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独立宣言《オランダ》とは わかりやすい世界史用語2631 |
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著作名:
ピアソラ
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独立宣言《オランダ》とは
1581年7月26日、ハーグで一つの文書が公布されました。「統治権否認令」あるいは「離脱宣言」と訳されるこの布告は、のちに「オランダ独立宣言」として知られるようになります。この文書は、ネーデルラント北部の諸州が、長年にわたり君主として仰いできたスペイン王フェリペ2世の統治権を公式に否認し、彼との決別を宣言するものでした。これは、単なる反乱の声明ではありません。君主がその臣民との間に結ばれた暗黙の契約を破り、圧政者と化した時、臣民は抵抗し、新たな君主を探す権利を持つという、当時としては極めて急進的な政治思想を表明した、画期的な宣言でした。
この宣言が生まれる背景には、16世紀ヨーロッパを覆っていた宗教改革の嵐と、ハプスブルク家による巨大帝国の形成という二つの大きな歴史の潮流がありました。ネーデルラント17州は、ヨーロッパでも有数の商業と工業の中心地として繁栄を極めていましたが、その地はカール5世、そしてその息子フェリペ2世の時代に、ハプスブルク家の支配下に置かれていました。特に敬虔なカトリック教徒であったフェリペ2世は、ネーデルラントで急速に広まっていたプロテスタント、とりわけカルヴァン派の信仰を根絶しようと、異端審問を強化し、厳しい弾圧政策を推し進めました。
この宗教的弾圧は、古くから都市や州が享受してきた特権や自治権を尊重せず、中央集権化を進めようとするフェリペ2世の政治姿勢と相まって、ネーデルラントの貴族から民衆に至るまで、幅広い層の激しい反発を招きました。当初は平和的な請願や妥協の道が模索されましたが、1566年の聖像破壊運動(ビルダーシュトルム)をきっかけに、フェリペ2世はアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド率いる大軍を派遣します。アルバ公が設置した「騒乱評議会」、通称「血の評議会」は、数千人もの人々を反逆罪で処刑し、その恐怖政治はネーデルラント全土を震撼させました。
この圧政に対し、亡命していたオラニエ公ウィレム1世(沈黙公)が抵抗運動の旗頭として立ち上がります。彼が率いる反乱軍とスペイン軍との間で繰り広げられた戦いは、「八十年戦争」として知られる長い独立戦争の始まりでした。戦争は泥沼化し、ネーデルラントはスペインの支配下にとどまる南部と、反乱を続ける北部に分裂していきます。1579年、北部の諸州はユトレヒト同盟を結成し、軍事的な結束を固めました。しかし、彼らは依然としてフェリペ2世を君主として形式的には認めており、あくまで「悪しき顧問官」による圧政からの解放を求めているという立場でした。
しかし、和平交渉は決裂し、フェリペ2世がオラニエ公ウィレムを「法の保護外」と宣言し、その首に懸賞金をかけたことで、両者の和解の可能性は完全に断たれました。もはやフェリペ2世の下で自由と権利が守られることはないと悟った反乱諸州は、ついに最後の決断を下します。それが、君主そのものを否認するという、前代未聞の行動でした。
背景
1581年の統治権否認令は、ある日突然生まれたものではありません。それは、半世紀以上にわたる政治的、宗教的、経済的な緊張が積み重なり、爆発した結果でした。その根源を理解するためには、16世紀のネーデルラントが置かれていた複雑な状況と、それを支配したハプスブルク家の政策を詳しく見ていく必要があります。
ハプスブルク家の支配=中央集権化
15世紀、ブルゴーニュ公国の下で統合されたネーデルラント17州は、1482年に婚姻政策を通じてハプスブルク家の手に渡りました。そして16世紀初頭、神聖ローマ皇帝カール5世の時代に、その支配は決定的なものとなります。カール5世は、ネーデルラントで生まれ育ち、現地の言葉を話したため、当初は領民から一定の親近感を持たれていました。しかし、彼が目指したのは、多様な法と慣習を持つ各州を、一つの統一された中央集権的な国家へとまとめ上げることでした。
彼は、ブリュッセルに中央政府を置き、財政評議会、国務評議会、枢密院といった行政機関を設立しました。これらの機関を通じて、彼は各州の伝統的な自治権や特権を徐々に侵害し始めました。古くから、ネーデルラントの諸都市や州は、君主に対して納税の義務を負う代わりに、広範な自治権を保障されるという「特権(privileges)」を持っていました。新しい法律の制定や課税には、各州の代表者からなる身分制議会(スターテン)の同意が必要とされていました。しかし、カール5世の中央集権化政策は、この伝統的な権力バランスを崩し、君主の権力を強化しようとするものでした。これは、自分たちの自由と権利が脅かされていると感じた多くの都市や貴族の間に、深い警戒心を生むことになりました。
宗教改革=プロテスタントの弾圧
中央集権化政策と並行して、さらに深刻な対立の火種となったのが宗教問題でした。1517年にマルティン=ルターが宗教改革を開始して以来、プロテスタントの思想はヨーロッパ全土に急速に広まりました。特に、商業と印刷技術が発達していたネーデルラントは、新しい思想が浸透しやすい土壌でした。当初はルター派や再洗礼派(アナバプテスト)が広まりましたが、1540年代以降、フランスの宗教改革者ジャン=カルヴァンの教えが、特に南部フランドル地方の都市部や、北部ホラント州、ゼーラント州の商工業者の間で強力な支持を得るようになります。
敬虔なカトリック教徒であったカール5世は、このプロテスタントの動きを、神への冒涜であると同時に、自らの権威に対する挑戦と見なしました。彼は、異端者を根絶するために、ヨーロッパで最も厳しいとされる一連の勅令、通称「血の勅令」を発布しました。これらの法令は、プロテスタントの書物を印刷、販売、所持すること、秘密の集会を開くこと、そして異端者を匿うことなどを禁じ、違反者には死刑を含む過酷な罰を科しました。異端審問が強化され、多くの人々が信仰を理由に火刑に処せられました。
この過酷な弾圧は、プロテスタント教徒だけでなく、カトリック教徒の中からも多くの反発を招きました。彼らは、信仰の問題に国家が介入することや、裁判手続きなしに人々が処罰されることに、伝統的なネーデルラントの法と正義の精神が踏みにじられていると感じたのです。
フェリペ2世の統治=対立の激化
1555年、カール5世は退位し、その広大な領地は息子のフェリペ2世と弟のフェルディナント1世に分割されました。ネーデルラントとスペインはフェリペ2世が継承しました。スペインで生まれ育ち、ネーデルラントの言語も文化も理解しないフェリペ2世は、父以上に厳格なカトリック教徒であり、中央集権主義者でした。彼は、ネーデルラントをスペイン帝国の一地方として、マドリードから遠隔統治しようとしました。
フェリペ2世は、父の異端弾圧政策をさらに強化しました。また、彼はネーデルラントの教会組織を再編し、国王の意向に沿う人物を司教に任命することで、教会への支配を強めようとしました。これは、伝統的に教会の人事権に影響力を持っていた現地の高位貴族たちの既得権益を脅かすものでした。さらに、彼は統治を腹心のグランヴェル枢機卿に任せ、オラニエ公ウィレムやエフモント伯、ホールン伯といったネーデルラントの大貴族たちを国政の中枢から遠ざけました。
これらの政策は、宗教的自由、政治的自治、そして経済的利益という、ネーデルラント社会の根幹をなす三つの要素すべてを脅かすものでした。貴族たちは自らの政治的影響力の低下に不満を抱き、商工業者たちは重税とスペインの貿易政策に苦しみ、そして多くの民衆は宗教弾圧に恐怖しました。こうして、異なる階層の人々が、スペインの支配に対する共通の不満で結びついていったのです。
アルバ公の恐怖政治
1566年、不満はついに限界に達しました。下級貴族たちが、異端弾圧の緩和を求めて摂政マルゲリータ=ディ=パルマに請願書を提出しました。この時、側近の一人が彼らを「乞食(gueux)」と蔑んだことから、反乱派は自らを「ゴイセン(乞食党)」と名乗るようになります。この政治的な緊張が高まる中、同年夏、カルヴァン派の説教師に扇動された民衆が、各地の教会や修道院で聖像や祭壇を破壊する「聖像破壊運動(ビルダーシュトルム)」が勃発しました。
この報告に激怒したフェリペ2世は、一切の妥協を拒否し、反乱を徹底的に鎮圧するために、歴戦の将軍であるアルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドに1万人の精鋭部隊を与えてネーデルラントに派遣しました。1567年にブリュッセルに到着したアルバ公は、摂政マルゲリータを退け、事実上の独裁権を握りました。彼は、反乱の指導者や参加者を裁くために「騒乱評議会」を設置しました。この評議会は、法的な手続きを無視して次々と死刑判決を下したため、人々から「血の評議会」と恐れられました。エフモント伯やホールン伯といった、国王に忠誠を誓っていたカトリックの大貴族さえもが反逆罪で処刑され、その財産は没収されました。
この恐怖政治は、ネーデルラントの人々に、もはや平和的な解決は不可能であると悟らせました。弾圧を逃れてドイツに亡命していたオラニエ公ウィレム1世は、私財を投じて軍隊を組織し、ネーデルラントを解放するための戦いを開始しました。1568年、彼の軍隊がネーデルラントに侵攻したことで、80年にわたる長く血なまぐさい独立戦争、すなわち八十年戦争の火蓋が切られたのです。アルバ公の圧政は、抵抗の芽を摘むどころか、逆にネーデルラントの人々を武装蜂起へと駆り立てる、決定的な引き金となりました。
宣言への道
八十年戦争の勃発から1581年の統治権否認令に至るまでの約13年間は、ネーデルラントの反乱諸州にとって、軍事的な苦闘と外交的な模索が続く、困難な道のりでした。この期間に起きた一連の出来事が、最終的にフェリペ2世との完全な決別という決断へと彼らを導いていきました。
ヘントの和約
アルバ公の恐怖政治と重税政策は、ネーデルラント全土に共通の敵愾心を生み出しました。特に、1572年に「海の乞食党(ゼーゴイセン)」と呼ばれる海上ゲリラがホラント州のブリール港を占領したことをきっかけに、北部のホラントとゼーラントの諸都市が次々と反乱側に寝返り、オラニエ公ウィレムを指導者として迎え入れました。
戦争が泥沼化する中、1576年に決定的な転機が訪れます。給料の支払いが滞ったスペイン軍の兵士たちが、アントウェルペンで大規模な略奪、暴行、虐殺を行いました。この「スパニッシュ=フューリー」として知られる事件は、4日間にわたって続き、数千人もの市民が犠牲となりました。この蛮行は、これまでスペイン側についていた南部のカトリック諸州をも震撼させ、反乱州との和解へと向かわせました。
その結果、1576年11月、ネーデルラント17州の代表がヘントに集まり、「ヘントの和約」が結ばれました。この和約は、共通の敵であるスペイン軍をネーデルラントから追放することを目的とし、宗教問題は一時棚上げにして、諸州が団結することを誓うものでした。これは、プロテスタントの北部とカトリックの南部が、スペインの圧政に対して初めて統一戦線を組んだ画期的な出来事であり、オラニエ公ウィレムが長年目指してきたネーデルラントの統一が、つかの間実現した瞬間でした。
アラス同盟とユトレヒト同盟
しかし、この奇跡的な結束は長続きしませんでした。宗教的な対立は、依然として深刻な火種として残っていました。北部のホラントやゼーラントではカルヴァン派が勢力を拡大し、カトリック教会への圧力を強めていました。一方、南部のワロン地方(現在のベルギー南部)の貴族たちは、急進的なカルヴァン派の台頭に強い警戒感を抱き、自分たちの伝統的な地位とカトリック信仰を守ることを望みました。
スペイン側もこの分裂を見逃しませんでした。フェリペ2世が新たに派遣した総督、パルマ公アレッサンドロ=ファルネーゼは、優れた軍人であると同時に、巧みな外交官でもありました。彼は、南部のカトリック貴族たちに接近し、彼らの特権を尊重し、カトリック信仰を保護することを約束する代わりに、スペイン王への忠誠を再び誓わせることに成功します。その結果、1579年1月、南部のエノー州、アルトワ州などは「アラス同盟」を結成し、フェリペ2世との和解を宣言しました。
この南部の離反に対し、オラニエ公ウィレムと北部の諸州は、同月、対抗措置として「ユトレヒト同盟」を結成しました。この同盟には、ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラントなどの北部諸州に加え、フランドルやブラバントのカルヴァン派が強い都市(ヘント、アントウェルペン、ブリュッセルなど)も参加しました。ユトレヒト同盟は、軍事、外交、課税といった分野で共同行動をとることを定め、各州の宗教の自由を相互に尊重することを誓いました。これは、事実上、後のネーデルラント連邦共和国の原型となるものでした。ヘントの和約によって生まれた統一ネーデルラントの夢は破れ、ネーデルラントはスペインに忠実な南部と、反乱を続ける北部に決定的に分裂したのです。
君主の模索=アンジュー公の招聘
ユトレヒト同盟を結成した時点でも、反乱諸州はまだフェリペ2世の君主権を公式には否認していませんでした。彼らの建前は、あくまで「悪しき顧問官」に惑わされた君主に対し、古来の権利と自由を守るために抵抗している、というものでした。しかし、現実には、フェリペ2世との和解の道はもはや閉ざされていました。そこで彼らは、フェリペ2世に代わる新たな君主を外国の王族から見つけ出すことで、自分たちの戦いを正当化し、強力な軍事的支援を得ようと考えました。
白羽の矢が立ったのは、フランス国王アンリ3世の弟であり、王位継承者であったアンジュー公フランソワでした。彼はカトリック教徒でしたが、フランス国内のユグノー(プロテスタント)に対して比較的寛容な姿勢を見せており、また、彼の母であるカトリーヌ=ド=メディシスはスペイン=ハプスブルク家と対立していました。オラニエ公ウィレムは、アンジュー公を新たな君主として迎えることで、フランスからの大規模な支援を引き出し、スペインに対抗できると期待したのです。
1580年9月、反乱諸州の全国議会(スターテン=ヘネラール)とアンジュー公との間でプレシス=レ=トゥール条約が結ばれました。この条約で、アンジュー公はネーデルラントの「プリンスであり領主」となることを受け入れ、その見返りとして、諸州の伝統的な権利、特権、自由を尊重し、全国議会の同意なしに戦争や同盟、課税を行わないことを誓約しました。これは、君主の権力が法と議会によって制限される「立憲君主制」の考え方を明確に示したものでした。
決別の宣言
アンジュー公を新たな君主として迎えるためには、まず現在の君主であるフェリペ2世の統治権を正式に放棄する必要がありました。この最終的な決断を後押ししたのが、フェリペ2世自身の行動でした。1580年6月、フェリペ2世は、反乱の首謀者であるオラニエ公ウィレムを「人類の敵」と断罪し、彼の全財産を没収し、法の保護外に置くという布告を発しました。さらに、ウィレムを殺害した者には、莫大な報奨金と貴族の称号を与えると約束しました。
この個人攻撃は、反乱諸州に大きな衝撃を与えました。君主が、臣下を法的な手続きなしに断罪し、暗殺を公然と奨励するという行為は、君主としてあるまじき暴挙と見なされました。これは、フェリペ2世がもはや正当な君主ではなく、臣民の命と安全を守るという基本的な責務を放棄した圧政者であることを、誰の目にも明らかにするものでした。オラニエ公ウィレムは、これに対して「弁明書(Apology)」を発表し、フェリペ2世の不正を激しく非難し、自らの抵抗を正当化しました。
もはや躊躇している時間はありませんでした。アンジュー公を迎え入れるという外交的な必要性と、フェリペ2世が正統な君主としての資格を失ったという道徳的な確信が一つになり、反乱諸州はついに歴史的な一歩を踏み出します。1581年7月26日、ユトレヒト同盟に参加していた諸州の代表からなる全国議会は、ハーグにおいて「統治権否認令」を全会一致で採択し、公布しました。これにより、彼らはフェリペ2世との主従関係を一方的に断ち切り、独立への不可逆的な道を歩み始めたのです。
宣言の内容
統治権否認令は、単なる感情的な独立宣言ではありません。それは、なぜフェリペ2世の統治権を否認するに至ったのかを、法的かつ論理的に説明しようと試みた、精心に練られた政治文書です。その構成は、大きく分けて三つの部分から成り立っています。まず、君主と臣民のあるべき関係についての一般原則を述べ、次に、フェリペ2世がその原則をいかに破ったかを具体的な事例を挙げて告発し、最後に、それゆえに彼を君主として認めないという結論を宣言します。
抵抗権の理論
宣言は、非常に有名で力強い一文から始まります。「すべての者に知られるように。神が民の上に君主を立てるのは、羊飼いがその羊の群れを守るためにいるのと同じように、臣民を不正や暴力から守り、保護するためである。神は民を君主の奴隷として創ったのではなく、君主を民のために創ったのである」。
この冒頭部分は、この宣言の思想的な核心をなすものです。ここで述べられているのは、君主の権力は神から与えられたものである(王権神授説)が、それは無条件ではない、という考え方です。君主の目的は、民を支配すること自体にあるのではなく、民の安全と幸福を守るという「責務」を果たすことにあります。君主と臣民の間には、一種の暗黙の「契約」が存在し、君主が民を保護する代わりに、民は君主に忠誠と服従を誓う、という関係が想定されています。
そして、宣言はさらに踏み込んで、その契約が破られた場合の帰結について論じます。「そして、君主がその責務を果たさず、逆に臣民を抑圧し、彼らの古来の慣習や特権を奪い、彼らを奴隷のように扱おうとするならば、その時、彼はもはや君主ではなく、圧政者と見なされるべきである」。
ここに、宣言の最も革命的な部分があります。君主が圧政者に成り下がった時、臣民はどうすべきか。宣言は明確に答えます。「その場合、臣民は、特にその国の身分制議会(スターテン)の審議によって、彼を君主として認めないことを決定し、彼を放棄する権利を持つ。そして、自分たちを守るために、別の者を君主として選ぶことができる」。
これは、ジョン=ロックやジャン=ジャック=ルソーが登場する1世紀以上も前に、人民の「抵抗権」と、さらには君主を「見捨てる」権利を明確に主張したものです。君主の権威は絶対ではなく、その正統性は、民の権利と自由を尊重するという条件にかかっていると宣言したのです。この理論的な枠組みを最初に提示することで、宣言は、これから続くフェリペ2世への告発を、単なる反逆者の言い分ではなく、正当な権利の行使として位置づけようとしました。
フェリペ2世の圧政
序文で示された一般原則に基づき、宣言は次に、フェリペ2世が具体的にどのような圧政を行ったのかを、27項目にわたって詳細に列挙します。これは、フェリペ2世が正当な君主ではなく、打倒されるべき圧政者であることを証明するための、いわば「起訴状」です。
告発は、カール5世が退位する際に、息子フェリペ2世にネーデルラントの特権と自由を守るよう誓わせた場面から始まります。そして、フェリペ2世がその誓いをいかに破ってきたかが、時系列に沿って述べられていきます。
主な告発内容には、以下のようなものが含まれます。
スペイン人顧問官の重用 フェリペ2世がネーデルラントの貴族を遠ざけ、グランヴェル枢機卿のようなスペイン人を重用し、彼らの助言だけを聞き入れたこと。
異端弾圧 「血の勅令」を強行し、多くの臣民を信仰のゆえに残酷に処刑したこと。これは、個人の良心に踏み込む、神に対する冒涜でもあると非難されています。
教会組織の再編 ネーデルラントの人々の意向を無視して、新たな司教区を設置し、自らの息のかかった人物を司教に任命したこと。
アルバ公の派遣と恐怖政治 請願を行った貴族たちを罰し、アルバ公率いる軍隊を派遣して国を蹂躙させたこと。「血の評議会」を設置し、エフモント伯やホールン伯を含む無数の人々を不法に処刑したこと。
重税の賦課 諸州の同意なしに、「十分の一税」のような耐え難い重税を課し、国の経済を破壊しようとしたこと。
ヘントの和約の破棄 諸州が団結して結んだヘントの和約を認めず、州間の分裂を煽ったこと。
オラニエ公ウィレムの追放 反乱の指導者であるオラニエ公ウィレムを不法に断罪し、その暗殺を奨励したこと。これは、文明国の君主としてあるまじき行為であるとされています。
これらの告発は、一つ一つが、フェリペ2世が君主としての責務を放棄し、臣民との契約を踏みにじった証拠として提示されます。宣言は、これらの行為を通じて、フェリペ2世が「我々を奴隷の状態に貶めようとした」と結論づけています。
統治権の否認
詳細な告発の後、宣言は最終的な結論に至ります。「これらの理由により、我々は、ブラバント公、リンブルフ公、ルクセンブルク公、ゲルデルン公、フランドル伯、アルトワ伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、ナミュール伯、ズトフェン伯、フリースラント卿、メヘレン卿、ユトレヒト卿の地位と称号を持つスペイン王フェリペが、これらの国々に対する統治権を喪失したことを、全国議会の権威において宣言する」。
ここで、反乱に参加していた各州(ブラバント、ヘルダーラント、フランドル、ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、メヘレン、フリースラントなど)が、それぞれの領主としてのフェリペ2世の地位を個別に、そして集合的に否認することが、明確に述べられます。
そして、宣言は具体的な行動を命じます。「我々は、今後、フェリペ2世を我々の君主として認めず、彼の名や印章を使用しないことを布告する。そして、すべての役人、裁判官、貴族、臣民に対し、彼に対して行った忠誠の誓いを無効とし、彼への服従の義務から解放する」。
これは、法的な主従関係の完全な断絶を意味します。今後、すべての公文書からフェリペ2世の名前は消され、新しい印章が作られることになります。役人たちは、もはやフェリペ2世にではなく、全国議会に忠誠を誓うことになります。
宣言は、フェリペ2世を放棄した後の道筋についても簡潔に触れています。それは、すでに交渉が進んでいたアンジュー公を新たな君主として迎えることです。しかし、宣言の主眼は、あくまでフェリペ2世との決別にあり、その正当性を内外に示すことにありました。この文書は、ヨーロッパ中の宮廷に送られ、ネーデルラントの行動を理解し、支持してもらうための外交的な道具としても重要な役割を果たしました。
思想的背景
統治権否認令が掲げた「圧政への抵抗権」という急進的な思想は、決して真空から生まれたものではありません。それは、16世紀のヨーロッパ、特に宗教戦争に揺れるフランスで発展した、プロテスタント系の政治思想から深い影響を受けていました。これらの思想家たちは、カトリック君主によるプロテスタントへの弾圧という過酷な現実の中で、いかにして抵抗を正当化できるかという切実な問いに取り組んでいました。彼らの著作は、ネーデルラントの反乱指導者たちにとって、自らの行動を理論的に武装させるための、強力な武器となりました。
モナルコマキ=暴君放伐論
統治権否認令に最も直接的な影響を与えたと考えられるのが、「モナルコマキ」と呼ばれるフランスのユグノー(カルヴァン派プロテスタント)の思想家たちです。モナルコマキとは、「君主(モナーク)と戦う者」を意味する言葉で、彼らの思想は「暴君放伐論」とも呼ばれます。
彼らの思想が先鋭化した決定的なきっかけは、1572年8月24日の「サン=バルテルミの虐殺」でした。この事件では、カトリック勢力がパリに集まっていた数千人ものユグノーの指導者や信徒を計画的に虐殺しました。国王シャルル9世の黙認、あるいは命令の下で行われたこの虐殺は、国王が自らの臣民を守るどころか、その命を奪う存在になりうるという衝撃的な事実をユグノーたちに突きつけました。この事件以降、彼らの思想は、単なる抵抗権の主張から、圧政者を積極的に排除、あるいは殺害することさえ正当化する、より急進的なものへと変化していきました。
代表的なモナルコマキの著作には、フランソワ=オットマンの『フランコ=ガリア』(1573年)、テオドール=ド=ベーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1574年)、そしてフィリップ=デュ=プレシ=モルネー(あるいはユベール=ランゲ)の偽名で出版された『暴君に対する反抗の権利』(1579年)などがあります。
契約理論と二つの契約
これらの著作に共通する核心的な思想が、「契約理論」です。彼らは、国家や王権の起源を、神と君主、そして人民の間で結ばれた二重の「契約」に求めました。
第一の契約は、神と、君主および人民全体との間で結ばれたものです。この契約において、君主と人民は、共に神の法を守り、真の宗教を維持することを誓います。もし君主がこの契約を破り、偽りの宗教を強制したり、神の法に背いたりした場合、人民は神との契約に基づいて、その君主に抵抗する義務を負うとされました。これは、宗教弾圧に対する抵抗を神聖な義務として正当化する論理でした。
第二の契約は、君主と人民との間で結ばれたものです。この契約において、君主は、正義をもって国を治め、人民の生命と財産、そして権利を守ることを約束します。その見返りとして、人民は君主に忠誠と服従を誓います。統治権否認令の序文で述べられている「羊飼いと羊」の比喩は、まさにこの第二の契約の考え方を反映したものです。
そして、モナルコマキの思想家たちは、もし君主がこの第二の契約を破り、人民を不当に抑圧し、彼らの権利を奪う「圧政者」と化したならば、人民はこの契約から解放され、君主に服従する義務はなくなると主張しました。
『暴君に対する反抗の権利』の影響
モナルコマキの著作の中でも、特に『暴君に対する反抗の権利』は、統治権否認令の起草に大きな影響を与えたと考えられています。この本は、四つの問いに答えるという形式で、抵抗権の理論を体系的に展開しました。
第一の問いは、「臣民は、神の法に反することを命じる君主に従う義務があるか」です。答えは明確に「否」であり、神への服従は地上の君主への服従に優先すると論じます。
第二の問いは、「神の法を破壊し、教会を荒廃させる君主に対し、臣民は武力で抵抗することが許されるか」です。答えは「然り」であり、特に貴族や身分制議会といった「下位の為政者(inferior magistrates)」が、人民を代表して抵抗の先頭に立つべきだと主張します。これは、無秩序な民衆の蜂起ではなく、秩序だった抵抗を正当化する理論であり、ネーデルラントの全国議会(スターテン=ヘネラール)が主体となってフェリペ2世を否認した行動と、まさに合致するものでした。
第三の問いは、「人民を公的に抑圧する君主に対し、武力で抵抗することは許されるか」です。ここでも答えは「然り」であり、君主が人民の生命、財産、自由といった世俗的な権利を侵害した場合でも、抵抗は正当化されると論じます。
そして第四の問いは、「隣国の君主は、他国の圧政者の臣民を助ける権利、あるいは義務があるか」です。答えは「然り」であり、これは、ネーデルラントがフランスのアンジュー公やイギリスのエリザベス1世に支援を求める行動を、思想的に後押しするものでした。
統治権否認令が、まず君主の責務という一般原則を述べ、次にフェリペ2世がその責務をいかに破ったかを列挙し、最後に彼を放棄するという論理構成をとっているのは、『暴君に対する反抗の権利』で展開された契約理論と抵抗権の正当化のプロセスを、忠実に反映したものと言えます。オラニエ公ウィレムの宮廷には、フィリップ=デュ=プレシ=モルネー自身も出入りしており、思想的な交流が直接的にあった可能性も指摘されています。統治権否認令は、単なる政治的プロパガンダではなく、当時ヨーロッパで最も先進的だった政治思想に裏打ちされた、理論的な深みを持つ文書だったのです。
宣言後の展開
統治権否認令は、ネーデルラントの独立への道を宣言する高らかなファンファーレでしたが、それは長い戦いの終わりではなく、むしろ新たな苦難の始まりを告げるものでした。宣言によってフェリペ2世との関係を断ち切った反乱諸州は、自らの存亡をかけて、軍事的にも外交的にも厳しい現実に直面することになります。
アンジュー公の失敗
宣言後、反乱諸州は計画通り、フランスのアンジュー公フランソワを新たな君主として迎え入れました。1582年、彼は意気揚々とアントウェルペンに入城し、ブラバント公として即位しました。オラニエ公ウィレムは、アンジュー公の背後にあるフランス王室からの全面的な支援を期待していました。しかし、その期待はすぐに裏切られることになります。
アンジュー公は、プレシス=レ=トゥール条約によって自らの権力が全国議会によって厳しく制限されていることに、強い不満を抱いていました。彼は名ばかりの君主ではなく、絶対君主としてネーデルラントを統治したいという野望を抱いていました。また、彼が連れてきたフランス軍の規模は期待外れに小さく、スペイン軍に対して決定的な勝利を収めるには至りませんでした。
不満を募らせたアンジュー公は、1583年1月、武力によって実権を掌握しようという暴挙に出ます。彼は、アントウェルペンをはじめとするフランドル地方の主要都市を、自らのフランス軍で奇襲し、占領しようと計画しました。しかし、アントウェルペンの市民は、この裏切りに激しく抵抗しました。彼らはバリケードを築き、屋根の上から瓦や石を投げつけ、フランス兵を撃退しました。この事件は、かつてのスペイン軍による蛮行になぞらえて「フレンチ=フューリー」と呼ばれました。
この愚かな試みによって、アンジュー公はネーデルラントの人々の信頼を完全に失いました。彼は屈辱のうちにネーデルラントを去り、その翌年に病死します。フランスからの支援を得るというオラニエ公ウィレムの外交戦略は、無惨な失敗に終わりました。諸州は、自ら選んだ君主に裏切られるという、痛烈な経験をすることになったのです。
オラニエ公ウィレムの暗殺
アンジュー公の失敗に続き、反乱諸州をさらなる絶望の淵に突き落とす事件が起こります。1584年7月10日、反乱運動の魂であり、指導者であったオラニエ公ウィレム1世が、デルフトの自邸で暗殺されたのです。犯人は、バルタザール=ジェラールという、フェリペ2世の懸賞金に目がくらんだカトリックの狂信者でした。
ウィレムの死は、反乱側にとって計り知れない打撃でした。彼は、巧みな外交力と不屈の精神で、宗派や利害の異なる諸州をまとめ上げ、絶望的な状況の中でも抵抗を組織し続けてきた、かけがえのない存在でした。指導者を失った反乱諸州は、混乱と動揺の極みに達しました。
この好機を、スペインの名将パルマ公アレッサンドロ=ファルネーゼが見逃すはずはありませんでした。彼は、ウィレムの死で動揺する反乱都市に対し、次々と攻勢をかけました。1584年から1585年にかけて、ブルッヘ、ヘントといったフランドル地方の主要都市が次々と陥落し、そして1585年8月、1年以上にわたる包囲戦の末、ネーデルラント最大の商業都市であったアントウェルペンもついにスペイン軍の手に落ちました。アントウェルペンの陥落は、反乱にとって軍事的にも経済的にも致命的な打撃であり、ネーデルラントの南北分裂を決定的なものにしました。
イギリスの介入と無敵艦隊の敗北
君主選びに失敗し、指導者を失い、次々と領土を奪われるという絶体絶命の危機に瀕した反乱諸州は、最後の望みをかけてイギリスに助けを求めました。彼らは、イギリス女王エリザベス1世に、ネーデルラントの君主となってくれるよう懇願しました。
エリザベス1世は、プロテスタントの反乱を支援することにはやぶさかではありませんでしたが、他国の君主になるという直接的な介入には慎重でした。しかし、パルマ公の快進撃によってネーデルラント全土がスペインの手に落ちれば、イギリスの安全保障が直接脅かされることは明らかでした。熟慮の末、彼女は君主になることは拒否したものの、反乱諸州とノンサッチ条約(1585年)を結び、軍事介入を決定します。彼女は、腹心のレスター伯ロバート=ダドリーを総司令官とする遠征軍を派遣しました。
レスター伯の統治もまた、多くの問題を引き起こしました。彼はアンジュー公と同様に、全国議会の権限を無視して中央集権的な支配を行おうとし、ホラント州の有力者たちと激しく対立しました。彼の介入は、軍事的には大きな成果を上げられず、結局1787年にイギリスに呼び戻されます。
しかし、イギリスの介入がもたらした最も重要な結果は、フェリペ2世の怒りを買い、彼にイギリス侵攻を決意させたことでした。1588年、フェリペ2世は「無敵艦隊(アルマダ)」と呼ばれる大艦隊をイギリスに派遣します。しかし、この無敵艦隊は、イギリス海軍の巧みな戦術と、悪天候(「プロテスタントの風」と呼ばれた)によって、壊滅的な敗北を喫しました。
無敵艦隊の敗北は、八十年戦争の大きな転換点となりました。スペインは、その海軍力の中心を失い、財政的にも大きな打撃を受けました。これにより、パルマ公はネーデルラントでの攻勢を続けることが困難になり、反乱諸州は息を吹き返す時間を得ることができたのです。
ネーデルラント連邦共和国の成立
二度にわたる外国君主の招聘の失敗という苦い経験を経て、反乱諸州は、もはや外国の君主に頼ることを諦めました。彼らは、統治権否認令でフェリペ2世を放棄した以上、主権は各州自身、そしてその連合体である全国議会にあるという結論に達しました。
オラニエ公ウィレムの息子であるマウリッツ=ファン=ナッサウが軍の総司令官として頭角を現し、ホラント州の法律顧問であったヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトが政治指導者として手腕を発揮するようになると、反乱諸州は驚異的な回復を遂げます。マウリッツは、軍事技術の革新者であり、彼の指揮の下、ネーデルラント軍は次々と失地を回復していきました。一方、オルデンバルネフェルトは、巧みな外交と内政手腕で、各州の利害を調整し、共和国の政治体制を固めていきました。
こうして、特定の君主を戴かない、7つの州(ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、オーファーアイセル、フリースラント、フローニンゲン)が連合して主権を共有するという、前例のない「ネーデルラント連邦共和国」が事実上成立しました。統治権否認令が意図していたのは立憲君主制への移行でしたが、その後の苦難の道のりを経て、結果的にヨーロッパ初の近代的な共和国が誕生したのです。この共和国は、1609年にスペインとの間で12年間の休戦条約を結び、事実上の独立を勝ち取り、最終的には1648年のウェストファリア条約によって、国際的にその独立が正式に承認されることになります。
歴史的影響
統治権否認令は、ネーデルラントの独立という直接的な目標を達成する上で重要な役割を果たしただけでなく、その後に続く世界の政治思想と革命の歴史に、深く永続的な影響を与えました。君主の権力は絶対ではなく、人民の権利を守るという契約に基づいていること、そして君主が圧政者と化した場合には、人民は抵抗し、彼を放棄する権利を持つというその思想は、国境と時代を超えて、自由を求める人々のための強力な理論的武器となりました。
イギリス革命への影響
統治権否認令の思想が最初に大きな影響を与えたのが、17世紀のイギリスでした。八十年戦争の間、多くのイギリス人兵士がプロテスタントの義勇兵としてネーデルラントで戦い、また、多くのネーデルラントのプロテスタントが迫害を逃れてイギリスに移住しました。こうした人的交流を通じて、ネーデルラントの共和主義思想や抵抗権の理論が、イギリスの政治思想に流れ込みました。
17世紀半ばの清教徒革命(イギリス内戦)において、国王チャールズ1世と対立した議会派は、国王が議会の権利と人民の自由を侵害したと主張しました。彼らの議論の中には、統治権否認令に見られる契約理論や抵抗権の論理が色濃く反映されていました。
さらに決定的だったのは、1688年の名誉革命です。国王ジェームズ2世がカトリックを復活させようとし、議会を無視して専制的な統治を行ったとき、議会の指導者たちは、彼を「王国の基本的な法を破壊し、国王と人民の間の当初の契約を破った」として、その王位を空位であると宣言しました。そして、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫であるオランダ総督ウィレム3世(奇しくもオラニエ公ウィレム1世の曾孫)を共同統治者として迎え入れました。この過程は、ネーデルラントがフェリペ2世を否認し、アンジュー公を迎えようとした1世紀前の出来事と、驚くほど酷似しています。翌1689年に制定された「権利の章典」は、国王の権力を法によって制限し、議会の権利と臣民の自由を保障するものであり、統治権否認令が目指した立憲主義の理念を、より明確な形で実現したものと言えます。
アメリカ独立宣言への影響
統治権否認令の最も有名な「子孫」と言えるのが、1776年のアメリカ独立宣言です。トーマス=ジェファーソンが起草したこの宣言の構造と論理は、統治権否認令と驚くべき類似性を示しています。
アメリカ独立宣言もまた、まず統治に関する一般原則から始まります。「すべての人間は平等に創られ、生命、自由、幸福の追求を含む、不可侵の権利を創造主から与えられていること。これらの権利を確保するために、政府が人々の間に樹立され、その正当な権力は被治者の同意に由来すること」。これは、統治権否認令の契約理論を、ジョン=ロックの自然権思想を通じて、さらに発展させたものです。
そして、独立宣言は次に、イギリス国王ジョージ3世が「圧政者」であることを証明するために、その不正行為を詳細に列挙します。「現在のグレートブリテン国王の歴史は、度重なる不正と侵害の歴史であり、そのすべてがこれらの諸邦の上に絶対的な専制を確立することを直接の目的としている」。この後に続く長い告発リストは、統治権否認令がフェリペ2世の罪状を列挙した部分と、構成的に全く同じです。課税、司法権への介入、軍隊の駐留、議会の無視など、その告発内容にも多くの共通点が見られます。
最後に、独立宣言は結論として、イギリスからの独立を宣言します。「それゆえに、我々、アメリカ連合諸邦の代表は…これらの連合植民地が、自由で独立した国家であり、またそうあるべき権利を持つことを、厳粛に公表し、宣言する」。
この論理展開の類似性は、偶然ではありません。ジェファーソンをはじめとするアメリカ建国の父たちは、ヨーロッパの政治思想史に精通しており、ネーデルラントの独立闘争の歴史をよく知っていました。彼らは、統治権否認令を、自分たちの行動を正当化するための歴史的な先例として、意識的に参照していたと考えられています。実際、1775年にジョン=アダムズは、アメリカの状況をネーデルラントの独立戦争になぞらえ、「我々はもう一つのオランダになるかもしれない」と書き記しています。統治権否行令は、君主制に対する人民の抵抗を正当化し、新たな国家の創設を宣言するという、近代革命の基本的なモデルを提供したのです。
統治権否認令は、16世紀のネーデルラントという特定の歴史的状況から生まれた文書です。その直接の目的は、圧政者フェリペ2世を放棄し、新たな君主の下で古来の権利と自由を取り戻すという、比較的保守的なものでした。しかし、その目的を正当化するために用いられた論理、すなわち、統治は人民との契約に基づいており、その契約が破られた時には人民に抵抗権があるという思想は、極めて革命的な可能性を秘めていました。
この宣言は、君主の権威が神から直接与えられた絶対的なものであるという、当時のヨーロッパを支配していた王権神授説のイデオロギーに、公然と異議を申し立てました。それは、国家の主権の源泉を、君主個人の人格から、法と人民の同意へと移し替える、近代的な主権概念への扉を開いたのです。
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