|
|
|
|
|
更新日時:
|
|
![]() |
メアリ1世とは わかりやすい世界史用語2587 |
|
著作名:
ピアソラ
285 views |
|
メアリ1世とは
メアリ1世は、イングランド史上初の、議論の余地なく統治権を認められた女王であり、テューダー朝の四番目の君主です。彼女の生涯は、栄光の王女としての輝かしい幼少期から、庶子として虐げられた屈辱の青春時代、そして国民の支持を得て王位に就きながらも、その治世が「血まみれのメアリ(Bloody Mary)」という不名誉な呼び名で記憶されることになる、悲劇に彩られたものでした。彼女の物語は、個人の敬虔な信仰が、国家の運命と衝突したときに生まれる葛藤と、一人の女性が背負った過酷な運命の記録です。
輝かしい王女の誕生
メアリ=テューダーは、1516年2月18日、ロンドンのグリニッジにあるプラセンティア宮殿で生まれました。父はイングランド国王ヘンリ8世、母はスペイン王女であった王妃キャサリン=オブ=アラゴンです。彼女の誕生は、王室にとって待望の出来事でした。ヘンリとキャサリンは結婚以来、何人もの子どもを死産や夭折で失っており、健康なメアリの誕生は、テューダー朝の未来を照らす希望の光と見なされました。
幼いメアリは、国王夫妻から溺愛されました。ヘンリ8世は、彼女がまだ幼い頃からその利発さを見抜き、「この王国で最も美しい真珠」と呼び、宮廷で自慢して回ったと伝えられています。彼女は、当時の王女として最高水準の教育を受けました。母キャサリンは、叔母であるイサベル1世女王のような、学識豊かで有能な女性君主の育成を目指し、著名な人文主義者フアン=ルイス=ビベスにその教育を託しました。メアリは、ラテン語を流暢に操り、ギリシャ語、フランス語、イタリア語にも通じていました。また、音楽の才能にも恵まれ、ヴァージナル(小型のチェンバロ)の演奏は名人級の腕前であったと言われています。
外交の舞台においても、彼女は重要な駒でした。わずか2歳でフランスの王太子との婚約が成立し、6歳の時には、ヨーロッパで最も権勢を誇る神聖ローマ皇帝であり、母キャサリンの甥にあたるカール5世との婚約が結ばれました。1525年、ヘンリ8世は9歳のメアリに、王位継承者に与えられる伝統的な称号ではないものの、それに準ずるものとして「プリンセス=オブ=ウェールズ」の称号を与え、ウェールズ辺境のラドロー城に自身の宮廷を構えさせました。これは、彼女が事実上の王位継承者であることを内外に示すものであり、メアリの将来は、イングランドの輝かしい女王として、あるいはヨーロッパの大国の王妃として、栄光に満ちているかに見えました。
「国王の大問題」と庶子への降格
しかし、メアリの幸福な幼少期は、父ヘンリ8世の心変わりによって、突如として終わりを告げます。男子の世継ぎが得られないことに焦燥感を募らせていたヘンリは、母キャサリンとの結婚を無効にし、王妃の侍女であったアン=ブーリンと再婚することを望むようになりました。これが、「国王の大問題」として知られる、イングランドの歴史を揺るがす大事件の始まりでした。
ヘンリは、キャサリンとの結婚が、そもそも兄の妻をめとることを禁じた聖書の教えに反するものであったと主張し、ローマ教皇に婚姻の無効を求めました。しかし、教皇が政治的な理由から裁定を引き延ばしたため、ヘンリはローマ教皇庁との決別という、より急進的な手段に訴えます。
この父の行動は、メアリの人生を根底から覆しました。1533年、カンタベリー大司教トマス=クランマーは、ヘンリとキャサリンの結婚を無効と宣言し、ヘンリがすでに結婚していたアン=ブーリンを正統な王妃と認めました。これにより、メアリは、イングランド王女という輝かしい地位から一転して、庶子「レディ=メアリ」へと降格させられたのです。彼女は王位継承権を剥奪され、父ヘンリ8世から、アン=ブーリンが産んだ新しい王女エリザベス(後のエリザベス1世)の侍女として仕えるよう命じられました。
これは、17歳のメアリにとって、耐え難い屈辱でした。彼女は、母キャサリンと同様、自らの両親の結婚が正統なものであり、自分が正統な王位継承者であるという信念を決して曲げませんでした。彼女は、父の新しい結婚と、自らを庶子とする新しい王位継承法を認める宣誓を頑なに拒否し続けました。この頑なな態度は、ヘンリ8世を激怒させ、父娘の関係は完全に断絶しました。メアリは、母キャサリンと会うことを禁じられ、事実上の軟禁状態に置かれました。彼女の周囲からは友人や支持者が遠ざけられ、精神的にも肉体的にも追い詰められた日々が続きました。彼女の唯一の支えは、母から受け継いだ敬虔なカトリック信仰と、自らの正統性への揺るぎない信念だけでした。
1536年、メアリの人生にさらなる試練が訪れます。まず、長年幽閉されていた母キャサリンが亡くなりました。メアリは、最期を看取ることも許されませんでした。そしてそのわずか数ヶ月後、彼女を虐げたアン=ブーリンが、姦通罪と反逆罪の濡れ衣を着せられて処刑されました。
アンの失脚は、メアリにとって一縷の望みとなりました。父との和解を望む彼女に対し、ヘンリ8世と彼の側近トマス=クロムウェルは、一つの条件を突きつけました。それは、父ヘンリ8世をイングランド国教会の最高の首長として認め、母キャサリンとの結婚が神の法に反するものであったことを受け入れるという、宣誓書への署名でした。これは、メアリにとって、自らの信念と母の名誉を完全に否定することを意味しました。苦悩の末、神聖ローマ帝国の大使の助言もあり、メアリは心ならずもこの宣誓書に署名します。この決断は、彼女の生涯にわたって、良心の呵責として重くのしかかることになりましたが、これにより、彼女は父との和解を果たし、宮廷への復帰を許されたのです。
その後、ヘンリ8世がジェーン=シーモア、アン=オブ=クレーヴズ、キャサリン=ハワード、そしてキャサリン=パーと次々と妻を変える中で、メアリの宮廷での地位は徐々に回復していきました。特に、最後の継母であるキャサリン=パーは、メアリとその異母姉妹であるエリザベス、異母弟であるエドワードとの関係改善に努め、家族としての絆を取り戻させました。そして1544年、ヘンリ8世は新たな王位継承法を制定し、エドワード、メアリ、エリザベスの順で王位継承権を回復させました。メアリは、再び王位継承者として、イングランドの政治の表舞台に返り咲いたのです。
異母弟の治世
1547年にヘンリ8世が亡くなると、王位は9歳の異母弟エドワード6世に継承されました。エドワードの治世下で、イングランド宗教改革は、摂政サマセット公やノーサンバーランド公の主導の下、急速にプロテスタント化を進めていきました。ラテン語のミサは禁止され、英語による共通祈祷書が導入され、教会の祭壇や聖像は破壊されました。
この急進的な改革は、敬虔なカトリック教徒であるメアリにとって、到底受け入れられるものではありませんでした。彼女は、王位継承者という立場にありながら、宮廷で公然とカトリックのミサを執り行い続け、エドワードの政府が定める新しい礼拝様式に従うことを断固として拒否しました。彼女の存在そのものが、プロテスタント化を進める政府に対する、無言の抵抗の象徴となりました。
エドワード6世の枢密院は、何度もメアリに国法に従うよう圧力をかけましたが、彼女は「私の魂は神のものであり、私の信仰は、私が死ぬまで揺らぐことはない」と述べ、決して屈しませんでした。彼女の背後には、母方の従兄にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の外交的な圧力もあり、政府も彼女を逮捕するなどの強硬手段に出ることはできませんでした。この時期、メアリは、イングランド国内に残るカトリック教徒たちの希望の星であり、彼らの信仰を守るための闘いの先頭に立っていたのです。
女王への道
1553年7月、15歳の若き国王エドワード6世は、結核により危篤状態に陥りました。エドワード自身と、彼を陰で操っていたノーサンバーランド公ジョン=ダドリーは、王位がカトリック教徒であるメアリに渡ることを恐れました。もしメアリが女王になれば、彼らが進めてきたプロテスタント改革がすべて覆されることは明らかでした。
そこでノーサンバーランド公は、王位継承の順序を覆すための陰謀を企てます。彼は、死の床にあったエドワードを説得し、ヘンリ8世の遺言である王位継承法を無視して、メアリとエリザベスを庶子であるとして王位継承から排除し、代わりにヘンリ8世の妹の孫にあたるレディ=ジェーン=グレイを後継者に指名する遺言書を作成させました。ジェーンは、ノーサンバーランド公の息子ギルフォード=ダドリーと結婚したばかりであり、この計画は、事実上、ダドリー家が王位を簒奪しようとするものでした。
1553年7月6日にエドワードが亡くなると、ノーサンバーランド公はジェーン=グレイを女王として宣言し、ロンドン塔に迎え入れました。しかし、このクーデターは、イングランド国民の強い反発を招きました。人々は、ダドリー家の野心を見抜き、ヘンリ8世によって定められた正統な血筋の継承者であるメアリを支持したのです。
一方、身の危険を察知したメアリは、ロンドンを脱出し、カトリック信仰の篤い地主たちの支持基盤があるイースト=アングリア地方へと逃れました。彼女がそこで自らの即位を宣言し、支持を呼びかける旗を揚げると、貴族、ジェントリ、そして一般民衆が、続々と彼女の元に馳せ参じました。枢密院さえもがメアリ支持に転じ、ノーサンバーランド公の軍隊は戦わずして崩壊しました。
わずか9日間でクーデターは失敗に終わり、レディ=ジェーン=グレイは退位させられました。「九日間の女王」の治世は終わり、メアリはロンドンへと凱旋しました。彼女の入城は、民衆の熱狂的な歓声に迎えられました。長年の苦難の末、庶子として虐げられた王女は、国民の圧倒的な支持を得て、イングランド史上初の、実質的な統治権を持つ女王、メアリ1世として即位したのです。それは、彼女の人生における、まさに頂点の瞬間でした。
女王の治世
女王として即位したメアリの最大の目標、そして彼女が生涯をかけた使命は、父ヘンリ8世と弟エドワード6世によって進められた宗教改革を覆し、イングランドをローマ=カトリック教会へと復帰させることでした。彼女は、これが神から与えられた使命であり、イングランドの民の魂を異端から救うための唯一の道であると固く信じていました。
スペインとの結婚
治世の最初の課題は、結婚相手を決めることでした。37歳になっていたメアリは、カトリックの世継ぎを産み、王位を安定させることを急いでいました。彼女が選んだ相手は、母方の従甥にあたる、スペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)でした。彼は、ヨーロッパで最も権勢を誇るカトリック国の後継者であり、この結婚は、メアリが進めるカトリック復興政策に、強力な後ろ盾を与えるものと期待されました。
しかし、このスペインとの結婚は、イングランド国内で激しい反対を招きました。国民は、イングランドがスペインの属国となり、その政策に巻き込まれることを恐れたのです。反スペイン感情は、1554年初頭の「ワイアットの反乱」として爆発しました。この反乱は鎮圧されましたが、その計画には、メアリの異母妹エリザベスが関与しているとの疑いがかけられ、彼女は一時ロンドン塔に投獄されました。メアリは、反乱の首謀者たちを処刑し、陰謀に加担したとして、退位させられたレディ=ジェーン=グレイとその夫も処刑せざるを得ませんでした。
反対を押し切って、1554年7月、メアリは11歳年下のフェリペとウィンチェスター大聖堂で結婚しました。結婚契約では、フェリペはイングランド王の称号を持つものの、統治権はメアリのみに属し、イングランドがスペインの戦争に巻き込まれることはない、と定められていました。メアリは夫を深く愛しましたが、フェリペにとってこの結婚は純粋に政治的なものであり、彼はイングランドにほとんど滞在せず、メアリの結婚生活は孤独なものでした。
ローマへの復帰とプロテスタント弾圧
結婚と並行して、メアリはカトリック復興を精力的に進めました。彼女はまず、エドワード6世時代のプロテスタント的な立法をすべて無効にし、ヘンリ8世時代の「首長法」も廃止しました。そして1554年末、教皇特使としてイングランドに帰還したレジナルド=ポール枢機卿の前で、議会は正式にローマ教皇への服従を宣言し、イングランドはカトリック教会へと復帰しました。
しかし、メアリは、単に制度を元に戻すだけでは不十分だと考えていました。彼女は、イングランドの地からプロテスタントという「異端」を根絶やしにすることを決意します。1555年、政府は中世の異端取締法を復活させ、プロテスタント聖職者や信徒に対する組織的な弾圧を開始しました。
最初の犠牲者の一人は、聖書の翻訳者であり、エドワード朝改革の指導者であったジョン=ロジャーズでした。その後、ロンドン司教ニコラス=リドリー、元ウスター司教ヒュー=ラティマー、そしてかつてメアリの母の離婚を主導したカンタベリー大司教トマス=クランマーといった、高位の聖職者たちが次々と火刑台へと送られました。ラティマーが、共に処刑されるリドリーに向かって叫んだとされる「リドリー師よ、男らしくあれ。我々は今日、神の恩寵により、イングランドに決して消えることのないであろうロウソクを灯すのだ」という言葉は、プロテスタントの殉教の象徴として語り継がれることになります。
弾圧は、聖職者だけでなく、職人や農民といった一般の男女にも及びました。約3年間の間に、およそ280人もの人々が、自らの信仰を捨てなかったという理由で、生きたまま火あぶりにされるという、最も残酷な方法で処刑されました。メアリ自身は、これらの処刑を、異端者の魂を救い、他の人々が同じ罪を犯すのを防ぐための、辛いが必要な義務であると信じていました。しかし、この過酷な弾圧は、多くのイングランド人の心に、プロテスタントへの同情と、メアリの政府およびカトリック教会への恐怖と憎悪を植え付ける結果となりました。皮肉なことに、彼女が「血まみれのメアリ」と呼ばれる所以となったこの政策は、彼女が根絶しようとしたプロテスタント信仰を、かえってイングランド人の心に深く刻み込む役割を果たしてしまったのです。
失意の晩年と死
メアリの治世の晩年は、公私にわたる失望と悲劇の連続でした。
1554年秋、メアリは妊娠の兆候を示し、宮廷は世継ぎ誕生の期待に沸きました。しかし、予定日を過ぎても出産は起こらず、やがてその妊娠が、想像妊娠、あるいは腹部の腫瘍によるものであったことが明らかになります。世継ぎを産むという望みを打ち砕かれたメアリの失望は、計り知れないものでした。1557年にも同様の想像妊娠を経験し、彼女の心身はさらに衰弱していきました。
外交面でも、彼女は大きな打撃を受けます。夫フェリペの要請を断りきれず、結婚契約に反して、スペインとフランスの戦争にイングランドを参戦させてしまいました。その結果、1558年1月、イングランドは、フランス北岸に位置し、200年以上にわたってイングランドの領土であった重要な拠点カレーを、フランス軍に奪われてしまいます。この喪失は、イングランドの国民的プライドを深く傷つけ、メアリの治世における最大の失政として記憶されることになりました。メアリは、「私が死んで、体を開いたなら、私の心には『カレー』という文字が刻まれているだろう」と語ったと伝えられています。
相次ぐ失敗と、夫からの愛情が得られない孤独、そして世継ぎを残せないという絶望の中で、メアリの健康は急速に悪化していきました。彼女が進めたカトリック復興も、国民の心をつかむには至らず、プロテスタント弾圧は憎しみを生むばかりでした。
1558年の秋、インフルエンザの流行がイングランドを襲う中、メアリは自らの死期を悟ります。彼女は、後継者が、プロテスタントである異母妹エリザベス以外にいないという現実を受け入れざるを得ませんでした。彼女はエリザベスに、カトリック信仰を維持するよう懇願しましたが、その約束が得られないまま、1558年11月17日、ロンドンのセント=ジェームズ宮殿で、42年の波乱に満ちた生涯を閉じました。
メアリ1世の生涯は、個人的な悲劇と、歴史の大きなうねりが交錯した物語です。彼女は、自らの信念に忠実に生き、逆境に屈しない強い意志を持った女性でした。長年の苦難を乗り越え、国民の支持を得てイングランド初の女王となった彼女の即位は、正義の勝利であり、彼女の人生の輝かしい頂点でした。
しかし、女王としての彼女の治世は、失敗と悲劇の連続として記憶されています。彼女が生涯をかけて情熱を注いだカトリック復興の試みは、イングランド国民の心をつかむことができず、プロテスタントに対する過酷な弾圧は、「血まみれのメアリ」という汚名を彼女に残しました。スペインとの不幸な結婚、世継ぎを残せなかったこと、そしてカレーの喪失は、彼女の治世の評価をさらに暗いものにしています。
メアリ1世は、中世的な敬虔さと、近代的な国家統治の要求との間で引き裂かれた、過渡期の君主であったと言えるかもしれません。彼女の悲劇は、彼女自身の頑固さや政治的な判断の誤りだけでなく、彼女が背負わされた、あまりにも過酷な歴史的運命にも起因するものでした。彼女の死によって、イングランドのカトリック復興の夢は完全に潰え、国は彼女が最も恐れていた道、すなわち、エリザベス1世の下でのプロテスタント国家としての確立へと、決定的に歩みを進めていくことになるのです。
このテキストを評価してください。
|
役に立った
|
う~ん・・・
|
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。 |
|
イギリス国教会とは わかりやすい世界史用語2586
>
エリザベス1世とは わかりやすい世界史用語2588
>
領邦教会制とは わかりやすい世界史用語2568
>
ユグノーとは わかりやすい世界史用語2582
>
イグナティウス=ロヨラとは わかりやすい世界史用語2597
>
プレスビテリアン(長老派)とは わかりやすい世界史用語2581
>
宗教改革4 ~テューダー朝ヘンリ8世の国王至上法(首長令)とイギリス国教会の成立~
>
デイリーランキング
世界史
- 先史時代
- 先史時代
- 西アジア・地中海世界の形成
- 古代オリエント世界
- ギリシア世界
- ヘレニズム世界
- ローマ帝国
- キリスト教の成立と発展
- アジア・アメリカの古代文明
- イラン文明
- インドの古代文明
- 東南アジアの諸文明
- 中国の古典文明(殷・周の成立から秦・漢帝国)
- 古代の南北アメリカ文明
- 東アジア世界の形成と発展
- 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)
- 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)
- 東アジア諸地域の自立化(東アジア、契丹・女真、宋の興亡)
- 内陸アジア世界の形成
- 遊牧民とオアシス民の活動
- トルコ化とイスラーム化の進展
- モンゴル民族の発展
- イスラーム世界の形成と拡大
- イスラーム帝国の成立
- イスラーム世界の発展
- インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
- イスラーム文明の発展
- ヨーロッパ世界の形成と変動
- 西ヨーロッパ世界の成立
- 東ヨーロッパ世界の成立
- 西ヨーロッパ中世世界の変容
- 西ヨーロッパの中世文化
- 諸地域世界の交流
- 陸と海のネットワーク
- 海の道の発展
- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























