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【憲政擁護運動、第一次世界大戦のはじまり、辛亥革命、ロシア革命】 受験日本史まとめ 65
著作名: Cogito
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第一次世界大戦と日本の参戦

ヨーロッパではプロイセン王国を中心として成立したドイツ帝国が急速に発展していきました。ドイツ帝国成立の立役者だった宰相ビスマルクが引退した後、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世は親政を開始し、世界政策を進めました。ドイツ帝国は、イギリスに対抗して中近東に進出してイギリス権益を狙い、さらにドイツの海軍拡張計画を進めたため、英独関係は急速に悪化しました。

こうした中、イギリスは「光栄ある孤立」を放棄し、1904年(明治37年)フランスと英仏協商を結びました。また、日露戦争後にロシアとも接近し、1907年(明治40年)英露協商を結びました。こうして、1891年にすでに成立していた露仏同盟と合わせて、イギリス・フランス・ロシアの三国協商が成立し、ヨーロッパでは対ドイツ包囲体制が出来上がりました。

これに対しドイツは、1882年にイタリア・オーストリア=ハンガリー帝国と結んでいた三国同盟の強化を図りました。ドイツとフランスはモロッコの権益を巡って対立し、三国同盟と三国協商はバルカン半島の権益を巡って対立するようになりました。

バルカン半島とは、ヨーロッパの南東部とオスマン帝国の一部を指す地域で少数民族が群居し、1912・13年にはバルカン戦争が起こっており、民族・宗教・言語対立など当時ヨーロッパの火薬庫と呼ばれた緊張状態にありました。日露戦争後、ロシアは南下政策の矛先をバルカン半島に向け、セルビア人などのスラブ系諸民族の結集と進出を目指すパン=スラブ主義を掲げました。これに対し、ゲルマン民族が中心のドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国はパン=ゲルマン主義を掲げゲルマン系民族を支持したため、大国同士の対立が激化し、一触即発の緊張状態となりました。

1914年(大正3年)6月、バルカン半島のオーストリア領だったボスニアの首都サライェヴォを訪問していたオーストリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ=フェルディナント夫妻が、反オーストリア秘密結社のセルビア人プリンツィプに暗殺される大事件が起こりました。このサライェヴォ事件は高まっていた国際危機を一瞬で爆発させ、ヨーロッパ諸国の全面戦争となりました。同年7月、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、ついで8月に三国同盟のドイツがオーストリア側にたち、三国協商のロシア・イギリス・フランスがセルビア側に味方し、第一次世界大戦が始まりました。

イタリアが1915年に同盟国から脱退し、参戦国は最終的に同盟国側がドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国、連合国側がイギリス・フランス・ロシア・セルビア・モンテネグロ・ベルギー・日本・イタリア・ルーマニア・ポルトガル・アメリカ・ギリシャ・中華民国など多数の国々でした。

日英同盟を結んでいたイギリスは、アジア海域におけるドイツの武装商船(仮装巡洋艦)撃沈のため日本への参戦を求めました。これに対し、日本の第2次大隈内閣は、外務大臣加藤高明が中心となり、列強の戦力がヨーロッパに集中している間に、日本の東アジアにおける諸権益を強化するため、軍事行動を海上作戦に限定するイギリスの要請ではなく、日英同盟協約を根拠として1914年(大正3年)8月ドイツに宣戦布告し全面的に第一次世界大戦へ参戦しました。これは過去の三国干渉(遼東半島還付)の復讐でもあったといわれています。日本陸軍は中国のドイツ権益地である山東省青島を、海軍はドイツ領の赤道以北の南洋諸島を占領し、東アジア・オセアニアのドイツ勢力を一掃しました。また、その後連合国の要請により、海軍が日本艦隊を地中海に派遣し、警戒にあたりました。




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