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トルデシリャス条約とは わかりやすい世界史用語2276
著作名: ピアソラ
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トルデシリャス条約とは

15世紀末、ヨーロッパの大国、特にポルトガルとスペイン(カスティーリャ王国)は、新たな航路と領土を求めて熾烈な競争を繰り広げていました。この大航海時代として知られる時代の幕開けは、技術の進歩、経済的野心、そして宗教的情熱が複雑に絡み合った結果でした。この競争が過熱し、二つのカトリック大国間の直接的な紛争に発展するのを防ぐため、外交的な解決策が模索されました。その頂点として、1494年6月7日にスペインのトルデシリャスで調印されたのが、トルデシリャス条約です。 この条約は、ヨーロッパ以外の「新世界」をポルトガルとスペインの間で分割することを目的とし、その後の世界の探検、植民地化、そして国家間の力関係に計り知れない影響を及ぼすことになります。



条約締結に至る歴史的背景

トルデシリャス条約を理解するためには、15世紀のイベリア半島におけるポルトガルとスペインの動向を遡る必要があります。両国は、イスラム勢力からの国土回復運動(レコンキスタ)を完了させ、そのエネルギーを海洋進出へと向けていました。

ポルトガルの海洋進出

ポルトガルは、15世紀初頭からアフリカ西海岸の探検を体系的に進めていました。 この偉業の中心にいたのが、「航海王子」として知られるエンリケ王子(1394-1460)です。 彼は直接航海に出ることはありませんでしたが、探検事業の強力なパトロンとして、航海者、地図製作者、天文学者らをサグレスに集め、探検の拠点としました。 彼の支援の下、ポルトガルの船乗りたちは、それまでヨーロッパ人には未知であったアフリカの海岸線を南下していきました。 エンリケ王子の動機は複合的でした。イスラム勢力に対抗し、キリスト教を広めるという宗教的情熱、伝説的なキリスト教王国「プレスター・ジョン」との連携への期待、そして金や香辛料、奴隷といったアフリカの富への経済的関心がありました。 1415年の北アフリカの港湾都市セウタの攻略は、エンリケ王子にアフリカ大陸への強い関心を抱かせるきっかけとなりました。 ポルトガルの探検は着実に成果を上げていきました。マデイラ諸島(1420年頃)やアゾレス諸島(1431年頃)が発見され、植民地化されました。 航海における大きな障壁とされていたボハドル岬を1434年にギル・エアネスが突破すると、探検はさらに加速します。 1440年代にはセネガル川に到達し、金や奴隷の交易が始まりました。 このアフリカ西海岸での活動を通じて、ポルトガルは象牙、金、そして何よりもサトウキビプランテーションの労働力となる奴隷をヨーロッパにもたらしました。 エンリケ王子の死後も探検は続き、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達し、インドへの東回り航路の可能性を大きく開きました。 このように、ポルトガルは15世紀を通じてアフリカ沿岸の探検と貿易における独占的な地位を築き上げていました。

スペインの参入とコロンブスの航海

一方、スペインはアラゴン王国とカスティーリャ王国の統合を経て、国内の統一を進めていました。1492年にグラナダが陥落し、レコンキスタが完了すると、スペインもまた、ポルトガルに対抗して海洋進出へと本格的に乗り出します。 ここで歴史の表舞台に登場するのが、ジェノヴァ出身の航海者クリストファー・コロンブスです。彼は、西へ進めばアジア(インディアス)に到達できるという理論を信じ、その航海の支援を求めていました。ポルトガル王ジョアン2世に計画を拒否された後、コロンブスはスペインのイサベル1世とフェルナンド2世に支援を求めます。 当初は彼の計画に懐疑的だったスペイン王室も、ポルトガルへの対抗心や新たな富への期待から、最終的に彼の航海を承認しました。 1492年8月、3隻の船でパロス港を出航したコロンブスは、同年10月12日に現在のバハマ諸島に到達します。彼はその地をアジアの一部だと信じ込み、その後キューバやイスパニョーラ島などを探検しました。 1493年3月、スペインへの帰路の途中、コロンブスはリスボンに寄港し、ポルトガル王ジョアン2世に謁見します。 この時、ジョアン2世は、コロンブスが発見した土地は、過去の教皇勅書や条約に基づき、ポルトガルの勢力圏に属すると主張しました。

教皇による調停と対立の激化

コロンブスの「発見」の報告は、スペインに熱狂をもたらすと同時に、ポルトガルとの間に深刻な外交的危機を引き起こしました。 スペインの発見権の主張と、ポルトガルの既存の権利の主張が真っ向から対立したのです。 この危機を解決するため、両国はカトリック世界の最高権威であるローマ教皇に調停を求めました。 当時の教皇は、スペイン出身(バレンシア出身)のボルジア家のアレクサンデル6世でした。 彼は明らかにスペインに好意的であり、1493年5月から9月にかけて、一連の教皇勅書を発布しました。 その中で最も重要なものが、1493年5月4日に出された「インテル・カエテラ」です。 この勅書は、アゾレス諸島およびカーボベルデ諸島の西100リーグ(約320マイル)に子午線を引き、その線より西側で発見された、あるいはこれから発見される全ての非キリスト教徒の土地をスペインの主権下にあると認めるものでした。 この譲歩には、スペイン王室の許可なくこれらの地域へ航海しようとする者には破門の罰を科すという厳しい禁止事項も含まれていました。 この教皇勅書は、スペインの主張を全面的に認めるものであり、ポルトガルにとっては到底受け入れがたいものでした。 ポルトガル王ジョアン2世は、この境界線があまりにも東に寄りすぎており、自国のアフリカ航路の安全すら脅かすと強く反発しました。 彼は教皇による一方的な決定を拒否し、スペインとの直接交渉を要求しました。 こうして、教皇の権威による調停は失敗に終わり、両国は二国間の外交交渉によって新たな解決策を見出す必要に迫られたのです。

トルデシリャス条約の交渉と内容

教皇勅書「インテル・カエテラ」に対するポルトガルの不満を受け、スペインとポルトガルは直接交渉の席に着きました。 スペイン側も、ポルトガルとの軍事衝突は避けたいと考えており、交渉による解決に前向きでした。 数ヶ月にわたる交渉は、1494年春にメディナ・デル・カンポで始まり、その後トルデシリャスに移され、同年6月7日に最終的な合意に達しました。 交渉には、両国の外交官や大使だけでなく、地理学者や専門家からなる技術チームも参加しました。 ポルトガル側の主な狙いは、教皇勅書で定められた境界線をさらに西へ移動させることでした。これにより、アフリカ南端を回るインドへの航路の安全を確保し、南大西洋における自国の探検の自由度を高めることが可能になります。

条約の主要な内容

トルデシリャス条約の最も重要な内容は、新たな境界線の設定でした。 境界線の移動: 条約は、教皇勅書「インテル・カエテラ」が定めた境界線を、カーボベルデ諸島の西370リーグ(約1,185マイル、約2,100キロメートル)の地点を通過する子午線に移動させることを定めました。 この線は北極から南極まで引かれる想像上のものでした。 勢力圏の分割: この新しい境界線(トルデシリャス線)の東側で発見される全ての土地の発見、航海、貿易の独占権はポルトガルに属し、西側の土地はスペインに属することになりました。 相互の権利尊重: 両国は、互いの勢力圏に許可なく艦隊を派遣しないこと、また、相手方の発見した土地を領有しようとしないことを約束しました。 キリスト教君主の領土の尊重: ただし、この分割は非キリスト教徒の土地にのみ適用され、条約締結時点ですでにキリスト教徒の君主が統治している領土は対象外とされました。 教皇権威からの自立: 興味深いことに、条約の署名者は、この合意に反して教皇の権威に助けを求めないことを約束しました。ただし、条約の承認自体は教皇に求めることとし、これは1506年に教皇ユリウス2世によって正式に承認されました。 これは、両国が教皇の仲介に頼るのではなく、二国間の直接的な外交合意によって問題を解決したことを示しています。 この条約は、スペイン側では1494年7月2日に、ポルトガル側では同年9月5日に批准されました。

ポルトガルの狙いとブラジルの発見

ポルトガルが境界線を西へ270リーグも移動させることに固執した理由については、いくつかの説があります。最も有力なのは、喜望峰を回るアフリカ航路の安全確保です。 境界線が西に移動することで、南大西洋の広大な海域がポルトガルの勢力圏に入り、風や海流を利用してアフリカ大陸から大きく離れて航行する際の法的根拠を得ることができました。 もう一つの興味深い説は、ポルトガルが1494年の時点で、すでに南大西洋に未知の陸地(後のブラジル)が存在することを知っていた、あるいはその可能性を強く疑っていたというものです。 正式な証拠はありませんが、もしこれが事実であれば、境界線を西へ移動させることは、その土地の領有権を確保するための戦略的な動きだったと言えます。 実際に、条約締結から6年後の1500年、ペドロ・アルヴァレス・カブラル率いるポルトガル艦隊がインドへ向かう途中、ブラジルに漂着し、ポルトガル領有を宣言します。 この土地は、トルデシリャス条約で定められた境界線の東側に位置していたため、ポルトガルの領有権は条約によって正当化されることになりました。

条約がもたらした影響と展開

トルデシリャス条約は、単なる二国間の合意にとどまらず、その後の世界の歴史に多岐にわたる影響を及ぼしました。

イベリア両帝国の拡大

この条約は、スペインとポルトガルが互いに衝突することなく、それぞれの勢力圏で探検と植民地化を推進するための法的枠組みを提供しました。 スペイン: 条約によって、アメリカ大陸の大部分(ブラジルを除く)に対する排他的な権利を得ました。 これにより、エルナン・コルテスによるアステカ帝国、フランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服など、広大な植民地帝国を築き上げることが可能になりました。 スペインはアメリカ大陸から莫大な金銀を獲得し、16世紀におけるヨーロッパ最強国としての地位を確立します。 ポルトガル: アフリカ、アジア、そしてブラジルにおける探検と貿易の独占権を確保しました。 ポルトガルは喜望峰ルートを通じてインド洋に進出し、香辛料貿易の支配権を握ることで、巨大な海上交易帝国を築き上げました。 ブラジルは、当初はあまり重視されませんでしたが、後にサトウキビプランテーションや金の採掘によってポルトガルにとって重要な植民地となります。

他のヨーロッパ諸国の反発

トルデシリャス条約は、あくまでスペインとポルトガルの二国間協定であり、教皇による承認はあったものの、他のヨーロッパ諸国を拘束するものではありませんでした。 フランス、イギリス、オランダといった新興の海洋国家は、この条約を無視し、世界がイベリア両国によって分割されることを認めませんでした。 フランス王フランソワ1世が「アダムの遺言書のどこに、世界をスペインとポルトガルだけで分けると書いてあるのか見せてほしい」と述べたとされる逸話は、他の国々の不満を象徴しています。 これらの国々は、独自の探検隊を派遣し、北アメリカ、カリブ海、アジアなどで植民地や交易拠点を築き、イベリア両国の独占に挑戦しました。 この挑戦は、後の時代におけるスペインとポルトガルの帝国の衰退の一因となります。

地理的知識の限界と紛争

この条約は、地球の地理に関する知識が極めて不完全な時代に結ばれました。 特に問題となったのは、経度の正確な測定方法が確立されていなかったことです。 条約では境界線を「カーボベルデ諸島の西370リーグ」と定めましたが、どの島を基点とするのか、1リーグの長さをどう定義するのかといった点が曖昧でした。 このため、境界線の正確な位置を特定することは不可能に近く、これが後の紛争の火種となりました。 さらに大きな問題は、条約が地球の反対側、つまりアジアにおける境界線(対蹠子午線)について何も規定していなかったことです。 当初、この線は地球を一周するとは考えられていませんでした。 しかし、1512年にポルトガルが香辛料の宝庫であるモルッカ諸島(スパイス諸島)に到達すると、事態は一変します。

モルッカ諸島を巡る争いとサラゴサ条約

モルッカ諸島は、クローブやナツメグといった高価な香辛料の唯一の産地であり、その支配は莫大な利益を意味しました。 ポルトガルが東からモルッカに到達した一方、スペインは、フェルディナンド・マゼランの探検隊が1521年に世界周航の途上で同諸島に到達したことを根拠に、トルデシリャス条約が地球を二つの半球に分割するものであり、モルッカ諸島はスペイン側の半球(西半球)に位置すると主張しました。 こうして、両国は地球の反対側で再び領有権を争うことになりました。 この問題を解決するため、1524年にバダホスとエルヴァスで専門家委員会(フンタ)が開かれましたが、合意には至りませんでした。 最終的に、この紛争は1529年4月22日に調印されたサラゴサ条約によって解決されます。 サラゴサ条約の主な内容は以下の通りです。 新たな境界線の設定: アジアにおける境界線(対蹠子午線)を、モルッカ諸島の東297.5リーグ(または東経17度)に設定しました。 これにより、モルッカ諸島は明確にポルトガルの勢力圏内にあるとされました。 スペインの権利放棄: スペインは、モルッカ諸島に対する全ての権利主張を放棄する見返りとして、ポルトガルから35万ドゥカティの金を受け取りました。 このサラゴサ条約によって、トルデシリャス条約が創始した世界の二分割は、名実ともに完了しました。 興味深いことに、サラゴサ条約の境界線によれば、後にスペインが植民地化するフィリピン諸島は、実際にはポルトガルの勢力圏に位置していました。 しかし、ポルトガルは香辛料を産出しないフィリピンにあまり関心を示さなかったため、スペインによる植民地化を黙認する形となりました。

先住民への影響

トルデシリャス条約は、ヨーロッパの大国間の紛争を解決することを目的としていましたが、分割される土地に住んでいた先住民の権利や存在は完全に無視されていました。 この条約は、ヨーロッパ諸国が非ヨーロッパ地域に対して主権を主張し、その土地と資源を収奪し、人々を支配することを法的に正当化する論理の基礎となりました。 教皇勅書とそれに続くトルデシリャス条約は、スペインとポルトガルに、遭遇した非キリスト教徒をカトリックに改宗させる義務を課すと同時に、服従しない者を奴隷とする権利を与えました。 これは、エンコミエンダ制のような搾取的な労働制度や、先住民文化の破壊、そしてヨーロッパから持ち込まれた病気による人口の激減といった、植民地化がもたらした悲劇的な結果へとつながっていきました。

条約の終焉と遺産

トルデシリャス条約は、理論上は「永遠に」有効であるとされていました。 しかし、その後の歴史の展開の中で、その実効性は次第に失われていきました。 他国の進出: 前述の通り、イギリス、フランス、オランダなどの国々が条約を無視して海外に進出し、イベリア両国の独占は崩れました。 ポルトガルによる境界線の越境: 特に南米大陸では、ポルトガル領ブラジルの植民者たち(バンデイランテスと呼ばれる探検家や奴隷狩り商人など)が、金や奴隷を求めてトルデシリャス線を越えて西方の奥地へと深く進出していきました。これにより、ブラジルの領土は条約で定められた範囲を大きく超えて拡大しました。 条約の公式な無効化: 1750年に結ばれたマドリード条約において、スペインとポルトガルは、トルデシリャス条約がもはや現実の国境を反映していないことを認め、既成事実を追認する形でブラジルとスペイン領アメリカの新たな国境線を定めました。 これにより、トルデシリャス条約は事実上無効となりました。その後、1777年のサン・イルデフォンソ条約で、南米における両国の国境はさらに調整されました。 トルデシリャス条約は、18世紀にはその効力を失いましたが、その歴史的遺産は今日にも見て取ることができます。 言語と文化の境界線: この条約が定めた分割線は、南米大陸の言語地図に決定的な影響を与えました。ブラジルがポルトガル語を公用語とする唯一の南米大陸国家である一方、他のほとんどの国々がスペイン語を話すのは、この条約にその起源を遡ることができます。 国際法の先駆け: トルデシリャス条約は、教皇の権威にのみ頼るのではなく、国家間の直接交渉によって領土問題を解決しようとする試みであり、近代的な国際法の発展における一つの画期と見なすことができます。 植民地主義の象徴: 同時に、この条約は、ヨーロッパ中心主義的な世界観と、非ヨーロッパ世界に対する支配と搾取を正当化した植民地主義の負の遺産の象徴でもあります。 先住民の権利を完全に無視して地球を分割したこの合意は、その後の数世紀にわたる植民地支配の歴史の始まりを告げるものでした。 結論として、トルデシリャス条約は、15世紀末の地政学的な状況が生み出した、野心と妥協の産物でした。 それは、スペインとポルトガルという二大海洋大国間の衝突を一時的に回避し、両国が巨大な植民地帝国を築く道を開きました。 しかし、その効力は限定的であり、他のヨーロッパ諸国の挑戦や、地理的知識の限界、そして植民地における現実の人間活動によって、次第に形骸化していきました。

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