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レオ10世とは わかりやすい世界史用語2549
著作名: ピアソラ
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レオ10世とは

教皇レオ十世、俗名をジョヴァンニ=デ=メディチというこの人物の名は、歴史上、二つの相容れないイメージと分かちがたく結びついています。一つは、盛期ルネサンスの栄華を体現した、洗練された芸術の庇護者であり、ローマを古代の栄光に匹敵する文化の中心地へと押し上げた、輝かしい黄金時代の君主としての姿です。彼は、フィレンツェの偉大なるロレンツォ豪華公の息子として生まれ、幼い頃から最高水準の人文主義教育を受け、その優雅な物腰と気前の良いパトロネージュで、ラファエロや多くの芸術家、学者たちを魅了しました。彼の治世下で、サン=ピエトロ大聖堂の建設は壮大に進められ、教皇庁図書館は拡充され、ローマは祝祭と壮麗な儀式に彩られた華やかな舞台となりました。しかし、もう一つのイメージは、これとは全く対照的です。それは、アルプス以北で燃え上がった宗教改革の炎の深刻さを見誤り、マルティン=ルターという一介の修道士が突きつけた神学的な挑戦を、当初は「ドイツの酔っぱらいの戯言」として軽視し、結果的にキリスト教世界の恒久的な分裂を招いてしまった、近視眼的な政治家としての姿です。サン=ピエトロ大聖念のため大聖堂の建設資金を捻出するために、彼が認可した贖宥状(免罪符)の大規模な販売は、ルターの『九十五か条の論題』の直接の引き金となり、一度動き出した改革の奔流を、彼はもはや止めることができませんでした。レオ十世の生涯は、この栄光と悲劇のコントラストそのものであり、メディチ家の一員として、一族の権益とフィレンツェの支配を確保するという世俗的な君主の役割と、ペテロの後継者として、キリスト教世界全体の霊的な指導者であるべき役割との間で、常に引き裂かれていました。彼は、フランス、スペイン、そして神聖ローマ帝国といったヨーロッパ列強がイタリアの覇権をめぐって繰り広げる複雑な権力闘争の渦中で、教皇庁の独立とメディチ家の安泰を確保するために、絶えず外交的な綱渡りを続けなければなりませんでした。



メディチ家の御曹司=フィレンツェからローマへの道

ジョヴァンニ=デ=メディチの生涯は、その誕生の瞬間から、ルネサンス期イタリアの最も強力で文化的に洗練された一族、フィレンツェのメディチ家の運命と深く結びついていました。彼は、生まれながらにして、富と権力、そして最高の教育が約束された、特権階級の子息でした。彼の幼少期と青年期は、聖職者としてのキャリアを歩むべく、周到に準備されたものであり、それは、一個人の霊的な召命というよりは、メディチ家が教皇庁というヨーロッパ最大の権力機構の中に、確固たる足場を築くための、壮大な政治的プロジェクトの一環でした。
ロレンツォ豪華公の息子としての誕生と教育

ジョヴァンニは、1475年12月11日、フィレンツェ共和国の事実上の支配者であったロレンツォ=デ=メディチ、通称「イル=マニーフィコ(豪華公)」の次男として、フィレンツェのメディチ=リッカルディ宮で生を受けました。父ロレンツォは、卓越した政治家であると同時に、当代随一の芸術と学問のパトロンであり、彼の宮廷には、マルシリオ=フィチーノ、アンジェロ=ポリツィアーノ、ピコ=デラ=ミランドラといった、イタリア=ルネサンスを代表する人文主義者や新プラトン主義の哲学者たちが集っていました。このような知的に刺激的な環境の中で、ジョヴァンニは、兄のピエロや弟のジュリアーノと共に、最高の教育を受けました。彼は、幼い頃から聖職者の道を歩むことが定められており、その教育も、将来、教会内で高い地位に就くことを見据えたものでした。家庭教師には、ポリツィアーノやベルナルド=ビッビエーナといった一流の人文主義者がつき、彼は、ラテン語とギリシャ語の古典文学、修辞学、歴史、そして音楽に深い造詣を示すようになりました。しかし、彼の関心は、スコラ神学や教会法といった、伝統的な神学教育にはあまり向かなかったと言われています。彼の知的関心は、あくまで人文主義的なものであり、その洗練された趣味と優雅な物腰は、このフィレンツェでの教育によって培われたものでした。
聖職禄ハンターから若き枢機卿へ

ロレンツォ豪華公は、次男ジョヴァンニを教会の高位聖職者に押し上げるために、その莫大な富と外交手腕を惜しみなく投入しました。これは、単なる親心からではなく、メディチ家の権力基盤を、フィレンツェという一都市国家の枠を超えて、イタリア半島、さらにはヨーロッパ全土に影響力を持つ教皇庁へと拡大するための、冷徹な政治的計算でした。ジョヴァンニは、わずか七歳で剃髪式を受け、聖職者としての第一歩を踏み出しました。父ロレンツォは、フランス王ルイ十一世などの君主たちに働きかけ、幼いジョヴァンニのために、次々と名ばかりの修道院長職や司教区の管理職といった「聖職禄」を獲得しました。これらの聖職禄は、実際にその地に赴いて聖務を果たす必要はなく、ただその地位から得られる莫大な収入だけを享受できるという、当時の教会における悪習の一つでした。ジョヴァンニは、少年時代にして、ヨーロッパ各地に複数の聖職禄を持つ、裕福な「聖職禄ハンター」となったのです。このプロジェクトの頂点が、1489年、ジョヴァンニがわずか十三歳で、教皇インノケンティウス八世によって枢機卿に任命されたことでした。これは、ロレンツォが、教皇の庶子と自らの娘を結婚させるという取引まで行って実現させた、前代未聞の抜擢でした。ただし、あまりに若すぎるため、実際に枢機卿の赤い帽子と指輪を受け取り、公にその職務を開始するには、三年間待たなければなりませんでした。
追放、亡命、そしてローマでの再起

1492年3月、十六歳になったジョヴァンニは、フィレンツェで盛大な祝賀の中、正式に枢機卿としてローマへ旅立ちました。しかし、彼の栄光に満ちた未来は、その直後に訪れた父ロレンツォの死(1492年4月)によって、暗転します。偉大な父を失ったメディチ家の権力は、後を継いだ兄ピエロの無能さによって、急速に揺らぎ始めました。1494年、フランス王シャルル八世がイタリアに侵攻すると、ピエロは、屈辱的な譲歩をしてフィレンツェ市民の怒りを買い、メディチ家は、ドミニコ会の修道士ジロラモ=サヴォナローラの扇動によってフィレンツェから追放されてしまいます。ジョヴァンニもまた、枢機卿でありながら、故郷を失い、亡命者としてイタリアやヨーロッパ各地を放浪する身となりました。この亡命生活は、彼にとって苦難の時期でしたが、同時に、政治の非情さや、ヨーロッパ各地の情勢を自らの目で見る貴重な経験ともなりました。1500年、彼はローマに戻り、教皇アレクサンデル六世(ボルジア家)や、その次の教皇ユリウス二世(デッラ=ローヴェレ家)の治世下で、枢機卿団の一員として、目立たぬように、しかし着実に、自らの地位を固めていきました。彼は、ボルジア家やデッラ=ローヴェレ家といった、メディチ家の政敵が支配する教皇庁で、巧みに立ち回り、芸術や文学を愛好する、穏やかで文化的な人物としての評判を築き、敵を作ることを避けました。そして、1512年、教皇ユリウス二世が主導する神聖同盟軍が、フランス軍をイタリアから駆逐し、その結果として、フィレンツェの共和政が打倒され、メディチ家が十八年ぶりにフィレンツェに復帰すると、ジョヴァンニは、その立役者の一人として、一族の権威を回復させました。このフィレンツェ復帰の成功が、彼の教皇庁内での発言力を飛躍的に高め、翌年のコンクラーヴェ(教皇選挙)で、彼を聖座へと導く大きな追い風となったのです。
黄金時代のパトロン=レオ十世のローマ

1513年3月、教皇ユリウス二世の死後に行われたコンクラーヴェで、ジョヴァンニ=デ=メディチ枢機卿は、わずか三十七歳という若さで、教皇に選出され、レオ十世を名乗りました。彼の選出は、ユリウス二世の好戦的な治世に疲れていた枢機卿たちが、平和を愛し、文化的な洗練を身につけた若いメディチ家の教皇に、新しい時代の到来を期待した結果でした。そして、レオ十世は、その期待に応えるかのように、ローマを、古代の栄光にも匹敵する、壮麗な文化と芸術の中心地へと変貌させていきます。彼の治世は、盛期ルネサンスの最後の、そして最も華やかな輝きを放った時代として、歴史に記憶されています。
「神は我らに教皇職を授けた。さあ、楽しもうではないか」

レオ十世が教皇に選出された際に、弟のジュリアーノに宛てて書いたとされるこの有名な言葉は、彼の治世全体の精神を象徴しています。これが本当に彼自身の言葉であったかどうかは定かではありませんが、彼の行動は、まさにこの言葉を体現するものでした。彼は、前任者ユリウス二世のような軍事的な野心や、アレクサンデル六世のようなあからさまな権力欲とは対照的に、人生を一つの芸術作品として享受しようとする、典型的なルネサンスの君主でした。彼の教皇庁は、厳格な規律や霊的な探求の場というよりは、洗練された宮廷文化が花開くサロンのようでした。彼は、豪華な祝祭、壮麗な行列、演劇の上演、そして何よりも狩猟をこよなく愛しました。特に、マリアーナの別荘で行われる彼の狩猟は、何百人もの供を連れた大規模なもので、その費用は莫大なものでした。また、彼は美食家としても知られ、その食卓には、ヨーロッパ中から取り寄せられた珍しい食材を使った、手の込んだ料理が並びました。彼の宮廷は、常に音楽家、詩人、道化師、学者たちで賑わい、その気前の良さと、誰にでも愛想よく接する人柄は、多くの人々を魅了しました。しかし、この絶え間ない祝祭と浪費は、教皇庁の財政を急速に悪化させていきました。レオ十世は、ユリウス二世が蓄えた莫大な遺産を、わずか数年で使い果たし、後には巨額の負債だけが残されたのです。
ラファエロとサン=ピエトロ大聖堂

レオ十世のパトロネージュの中で、最も輝かしい成果を上げたのが、画家ラファエロ=サンツィオとの関係です。ユリウス二世の時代からヴァチカンで活躍していたラファエロを、レオ十世は全面的に信頼し、彼を、芸術に関する最高の助言者、そして自らの文化政策の実行者として重用しました。レオ十世は、ラファエロに、ヴァチカン宮殿内の「ボルゴの火災の間」の壁画制作を依頼し、また、システィーナ礼拝堂を飾るためのタペストリーの下絵『使徒行伝』の連作を注文しました。これらの作品は、盛期ルネサンスの古典的な様式の頂点を示す傑作とされています。さらに、1514年に、サン=ピエトロ大聖堂の初代主任建築家であったドナト=ブラマンテが亡くなると、レオ十世は、その後任にラファエロを任命しました。ラファエロは、ブラマンテの集中式プランを、伝統的なラテン十字形のプランに変更する設計案を提出しました。レオ十世の治世下で、この世界最大の教会の建設は、莫大な費用を投じて続けられましたが、その進捗は遅々としたものでした。このサン=ピエトロ大聖堂の建設資金を捻出するために、レオ十世が、ドイツでの贖宥状販売を大々的に認可したことが、後に宗教改革の引き金となるという歴史の皮肉は、あまりにも有名です。ラファエロは、画家、建築家としてだけでなく、古代ローマ遺跡の調査・保護監督官にも任命され、古代文化の復興という、レオ十世の夢を実現するための中心的な役割を担いました。1520年にラファエロが三十七歳の若さで亡くなったとき、レオ十世は深く悲しみ、その死は、一つの時代の終わりを象徴する出来事と見なされました。
学者、音楽家、そしてローマ大学の復興

レオ十世のパトロネージュは、美術だけにとどまりませんでした。彼は、父ロレンツォ豪華公から受け継いだ人文主義的な素養を持ち、学者や文人たちを厚く保護しました。彼の秘書官には、ピエトロ=ベンボやヤコポ=サドレートといった、当代一流の人文主義者が任命され、彼らは、教皇の公文書を、洗練された古典ラテン語で起草しました。レオ十世は、ヴァチカン図書館の蔵書を大幅に増やし、ギリシャ語写本の収集と校訂のプロジェクトを支援しました。彼は、失われたとされていたタキトゥスの『年代記』の最初の六巻を発見した写本を、巨額を投じて購入し、その出版を命じました。また、彼は、荒廃していたローマ大学(サピエンツァ)の復興にも力を注ぎ、ヨーロッパ中から著名な教授を招聘して、法学、医学、そしてギリシャ語やヘブライ語の研究を奨励しました。音楽もまた、レオ十世が情熱を注いだ分野でした。彼は、自らも音楽の素養があり、教皇庁の礼拝堂聖歌隊を、ヨーロッパ最高水準の音楽集団へと発展させました。彼の宮廷では、世俗的な音楽も盛んに演奏され、リュート奏者や歌手たちが、常に彼の食卓や私室に侍っていました。レオ十世の下で、ローマは、フィレンツェに代わって、イタリア=ルネサンス文化の紛れもない中心地となりました。しかし、その華やかさは、教皇庁の財政破綻と、アルプス以北で静かに進行していた、より深刻な霊的な危機を覆い隠す、薄いヴェールに過ぎなかったのです。
ヨーロッパ政治の綱渡り=メディチ家の君主として

レオ十世の治世は、イタリアの覇権をめぐって、フランスのヴァロワ家と、スペインおよび神聖ローマ帝国を支配するハプスブルク家という、二大勢力が激しく衝突した時代でした。この巨大な権力ブロックの狭間で、レオ十世は、教皇として、そしてメディチ家の一員として、極めて困難な外交政策の舵取りを迫られました。彼の外交の第一の目的は、常に、教皇国家の独立を維持し、外国勢力によるイタリア支配を防ぐことでしたが、それと同時に、あるいはそれ以上に、彼は、自らの一族であるメディチ家のフィレンツェにおける支配を確立し、中部イタリアに一族のための新たな公国を創設するという、世俗的な野心を追求しました。この二つの目標は、しばしば矛盾し、彼の外交政策を、日和見主義的で、一貫性のないものに見せることがありました。
フランスとの提携とボローニャ協約

教皇に就任した当初、レオ十世は、前任者ユリウス二世の反フランス政策を継承し、スペイン、神聖ローマ帝国、イングランドなどと神聖同盟を結んで、イタリアからのフランス勢力の駆逐を目指しました。しかし、1515年、若く野心的なフランソワ一世がフランス王位に就き、電光石火の勢いでアルプスを越えてイタリアに侵攻すると、状況は一変します。フランソワ一世は、マリニャーノの戦いで、教皇が雇ったスイス傭兵軍に壊滅的な打撃を与え、ミラノ公国を再征服しました。この決定的な敗北を受けて、レオ十世は、外交方針を百八十度転換し、フランスとの和解へと動きます。1515年12月、彼はボローニャでフランソワ一世と会見し、両者の間で、歴史的に重要な意味を持つボローニャ協約(コンコルダート)が締結されました。この協約によって、教皇は、フランス国内の司教や大修道院長の任命権を、事実上フランス国王に譲渡する代わりに、国王が任命した聖職者から、就任初年の収入(アンナータ)を徴収する権利を確保しました。これは、フランス教会のガリア主義(フランス教会のローマからの独立性を主張する思想)を、教皇がある程度認める形となり、フランス国王の教会に対する支配力を大幅に強化するものでした。レオ十世にとっては、フランスの軍事力を前にして、教皇国家の保全と、メディチ家のフィレンツェ支配をフランソワ一世に承認させるための、苦渋の選択でした。
ウルビーノ公国をめぐる戦争

レオ十世の外交政策を動かしたもう一つの大きな動機は、ネポティズム(縁故主義)、すなわち、自らの一族の成員を優遇し、彼らのために領土を獲得しようとする野心でした。彼の主な関心は、弟のジュリアーノと、甥のロレンツォ(兄ピエロの息子)の将来を確保することでした。当初、彼は、ジュリアーノのために、パルマ、ピアチェンツァ、モデナなどを統合した中部イタリアの王国を創設しようと計画しましたが、これは実現しませんでした。ジュリアーノが1516年に亡くなると、レオ十世の野心は、甥のロレンツォに集中します。彼は、フランソワ一世の支持を取り付けた上で、ウルビーノ公国の支配者であったデッラ=ローヴェレ家(前教皇ユリウス二世の一族)に言いがかりをつけ、その領土を没収し、甥のロレンツォに与えました。これに反発した前公爵フランチェスコ=マリーアが、傭兵を率いて領土を奪還しようとしたため、1517年に、多額の戦費を要する、無益なウルビーノ戦争が勃発しました。この戦争は、教皇庁の財政をさらに圧迫し、レオ十世の評判を傷つけましたが、彼は、最終的にウルビーノを征服し、甥を公爵の地位に就けることに成功しました。さらに彼は、この甥ロレンツォを、フランス王家の血を引くマドレーヌ=ド=ラ=トゥール=ドーヴェルニュと結婚させ、メディチ家とフランス王家との結びつきを強化しました。この結婚から生まれた娘が、後にフランス王アンリ二世の妃となるカトリーヌ=ド=メディシスです。しかし、レオ十世の野望の駒であった甥ロレンツォも、1519年に若くして亡くなり、メディチ家の嫡流は途絶えてしまいます。
皇帝選挙とハプスブルク家への接近

1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世が亡くなると、ヨーロッパの政治情勢は、再び大きな転換点を迎えます。次期皇帝の座をめぐって、フランス王フランソワ一世と、スペイン王であり、マクシミリアンの孫であるカール(後のカール五世)との間で、激しい選挙戦が繰り広げられました。レオ十世は、この二人の強力な君主のどちらかが皇帝になることも、イタリアにとって脅威であると考え、当初は、第三の候補として、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公を支持しました。しかし、フリードリヒが立候補を辞退し、また、カールが、フッガー家から莫大な借金をして、選帝侯たちを買収した結果、選挙は、圧倒的にカールに有利な状況となりました。この状況を見て、レオ十世は、再び外交方針を転換します。彼は、選挙の直前に、カール支持へと舵を切り、最終的にカールが皇帝カール五世として選出されると、今度は、彼と秘密同盟を結びました。レオ十世は、カール五世に、ミラノからフランス勢力を追放し、パルマとピアチェンツァを教皇領に返還することへの協力を求め、その見返りとして、皇帝のナポリ王国支配を承認し、宗教改革を進めるルターの弾圧に協力することを約束しました。このハプスブルク家への接近は、レオ十世の治世の最後の、そして最も決定的な外交的転換でした。彼は、長年の宿敵であったフランスを裏切り、ヨーロッパで最も強大な力を持つことになるカール五世と手を結ぶことで、教皇国家とメディチ家の安泰を図ろうとしたのです。1521年11月、教皇と皇帝の連合軍が、ミラノからフランス軍を駆逐したという知らせがローマに届いたとき、レオ十世は、自らの外交的勝利を祝いましたが、その数日後、彼は、マラリアにかかり、急死してしまいます。彼の死は、イタリアを、フランスとハプスブルク家との間の、より一層激しい戦争の渦へと引き込んでいく、新たな時代の幕開けを告げるものでした。
宗教改革の勃発

レオ十世の治世は、盛期ルネサンスの華やかな文化が頂点に達した時代として記憶されていますが、同時に、西ヨーロッパのキリスト教世界が、その統一性を永遠に失うことになる、宗教改革が始まった時代でもあります。皮肉なことに、レオ十世の芸術への情熱と、それに伴う莫大な浪費が、この歴史的な大分裂の直接の引き金となりました。彼は、当初、アルプス以北で起こった神学的な論争を、深刻な脅威とは認識せず、イタリアの複雑な政治力学と、メディチ家の利益の確保に、そのエネルギーの大部分を費やしていました。この初動の遅れと、事態の深刻さに対する認識の欠如が、宗教改革という燎原の火が、ヨーロッパ全土に燃え広がるのを、防ぐことができなかった大きな要因の一つとなりました。
サン=ピエトロ大聖堂と贖宥状

レオ十世の教皇としての大きな目標の一つは、前任者ユリウス二世が着工した、新しいサン=ピエトロ大聖堂の建設を継続し、完成させることでした。この壮大なプロジェクトには、天文学的な額の資金が必要でしたが、レオ十世自身の浪費によって、教皇庁の財源は、すでに枯渇しかけていました。この資金難を打開するために、彼は、古くから存在した贖宥状(免罪符)の慣行を、前例のない規模で利用することを決定します。贖宥状とは、本来、罪の告解と赦しの後に、教会が科した償い(祈り、巡礼、断食など)を、金銭的な寄付によって免除するものでした。しかし、時代が下るにつれて、その教義は曖昧になり、一般の信徒の間では、あたかも金銭を支払うことによって、煉獄にいる死者の魂の罪の罰さえも、即座に赦されるかのように宣伝されるようになっていました。1515年、レオ十世は、サン=ピエトロ大聖堂建設資金のためとして、ヨーロッパ全域で、この贖宥状を販売するための教皇勅書を発布しました。特に、ドイツにおける販売は、極めて問題の多い形で行われました。マインツ大司教の地位を得るために、フッガー家から多額の借金をしていた、ブランデンブルク家のアルブレヒトは、その返済のために、レオ十世と密約を結びました。それは、彼の領内で販売される贖宥状の収益の半分を、借金返済のために自らが受け取り、残りの半分をローマに送るというものでした。この取引の結果、アルブレヒトは、ドミニコ会の修道士ヨハン=テッツェルを説教師に任命し、極めて扇情的で、神学的に疑わしい宣伝文句を用いて、贖宥状の販売を大々的に行わせたのです。
ルターの『九十五か条の論題』とローマの初動

この贖宥状販売の実態に、神学的な義憤を感じたのが、ヴィッテンベルク大学の聖書学教授であった、アウグスティノ会修道士マルティン=ルターでした。彼は、真の悔い改めと、信仰による神の恵みを強調する自らの神学的立場から、贖宥状が人々に偽りの安心感を与え、神の恵みを金で売買する冒涜的な行為であると考えました。1517年10月31日、彼は、この問題に関する学術的な討論を呼びかけるために、『九十五か条の論題』を発表しました。この文書は、印刷という新しいメディアを通じて、瞬く間にドイツ中に広まり、教会の腐敗に不満を抱いていた人々の間で、大きな反響を呼びました。当初、ローマの教皇庁は、この出来事を、ドイツの地方で起こった、修道会間の些細な論争程度にしか考えていませんでした。レオ十世自身も、この問題を深刻に受け止めず、「一人の酔っぱらいのドイツ人が書いたものだ。彼がしらふになれば、考えを変えるだろう」と述べたと伝えられています。彼は、ドミニコ会とアウグスティノ会の間の、神学的な縄張り争いと見なし、アウグスティノ会総長に、ルターを黙らせるよう指示するにとどまりました。
アウクスブルクの審問からライプツィヒ討論へ

しかし、ルターが沈黙を拒み、その批判が、贖宥状から、教皇の権威そのものへと拡大していくに及んで、レオ十世も、事態を無視できなくなりました。1518年、彼は、ルターを異端の容疑でローマに召喚しようとしましたが、ルターの保護者であったザクセン選帝侯フリードリヒ賢公の介入により、代わりに、ドイツのアウクスブルクで、教皇特使であるカジェタン枢機卿による審問が行われることになりました。カジェタンは、ルターに、ただ無条件に自説を撤回することだけを要求しましたが、ルターは、聖書の権威を盾に、これを拒否しました。この会見は決裂し、ルターは、教皇の権威よりも、聖書の権威が上にあるという確信を、ますます深めていきました。翌1519年のライプツィヒ討論で、ルターは、論敵であるヨハン=エックとの論争の中で、ついに、教皇だけでなく、公会議さえも誤りうると公言し、ローマ・カトリック教会の教義の根幹を、公然と否定するに至りました。この時点で、両者の和解の可能性は、ほぼ失われました。
破門勅書『エクスルゲ=ドミネ』とヴォルムス帝国議会

ライプツィヒ討論の結果を受けて、レオ十世は、ついにルターに対する断固たる措置を取ることを決意します。1520年6月、彼は、ルターの著作の中の四十一の命題を異端であると断罪し、六十日以内にそれらを撤回しなければ破門するという警告を発する、教皇勅書『エクスルゲ=ドミネ(主よ、立ち上がりください)』を発布しました。この勅書の冒頭は、「主よ、立ち上がり、あなたの訴えを裁いてください。猪があなたの葡萄畑を荒らしています」という、詩篇の言葉から始まっており、ルターを、神の葡萄畑を荒らす野生の猪にたとえています。しかし、この勅書は、ドイツにおいて、ほとんど権威を発揮しませんでした。多くの場所で、その公布は妨害され、ルター自身は、同年12月、ヴィッテンベルクの町で、学生や教授たちが見守る中、この教皇勅書を公然と火の中に投じ、ローマとの完全な決別を宣言しました。この侮辱的な行為に対し、レオ十世は、1521年1月、最終的な破門勅書を発し、ルターを教会から完全に追放しました。しかし、ルターは、もはや教皇の破門を恐れてはいませんでした。同年4月、ルターは、皇帝カール五世によって召喚されたヴォルムス帝国議会に出頭し、皇帝と帝国の諸侯たちの前で、自説の撤回を拒否し、「我、ここに立つ。他になしあたわず。神よ、我を助けたまえ」という有名な言葉を述べたとされています。レオ十世は、皇帝が、この頑なな異端者を裁き、帝国の法益保護外に置く勅令(ヴォルムス勅令)を発布したことで、問題は解決したと考えたかもしれません。しかし、ザクセン選帝侯フリードリヒが、ルターを密かにヴァルトブルク城に匿い、保護したことで、教皇と皇帝の権威は、一人の領邦君主の抵抗の前に、その限界を露呈しました。レオ十世は、その治世の最後に、自らが引き起こした宗教改革という嵐が、もはや自分の手には負えない巨大な力となっていることを、悟ることなく、この世を去ったのです。
栄光と悲劇のルネサンス教皇

レオ十世の八年八か月に及ぶ治世は、栄光と悲劇、創造と破壊、洗練された文化と深刻な霊的危機が、矛盾に満ちた形で同居する、一つの時代の転換点を象徴しています。彼は、メディチ家という、ルネサンス期イタリアで最も輝かしい一族の血を受け継ぎ、その洗練された趣味と気前の良いパトロネージュによって、ローマを、ラファエロが活躍する壮麗な芸術の都へと押し上げました。彼の宮廷は、人文主義者、音楽家、芸術家たちが集う、ヨーロッパ文化の頂点であり、その治世は、盛期ルネサンスの最後の黄金時代として、後世に記憶されています。彼は、平和を愛し、暴力を嫌い、その優雅な物腰と寛大な人柄で、多くの人々から愛されました。しかし、その同じ人物が、キリスト教世界の統一を永遠に破壊する、宗教改革の勃発に、決定的な責任を負っていることもまた、否定できない事実です。彼の芸術への情熱と、一族の栄光を追求する世俗的な野心は、教皇庁の財政を破綻させ、その穴埋めのために認可された贖宥状の乱売は、マルティン=ルターの義憤に火をつけました。彼は、当初、このアルプス以北の神学論争を、深刻な脅威とは見なさず、イタリアの複雑な政治ゲームと、メディチ家のための領土獲得に腐心していました。彼が、事態の重大さに気づいた時には、改革の運動は、もはや一人の教皇の権威では抑えきれない、巨大な奔流となっていました。レオ十世は、中世的なキリスト教世界の普遍的な指導者としての教皇と、近代的な領邦国家の世俗的な君主としての教皇という、二つの役割の狭間で引き裂かれた、過渡期の人物でした。彼は、ルネサンスの君主としては成功を収めましたが、ペテロの後継者として、教会が直面していた深刻な霊的危機に応えることには、失敗しました。彼の生涯は、偉大な文化的な功績が、必ずしも賢明な政治的・宗教的指導力と結びつくわけではないという、歴史の教訓を、我々に示しています。レオ十世が夢見たローマの黄金時代は、彼の死と共に、そして宗教改革と、それに続くイタリア戦争の混乱の中で、はかなく消え去っていったのです。

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