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権利の宣言とは わかりやすい世界史用語2718 |
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著作名:
ピアソラ
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権利の宣言とは
権利の宣言は、1689年のイングランドで、名誉革命の混乱の中から生まれた、極めて重要な憲法上の文書です。この宣言は、国王ジェームズ2世の専制的な統治によって侵害されたと見なされた、イングランド国民の古来からの権利と自由を再確認し、将来の国王が同様の権力濫用を行うことを防ぐための具体的な制限を定めました。それは単なる政治的な声明にとどまらず、ウィリアムとメアリーがイングランドの王位に就くための、いわば契約書のような役割を果たしました。この宣言の内容は、その年の後半に「権利の章典」として法制化され、イギリスの立憲君主制の礎を築くことになります。その起草過程と内容は、17世紀を通じて続いた国王と議会の間の権力闘争の、一つの到達点を示すものでした。
起草の背景
権利の宣言が起草されたのは、1688年の冬から1689年の初頭にかけての、イングランドが政治的な真空状態にあった時期でした。国王ジェームズ2世は、オランダ総督ウィレム3世(オレンジ公ウィリアム)の軍事介入と、国内の支持を失ったことにより、1688年12月にフランスへ亡命しました。国王が自ら国を放棄したことで、イングランドの統治機構は麻痺状態に陥ります。
この危機的状況を収拾するため、ウィリアムの呼びかけで、1689年1月に「仮議会」が召集されました。これは、正式な国王の召集令状なしに開かれたため、法的には変則的な議会でしたが、事実上の最高意思決定機関として機能しました。この議会の当面の課題は二つありました。一つは、空位となった王位をどうするか。もう一つは、ジェームズ2世のような専制君主が二度と現れないように、どのような憲法上の保障を設けるか、でした。
議会内では、ホイッグ党とトーリ党の間で激しい議論が交わされました。ホイッグ党は、ジェームズ2世が統治契約を破ったことで王位は空位となり、議会が新たな国王を選ぶ権利を持つと主張しました。彼らは、この機会に国王の権力を大幅に制限する、新しい憲法を制定することを望んでいました。一方、トーリ党は、世襲君主制の原則を重んじ、ジェームズは依然として法的な国王であると考えました。彼らの一部は、ウィリアムを摂政として立てることを提案しましたが、ウィリアム自身がそれを断固として拒否しました。彼は、妻メアリー(ジェームズ2世の長女)の権利によって統治する単なる「王配」になることも、議会に縛られた無力な君主になることも望まなかったのです。
この膠着状態を打開するため、議会は二つの課題を並行して進めるという、現実的なアプローチを選択します。つまり、王位の提供と、国民の権利の保障を、一つのパッケージとしてまとめることにしたのです。こうして、庶民院に設置された特別委員会が、将来の国王が従うべきルール、すなわち「権利の宣言」の起草に着手しました。
起草の過程
宣言の起草作業は、迅速かつ集中的に行われました。委員会は、まずジェームズ2世の統治下で行われた、違法で国民の権利を侵害する行為をリストアップすることから始めました。これには、議会の承認なしに法律を停止したり(停止権)、特定の個人に対して法律の適用を免除したり(免除権)したこと、宗教裁判所のような違法な裁判所を設置したこと、議会の承認なく課税したこと、平時に常備軍を維持したこと、議会選挙に不当に干渉したこと、などが含まれていました。
これらの具体的な不正行為を列挙することで、起草者たちは、自分たちの主張が抽象的な政治理論ではなく、実際に経験した苦い体験に基づいていることを示そうとしました。彼らは、新しい憲法を「発明」しているのではなく、ステュアート朝の国王たち、特にジェームズ2世によって侵害された「古来からの権利と自由」を「回復」し、「再確認」しているのだ、という立場をとったのです。このアプローチは、伝統と前例を重んじるトーリ党の支持を取り付ける上で、非常に効果的でした。
次に委員会は、これらの不正行為が二度と繰り返されないようにするための、具体的な救済策を議論しました。ここで、ホイッグ党とトーリ党の間の思想的な違いが再び表面化します。急進的なホイッグ党員は、より広範な改革、例えば国王の拒否権の制限や、大臣の議会に対する責任の明確化などを盛り込むことを主張しました。しかし、トーリ党や穏健派のホイッグ党員は、あまりに急進的な改革は政治的な合意を困難にし、王位の早期安定という喫緊の課題を危うくすると懸念しました。
最終的に、宣言は、両者の妥協の産物として形作られました。それは、新しい権利を創設するのではなく、既存の権利を明確に宣言するという、比較的穏健な形をとりました。起草者たちは、最も明白で議論の余地のない、ジェームズ2世の権力濫用の事例に焦点を絞り、それらを違法であると断定することに集中したのです。この現実的な判断が、宣言が短期間で議会の幅広い支持を得ることを可能にしました。
宣言の内容
1689年2月13日、仮議会は完成した「権利の宣言」を、ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウスで、ウィリアムとメアリーに提示しました。この文書は、大きく三つの部分から構成されています。第一部は、ジェームズ2世の不正行為の告発。第二部は、それらの行為を違法と断じ、国民の真の、古来からの、そして疑うべからざる権利と自由を列挙する部分。そして第三部は、ウィリアムとメアリーに王位を提供し、新たな王位継承順位を定める部分です。この構造自体が、王位の提供が、国民の権利の承認と不可分であることを明確に示していました。
ジェームズ2世の不正行為
宣言の冒頭部分は、ジェームズ2世に対する12項目からなる詳細な告発状となっています。これは、革命の正当性を主張するための、いわば起訴状でした。
主な告発内容は以下の通りです。
議会の同意なしに、法律とその執行を停止する権力(停止権・免除権)を僭取し、行使したこと。
国教会の主教たちを、国王への恭順な請願を理由に投獄し、裁判にかけたこと。
教会問題に関する高等弁務官裁判所と称する、違法な裁判所を設置したこと。
議会の承認なく、国王大権の名の下に、国王のために金銭を徴収したこと。
議会の同意なく、平時に王国内で常備軍を徴募し、維持したこと。
プロテスタントの臣民から、法に反して武器を取り上げたこと。
議会議員の選挙の自由に干渉したこと。
議会でしか審理できない事柄を、他の法廷で審理したこと。
過大な保釈金を要求し、過酷で異常な罰を科したこと。
これらの告発は、ジェームズ2世の統治が、単なる政策の誤りではなく、イングランドの法と憲法に対する体系的な攻撃であったことを論証しようとするものでした。それは、国王が法の上に立とうとした試みであり、それこそが革命を不可避にした元凶であると、宣言は主張しているのです。
権利の主張
宣言の核心部分は、ジェームズ2世の不正行為を違法であると断罪し、それに対応する国民の権利を明確に主張する13の条項です。これは、将来の君主が遵守すべき、統治の基本ルールを定めたものでした。
主な条項は以下の通りです。
国王が議会の承認なしに法律を停止したり、その執行を免除したりする権力は、違法である。
議会の承認なく、国王大権によって課税することは、違法である。
国王に請願することは臣民の権利であり、その請願を理由に投獄や訴追を行うことは違法である。
議会の承認なく、平時に王国内で常備軍を維持することは、違法である。
プロテスタントの臣民は、その身分に応じて、法が許す範囲で自衛のために武器を保有することができる。
議会議員の選挙は、自由でなければならない。
議会における言論の自由、討論や議事手続きの自由は、議会以外のいかなる場所においても、弾劾されたり問われたりしてはならない。
過大な保釈金、過大な罰金、残虐で異常な刑罰は、科されるべきではない。
議会は、法の改正、強化、維持のために、頻繁に開かれなければならない。
これらの条項は、17世紀のイングランド人が、自由な国民としてどのような統治を望んでいたかを雄弁に物語っています。それは、国王の権力が法によって明確に制限され、国民の財産権が保障され、議会が定期的に開かれて国政の中心的な役割を担う、という統治体制でした。特に、議会の自由な選挙、議会での言論の自由、そして議会を頻繁に開くことの要求は、議会主権の確立に向けた強い意志を示しています。
宣言の意義と影響
権利の宣言は、その後のイギリス、そして世界の憲法史において、計り知れないほどの大きな意義を持つことになります。それは、単に一つの革命を締めくくる文書であっただけでなく、近代的な立憲主義の基本原則を打ち立て、後の世代に永続的な遺産を残したからです。
王位提供の条件として
宣言の直接的な機能は、ウィリアムとメアリーへの王位提供の前提条件となったことです。1689年2月13日、彼らがホワイトホール宮殿でこの宣言を聴き、それを受け入れたことで、王位の継承が正式に決定しました。この儀式的な行為は、王権の源泉が、もはや神の恩寵や血統の尊さだけにあるのではなく、国民(を代表する議会)の同意と、彼らが定める法に従うという約束に基づいていることを、象徴的に示していました。
君主は、統治を始めるにあたり、まず国民の権利を確認し、それを尊重することを誓わなければならない。この新しい原則は、イングランドの君主制のあり方を根本的に変えました。国王はもはや絶対的な支配者ではなく、法の下にある、国民との契約によって統治する存在、すなわち「立憲君主」となったのです。
権利の章典への発展
権利の宣言は、それ自体が法律ではありませんでした。それは、法的に変則的な存在である仮議会による「宣言」に過ぎませんでした。そのため、革命体制が安定すると、その内容を恒久的な成文法として確立する必要性が認識されるようになります。
1689年12月、議会は権利の宣言の内容をほぼそのまま引き継ぎ、いくつかの条項(特に王位継承に関する規定)を補強した上で、「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」、通称「権利の章典」として制定しました。これにより、宣言で謳われた原則は、イングランドの最高法規の一部となり、法的な拘束力を持つことになりました。
権利の章典は、1215年のマグナ=カルタ、1628年の権利の請願と並び、イギリスの憲法を構成する最も重要な文書の一つと見なされています。それは、国王大権に対する議会の勝利を確定させ、その後のイギリスにおける議会主権の発展の不動の基礎を築きました。
思想的遺産
権利の宣言とその後の権利の章典が確立した原則は、イギリス国内にとどまらず、大西洋を越えて広がっていきました。特に、北米のイギリス植民地に与えた影響は絶大でした。植民地の人々は、自らを本国のイギリス人と同様の権利を持つ「自由な民」であると考えており、権利の章典に謳われた原則を、自らが享受すべき当然の権利と見なしていました。
18世紀後半、イギリス本国政府が植民地に対して「代表なくして課税」を行おうとしたとき、植民地の人々がそれに激しく抵抗したのは、まさに権利の章典が保障したはずの原則が踏みにじられたと感じたからでした。アメリカ独立革命のスローガンや、独立宣言、そしてアメリカ合衆国憲法とその修正条項(特に権利章典)には、1689年の権利の宣言に由来する理念が色濃く反映されています。例えば、過大な保釈金や残虐な刑罰の禁止、武器保有の権利、言論の自由といった条項は、その直接的な影響を示しています。
このように、権利の宣言は、17世紀末のイングランドにおける特定の政治的危機への対応として生まれましたが、それが掲げた、政府の権力は法によって制限されなければならず、国民は政府の権力濫用から保護される基本的な権利を持つという理念は、時代と場所を超えた普遍的な価値を持つに至りました。それは、専制政治に対する立憲主義の勝利を告げる、近代世界の幕開けを象徴する文書の一つとして、歴史にその名を刻んでいるのです。
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