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太陽太陰暦とは 世界史用語124
著作名: ピアソラ
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日本では、中国から伝わった暦をもとに、自らも暦を作るようになりました。平安時代には、嵯峨天皇の命により、測量家の阿倍仲麻呂が儀鳳暦という太陽太陰暦を作りました。この暦では、1年を365.25日とし、1朔望月を29.5306日としました。また、二十四節気を用いて閏月を決めましたが、四分暦とは異なり、同じ節気が2回ある月の前の月を閏月としました。例えば、立春が2回ある月の前の月を「閏十二月」としました。儀鳳暦はその後も改良されていき、江戸時代には、渋川景佑が寛文9年(1669年)に寛文暦を作りました。この暦では、1年を365.242222日とし、1朔望月を29.530594日としました。また、二十四節気を用いて閏月を決めましたが、寛文暦では、同じ節気が2回ある月の前の月を閏月とするか、同じ節気が2回ある月を閏月とするかのどちらかを選ぶことができました。例えば、立春が2回ある月の前の月を「閏十二月」とするか、立春が2回ある月を「閏正月」とするかのどちらかでした。寛文暦はその後も改良されていき、天保暦という太陽太陰暦になりました。天保暦では、1年を365.242321日とし、1朔望月を29.530588日としました。また、二十四節気を用いて閏月を決めましたが、天保暦では、同じ節気が2回ある月の前の月を閏月とするか、同じ節気が2回ある月を閏月とするかのどちらかを選ぶことができました。例えば、立春が2回ある月の前の月を「閏十二月」とするか、立春が2回ある月を「閏正月」とするかのどちらかでした。天保暦は明治5年(1872年)まで日本で使われていましたが、その年にグレゴリオ暦に切り替えられました。これにより、日本は太陽暦の国になりました。しかし、太陽太陰暦はその後も民間で使われ続け、旧暦と呼ばれるようになりました。旧暦は現在でも、節分や節句などの伝統的な行事や祭りの日付に用いられています。

太陽太陰暦は、太陰暦と太陽暦の中間的な暦法であり、月と太陽の動きに合わせて暦と季節のずれを調整するという特徴があります。太陰暦は月の満ち欠けによって月の始まりを定めるため、月の周期と暦の周期が一致します。しかし、太陰暦では1年が太陽暦より約11日短くなるため、暦と季節のずれが大きくなります。太陽暦は太陽の動きによって年の始まりを定めるため、年の周期と暦の周期が一致します。しかし、太陽暦では月の満ち欠けと暦の周期が一致しないため、月の始まりが暦の中でずれていきます。太陽太陰暦では、閏月を入れることで、暦と季節のずれを小さくし、月の満ち欠けと暦の周期をほぼ一致させます。しかし、太陽太陰暦では、閏月の挿入の規則が複雑であり、暦と季節のずれが完全になくなるわけではありません。

太陽太陰暦は、古代から世界各地で用いられてきた暦法であり、人類の暦の歴史において重要な役割を果たしてきました。太陽太陰暦は、月と太陽の動きに基づいて暦を作るという人類の知恵の結晶であり、暦と季節の関係を考えるという人類の営みの一つでした。太陽太陰暦は、現在では公式には使われていませんが、旧暦として伝統的な行事や祭りの日付に残っています。



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