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中世ヨーロッパの歴史 3 フランク王国の分裂とドイツ・フランス・イタリアの起源
著作名: ピアソラ
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フランク王国の分裂

カール大帝という優れた王によって、フランク王国の広大な領土は維持されていました。

しかし、カール大帝の死後、フランク王国は分裂してしまいます。

まず、843年ヴェルダン条約によって三分割されます。

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(ヴェルダン条約時)

その後870年のメルセン条約によって東フランク西フランクイタリアの三国にわかれます。

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(メルセン条約時)

これが、現在のドイツ、フランス、イタリアの基礎になっていきます。

東フランク王国

東フランクはその後のドイツになります。

この王国では、北部のザクセン、東部のバイエルン、南部のシュワーベン、中部のフランケンなど、各地の諸侯が強い力を持っていました。

911年にカロリング家の血筋が途絶えると、諸侯たちによる選挙王政がはじまります。

919年、有力諸侯の一つだったザクセン家ハインリヒ1世(在位919~936)が王に選ばれます。

ハインリヒ1世は選挙で選ばれた国王だったので、その他諸侯も依然として力を持っていました。


ハインリヒ1世の次に即位したのがオットー1世(在位936~973)です。

オットー1世は、ローマ教皇の要請を受けてイタリア遠征を行い、東方から侵入したアジア系民族マジャール人レヒフェルトの戦いで撃退するなど、王権の強化に努めます。

この働きに対し、962年ローマ教皇ヨハネス12世は、オットー1世にローマ皇帝の帝冠を与え、神聖ローマ帝国が誕生します。

彼は、反皇帝派を抑えるため、カール大帝のようにキリスト教会の権力を利用する政治を行いました。

オットー1世は、ドイツのキリスト教会やその司教にさまざまな権利を与え、聖職者の任免権を皇帝が握る帝国教会政策をはじめます。

また、キリスト教会への影響力を維持するために、教皇や教皇領の保護を目的としてイタリアに干渉するイタリア政策を続けます。

このイタリア政策の結果、ドイツでは国内の統一が進まず、分裂状態の神聖ローマ帝国は1806年まで続きました。

西フランク王国

西フランクはその後のフランスになります。

西フランクでも諸侯が力を持つ状態が続き、王権は弱いままでした。

分裂状態にも関わらず、西フランクはノルマン人の侵入が相次ぎ、戦いが続きます。

987年カロリング家の血筋が途絶えると、パリ近郊を支配していた諸侯のパリ伯のカペー家の人間が国王に選ばれます。

カペー朝の初代君主となったユーグ=カペーによりフランス王国が誕生しますが、この当時カペー家以外に多数の有力諸侯が存在し、地方分権的な状況が続きます。

イタリア

イタリアでは875年にカロリング家が断絶し、王位をめぐってさまざまな対立が起こりますが、ジェノヴァヴェネツィアなどの都市国家やその他諸侯が自立しする一方で、外部からマジャール人イスラム勢力神聖ローマ帝国ヴァイキングの侵入が次々と起こりました。これらの外敵に対し、人々は都市を中心に自力で防衛したので、各地に自治都市が発展し、イタリアでは分権化した状態が長く続きます。

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