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エンコミエンダ制とは わかりやすい世界史用語2298 |
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著作名:
ピアソラ
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エンコミエンダ制の起源と発展
エンコミエンダ制は、スペインがアメリカ大陸を植民地化する過程で導入した、労働力の配分と先住民の統治を目的とした制度です。この制度の起源は、中世スペインにおけるレコンキスタ(国土回復運動)の時代にまで遡ることができます。レコンキスタの過程で、キリスト教徒の王たちはイスラム教徒から奪還した土地とそこに住む人々を、功績のあった騎士や貴族に「エンコメンダール」(委託する)という形で与えました。この初期の形態では、エンコメンデロ(委託された者)は、委託された地域の住民を保護し、キリスト教の信仰を教える義務を負う代わりに、彼らから貢納や労働力を徴収する権利を得ました。この仕組みが、後に新世界で展開されるエンコミエンダ制の原型となりました。
1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達すると、スペインは広大な領土と多くの先住民を支配下に置くことになりました。植民地の経済的価値を最大化するため、特に金や銀などの貴金属を採掘するために、大量の労働力が必要不可欠でした。しかし、スペインから移住してくる入植者の数は限られており、労働力を確保する手段として先住民に目が向けられました。当初、コロンブスは先住民を奴隷としてスペインに送ろうとしましたが、イサベル1世女王はこれを認めず、先住民は女王の自由な臣民であると宣言しました。このため、先住民を直接奴隷にすることは法的に困難となり、それに代わる労働力確保の仕組みとしてエンコミエンダ制が導入されることになったのです。
1503年、イサベル女王は、植民地の統治と先住民の教化を目的として、エンコミエンダを正式に制度化する勅令を発布しました。この勅令により、植民地の総督は、スペイン人入植者に対して特定の先住民コミュニティを「委託」する権限を与えられました。エンコメンデロとなった入植者は、委託された先住民をキリスト教に改宗させ、スペイン王室への忠誠を教え、外部の敵や部族間の争いから保護する責任を負いました。その見返りとして、エンコメンデロは先住民から貢納(トウモロコシ、織物、金などの物品)や労働力を徴収する権利を認められました。理論上、エンコミエンダは土地の所有権を与えるものではなく、あくまで先住民に対する後見的な支配権を認めるものでした。また、委託される先住民は奴隷ではなく、法的には自由な存在とされていました。しかし、現実には、この制度はしばしば強制労働や過酷な搾取の温床となり、多くのエンコメンデロは自らの義務を怠り、権利のみを追求しました。
エンコミエンダ制は、カリブ海のイスパニョーラ島で最初に大規模に導入され、その後、メキシコ、ペルー、中央アメリカなど、スペインの植民地化が進んだすべての地域に拡大していきました。特に、エルナン・コルテスによるアステカ帝国征服後や、フランシスコ・ピサロによるインカ帝国征服後には、征服者(コンキスタドール)への報酬として、広大な領土と多数の先住民がエンコミエンダとして分配されました。これにより、征服者たちは一夜にして広大な富と権力を手に入れ、植民地社会における新たな貴族階級を形成していきました。エンコミエンダの規模は様々で、数十人の小規模なものから、数千人、場合によっては数万人もの先住民を含む大規模なものまで存在しました。この制度は、スペイン王室にとっては、植民地の統治を功労のあった臣下に委託することで行政コストを削減し、同時に貴金属の採掘や農業生産を通じて経済的利益を確保するための重要な手段でした。
制度の構造と機能
エンコミエンダ制の基本的な構造は、スペイン国王を頂点とする階層的な支配関係に基づいています。国王は、新世界の領土とそこに住むすべての人々の究極的な所有者であり、その権威に基づいて植民地の総督やアウディエンシア(高等裁判所)に統治権を委任しました。総督は、国王の名において、コンキスタドールや有力な入植者に対してエンコミエンダを授与する権限を持ちました。エンコミエンダを授与されたエンコメンデロは、特定の先住民コミュニティ(通常はカシケと呼ばれる首長が率いる村落)の支配を委託されました。
エンコメンデロの義務は、主に三つありました。第一に、委託された先住民を保護することです。これには、他の部族からの攻撃や、他のスペイン人による不当な搾取から守ることが含まれていました。第二に、先住民にキリスト教の教義を教え、改宗させることでした。この目的のために、エンコメンデロは教会を建設し、司祭を雇うことが期待されていました。第三に、植民地の防衛に貢献することです。エンコメンデロは、有事の際には自費で武装し、馬を所有して軍役につく義務がありました。これらの義務は、エンコメンデロが先住民から労働や貢納を徴収する権利を正当化するための根拠とされました。
一方、エンコメンデロの権利は、先住民からの貢納と労働力の徴収でした。貢納の内容は地域によって異なり、金、銀、トウモロコシ、小麦、カカオ、綿織物など、その土地の産物に応じて定められました。貢納の量や種類は、当初はエンコメンデロが任意に決めることができましたが、後に王室の役人による査定(タサシオン)が行われ、法的に定められるようになりました。しかし、この査定が適切に行われることは少なく、しばしば過大な貢納が課せられました。
労働力の徴収は、エンコミエンダ制の最も重要な要素であり、同時に最も問題の多い部分でした。先住民は、エンコメンデロが所有する鉱山、農園(アシエンダ)、工房などで働くことを強制されました。労働期間や条件に関する規定はありましたが、ほとんど遵守されず、先住民は過酷な長時間労働、不十分な食事、劣悪な衛生環境のもとで働かされました。特に、ポトシ(現在のボリビア)の銀山のような鉱山での労働は極めて過酷であり、多くの人々が事故や病気で命を落としました。この強制労働は、実質的に奴隷労働と何ら変わらないものであり、エンコミエンダ制が「偽装された奴隷制」と批判される最大の理由となりました。
エンコミエンダは、原則として土地の所有権を伴うものではありませんでした。エンコメンデロはあくまで先住民の労働力と貢納に対する権利を持つだけであり、彼らが住む土地は法的には先住民コミュニティまたはスペイン王室に帰属するとされていました。しかし、実際には、エンコメンデロはその影響力を利用して、先住民の土地を徐々に侵食し、私有地化していくことが多くありました。時間が経つにつれて、エンコミエンダと大土地所有制であるアシエンダは密接に結びつき、区別が曖昧になっていきました。
エンコミエンダ制が先住民社会に与えた影響
エンコミエンダ制は、アメリカ大陸の先住民社会に壊滅的な影響を及ぼしました。その最も深刻な影響は、人口の激減です。この人口減少の主な原因は三つありました。第一に、ヨーロッパから持ち込まれた疫病です。天然痘、麻疹、インフルエンザなど、先住民が免疫を持たない病気が猛威を振るい、多くのコミュニティで人口の90%以上が失われるという事態も発生しました。エンコミエンダ制のもとで人々が強制的に集められ、劣悪な環境で共同生活を送らされたことが、感染症の拡大をさらに加速させました。
第二の原因は、過酷な強制労働です。鉱山や農園での労働は、先住民の体力を奪い、栄養失調や疲労困憊によって彼らを病気にかかりやすくしました。特に鉱山での労働は危険を伴い、落盤事故や水銀中毒などで多くの命が失われました。労働のために男性が長期間村を離れることは、農業生産のサイクルを破壊し、食糧不足を引き起こしました。また、家族が離散し、出生率が低下する原因ともなりました。
第三の原因は、社会構造と文化の破壊です。エンコミエンダ制は、伝統的な先住民の社会組織を根底から覆しました。カシケ(首長)は、スペイン人とコミュニティの仲介者としての役割を担わされましたが、その権威はしばしばエンコメンデロによって利用され、弱体化させられました。スペイン人は、貢納や労働力の徴収を効率化するために、分散していた人々を新しい村に強制的に移住させることがありました(レドゥクシオン)。これにより、古くからの共同体は解体され、土地との精神的な結びつきも断ち切られました。
宗教的な側面では、キリスト教への強制的な改宗が進められました。エンコメンデロは先住民の伝統的な信仰や儀式を「悪魔の所業」として弾圧し、神殿や偶像を破壊しました。多くの先住民は、生き残るために表面上はキリスト教を受け入れましたが、その一方で伝統的な信仰を密かに守り続けるシンクレティズム(宗教混淆)という現象も広く見られました。
経済的には、エンコミエンダ制は先住民の自給自足経済を破壊し、スペインの植民地経済システムに強制的に組み込まれました。彼らは自分たちのための生産ではなく、エンコメンデロやスペイン王室の利益のための生産に従事させられました。貢納を支払うために、あるいはヨーロッパ製品を購入するために、彼らは貨幣経済への依存を余儀なくされました。これにより、伝統的な互酬性や再分配のシステムは崩壊し、貧困が蔓延しました。
制度をめぐる論争と改革の試み
エンコミエンダ制の過酷な実態は、早くからスペイン人の間でも深刻な倫理的・法的論争を引き起こしました。この論争の中心人物となったのが、ドミニコ会の修道士であったバルトロメ・デ・ラス・カサスです。彼自身もかつてはエンコメンデロでしたが、先住民の置かれた悲惨な状況を目の当たりにして回心し、その生涯を先住民の権利擁護に捧げました。1511年、イスパニョーラ島で同じくドミニコ会士のアントニオ・デ・モンテシノスが行った説教は、植民者たちの不正義を厳しく告発し、論争の火種となりました。彼は、エンコメンデロたちが先住民を搾取し、死に追いやっていることを「死に至る罪」であると断じ、大きな衝撃を与えました。
これらの批判を受けて、スペイン王室も改革の必要性を認識し始めました。1512年、フェルナンド2世は「ブルゴス法」を制定しました。これは、新世界におけるスペイン人と先住民の関係を規定した最初の包括的な法典でした。ブルゴス法は、先住民が自由な人間であることを再確認し、彼らの労働時間、食事、住居、賃金などについて詳細な規定を設けました。また、エンコメンデロに対して、先住民へのキリスト教教育を徹底するよう義務付けました。しかし、この法律はエンコミエンダ制そのものを廃止するものではなく、むしろその存在を法的に追認するものでした。さらに、植民地現地では法律の多くの規定が無視され、先住民の状況はほとんど改善されませんでした。
ラス・カサスをはじめとする批判者たちは、改革の努力を続けました。彼らは、エンコミエンダ制がキリスト教の教えに反する非人道的な制度であり、先住民を平和的に教化するという本来の目的を達成する上で障害になっていると主張しました。ラス・カサスはスペイン宮廷で精力的にロビー活動を行い、数多くの報告書や著作を通じて植民地の惨状を訴えました。彼の最も有名な著作である『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』は、スペイン人による残虐行為を生々しく描き出し、ヨーロッパ全土に衝撃を与えました。
こうした批判の高まりと、先住民人口の急激な減少が植民地経済の基盤を揺るがし始めたことへの懸念から、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、1542年に「インディアス新法」として知られる一連の勅令を発布しました。この新法は、エンコミエンダ制に対する最も抜本的な改革の試みでした。新法は、今後新たにエンコミエンダを授与することを禁止し、既存のエンコミエンダも所有者が死亡した時点で王室に返還されること、すなわち世襲を認めないことを定めました。また、聖職者や王室の役人が所有するエンコミエンダは即時没収されることになりました。さらに、先住民を奴隷にすること、および本人の同意なしに鉱山で働かせることを厳しく禁じました。この法律の目的は、将来的にはエンコミエンダ制を完全に廃止し、すべての先住民を王室の直接の臣民としてその保護下に置くことにありました。
しかし、この新法は、植民地のエンコメンデロたちから猛烈な反発を受けました。彼らにとって、エンコミエンダは征服の対価として得た正当な権利であり、生活の基盤そのものでした。特にペルーでは、新法の施行に反対するエンコメンデロたちがゴンサロ・ピサロ(フランシスコ・ピサロの弟)を指導者として大規模な反乱を起こしました。この反乱は数年にわたって続き、初代副王ブラスコ・ヌニェス・ベラが殺害される事態にまで発展しました。メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)でも同様に激しい抵抗があり、王室は植民地全体が支配不能に陥ることを恐れました。最終的に、王室は譲歩を余儀なくされ、1545年には新法の最も重要な条項であるエンコミエンダの世襲禁止を撤回しました。これにより、エンコミエンダ制廃止の試みは大きく後退し、制度はその後も存続することになりました。
バリャドリッド論争
エンコミエンダ制と先住民の処遇をめぐる倫理的・神学的論争は、1550年から1551年にかけてスペインのバリャドリッドで開かれた公開討論会で頂点に達しました。この「バリャドリッド論争」は、カール5世の命により、アメリカ大陸の征服と植民地化の正当性を問うために開催されました。論争の主要な当事者は、先住民の権利を擁護するバルトロメ・デ・ラス・カサスと、征服の正当性を主張する人文主義者で神学者のフアン・ヒネス・デ・セプルベダでした。
セプルベダは、アリストテレスの「自然奴隷説」を援用し、先住民は理性を欠いた野蛮な存在であり、生まれながらにして優れた文明を持つスペイン人に奉仕すべき運命にあると主張しました。彼は、先住民が行っていたとされる人身御供や食人などの習慣を挙げ、彼らをキリスト教文明に導くためには、武力による征服と強制的な支配が必要であると論じました。セプルベダによれば、エンコミエンダ制は、このような野蛮な人々を管理し、文明化するための適切な手段でした。彼の議論は、植民地のエンコメンデロたちの利益を代弁するものでした。
これに対してラス・カサスは、先住民が高度な社会と文化を持つ理性的な存在であり、ヨーロッパ人と同じく自由と財産に対する自然権を持っていると反論しました。彼は、福音は平和的な説得によってのみ伝えられるべきであり、武力による強制はキリストの教えに反すると主張しました。彼は、スペイン人が行っている残虐行為こそが非キリスト教的であり、先住民を改宗から遠ざけていると批判しました。ラス・カサスは、エンコミエンダ制を即時廃止し、先住民が自らのコミュニティで平和に暮らし、王室の直接の保護のもとで穏やかに教化されるべきだと訴えました。
バリャドリッド論争は、数か月にわたって続けられましたが、明確な勝者を決めることなく終わりました。審議会は最終的な判断を下さず、両者の主張は平行線をたどりました。しかし、この論争は、植民地主義と人権に関するヨーロッパ史上初の本格的な公開討論として、極めて重要な意味を持っています。ラス・カサスの主張は、後の国際法や人権思想の発展に大きな影響を与えました。論争の結果、スペインの征服活動は一時的に停止され、その後の植民地政策において、先住民に対する過度な暴力は抑制される傾向が見られるようになりました。しかし、エンコミエンダ制そのものが直ちに廃止されることはなく、植民地における搾取の現実は依然として続きました。
エンコミエンダ制の衰退と遺産
16世紀後半から17世紀にかけて、エンコミエンダ制は徐々にその重要性を失い、衰退していきました。その背景には、いくつかの複合的な要因がありました。第一に、最も根本的な原因は、エンコミエンダの基盤であった先住民人口の壊滅的な減少です。疫病と過酷な労働によって労働力が枯渇したため、エンコミエンダから得られる利益は大幅に減少しました。多くのエンコミエンダは、委託されるべき先住民がいなくなり、名ばかりのものとなりました。
第二に、スペイン王室が一貫してエンコメンデロ階級の権力拡大を警戒し、その影響力を削ごうとし続けたことが挙げられます。王室は、植民地に世襲の封建貴族が生まれることを恐れていました。新法の失敗後も、王室はエンコミエンダの世襲を一代限りや二代限りに制限しようと試み続け、また、エンコミエンダが空席になった際には、再授与せずに王室の直轄領(コロ-ナ)に組み込む政策を推進しました。さらに、貢納の査定(タサシオン)を強化し、貢納を労働ではなく現物や貨幣で納めることを奨励しました。これにより、エンコメンデロの先住民に対する直接的な人格的支配は弱まっていきました。
第三に、エンコミエンダ制に代わる新たな労働力確保と土地利用のシステムが登場したことです。その一つが「レパルティミエント」または「ミタ」(ペルーでの呼称)と呼ばれる制度です。これは、王室の役人が先住民コミュニティに対し、一定期間、特定の労働(主に鉱山や公共事業)に従事する労働者を交代で提供するように割り当てる制度でした。これは特定の個人(エンコメンデロ)ではなく、王室が労働力を直接管理する点でエンコミエンダとは異なりましたが、依然として強制労働であることに変わりはなく、先住民にとっては大きな負担となりました。
もう一つの重要な変化は、「アシエンダ」と呼ばれる大土地所有制の発展です。エンコミエンダが衰退するにつれて、スペイン人入植者たちは、労働力の支配から土地そのものの所有へと関心を移していきました。彼らは、王室からの下賜、先住民からの購入(しばしば不法な手段による)、あるいは単なる占拠によって広大な土地を獲得し、大規模な農園や牧場を経営するようになりました。アシエンダの労働力は、当初はエンコミエンダやレパルティミエントの労働者に依存していましたが、次第に「ペオナヘ」という債務奴隷制に移行していきました。ペオンと呼ばれる労働者は、農園主から生活必需品や現金を前借りし、その借金を返済するために農園に縛り付けられました。このアシエンダとペオナヘのシステムは、ラテンアメリカの多くの地域で、エンコミエンダ制に代わる主要な社会経済構造となり、20世紀に至るまでその影響を残しました。
18世紀に入ると、ブルボン朝の改革の中で、エンコミエンダ制はもはや時代遅れの制度と見なされるようになり、1720年、フェリペ5世はエンコミエンダの新規授与を完全に禁止する法令を発布しました。これにより、残存していたエンコミエンダも所有者の死亡とともに消滅することになり、制度は法的に終焉を迎えました。
しかし、エンコミエンダ制がラテンアメリカ社会に残した遺産は、制度の消滅後も長く続きました。人種に基づいた階層的な社会構造、土地所有の極端な不均衡、先住民コミュニティの貧困と周縁化、そして支配者と被支配者の間の権威主義的な関係性は、エンコミエンダ制にその起源の一部を見出すことができます。この制度は、スペイン植民地時代のアメリカ大陸における富の収奪と社会的不平等の基礎を築き、その後のラテンアメリカ諸国の歴史的発展に深い刻印を残したのです。
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