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李時珍とは わかりやすい世界史用語2188
著作名: ピアソラ
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李時珍の生涯とその偉業

李時珍(1518年-1593年)は、明代の中国において最も著名な博物学者、薬学者、そして医師の一人です。彼の名は、中国医学の歴史において不滅の輝きを放ち、その主著である『本草綱目』は、後世の医学、薬学、さらには博物学に計り知れない影響を与えました。彼の生涯は、官僚としての栄達を求める当時の一般的な価値観から離れ、医学と自然探求という自らの情熱に身を捧げた、真摯な学究の道そのものでした。



医学一家の出自と初期の教育

李時珍は1518年、湖広省の蘄州(現在の湖北省蘄春県)に生まれました。彼の家系は三代にわたる医者の家柄でした。祖父は薬箱と鍼を携えて各地を巡り、人々を治療する旅の医者でした。このような医師は、銅鑼を鳴らして自らの存在を知らせたことから「鈴医」と呼ばれていました。彼の父、李言聞もまた、尊敬を集める医師であり、学者でした。李言聞は太医院(宮廷の医療機関)で下級の医官を務めた経験を持ち、『人参伝』や『艾葉伝』など、いくつかの医学書を著したことでも知られています。

当時の明代社会では、医者の社会的地位は決して高いものではありませんでした。そのため、父の李言聞は、息子である時珍が科挙(官僚登用試験)に合格し、官僚として立身出世することを強く望んでいました。この期待に応えるべく、李時珍は幼少期から儒教の経典を学び、科挙の準備に励みました。彼は聡明で、14歳の時には県レベルの試験(秀才)に合格しました。しかし、その後、省レベルの試験(挙人)には三度挑戦したものの、いずれも合格することができませんでした。

この繰り返される失敗は、李時珍にとって大きな転機となりました。彼は23歳の時、官僚としての道を断念し、自らの関心と適性が医学にあることを確信します。そして、父の跡を継ぎ、医の道を歩むことを決意しました。当初は息子の選択に反対していた父も、最終的には彼の熱意を認め、自らの弟子として迎え入れ、長年の臨床経験と知識のすべてを授けました。

幼い頃から父に連れられて山に入り、薬草を採集し、動植物や薬物に関する知識を自然に身につけていた李時珍にとって、この決断は天職への回帰とも言えるものでした。彼は父の往診に同行し、その仕事ぶりに魅了されていたのです。彼は数年間、実家で医学の古典を徹底的に読みふけり、哲学や歴史、詩作にも通じるなど、幅広い学識を身につけていきました。

医師としての名声と宮廷での経験

父のもとで見習いとして研鑽を積んだ李時珍は、すぐに優れた医師としての頭角を現し始めました。彼は単に先人の知識を受け継ぐだけでなく、独自の創造性を発揮し、患者への深い共感を持って治療にあたりました。その結果、わずか数年で地元で高い名声を得るに至ります。

彼の名声を決定的なものにしたのは、27歳(一説には38歳)の時、明の皇族である朱英㷿(楚王)の息子の難病を治癒したことでした。この功績により、彼は楚王府に招かれ、祭祀と医療を司る役人として仕えることになります。この地位は、彼に安定した生活と、さらなる学問研究の機会をもたらしました。

数年後、彼の名声は中央政府にも届き、北京の太医院に推薦され、院判補佐という役職に就きました。この宮廷での勤務は、彼にとって非常に重要な経験となります。太医院では、一般には閲覧不可能な、貴重で古い医学文献を自由に読む機会に恵まれたのです。

しかし、この宮廷での役人生活は、彼の性には合いませんでした。官僚的な組織の雰囲気は、彼の探求心を満たすものではなく、わずか1年余りで病気を理由に職を辞し、故郷の蘄州へと戻りました。この短い期間ではありましたが、太医院で数多くの医学書に触れた経験は、彼にある重大な問題意識を抱かせることになります。それは、既存の医学書、特に薬物に関する書物(本草書)に、多くの誤り、矛盾、そして情報の欠落が存在するという事実でした。薬草の名称や分類は混乱しており、誤った情報に基づいて薬が処方されれば、患者の健康、ひいては生命に危険が及ぶと彼は深く憂慮したのです。この問題意識こそが、彼を生涯の偉業である『本草綱目』の編纂へと駆り立てる直接的な動機となりました。

『本草綱目』編纂への道

故郷に戻った李時珍は、一人の医師として臨床に携わる傍ら、壮大な計画に着手します。それは、古今東西の薬物に関する知識を網羅し、誤りを正し、論理的な体系のもとに再編纂するという、前代未聞の百科事典的薬物書の作成でした。彼がこの大事業を開始したのは34歳の頃とされています。

彼の研究方法は、単なる文献研究にとどまりませんでした。彼はまず、宋代の唐慎微が著した『経史証類備急本草』を基礎的な文献として選びました。この書物は、他の本草書と異なり、各薬物の項目に具体的な処方が含まれている点で優れていました。その上で、彼は当時入手可能であったほぼすべての医学書、約800冊を収集し、徹底的に渉猟しました。彼の参照範囲は医学書にとどまらず、歴史書、地理書、さらには詩や文学作品にまで及びました。彼は、医学書よりも詩の一節の方が薬物の効果を的確に表現している場合があると考え、あらゆる文献から有用な情報を拾い集めようとしました。

文献研究と並行して、李時珍は広範囲にわたる実地調査を行いました。彼は自ら山野に分け入り、薬草を採集し、その形態、生態、そして効能を自身の目で確かめました。彼は薬草農家、猟師、漁師、木こりといった、自然の中で働き、植物や動物に関する実践的な知識を持つ人々に謙虚に教えを請い、各地に伝わる民間療法や知見を丹念に収集しました。多くの薬草を自ら栽培し、時には自身の体でその薬効や毒性を試すことさえあったと伝えられています。

この長年にわたる調査の旅は、彼に多くの発見をもたらしました。例えば、古くから「蓬虆」という一つの名で呼ばれていた植物が、実際にはキイチゴ属の五つの異なる種であることを突き止めるなど、既存の知識の誤りを次々と正していきました。彼の探求は中国国内にとどまらず、遠く海外から伝わった薬物、例えばブドウ、ニンジン、カボチャ、サツマイモ、樟脳などについても詳細な記述を残しています。

この気の遠くなるような作業は、彼の息子や孫、弟子たちの助けを借りながら、約27年という歳月をかけて続けられました。彼は収集した膨大な情報を整理し、独自の分類法を考案し、一つ一つの項目を丁寧に記述していきました。

『本草綱目』の構造と内容

1578年、李時珍が60歳の時、『本草綱目』の初稿がついに完成しました。その後も彼は改訂を重ね、1587年頃に最終的な形となります。完成した『本草綱目』は、全52巻、約200万字にも及ぶ大著でした。

書名の「綱」と「目」は、その構成上の特徴を示しています。彼は、薬物を大きな分類である「綱」と、より詳細な項目である「目」に分ける、階層的な分類体系を導入しました。これは、儒教の経書である『資治通鑑綱目』の構成に倣ったものとされています。彼は全薬物を16の部(綱)と60の類(目)に大別しました。その分類は、水、火、土、金石といった無機物から始まり、草、穀、菜、果、木といった植物、そして虫、鱗、介、禽、獣といった動物、最後に人間に至るという、単純なものから複雑なものへ、下等なものから高等なものへと至る壮大な体系でした。この分類法は、近代的な分類学とは基準が異なるものの、自然界を体系的に整理しようとする強い意志と、新儒教的な自然哲学に基づいた一貫性を持っていました。

『本草綱目』には、合計1892種の薬物が収載されています。このうち、374種は李時珍が新たに追加したものでした。収載された薬物の内訳は、植物性が1094種、動物性が444種、鉱物性が275種に及びます。

各薬物の項目(目)には、以下の情報が体系的に記述されています。

釈名: 名称の由来や別名を解説します。

集解: 産地、形態、採集時期、加工法などを詳述します。

修治: 薬物の加工・調製方法を説明します。

気味: 薬物の性質(四気)と味(五味)を記します。

主治: 主な効能を記述します。

発明: 薬理作用や応用について、李時珍自身の考察や他の医家の説を交えて論じます。

附方: その薬物を用いた具体的な処方を、古典籍や民間伝承から集めて約11,000例(うち約8,000は李時珍が新たに収集したもの)も収載しています。

さらに、本書には1109点に及ぶ詳細な図譜が含まれており、これは読者の理解を大いに助けました。これらの図は、彼の息子たちによって描かれたものです。

『本草綱目』は単なる薬物学の書物ではありません。その内容は、薬学、植物学、動物学、鉱物学、化学といった自然科学の領域から、地理学、地質学、歴史学、さらには天文学や鉱業にまで及ぶ、まさに「16世紀中国の百科全書」と呼ぶにふさわしいものです。例えば、蒸留法の記述や、水銀、麻黄、ヨウ素などの利用、さらには天然痘の予防接種(人痘法)に関する言及も見られます。彼はまた、病気の治療だけでなく、予防医学の重要性も強調していました。

出版の苦難と晩年

畢生の大著を完成させた李時珍でしたが、その出版は困難を極めました。これほど長大で詳細な書物は、個人の出版業者にとってあまりにもリスクが大きく、南京の出版市場では引き受けてくれる者が見つかりませんでした。彼は宮廷による出版を望みましたが、当時の万暦帝の宮廷は彼の著作に関心を示さなかったのです。

失意の中、彼は著名な文人であり官僚でもあった王世貞に助けを求めました。王世貞は『本草綱目』の価値を高く評価し、序文を寄せるとともに、出版業者として胡承龍を紹介しました。しかし、李時珍は自著の出版を見ることなく、1593年に75歳でその生涯を閉じました。

彼の死から3年後の1596年、ついに南京で『本草綱目』の初版(金陵版)が刊行されました。しかし、この初版は校訂が不十分で、印刷の質も高くありませんでした。その後、1603年に江西で改訂版が出版され、これを皮切りに、17世紀を通じて何度も再版が重ねられました。版を重ねるごとに図譜も充実し、その名声は確固たるものとなっていきました。

後世への影響

『本草綱目』は、刊行後すぐに中国国内だけでなく、朝鮮半島や日本にも伝わり、多大な影響を与えました。特に日本では、17世紀初頭に伝来すると、本草学(博物学)研究の最も権威ある文献と見なされ、多くの学者によって研究、翻訳、注釈が行われました。

李時珍は『本草綱目』以外にも、『瀕湖脈学』や『奇経八脈考』といった脈診に関する著作など、11の医学書を著したとされていますが、現存するのはそのうちの3冊のみです。しかし、『本草綱目』一冊だけでも、彼の名を不滅のものとするには十分すぎるほどの偉業でした。

李時珍の生涯は、名声や地位を求めるのではなく、人々の苦しみを和らげたいという純粋な動機と、真理を探究する飽くなき情熱に貫かれていました。彼は、既存の権威を鵜呑みにせず、自らの観察と経験、そして論理的な思考に基づいて知識を体系化しようとしました。

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