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白村江の戦いとは わかりやすい世界史用語678
著作名: ピアソラ
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白村江の戦いとは

白村江の戦いは、663年に朝鮮半島の白村江(現在の韓国の錦江下流域)で行われた戦いです。この戦いは、百済復興軍とその同盟国である倭国(日本)と、新羅・唐の連合軍との間で行われました。

背景

白村江の戦いの背景には、朝鮮半島の三国時代(高句麗、百済、新羅)の複雑な政治・軍事状況があります。百済は、かつて新羅と同盟を結んで高句麗と戦っていましたが、553年に新羅が百済を裏切り、漢江流域を奪取しました。この出来事は、百済と新羅の関係を悪化させ、その後の対立の原因となりました。

一方、中国では隋と唐の二つの王朝が高句麗と頻繁に戦争を繰り広げていました。唐は新羅と同盟を結び、高句麗と百済を攻撃しました。660年、唐と新羅の連合軍は百済を滅ぼし、百済の王族や貴族は倭国に逃れました。倭国は百済と長い間同盟関係にあり、百済の王族が倭国に避難することは、両国の友好関係を象徴していました。

戦いの経過

百済復興軍は、倭国の支援を受けて百済の復興を目指しました。663年、百済復興軍と倭国の連合軍は、白村江で新羅・唐の連合軍と対峙しました。この戦いは、8月27日から28日(旧暦)にかけて行われました。

百済・倭国連合軍は、両軍ともに多くの犠牲者を出しましたが、最終的に新羅・唐連合軍が勝利を収めました。倭国の軍勢は大きな損害を受けました。

結果と影響

白村江の戦いの結果、新羅・唐連合軍は決定的な勝利を収め、倭国は朝鮮半島から完全に撤退しました。この戦いは、百済復興運動の終焉を意味し、百済の復興は実現しませんでした。

この戦いの後、倭国は朝鮮半島への関与を大幅に減少させ、国内の政治・軍事体制の再編成に集中しました。また、新羅は唐の支援を受けて朝鮮半島の統一を進め、668年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一しました。その後羅唐戦争(670~676年)を経て、新羅は唐の軍隊を朝鮮半島から撤退させました。

白村江の戦いは、東アジアの歴史において重要な転換点となりました。この戦いを通じて、新羅は朝鮮半島の統一を達成し、唐は東アジアにおける影響力を強化しました。一方、倭国は朝鮮半島への影響力を失い、国内の発展に注力することとなりました。

白村江の戦いは、663年に朝鮮半島で行われた重要な戦いであり、百済復興軍と倭国の連合軍が新羅・唐の連合軍に敗北した結果、百済の復興は実現せず、新羅が朝鮮半島を統一する道を開きました。

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