達します。
1493年初頭、最初の航海から帰還したコロンブスは、嵐のためリスボンに寄港せざるを得なくなりました。 ジョアン2世は彼を歓迎しつつも、コロンブスが発見した土地は、1479年にスペインと結んだアルカソヴァス条約に基づき、ポルトガルの勢力圏内にあると主張しました。 そして、発見された島々の領有権を主張するため、フランシスコ・デ・アルメイダ率いる艦隊の準備を命じます。
戦争を避けたいスペインのフェルナンドとイサベルは、交渉の席に着くことに同意します。 教皇アレクサンデル6世の仲介を経て、両国は1494年6月7日、スペインのトルデシリャスで新たな条約に署名しました。これが有名なトルデシリャス条約です。 この条約は、カーボベルデ諸島の西370レグア(約2,100キロメートル)の地点を通過する子午線を新たな境界線とし、その東側で発見されるすべての土地をポルトガル領、西側をスペイン領と定めました。
ジョアン2世は、教皇が当初示した境界線(カーボベルデ諸島の西100レグア)では、アフリカ南端を回る航路がスペインの勢力圏に入る可能性があること、また、南大西洋に未発見の土地が存在する可能性を予見していました。 彼の粘り強い交渉によって境界線が西へ移動された結果、後に発見されるブラジルの東部がポルトガルの領有範囲に含まれることになりました。 トルデシリャス条約は、ジョアン2世の外交手腕と先見の明を示す最大の功績の一つです。

悲劇と後継者問題

ジョアン2世の治世の晩年は、個人的な悲劇と後継者問題によって影が落とされます。
ジョアン2世には、王妃レオノールとの間に、唯一の嫡出子であるアフォンソ王子がいました。 アフォンソは1475年に生まれ、国王から深く愛されていました。 彼は、カスティーリャのイサベル女王の長女であるイサベル・デ・アラゴンと結婚しており、この結婚はイベリア半島の二大王国を統合する可能性を秘めていました。
しかし1491年7月、悲劇が起こります。タホ川のほとりで乗馬を楽しんでいた16歳のアフォンソ王子が、落馬事故で急死してしまったのです。 この事故は、国王夫妻に計り知れない悲しみをもたらしただけでなく、ポルトガルを深刻な後継者危機に陥れました。 王子の死には、スペイン側による暗殺の噂も囁かれましたが、真相は不明のままです。

後継者問題と最期

嫡出の男子を失ったジョアン2世は、自身の庶子であるジョルジェ・デ・レンカストレを後継者にしようと望みました。 彼はローマ教皇にジョルジェの嫡出化を請願するなど、あらゆる手段を尽くしますが、これには王妃レオノールが激しく反対しました。 レオノールは、自身の弟であり、法的な推定相続人であるマヌエル(かつてジョアン2世が陰謀の疑いで殺害したヴィゼウ公ディオゴの弟)を後継者に推しました。
国王と王妃の間の対立は激化しましたが、長引く病(水腫であったと伝えられる)に苦しんでいたジョアン2世は、死の床でついに譲歩します。 1495年9月、彼は遺言でマヌエルを後継者として認めました。 そして1495年10月25日、アルガルヴェ地方のアルヴォルにて、40歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。 彼の遺体はバターリャ修道院に埋葬されました。

遺産と評価

ジョアン2世の死後、王位は彼の従弟であり義弟でもあるマヌエル1世が継承しました。 マヌエル1世の治世下で、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓し、ポルトガルは世界的な海洋帝国としての黄金時代を迎えます。しかし、その礎を築いたのは、紛れもなくジョアン2世でした。
彼は、強力な貴族勢力を抑え込み、国王を中心とする中央集権体制を確立しました。 彼の冷徹な手法は「暴君」と非難されることもありますが、それによって国内は安定し、王権は絶対的なものとなりました。 カスティーリャのイサベル女王が彼を「El Hombre(あの男)」と呼び、畏敬の念を抱いていたという逸話は、彼の強烈な個性と政治力を物語っています。
経済面では、アフリカ貿易を王室の独占事業として確立し、破綻寸前だった国家財政を再建しました。 そして何よりも、彼の先見の明と体系的な探検への投資が、ポルトガルの大航海時代を牽引し、その後の世界の歴史を大きく変える原動力となったのです。
ジョアン2世は、中世の価値観が崩れ、新たな時代が到来する過渡期に生きた君主でした。彼は古い封建的な秩序を破壊し、絶対王政と重商主義に基づく近代国家の基礎を築きました。その治世は短かったものの、ポルトガル、そして世界の歴史に与えた影響は計り知れません。

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