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サン=ピエトロ大聖堂とは わかりやすい世界史用語2550
著作名: ピアソラ
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宗教改革時代のサン=ピエトロ大聖堂とは

宗教改革の時代におけるサン=ピエトロ大聖堂の物語は、ルネサンス教皇たちの壮大な野心と芸術的栄光、そして西ヨーロッパのキリスト教世界が経験した未曾有の分裂という、二つの巨大な歴史の潮流が交差し、激しく衝突した、矛盾に満ちた叙事詩です。この大聖堂は、単なる石と漆喰の建造物ではなく、十六世紀のヨーロッパを揺るがした、最も根源的な神学的、政治的、そして文化的な問いを、その存在そのものによって体現する、巨大な象徴でした。一方では、教皇ユリウス二世によって始められ、レオ十世、クレメンス七世、パウルス三世といった後継者たちに引き継がれたこの新聖堂の建設プロジェクトは、古代ローマの偉業を凌駕し、カトリック教会の普遍的な権威と、ペテロの後継者たる教皇の至上権を、全世界に可視的な形で示威しようとする、ルネサンス教皇権の野心の結晶でした。ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロといった、ルネサンスの巨匠たちが、その天才的な創造力を注ぎ込み、神の栄光を地上に現出させようとした、壮大な芸術的事業でもありました。しかし、もう一方では、この大聖堂の建設こそが、マルティン=ルターの宗教改革の直接の引き金となった、歴史の巨大な皮肉の中心に位置しています。その莫大な建設費用を賄うために、教皇レオ十世が認可した贖宥状(免罪符)の大規模な販売は、ルターの義憤に火をつけ、『九十五か条の論題』という形で、教会の神学的な根幹に対する根本的な問いを突きつけることになりました。ルターとその支持者たちにとって、建設途上のサン=ピエトロ大聖堂は、教皇の世俗的な虚栄心と、福音の本質から逸脱したローマ教会の腐敗を象徴する、まさに「バベルの塔」のように映ったのです。建設が進むローマでは、教皇たちが、自らの権威の記念碑を打ち立てようと奮闘する一方で、アルプス以北では、この大聖堂の存在そのものが、ローマからの分離を正当化する強力な論拠となっていきました。



旧聖堂から新聖堂へ

十六世紀初頭、ローマのヴァチカンの丘に聳え立っていた旧サン=ピエトロ大聖堂は、千百年以上もの長きにわたり、西ヨーロッパのキリスト教世界における最も神聖な巡礼地として、その権威を保ってきました。しかし、その栄光の歴史とは裏腹に、建造物自体は、老朽化が著しく、崩壊の危機に瀕していました。この歴史的遺産を修復するのか、それとも完全に取り壊して、全く新しい聖堂を建設するのかという問いに、一人の野心的な教皇が、前代未聞の壮大な決断を下した時、新しいサン=ピエトロ大聖堂の物語は、その幕を開けます。
千年の歴史を持つコンスタンティヌスのバシリカ

旧サン=ピエトロ大聖堂の起源は、四世紀のローマ皇帝コンスタンティヌス一世の時代にまで遡ります。彼は、キリスト教を公認した後、初代ローマ司教であり、最初の教皇と見なされる聖ペテロが、皇帝ネロの迫害によって逆さ十字架にかけられ、埋葬されたと伝えられる、ヴァチカンの丘の墓所の上に、巨大なバシリカ式教会堂を建設するよう命じました。西暦324年頃に着工され、三十年以上の歳月をかけて完成したこの教会は、五つの身廊を持つ壮大なスケールを誇り、その内部は、豪華なモザイクや大理石の柱で飾られていました。千二百年近くの間、このコンスタンティヌスのバシリカは、数えきれないほどの巡礼者たちを迎え入れ、カール大帝をはじめとする多くの神聖ローマ皇帝が、ここで戴冠式を行いました。それは、ペテロの後継者たる教皇の権威の源泉であり、カトリック教会の歴史そのものを体現する、神聖な場所でした。しかし、十五世紀半ばには、この由緒ある建造物は、深刻な構造上の問題を抱えていることが明らかになっていました。南側の壁は、三メートル以上も外側に傾き、屋根は雨漏りがし、壁画は湿気で剥がれ落ちていました。教皇ニコラウス五世の時代(1447年=1455年)には、建築家ベルナルド=ロッセリーノによる大規模な改修・拡張計画が立てられ、新しい後陣(アプス)の建設が始められましたが、教皇の死によって、プロジェクトは中断されていました。
「破壊者教皇」ユリウス二世の決断

1503年、教皇に選出されたジュリアーノ=デッラ=ローヴェレ、すなわちユリウス二世は、前任者たちとは比較にならないほどの、巨大な野心と不屈の意志を持った人物でした。彼は、教皇国家の失われた領土を武力で回復し、「戦士教皇」として恐れられる一方で、自らの治世を、古代ローマの皇帝たちにも匹敵する、壮大な記念碑的建造物によって、永遠に記憶させたいという強い願望を抱いていました。彼にとって、傾きかけ、時代遅れの様式となった旧サン=ピエトロ大聖堂は、教皇権の威光を示すには、あまりにも貧弱に見えました。彼は、中途半端な修復ではなく、この千年の歴史を持つ神聖なバシリカを、基礎の壁の一部を除いて、完全に取り壊し、その跡地に、古代ローマのパンテオンやマクセンティウスのバシリカをも凌駕する、全く新しい、壮大なスケールの大聖堂を建設するという、大胆不敵な決断を下します。この決断は、多くの人々にとって、衝撃的なものでした。由緒ある聖ペテロのバシリカを破壊することは、敬虔な信者たちの感情を逆なでする、冒涜的な行為と見なされ、彼は「破壊者教皇」と非難されることもありました。しかし、ユリウス二世は、いかなる批判にも耳を貸さず、自らの構想を断行しました。この新聖堂の建設は、単なる建築プロジェクトではなく、弱体化した教皇権の威信を回復し、ローマを、再び世界の中心として君臨させるための、壮大な政治的・文化的宣言だったのです。
ブラマンテのギリシャ十字プランと巨大ドーム

この壮大な構想を実現するための建築家として、ユリウス二世が白羽の矢を立てたのが、ミラノからローマに来ていたドナト=ブラマンテでした。ブラマンテは、盛期ルネサンスの古典主義建築を代表する人物であり、ユリウス二世の野心的な構想を、具体的な形にする能力を持っていました。ブラマンテが提案した当初の計画は、ルネサンスの理想的な建築形態とされた、完全な正方形のプランの中心に、巨大なドームを頂く、ギリシャ十字形の集中式プランでした。この巨大なドームは、フィレンツェのドゥオモのクーポラを凌ぎ、古代ローマのパンテオンのドームに匹敵する、あるいはそれを超えるスケールを目指すものでした。ブラマンテは、「パンテオンの上に、マクセンティウスのバシリカを載せてみせる」と豪語したと伝えられています。この計画は、宇宙の秩序と神の完全性を象徴する、幾何学的な調和を追求した、ルネサンス建築の理念の集大成でした。1506年4月18日、ユリウス二世は、新聖堂の最初の礎石を、荘厳な儀式の中で、自らの手で据えました。これは、西ヨーロッパの建築史上、最も野心的で、最も費用のかかるプロジェクトの始まりを告げる瞬間でした。ブラマンテの指揮の下、旧聖堂の西半分が、貴重なモザイクや墓廟と共に、容赦なく取り壊され、新しいドームを支えるための、四本の巨大な支柱の建設が、急ピッチで進められました。しかし、この巨大なプロジェクトの完成が、百二十年以上の歳月と、二十人以上の教皇、そして十数人の建築家の交代を必要とする、困難な道のりになることを、この時、誰も予想していませんでした。そして、この建設資金をめぐる問題が、やがてアルプス以北で、巨大な宗教的嵐を巻き起こすことになるのです。
贖宥状と宗教改革

新しいサン=ピエトロ大聖堂の建設は、その構想の壮大さゆえに、当初から莫大な資金を必要としました。教皇ユリウス二世は、教皇庁の収入や、戦勝による獲得金などをつぎ込みましたが、それだけでは到底足りませんでした。この巨大な資金需要を満たすために、彼の後継者であるレオ十世が、贖宥状(免罪符)という、古くからある教会の慣行を、前例のない規模で利用したことが、結果的に、マルティン=ルターによる宗教改革の直接の引き金となり、この大聖堂の建設プロジェクトそのものを、キリスト教世界分裂の象徴へと変えてしまいました。
レオ十世とフッガー家の取引

1513年に教皇に就任したメディチ家出身のレオ十世は、芸術と文化を愛する、洗練されたルネサンス君主でしたが、財政には無頓着で、その浪費によって、教皇庁の財庫は、すぐに空になってしまいました。しかし、彼は、前任者ユリウス二世が始めたサン=ピエトロ大聖堂の建設を、自らの治世の記念碑的事業として、継続することに強い意欲を持っていました。資金繰りに窮した彼は、大聖堂建設のための寄付を集めるという名目で、贖宥状を発行する権利を、ヨーロッパ各地の聖職者に販売することを思いつきます。特に、ドイツにおける贖宥状販売は、極めて問題の多い、二重の取引の上に成り立っていました。当時、ホーエンツォレルン家の若きアルブレヒトは、すでに二つの司教区を保有していましたが、さらに、神聖ローマ帝国で最も重要な聖職の一つである、マインツ大司教の地位をも手に入れようと画策していました。複数の聖職を兼任することは、教会法で禁じられていましたが、教皇の特別な許可があれば可能でした。レオ十世は、この許可を与える見返りとして、アルブレヒトに、法外な額の献金を要求しました。アルブレヒトは、その資金を、当時ヨーロッパ最大の金融業者であった、アウクスブルクのフッガー家から借り入れました。そして、この借金を返済するために、レオ十世とアルブレヒトは、密約を結びます。それは、アルブレヒトの領内で、サン=ピエトロ大聖堂建設のための贖宥状を販売し、その収益の半分を、アルブレヒトがフッガー家への返済に充て、残りの半分を、ローマのサン=ピエトロ大聖堂建設資金として送る、というものでした。つまり、信者たちが、自らの魂の救済を願って支払ったお金は、半分がローマの壮麗な教会の建設費に、そしてもう半分が、一人の聖職者の野心を満たすための借金返済に消えていくという、極めて俗的な仕組みになっていたのです。
テッツェルの販売活動とルターの義憤

この贖宥状販売キャンペーンを、ドイツで実際に担当したのが、ドミニコ会の説教師、ヨハン=テッツェルでした。彼は、芝居がかった派手なパフォーマンスと、人々の素朴な信仰心と不安に付け込む、巧みな話術で知られていました。彼は、町から町へと巡回し、「金貨が箱の中にチャリンと音を立てて入るやいなや、魂は煉獄から飛び上がる」といった、神学的に極めて疑わしい、しかし非常に効果的なキャッチフレーズを用いて、人々に贖宥状の購入を促しました。この贖宥状は、生きている人間自身の罪の償いを免除するだけでなく、すでに亡くなって煉獄で苦しんでいる親族の魂をも救い出すことができると宣伝され、多くの人々が、なけなしの金をはたいて、これを買い求めました。このテッツェルの活動が、ヴィッテンベルク大学の聖書学教授であったマルティン=ルターの耳に入ったとき、彼の神学的な良心は、激しく揺さぶられました。長年、パウロの書簡などを通して、「人は行いによってではなく、信仰によってのみ義とされる」という、福音の核心に到達していたルターにとって、贖宥状は、神の無償の恵みを、金銭で売買する、許しがたい冒涜であり、人々に、悔い改めを伴わない偽りの安心感を与える、魂にとって危険な罠に他なりませんでした。彼は、この問題について、学術的な場で真理を明らかにしたいと願い、1517年10月31日、贖宥状の神学的な問題点を問う、九十五か条の論題を提示しました。
「バベルの塔」としてのサン=ピエトロ大聖堂

ルターの批判は、当初は贖宥状の乱用に向けられていましたが、ローマとの論争が激化するにつれて、その根源にある教皇の権威、そして、その権威の象徴であるサン=ピエトロ大聖堂の建設プロジェクトそのものへと、その射程を広げていきました。1520年に著された、彼の最も重要な改革文書の一つである『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』の中で、ルターは、サン=ピエトロ大聖堂の建設を、痛烈に批判します。彼は、「教皇は、サン=ピエトロ教会を建てるために、キリスト教世界を騙している。…彼は、自分の財布から出すべきだ。なぜなら、彼は、クロイソスよりも豊かだからだ」と述べ、教皇が、貧しいドイツの信者たちから搾取した金で、自らの虚栄心を満たすための壮大な教会を建てていると非難しました。ルターにとって、建設途上のこの巨大な建造物は、神の栄光を讃える神殿ではなく、教皇の世俗的な権力欲と貪欲さの記念碑であり、旧約聖書に登場する、人間の傲慢さの象徴である「バベルの塔」に他なりませんでした。このイメージは、宗教改革のプロパガンダの中で、繰り返し用いられました。ルーカス=クラナッハ(父)の工房で制作された木版画などには、建設中のサン=ピエトロ大聖堂が、崩れ落ちるバベルの塔として描かれ、教皇が、その混乱の中心にいる姿が風刺的に表現されました。こうして、ローマでは、教皇権の栄光のシンボルとして建設が進められていたサン=ピエトロ大聖堂が、アルプス以北の改革者たちにとっては、ローマ教会の腐敗と堕落を告発するための、最も強力な視覚的シンボルとなったのです。この一つの建造物をめぐる、全く対照的な二つの視線は、西ヨーロッパのキリスト教世界が、もはや和解不可能なまでに、深く分裂してしまったことを、何よりも雄弁に物語っていました。
建設の混迷とローマ劫掠

宗教改革の嵐がヨーロッパに吹き荒れる中、ローマにおけるサン=ピエトロ大聖堂の建設は、指導者の交代、計画の変更、そして政治的・軍事的な大混乱によって、長い混迷の時代を迎えます。ブラマンテの壮大な構想は、彼の死後、後継者たちによって次々と変更され、建設現場は、さながら建築家たちの理念が衝突する戦場のようでした。そして、1527年の「ローマ劫掠(サッコ=ディ=ローマ)」という未曾有の大惨事が、このプロジェクトに、壊滅的な打撃を与えることになります。
ラファエロのラテン十字プラン

1514年、初代主任建築家であったドナト=ブラマンテが亡くなると、教皇レオ十世は、その後任として、すでにヴァチカンで画家として絶大な名声を得ていたラファエロ=サンツィオを任命しました。ラファエロは、高齢のフラ=ジョコンドや、ジュリアーノ=ダ=サンガッロといった経験豊富な建築家たちの助力を得ながら、この巨大なプロジェクトを引き継ぎました。彼は、ブラマンテが考案した、ルネサンス的な理想を追求したギリシャ十字の集中式プランに、実用的な観点から、重大な変更を加えました。集中式プランは、象徴的には美しいものの、大規模な儀式や行列を行うには不向きであり、多くの会衆を収容するのにも限界がありました。ラファエロは、この問題を解決するために、東側に長い身廊を付け加え、全体のプランを、伝統的なバシリカ形式であるラテン十字形へと変更する計画を立てました。この変更は、ルネサンスの純粋な幾何学的理想から、教会の典礼的な機能性を重視する方向への、重要な転換を意味していました。しかし、ラファエロの計画もまた、完全には実現しませんでした。彼の関心は、絵画制作や古代ローマ遺跡の調査など、多岐にわたっており、また、レオ十世の治世下では、資金不足から、建設のペースは著しく鈍化していました。そして、1520年、ラファエロ自身が、わずか三十七歳で急死したことで、大聖堂の建設は、再び指導者を失い、先行きが不透明な状態に陥りました。
バルダッサーレ=ペルッツィとアントニオ=ダ=サンガッロ(子)

ラファエロの死後、主任建築家の地位は、バルダッサーレ=ペルッツィに引き継がれました。彼は、ラファエロのラテン十字プランと、ブラマンテのギリシャ十字プランを、折衷するような案を模索しましたが、レオ十世の死(1521年)と、その後の厳格なオランダ人教皇ハドリアヌス六世の緊縮財政の時代には、建設は、ほぼ完全に停止してしまいました。1523年に、もう一人のメディチ家出身の教皇、クレメンス七世が即位すると、プロジェクトは再開され、ペルッツィの後任として、アントニオ=ダ=サンガッロ(子)が、主任建築家に任命されました。サンガッロは、ブラマンテやラファエロとは異なり、職人としての経験が豊富な、実務的な建築家でした。彼は、これまでの計画を、さらに大規模で、複雑なものへと変更しました。彼の計画は、ラテン十字のプランを基本としながらも、正面に、巨大な二つの鐘楼を従えた、壮大なファサードを付け加え、ドームの構造も、より高く、より装飾的なものへと変更するものでした。彼は、この巨大な計画を、詳細な木製の模型として制作させました。この模型は、現在もヴァチカンに残されており、彼の壮大な構想を今に伝えています。しかし、サンガッロの計画は、あまりにも複雑で、構造的にも問題が多く、また、ゴシック的な要素が強すぎるとして、後世の批評家たちからは、しばしば「混乱している」と酷評されることになります。
1527年のローマ劫掠とその影響

サンガッロが、自らの計画を練り上げている最中、ローマを、そしてサン=ピエトロ大聖堂の建設現場を、未曾有の悲劇が襲います。それは、1527年5月6日に始まった、「ローマ劫掠(サッコ=ディ=ローマ)」でした。教皇クレメンス七世が、神聖ローマ皇帝カール五世に対抗して、フランスと同盟を結んだことへの報復として、皇帝軍がローマに侵攻したのです。給料の支払いが滞っていた、ドイツ人のプロテスタント傭兵(ランツクネヒト)や、スペイン兵、イタリア兵からなる皇帝軍は、統制を失った暴徒と化し、数週間にわたって、ローマ市内で、略奪、虐殺、破壊の限りを尽くしました。教皇クレメンス七世は、スイス衛兵の決死の抵抗によって、かろうじてサンタンジェロ城に逃げ込みましたが、ローマの街は、徹底的に破壊されました。建設途中のサン=ピエトロ大聖堂も、この惨劇を免れることはできませんでした。兵士たちは、聖堂の内部を馬小屋として使い、貴重な装飾品を略奪し、建設現場を荒らしました。ブラマンテが建設した聖歌隊席は、大きく損傷しました。この事件は、ローマ=ルネサンスの黄金時代に、完全な終止符を打つ、象徴的な出来事でした。多くの芸術家や職人たちが、ローマを逃げ出し、建設プロジェクトは、再び、完全に停止してしまいます。教皇庁の財政は破綻し、その権威は地に堕ちました。ローマ劫掠のトラウマは深く、長く、サン=ピエトロ大聖堂の建設が、本格的に再開されるまでには、十年近い歳月を待たなければなりませんでした。この大惨事は、ルネサンス教皇たちの世俗的な野心と、華やかな文化が、いかに脆い基盤の上に成り立っていたかを、残酷なまでに白日の下に晒したのです。
ミケランジェロの登場

ローマ劫掠によって中断され、アントニオ=ダ=サンガッロ(子)の複雑な計画の下で停滞していたサン=ピエトロ大聖堂の建設は、1540年代後半、一人の老いた、しかし不屈の天才の登場によって、決定的な転換点を迎えます。教皇パウルス三世の強い要請を受けて、七十歳を超えていたミケランジェロ=ブオナローティが、主任建築家として、この巨大なプロジェクトの全権を委ねられたのです。彼は、これまでの建築家たちの計画を大胆に覆し、ブラマンテの当初の構想に立ち返りつつも、それを、自らの彫刻的な造形力と、ダイナミックな空間感覚によって、全く新しい、力強い統一体へと再創造しました。
パウルス三世の任命とミケランジェロの決意

1546年、アントニオ=ダ=サンガッロ(子)が亡くなると、サン=ピエトロ大聖堂の建設は、再び指導者を失いました。この時、教皇の座にあったのは、ファルネーゼ家出身のパウルス三世でした。彼は、トリエント公会議を開始し、対抗宗教改革を主導した、精力的な教皇であり、この大聖堂の建設を、カトリック教会の権威と自己改革の象徴として、断固として推し進めようと考えていました。彼は、この困難な事業を託すことができるのは、当代最高の芸術家であり、強靭な意志を持つミケランジェロしかいないと確信していました。しかし、ミケランジェロは、当初、この依頼を固辞しました。彼は、すでに七十歳を超えており、自らを建築家ではなく、彫刻家であると考えていました。また、彼は、サンガッロの計画を、光が乏しく、あまりにも多くの隠れ場所を持つ、ゴシック的で稚拙なデザインであると、公然と批判しており、サンガッロ派の取り巻きたちが牛耳る建設現場の腐敗や非効率にも、嫌悪感を抱いていました。しかし、パウルス三世は、諦めませんでした。彼は、ミケランジェロに、建設に関する絶対的な権限を与え、いかなる人間も、彼の計画に干渉できないことを保証しました。最終的に、ミケランジェロは、「神の栄光と、聖ペテロへの奉仕のため」に、無報酬でこの大任を引き受けることを決意します。この決断の背後には、彼の深い信仰心と、自らの芸術家としての生涯の最後を、この最も偉大なキリスト教の聖堂の完成に捧げたいという、強い使命感があったのです。
ブラマンテへの回帰と彫刻的な建築

主任建築家に就任したミケランジェロは、まず、サンガッロが二十年以上かけて築き上げてきた計画と、その巨大な木製模型を、完全に廃棄するという、衝撃的な行動に出ます。彼は、サンガッロの計画を、「あまりにも多くの柱と突起を持ち、暗く、ドイツ風(ゴシック風)の作品だ」と一蹴し、その代わりに、初代建築家であったブラマンテの、ギリシャ十字の集中式プランに立ち返ることを宣言しました。彼は、ブラマンテの構想を、「明快で、純粋で、光に満ちていた」と称賛し、それを、自らの手で、より力強く、より統一感のある形へと完成させることを目指しました。しかし、ミケランジェロの計画は、単なるブラマンテの模倣ではありませんでした。彼は、ブラマンテの純粋で幾何学的なプランに、彫刻家としての自らの感性を注ぎ込みました。彼は、建物の外壁を、平坦な面としてではなく、巨大なコリント式のオーダー(柱の様式)によって、力強く分節化し、光と影の劇的な対比を生み出す、ダイナミックで可塑的な塊として捉えました。それは、まるで巨大な彫刻作品を創り出すかのように、建物の内部空間と外部の構造とを、有機的な一つの統一体として、緊密に結びつけようとする試みでした。彼は、サンガッロが付け加えた、 周歩廊などの余分な部分を大胆に取り壊し、プランを、よりシンプルで、より力強い、凝縮された形へと単純化しました。
巨大ドームの設計と建設

ミケランジェロの構想の中心であり、彼の建築家としての最大の功績となったのが、大聖堂のドームの設計です。彼は、ここでも、ブラマンテの半球形のドームの案を基本としながらも、フィレンツェのドゥオモを建設したブルネレスキの二重殻構造の技術に学び、それを、自らの独創的なデザインへと昇華させました。彼は、ドームの輪郭を、単なる半球ではなく、より高く、より力強く天空へと向かう、卵形の放物線状のシルエットへと変更しました。この高く聳える輪郭は、遠くから見たときに、より印象的で、ダイナミックな視覚効果を生み出します。彼は、ドームの基部に、巨大な対の柱を配した力強いドラム(円筒形の基部)を設け、そこに大きな窓を開けることで、ドームの内部に、豊かな光を取り込もうとしました。そして、ドームの外面には、十六本のリブ(肋骨)を配し、その垂直性を強調しました。ミケランジェロは、この壮大なドームの構造を、詳細な図面と、大きな木製模型によって、後継者たちが正確に建設できるように、準備しました。彼が1564年に、八十八歳で亡くなった時、ドームの建設は、ドラムの部分までしか完成していませんでした。しかし、彼の明確な設計と思想は、その後の建設の、揺るぎない指針となりました。ミケランジェロは、その不屈の意志と、比類なき芸術的ヴィジョンによって、数十年にわたって混迷を続けてきたサン=ピエトロ大聖堂の建設に、決定的な方向性を与え、その最も象徴的な部分である巨大なドームの姿を、永遠に決定づけたのです。彼の介入がなければ、今日我々が目にするサン=ピエトロ大聖堂は、全く異なる姿になっていたことでしょう。
完成への道と対抗宗教改革の精神=デッラ=ポルタからマデルノへ

ミケランジェロの死後、サン=ピエトロ大聖堂の建設は、彼の力強い構想を、いかに忠実に、そして効果的に実現するかという、新たな段階に入りました。トリエント公会議を経て、カトリック教会が、プロテスタントの挑戦に対して、自らの教義と権威を再確認し、攻勢に転じようとしていた、対抗宗教改革の時代精神が、この大聖堂の最終的な姿に、大きな影響を与えることになります。ミケランジェロが夢見たギリシャ十字の理想は、最終的に、典礼的な要求と、新しい時代の審美眼によって変更され、百二十年以上にわたる建設の歴史は、ついにその終わりを迎えます。
ドームの完成=デッラ=ポルタとフォンターナ

ミケランジェロの死後、主任建築家の地位は、ピッロ=リゴーリオや、ジャコモ=バロッツィ=ダ=ヴィニョーラといった建築家たちに引き継がれましたが、建設のペースは、再び遅々としたものになりました。この状況を打開したのが、1585年に教皇に就任した、精力的なシクストゥス五世でした。彼は、わずか五年の治世の間に、ローマの都市計画を大胆に刷新し、多くの記念碑的建造物を完成させたことで知られています。彼は、サン=ピエトロ大聖堂のドームの完成を、最優先課題としました。彼は、この大事業を、ジャコモ=デッラ=ポルタと、彼の信頼する技術者であったドメニコ=フォンターナに託しました。デッラ=ポルタは、ミケランジェロの弟子であり、彼の構想を深く理解していましたが、ドームの設計に、いくつかの重要な変更を加えました。彼は、ミケランジェロの模型よりも、ドームの輪郭を、さらに高く、より垂直性の強いものへと変更しました。これは、構造的な安定性を高めると同時に、視覚的にも、より上昇感のある、ドラマティックな効果を生み出すためのものでした。シクストゥス五世の強力なリーダーシップの下、デッラ=ポルタとフォンターナは、八百人もの労働者を昼夜交代で投入し、驚異的なスピードで建設を進めました。そして、1590年、ミケランジェロの死から二十六年後、ついに、この巨大なドームは、頂上のランタン(頂塔)の基部まで、完成しました。キリスト教世界の象徴であるこの巨大なクーポラの完成は、対抗宗教改革の時代における、カトリック教会の自信と勝利を、高らかに宣言するものでした。
身廊の延長とファサードの建設=マデルノの貢献

ドームは完成しましたが、大聖堂の正面部分は、まだ手つかずのままでした。ここで、ミケランジェロが理想としたギリシャ十字の集中式プランを維持するのか、それとも、典礼的な要求に応えて、長い身廊を付け加えるのかという、古くからの問題が、再び議論の的となりました。対抗宗教改革の精神は、信徒たちが、祭壇で行われる荘厳なミサに参加し、力強い説教を聞くことができる、広大で直線的な空間を求めていました。また、多くの巡礼者たちを収容し、壮大な行列を行うためにも、長い身廊は不可欠であると考えられました。1605年、教皇パウルス五世は、この議論に終止符を打ち、ミケランジェロのプランを放棄して、身廊を東側に延長することを、最終的に決定しました。この重要な任務を任されたのが、建築家カルロ=マデルノです。彼は、ミケランジェロが設計した西側の部分の様式を尊重しながら、三つのベイ(区画)からなる長い身廊を付け加え、全体のプランを、決定的にラテン十字形へと変更しました。そして、マデルノの最大の貢献は、大聖堂の正面を飾る、巨大なファサードの設計と建設でした。彼は、ミケランジェロが用いた巨大なコリント式のオーダーを踏襲しつつも、それを、より水平に広がる、横長の構成へと展開させました。このファサードの中央上部には、教皇が、ローマの街と全世界に向けて祝福を与えるためのバルコニー(祝福のロッジア)が設けられています。しかし、このマデルノのファサードは、後世、多くの批判に晒されることになります。その横長のプロポーションは、背後にあるミケランジェロのドームの、下半分を隠してしまい、ドームが本来持っていた、ダイナミックな垂直性を、大きく損なってしまったのです。また、当初計画されていた両脇の鐘楼は、基礎の地盤沈下の問題から、建設途中で取り壊され、ファサードは、やや寸詰まりで、不完全な印象を与えることになりました。
聖別の儀式とベルニーニによる内部装飾

マデルノのファサードが完成し、大聖堂の基本的な構造が、ついに完成したことを受けて、1626年11月18日、教皇ウルバヌス八世は、荘厳な聖別の儀式を執り行いました。これは、1506年に、ユリウス二世が最初の礎石を置いてから、ちょうど百二十年後のことでした。しかし、大聖堂の物語は、まだ終わりではありませんでした。その広大な内部空間は、まだ装飾がほとんど施されていない、空虚な状態でした。この内部空間を、対抗宗教改革の勝利と、カトリック教会の栄光を体現する、壮麗な芸術作品で満たすという、最後の、そして最も壮大な仕上げの仕事が、一人の天才の手に委ねられました。その人物こそ、バロック芸術の巨匠、ジャン=ロレンツォ=ベルニーニです。彼は、半世紀以上にわたって、歴代教皇の下で、サン=ピエトロ大聖堂の主任建築家兼芸術監督として、その比類なき才能を発揮し、この大聖堂を、単なる建築物から、建築、彫刻、絵画、そして装飾芸術が一体となった、総合芸術作品(ベル=コンポスト)へと昇華させたのです。彼の最も象徴的な仕事は、主祭壇を覆う、巨大なブロンズ製の天蓋「バルダッキーノ」です。高さ二十九メートルにも及ぶこの巨大な建造物は、古代のソロモン神殿にあったとされる、ねじれた柱を模した四本の柱で支えられ、その上部には、信仰の勝利を象徴する天使たちの像が配されています。このバルダッキーノは、その圧倒的なスケールと、ダイナミックな動き、そして豪華絢爛な装飾によって、見る者を、カトリック教会の栄光と権威の世界へと引き込みます。さらにベルニーニは、ミケランジェロが設計した後陣(アプス)の最も奥に、聖ペテロが実際に使用したと伝えられる木製の椅子を納めるための、巨大な聖遺物顕示台「聖ペテロの司教座(カテドラ=ペトリ)」を制作しました。ブロンズ、金箔、大理石、そしてステンドグラスが一体となったこの作品は、四人の偉大な教会博士(ラテン教会のアンブロジウスとアウグスティヌス、ギリシャ教会のアタナシウスとヨハネス=クリュソストモス)の巨大なブロンズ像が、宙に浮いた司教座を支え、その上では、聖霊を象徴する鳩が描かれたステンドグラスから、黄金の光が降り注ぐという、劇的な構成になっています。これは、ペテロから続く教皇の権威が、聖霊の導きと、教会の偉大な伝統によって支えられていることを、視覚的に表現した、力強い神学的宣言でした。
分裂の時代の遺産

こうして、一世紀半近くにわたる、紆余曲折の歴史を経て完成したサン=ピエトロ大聖堂は、宗教改革という、ヨーロッパ史における巨大な断層の上に立つ、複雑で矛盾に満ちた記念碑として、その姿を現しました。その建設は、教皇権の世俗的な野心と、芸術的なパトロネージの頂点を示すものであり、ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロ、ベルニーニといった、西洋美術史に燦然と輝く巨匠たちが、その才能を注ぎ込んだ、人類の創造力の結晶です。しかし、同時に、その建設資金を調達するための贖宥状販売が、マルティン=ルターの宗教改革を引き起こし、西ヨーロッパのキリスト教世界を、永久に二分するきっかけとなったことも、紛れもない歴史の事実です。プロテスタントの改革者たちにとって、この大聖堂は、ローマ教会の腐敗と偶像崇拝の象徴であり続けました。一方で、対抗宗教改革を推し進めるカトリック教会にとって、その完成は、プロテスタントの挑戦に対する勝利と、自らの教義の正当性を世界に示す、力強い宣言となりました。マデルノが延長した長い身廊と、ベルニーニによる壮麗な内部装飾は、トリエント公会議で再確認された、カトリックの典礼と聖餐の秘跡の重要性を、空間的に体現しています。大聖堂の建設史そのものが、ルネサンスのヒューマニズム的な理想から、宗教改革の激しい神学論争を経て、対抗宗教改革の自信に満ちたバロック的な表現へと至る、時代の精神の変遷を、如実に物語っているのです。それは、分裂の時代が生み出した、栄光と悲劇、信仰と権力、芸術と政治が、分かちがたく結びついた、巨大な遺産であり、その壮麗なドームの下には、近代ヨーロッパ世界の形成につながる、深い亀裂が刻み込まれていると言えるでしょう。

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